2009年7月アーカイブ

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 ■2009.7.31  自伝的回想風ドキュメンタリー「アニエスの浜辺」

 

 

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●フランスの女流監督アニエス・ヴァルダ。1954年デビュー以来55年間にわたり作品を作り続けてきたヴァルダの新作ドキュメンタリー「アニエスの浜辺」は、自伝的回想風ドキュメンタリーであり、私「映画」とでもいうべき個人的感懐に満ち満ちた彼女の人生論でもある。
まもなく81歳になるヴァルダの映画人生にかかわった人物群は多彩だ。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手たちのジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネ、ジャック・ドゥミたちとの公私にわたる交流そして俳優のジェラール・フィリップ、ミシェル・ピコリ、カトリーネ・ドヌーブなどとの若かりしころの姿がつぎつぎと現れ、なつかしさと時間の経過への感懐を抱かせる。
ヴァルダ自身の出演とナレーションとともに、再現ドラマ、「5時から7時までのクレオ」など数々の自作、思い出の地への再訪、なつかしい人物との再会などのシーンがめまぐるしいほどのテンポでつぎつぎに展開していく。
1960年代ヌーベル・ヴァーグは日本でも映画の枠を超えて文明・文化論の重要なテーマだったし、フランス思潮はサルトル、ボーヴォワール、カミュなどを通して圧倒的な影響力を若者に与えていた。その当時のフランス映画やフランス思想家にたいする関心の高さは今では想像できないほどだった。そのころの空気を知る世代のものにとっては、なんとも懐かしい名前や作品が並ぶのだが、今の若い人にとってはどのように写るのだろう。
次々と展開するシーンはどれもヴァルダにとっては、忘れられぬ人生の場面なのだろうが、いずれのカットも思いを振り切るかのように極めて短く処理される。それは抒情に流されるのを良しとしないヴァルダの硬質な精神がなせる編集の技なのか。思うようにならない人生を嘆きながらも軽やかに生きるヴァルダの骨頂だろう。
全編にわたり夫であるジャック・ドゥミ監督へのヴァルダの深い追慕の思いが基調に流れている。「シェルブールの雨傘」の監督ジャック・ドゥミはエイズで1990年に還らぬ人となったが、彼のことを話すヴァルダの表情は夢見るようであり、時には苦痛にゆがむが、これら一連のシーンが印象的で、このシーンがあるだけでこの映画の存在価値があると思ったほどだった。09年10月10日(土)から岩波ホールでロードショー。"http://www.zaziefilms.com/beaches/"

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■2009.7.04  ウェールズの町から:《ジェレム・ジェレム便り⑥》
●ロンドンから西へ約250km、カーディフ(Cardiff)という町がある。ケルト海に通じるブリストル海峡に面した人口およそ30万人の港町で、1955年からはウェールズの首都となっている。今日はこの町から発信された「小さな情報」をご紹介しよう。
カーディフで、この6月30日<ジプシー、ロマおよびトラベラー歴史月間>という活動が始まった。元々イングランドで行われていたもので、今回ウェールズで初めて開かれるという。相互不信の壁を取り除き、ジプシーの若い世代によりよい生活の機会を提供するという目的で行われるもので、自身の多様な文化を知ると同時に定住者側にはイギリス国内で急速に増え続け、30万人にもおよぶマイノリティーについて理解を深めるよう呼びかける。
カーディフ市内には二ヶ所のジプシー、ロマ、トラベラー居住地区があり、およそ1500人が暮らしている。そして、その半数はキャラバン係留地が不足していることと子供たちの健康と福祉を理由に、定住の住まいに暮らしている、と記事は伝えている。(逆に言えば、半分は今でも移動生活を続けているということになる。)
初日に行われたイベントでは、ジプシー居住地区の子供たちによるサーカス、ストーリーテリング、ビデオショー、花細工、占い、アイルランドの伝統舞踊など様々なパフォーマンスが行われた。イングランドで活動を続け、今回カーディフでのイベントをサポートしているコーディネーター、パトリシアさんによれば、このような活動によって博物館や図書館との共同プロジェクトが増え、イングランドの学校カリキュラムにジプシーの歴史を取り込むことに成功するなどの成果があがっているという。そして記事からは、隣人としていかにジプシーの人々と付き合うかということが、今日のヨーロッパ社会において依然として大きな課題であることが伺える。
カーディフ生まれのジプシーで苦労の末ダンサー、振付師になったイサック・ブレイクさんは、現在ウェールズ国立音楽演劇大学で教師を務めているが、取材に答えて次のように語っている。「ジプシーの子ということが知れるだけで、のけものにされるのです。そして今、自分にできることとして子供たちに何かを伝えたいと思うようになりました。固定観念を取り払い、ロマの人々とロマでない人々がお互いに分かり合えるようになれるよう願っています。」
<ジェレム・ジェレム>のメールグループでは、このようなローカルな回覧板的情報が時折配信される。そのひとつひとつは小さな情報かも知れないが、ヨーロッパの至るところで行われているジプシーに関する様々な活動を見ていると、完全に分かり合えるということは容易ではないにしても、少なくともお互いが共存共生できる社会を実現しようというロマ側と非ロマ側の両方の意志は伝わってくる。(市橋雄二)

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■2009.6.12  痛快な快作!「ウルトラミラクルラブストーリー」
●この映画が実質的なメジャー映画のデビュー作である横浜聡子監督は今後注目すべき才能の持ち主である。デビュー作というものは作家がかかえている問題意識・テーマを半ば無意識的に、包括的に提示している場合が多いのだが、「ウルトラミラクルラブストーリー」は典型的な場合だろう。
舞台は青森県の海に近い町。やることなすことがすべて常識はずれのヘンテコ農業青年(松山ケンイチ)と訳あって東京からやってきた幼稚園の先生(麻生久美子)、青年のおばあちゃん(渡辺美佐子)、青年を診る医師(原田芳雄)、呪術師の女(藤田弓子)、女が勤める保育園の園児たち、そしてノゾエ征爾、ARATAなど。ストーリー性は特に起伏に富んでいるわけではなく、女に恋をした青年のトリックスター的な言動を中心に進んでいく。彼の振る舞いに奇妙なリアリティーがあるのは俳優、松山ケンイチの功績だろう。
まず、全編が青森弁で通されていること、そして農作業をする青年と幼稚園の臨時先生の女性を中心にすえたこと、これらが作品全体の基調としながら、中央ではない周縁性、地方性、正統ではない異端性、土俗性、呪術性、神話性などに軸足を置いた目線が画面のすみずみに行き届いている。
話の展開は荒唐無稽で強引である。農薬を浴びると脳が活性化するという脳、心臓が止まっても生き返る体、首がない人間との会話などの破天荒なエピソードが画面に異常な活性を与え、日常から飛躍した奔放なイメージが次々と展開する。それでいながら何故かおばあちゃんや青年の野菜つくり農作業を繰り返し描写する。
通常のドラマの進行を予想する観客の思いを軽々と裏切っていく痛快な演出は世の中にはびこる常識性を一つ一つひっくり返す作業でもある。奇跡的、不思議な出来事を重ねながら美しい森のなかで迎える結末も破天荒なものであった。
一見無鉄砲にみえる演出ながら現代社会が抱える中心的諸課題のいずれにも適確な視点をすえているところが並みの監督ではない。閉塞感を切り開く破れかぶれのエネルギーに満ちた才能に期待したい。

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■2009.5.17  

カルベリヤ・ダンスにも通じる文化的連鎖::ベリーダンス・スーパースターズ東京公演(2009.5.15五反田ゆうぽうとホール)
●18時半の開場に合わせてコンサート会場に着くと、すでに入り口付近から大勢の人々でごった返していた。ロビーでダンス用の衣装や小物を売る物販コーナーには女性たちが群がり、CDやDVDを即売する人が人の多さにつられて大きな掛け声を上げている。もともと週末の土曜日と日曜日に予定されていた3回の公演が満席となり、急遽決まった特別追加公演において、このにぎやかさである。席がほぼ埋まっていたので、会場のキャパから考えて1500人は来場していたのではないだろうか。観客は30代から40代の女性が中心と見受けられた。ベリーダンスがブームとは言え、このような大きな会場を埋め尽くすまでの広がりがあるとはなんとも驚きである。
 ベリーダンス・スーパースターズはアメリカ発のベリーダンスチームである。それ以外の予備知識はなく、とにかく次々と繰り出されるステージ上の踊りに集中した。おへそを出した形の華やかな衣装でステージ上を舞い踊るメンバー総出のイントロダクションに続いて、中近東の代表的な太鼓ダラブッカの奏者が登場して軽快なリズムを披露、ジプシーブラスのメロディーが流れる中、フロントダンサーがソロダンスを踊る。そして、アラブ古典音楽の弦楽器カーヌーン(台形の薄い共鳴箱の上に78本の弦を張り、爪をはめた指で弾いて鳴らす)の流麗なメロディーに合わせて6人のダンサーが踊るオーセンティックなベリーダンス。このあたりまでは、ベリーダンス・スーパースターズという名前が示す通りの内容だった。
その後、ラップ音楽やドラム&ベースのビートの利いたクラブサウンドに合わせたトライバル・ダンスからトルコの民俗的なラインダンスをモチーフにした踊りまでバリエーションの幅が広がっていく。2部に入るとクラシック・バレエやポリネシアン・ダンスとのフュージョンダンスまでが登場し、その大胆でトライアルなレパートリーには度肝を抜かれた。踊りがしばらく続くと、唯一ダラブッカの生演奏で伴奏するパーカッショニストが舞台そでから人なつっこい表情で現れて、観客とのコールアンドレスポンスで会場の雰囲気を盛り上げる。
総勢15名のこのチームは、エキゾチシズムあふれるベリーダンスを軸に世界各地のダンスの要素を取り込み、新しいダンスの魅力を作り出そうとしているのだ。ベリーダンスを<中近東の民族舞踊>から解き放ち、イマジネーションあふれる創作ダンスに仕上げたことで多くの新しいファンを引き付けることに成功したのだろう。一方で、ステージ終盤に9/8拍子の変拍子とともに、ダンサーがダラブッカを立てて、そのわずか直径30センチ程度の鼓面に乗ってからだを360度回すややアクロバティックな踊りも登場し、ローカルな土着性へのこだわりも匂わせる。
ベリーダンスのルーツのひとつにジプシー(ロマ)の踊りがあると言われている。素早い回転と腰の細かな振りは、インド・ラージャスターンのカルベリヤ・ダンスにも通じていて、一連の文化的連鎖を感じずにはいられない。(市橋雄二)

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■2009.5.10   長編音楽ドキュメントDVD「ジプシーのうたを求めて 2009 gypsy trails」(84分)が完成。
●今年2009年2月にラージャスターン州ジャイサルメール周辺で取材したジョーギー、カルベリア、マンガニヤール、ボーパ、ナット(綱渡りの旅芸人一座)等々タール砂漠に生きる遊芸・遍歴の職業芸能の民のドキュメントDVDが完成した。新たな発見、出会いもあり、8年ぶりの再会もある刺激にみちた取材の旅だった。急速にグローバル化が進行する世界のなかで、インドも例外ではありえない。しかしながら、インド大陸の北西部ラージャスターン州に生きる芸能民はしたたかなエネルギーとサバイバル能力で乗り越えていくだろうと思われた。ラージャスターンの精神はヒンドゥー文明とムスリム文明の独特な混合・混交・併存する風土に根ざしている。ラージャスターン芸能の尽きぬ魅力は、どのようにも変化にも対応する不定形のエネルギーである。
DVDについての詳細・サンプルビデオの試聴はDVDページへ。

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■2009.4.15  地底からの響き・・・・舞踊家・田中泯のナレーション・・・・
●12日にNHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」という番組を見た。
 アマゾンの最深部に1万年以上、独自の文化・風習を守り続けているヤノマミ族を150日間同居し、記録したものだ。「森の中、女だけの出産、胎児の胎盤を森に吊るす儀礼、2ヶ月以上続く祝祭、森の精霊が憑依し集団トランス状態で行われるシャーマニズム、集団でのサル狩り、深夜突然始まる男女の踊り、大らかな性、白蟻に食させることで天上に送る埋葬...。そこには、私たちの内なる記憶が呼び覚まされるような世界があった。」(NHKのHPの紹介文から)
ドキュメンタリーとしては情緒的、技術的なカット変わりが気になったが、何よりも被写体の事実の重さが強く印象に残る佳作だった。
だが、私にとっては、この作品は舞踊家・田中泯のナレーションのすばらしさによって今後記憶されるものになったのである。導入部のスタッフタイトルを見過ごし、何の予備知識もなく見ていて、すぐにこのナレーションは誰なのかと気になり始めた。
抑制をきかせながらも、熱い思いがにじみ出る語り口にはいわゆる手馴れたプロの巧者の味わいとは違い、共感に裏づけられた思いがみなぎっていた。それは静謐さと緊迫感が入り混じり、地上を這いずるような語り口だった。
視聴者に語りかけるような親和的なものではなく、宇宙に向かって地底からつぶやくような姿勢がうかがえ、ヤノマミの民が語り部に変身したかのような語り口だった。番組途中から何故か田中泯の声だと確信したが、それはなんの根拠もなく、ただ地底からの響きのような感触・手触りは田中泯の舞踊から受けるものと同一だったからであった。

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■2009.3.30  どっこい生きていた!8年ぶりに再会したジャイサルメールの楽士たち
ギャラリページ更新。 ●2009年2月のインド、ラージャスターン州ジャイサルメールへの旅のDVD製作進行中です。

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ラージャスターン州ジャイサルメールへの旅

■2009.3.01  インド、ラージャスターン州ジャイサルメールへの旅
ギャラリページ更新。

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トップページの写真を更新

■2009.2.27  トップページの写真を更新
●今回取材した新しい写真に更新した。解像度がやや甘いもの(やや横長のもの4枚)はビデオから起こしている。今回はビデオ撮影と録音作業を1人でしたので、デジカメで撮る余裕があまりなかった。
■2009.2.24  最新レポート2009年2月のインドラージャスターン州ジャイサルメールの放浪芸人たち
●2月に2週間ほど、インドの北西部ジャイサルメールを訪ねた。8年ぶりのインドである。表紙3枚の写真はそのときのものである。沙漠の漂泊の民、ジョーギー、カルベリアの人々は変わらずにタール沙漠で移動生活を続けていた。これには安心すると同時に彼らの生命力に改めて驚いた。カルベリアダンスもますます隆盛である。今回、はじめて遭遇した綱渡り・軽業使い一家は貴重な映像がとれた。かれら(インドではナットという)はほぼ一年を通じて旅をしながらの漂泊芸能者一家である。8歳の少女と父、母、姉の4人家族の姿には様々な意味で感動した。しばらく映像資料などの整理などが続くが、徐々に2009年のインド北西部の放浪芸、大道芸の現状とタール沙漠の周辺に生活するひとびとについてレポートしていく。

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■2009.2.4  パレスチナのジプシー<ドム>の惨状:《ジェレム・ジェレム便り⑤》
●イスラエル軍がアメリカ・オバマ新大統領の就任に合わせてパレスチナ自治区ガザへの攻撃を停止した。イスラエル軍は、ガザを実効支配するイスラム原理主義組織ハマスに対し、ガザからイスラエル領に発射されるロケット弾への報復として昨年末攻撃を開始し、空爆に続き地上部隊を侵攻させた。この間のパレスチナ側の死者は1300人、負傷者は5000人を超えた。報道によると死者のうち少なくとも半数は武装勢力に関与しない民間人だという。
実はこのパレスチナ側の被害者の中に西アジアで<ドム>と自称するジプシーの人々が含まれている。エルサレム・ドマリ協会(Domari Society of Jerusalem)の会長アモウン・スリームさんが2009年1月6日付けのメールニュースでこの事態を訴えている。調べたところパレスチナに暮らすジプシーの数はおよそ5000人で、うち2000人はエルサレムに住むとあるので、ガザ地区にも1000人を超える人々がいるものと思われる。
メールニュースのなかでは正確な数は述べられていないが、かなりの死者とそれを上回る負傷者が出ているようで、ただでさえ少数の彼らのコミュニティがまさに滅びようとしている。また、同胞に向かっては自分たちの文化を守り生き延びるためにお互いが団結して助け合わなければならないと呼びかけている。怪我をして頭から血を流す女性や腕と足が吹き飛ばされて横たわる男性など痛ましい写真も添えられている。最後に義捐金の送金先も書かれているが、とにかくまずこの悲惨な事実を多くの人々に知ってもらいたいという静かな叫びだ。
ドマリ協会はインターネットの公式サイトの情報によれば、現会長のスリームさんにより1999年にエルサレムで設立され、パレスチナ自治区に暮らすドマの女性と子供の支援を目的として活動している団体である。最近の活動としては女性の自立支援を促すためのアクセサリーや布製品など手工芸品の教室や子供向けのアラビア語識字教育、また就学児童への学用品の無料配布などを行っている。ドマによるドマのための自助組織と言えるだろう。
自らもドマのスリームさんの文章には、イスラエルやハマスといった固有名詞が一言も出てこない。戦争の理由が問題なのではなく戦争そのものが悲劇なのだ、というメッセージが伝わってくる。
(市橋雄二)

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■2009.1.24  圧倒的な存在感はどこから:「チェチェンへ・アレクサンドラの旅」(ソクーロフ監督)
●入社後最初に配属されたのがロシア音楽を扱うクラシック・レコードの編成の仕事だった。モダンジャズが好きだった私にはチンプンカンプンの世界だったが、屈指の音楽家のなかにロストロポーヴィチ、ヴィシネフスカヤがいたのがなつかしい。
●ソクーロフの「ロストロポーヴィチ人生の祭典」はカザルスと並び称される稀代のチェリスト、ロストロポーヴィチのドキュメンタリーである。ソルジェニーツィンへの熱烈な支持の故、政権から弾圧を受け、20年に及ぶアメリカ亡命生活をした後、体制変革後ロシアに帰り、音楽、政治への積極的発言を続けたことは有名だが、そうしたエピソードを織り込みながら、饒舌ともいえるほどに喋り捲るロストロポーヴィチのインタビューを中心に構成されたものだった。そのなかで、印象に残ったことがあった。
彼の妻でこれまた最高のソプラノ歌手のヴィシネフスカヤについての出自にふれるくだりで、彼女はスラブ系とロマ(ジプシー)系の混血であるとナレーションが述べていたのである。彼女はその後、オペラ歌手を目指していくが、エリートの子弟が集まる歌手志望者のなかでも異色の才能を発揮して上り詰めていったことは想像できる。
また、アメリカへの亡命を決めてから、夫ロストロポーヴィチがロシアの大地を離れるつらさ、悲しさに毎日のようにめそめそ泣いていたのに、彼女は昂然としていたという。このエピソードをどこかで読んで、私はふと、彼女の強さは民族・祖国を相対化するロマ的な能力と無関係ではないのではないかと思った。
一方ソクーロフもものごとを把握したり理解するときには対象をみごとに相対化する。昭和天皇ヒロヒトの終戦にまつわる数日間をドラマ化した「太陽」は昭和天皇を鮮やかに相対化し、日本人がやらなければならなかったけれど、タブーに縛られできなかったことを実現してしまったのである。
そしてソクーロフ最新作「チェチェンへ・アレクサンドラの旅」である。
●主人公アレクサンドラはロシアの占領地チェチェンの駐屯地に勤務する孫の大尉デニスに会いにやってくる。兵士たちと同じテントに泊まりながら数日を過ごす。イスラム信仰に生きるチェチェンの最前線で占領者ロシア兵士の祖母という居心地の悪い立場にいながら、体制の枠組みを相対化して自然な振る舞いを繰り返し、チェチェンの街中に繰り出していく。カメラはロシアに空爆されて瓦礫の山と化した街並みと生活物資のマーケットに生きる女たちを静かに捕らえる。占領者と非占領者という図式にはまらずに視線を低くし人間としてのつながりに未来を見つめようとするソコーロフの思いか。
●この映画はヴィシネフスカヤ抜きではありえないほど、彼女の存在が決定的な役割を果たしている。あらゆるこの世の矛盾・相克を飲み込み、なにかを湛えるような彼女のまなざしがあってはじめて可能になった映画であろう。オペラ歌手としての豊穣な表現力や生きてきた人生のもろもろにくわえて彼女のロマの血が根底にあるような気がしてならない。非定住の生活をしてきたロマは訪れる先々の宗教や民族的対立を相対化しながら、時には生きるためなら改宗もしながら、自由な生活を守ろうとしてきた。ヴィシネフスカヤの体を流れるロマの血はロシア・チェチェン紛争における人間の真実の瞬間を垣間見せてくれたのである。

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■2009.1.13  みずみずしい感性と野生:ジプシー詩人、漂泊人生の物語――「ゾリ」(コラム・マッキャン著)
○本のページを繰るのももどかしく読み進めるという経験はそうそうあるものではないが、久しぶりにそうした思いに駆られた小説だ。
「狭い河床にそって車を走らせていくと、ガラクタの数がだんだんふえてくる。大曲りになった河原にバケツがいくつかひっくりかえり、こわれた乳母車が雑草に埋もれ、ドラム缶がひからびたサビの舌を垂らし、イバラのやぶの真ん中に壊れた冷蔵庫が見える。・・・」
この導入部はあるジャーナリストがゾリというジプシー(ロマ)の詩人の消息をたずねてジプシーの集落に入る際の記述だが、かつて私もロマの集落との境界を越えたときに感じた緊迫感を思い起こさせる適確な風景の表現だ。
主人公ゾリは1930年代ファシズムが台頭してナチスの影におおわれていたスロヴァキア生まれのジプシーの少女。幌馬車で移動しながら漂泊の生活を信条とする非定住のジプシーに属する。
6歳のときファシストの親衛隊に家族を皆殺しされ、ゾリと祖父だけが生き残り親戚たちと漂泊の旅を重ねる。それは街道筋の家々を物乞いの門付けをし、金品・食物を得る旅でもあった。ゾリはことばをつむぎだし、うたうことに関する特別な才能にめぐまれていた上、「資本論」が座右の書という型破りの祖父の影響もあり、ジプシーにとっては禁断の能力である文字を書き、読むという能力を身につける。
「しかし、自分の指の先から新しいことばが生まれるのを目のあたりにして、彼女(ゾリ)は仰天した。そして指先から真新しい歌が、次から次へと生まれ出てくるようになったとき、ゾリは、ずっと昔から存在している歌の群れがなにかのはずみで自分のところにやってきているに違いないと考えた。」
固有の文字を持たずに、口承伝承を旨とするロマニ語の世界に生きるものとしては、共同体の掟をやぶる存在であり、ジプシーとしてはきわめて異例な育ち方をしたのがゾリである。
 ゾリは14歳で老いたヴァイオリン弾きと結婚し、16歳のとき第二次世界大戦が終わり、ソヴィエトはスロヴァキアをナチスから解放した。戦後の共産党政権下、理想的なロマのプロレタリアートとしてまたたくまにその文学的才能に注目が集まり詩集を出版されるまでになる。しかしソヴィエト、スターリン政権の抑圧政策の影響下で、スロヴァキア政権の抑圧も強まる中、彼女の運命の歯車が回りだし、さらに「国民的ジプシー詩人」ゾリの文学的能力もジプシーの掟に反するとして、ロマ共同体から終生追放を宣告され、スロヴァキア、ハンガリー、イタリアへと苛酷な放浪・漂泊の一人旅がはじまる。そしてゾリの人生は大きく変転していく。
 この小説の最大の魅力は「ジプシー的なるもの」・・にたいする深い洞察力と豊富な取材に裏づけされた知見が鮮やかに語られている語り口のみごとさだろう。 ロマの生活の匂い・人間関係・家族・生きる信条・守られるべき掟・ケガレとはなにかなどなど、また河や山々、空,星、草木にたいする独特のとらえ方やこれらの自然と寄り添うロマの人生のありようが特有の警句・比喩・暗喩を交えて語られる。これらの語り口が実に心地よく胸に響くとともに、自然と寄り添う鋭敏な感覚をわれわれが喪失してしまったことを知らされる。
劇的な運命を生きたゾリの物語の中でも、祖父ジージとの旅で語られる郷愁にみちた数々のエピソードは忘れがたいほど感動的であり、主人公ゾリのジプシー(ロマ)であるが故のみずみずしい感性と野生と意志力をそなえた人間像は実に魅力的である。
「あたしたちは天井じゃなく空の下で暮らすようにできているんだ」という非定住の人生・生活への渇望・・・・これらのジプシー(ロマ)のひとびとの本質的な性向が通奏低音のように流れており、人間本来の自由な人生が困難になっている我々にあこがれとともに痛切な喪失感をもたらすのである。
○この本を読みながら、しきりにイザベラ・フォンセーカの「立ったまま埋めてくれ――ジプシーの旅と暮らし」という本を連想していたが、著者覚え書きにはっきりとこの著書に触発されたと明記してあるのを見て、納得した。(概説→アルメニア→インドとヨーロッパをつなぐキーワードへクリック)イザベラの著書は彼女がヨーロッパを縦断しながら、ジプシーの出自や旅の暮らしをヴィヴィッドに浮き彫りにしたルポルタージュの傑作である。
コラム・マッキャン(Colum McCann )はジプシー(ロマ)ではないが、外の世界の人間としてバランスと抑制の効いた文体が力量の並々ならぬことを示している。心情的にジプシー(ロマ)に過度に傾斜しがちなテーマながら、語り手を変えながら物語をすすめることで普遍性を獲得している。また、栩木伸明氏の訳文もすばらしい。1965年アイルランドのタブリン生まれ。小説家を志してアメリカに渡り、北米大陸を自転車で放浪、その後テキサス大学で英文学を学ぶ。93年に来日、京都、九州で英語教師として働くかたわらアジア各国を旅する。94年からニューヨークで本格的に文筆活動をはじめる。2003年には「エスクァイア」誌の Writer of the Yearに選出。Zoli(2006)は 20カ国で出版予定。(著書の著者略歴参照) 「ゾリ」(コラム・マッキャン 著 栩木伸明 訳 )みすず書房 定価(本体3200円+税)

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■2008.12.30  仏教徒になったジプシー:ハンガリーのジプシーとユーロブディズム(ヨーロッパ仏教)《ジェレム・ジェレム便り④》
○今回は、ハンガリーで仏教に入信するジプシーが増えているというニュースを紹介しよう。
ニュースの発信源はFriends of Western Buddhist Order(FWBO)(西洋仏教僧団友の会)というイギリス発祥の仏教徒組織である。まず、この団体は1967年イギリス人僧侶サンガラクシタ、本名デニス・フィリップ・エドワード・イングウッドによって始められ、宗派にとらわれず、現代に適した形で仏教の教えを実践することを旨とする。現在インドを含む20ヶ国以上に活動拠点を持ち、ユーロ・ブディズム(ヨーロッパ仏教)の中心的存在となっている。
FWBOを日本で最初に紹介されたのは筆者も知己であった故島岩(しまいわお)氏である。興味のある方は『聖者たちのインド』島岩、坂田貞二編(2000,春秋社)の第6章「サンガラクシタとユーロブディズムの成立」を参照されたい。また、同組織のインターネット上の公式サイト」では、日々の活動の最新情報を見ることができる。
もうひとつ背景として、インドの不可触民解放運動の指導者アンベードカル(1891-1956)に触れなければならない。アンベードカルは不可触民の出身ながら弁護士として活躍する一方反カースト運動に身を挺し、インド独立後はネルー内閣の法務大臣に就きインド憲法の草案を作成したほか、仏教に改宗して新仏教を説き、近代インドにおける仏教革新運動の元となったことで知られる。(詳しくは『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール著、山際素男訳(2005,光文社新書)を参照されたい。)
さて、ニュースの伝えるところによると、4年ほど前にハンガリーのジプシーのグループがFWBOに連絡をしてきたという。彼らはアンベードカルのことを知りとても感銘を受けるとともにインドの不可触民とのつながりを感じ、アンベードカルの社会改革へのメッセージはそのまま自分たちに当てはまると感じたという。
そこから交流が始まり、FWBOスタッフはハンガリーを訪れ、仏教徒となったジプシーのグループはイギリスとインドを訪問した。ハンガリーのジプシーはFWBOの活動を理解するのに時間がかかったとも述べている。なぜならヨーロッパの仏教といえば白人の知識人たちのものという先入観があったためだ。ところがFWBOの人々はこれまでのハンガリーの仏教徒とは違い、ジプシーの人々が直面している社会問題に真剣に向き合ってくれたのだという。
ジプシーが出立したあと13世紀初頭にインドで仏教が滅びてから約750年。不可触民と外国人の再解釈を通して現代性、普遍性を獲得した新しい仏教の姿は、日本にいるとなかなか見えてこない。
(市橋雄二)

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■2008.12.19  今年の映画ベスト・ワン「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」
○マーティン・スコセッシ監督はとても好きな監督である。昨年、彼が「デイパーテッド」で初めてアカデミー賞を取ったときには、アカデミー賞嫌いの私の「かれはアカデミーを取らないほど優れた監督だ」という評価がゆらいで残念だと思ったほどだ。
「デイパーテッド」は香港映画「インファナル・アフェア」(2002年監督アンドリュー・ラウ)のリメイクであり、それでアカデミー賞というのはスコセッシほどの監督に失礼である。(「インファナル・アフェア」は暗黒映画の匂いが充満する名作であった。)
彼はロックの最盛期に青春時代をおくったこともあり、音楽関係を扱った作品も多いし、過去の作品にもストーンやディランなどの楽曲が使われている。
ボブ・ディランのドキュメンタリー「ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム」も刺激的なドキュメンタリーだった。これは過去のディランの記録映像をモンタージュして要所に現在のディランのインタビューを挿入するオーソドックスな手法ながら、編集技術の冴えで見ごたえがあった。
「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」は2006年ニューヨークでの2回にわたるライブを熟練の撮影チームがコンサートの全体像と楽屋裏を縦横に撮影したドキュメントで、音楽映画の枠を超えた普遍性を持ちえた傑作になった。
なかでも特筆すべきはミック・ジャガーとキース・リチャーズに焦点をあて、かれらの肉体のヒダまで掘り起こすかのような画面である。ミック・ジャガーの俊敏・敏捷は彼の当時63歳という年齢を考えればビックリするし、キース・リチャーズの顔に深々と刻まれた皺をみていると人生を感じ、何故か感動してしまうのである。
 音と映像の方法論を熟知した名人スコセッシが達した映像の冴えはローリング・ストーンズに距離を置いてきた人(私も・・)にも彼らのキャリアがただならぬものであることを有無を言わせずに納得させる。
 遥か昔にみた1958年ニューポート・ジャズ・フェスティバルのドキュメンタリー「真夏の夜のジャズ」( バード・スターン監督)で味わった心躍る体験以来のものだった。
とにかくスコセッシの映画には人間観察のしたたかさと、柔軟な視点が散りばめられている。そこにはシチリア系イタリア移民の家系に生まれ、人間の矛盾や不条理が引き起こす暗黒を見つめながら、人間救済の手がかりを追求してきたスコセッシ独特の複眼的視野がある。
ローリングストーンズの音楽にはある種の無頼性と混沌があるが、そこからある種のカタルシスを見出すような輝きがあり、そうした輝きがスコセッシの体質に強く共振・共鳴したのだろう。
よって音楽的感動の強烈さ、映画的興奮を再認識させた意味もあり、独断と偏見に満ちた私の今年のベスト・ワンである。

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■2008.12.01  映画「シリアの花嫁」:ローカルであればこその普遍性
○1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領し、シリアとその領有を巡り係争中のゴラン高原。そうした分断状況に生きるイスラム教ドゥルーズ派一家の娘の結婚とその家族の再会の1日を描いた映画「シリアの花嫁」は苛酷な現実世界を描きながら人生への希望をにじませる佳作である。
 結婚式の日は花嫁モナにとり最高に幸福な日になるはずだが、彼女も姉のアマルも悲しげだ。一度"境界線"(現在の軍事境界線)を越えて花婿のいるシリアに行くと、2度と家族のもとへ帰れないからだ。この地域の住人たちは望めばイスラエルの国籍を取得できるのだが、ほとんどの住民はシリア人としての帰属意識が強く、イスラエルがシリアを国家として承認いないために結果的に「無国籍者」になる。モナの父親は熱烈なシリア・ナショナリストである。
 父とロシアから帰国した弁護士の長兄との溝、アマルと夫との間のトラブルなどが家族の間に次々と起こるなかで進行する結婚式の準備。挿入される民族色多彩な歌が効果的だが、惜しむらくは歌詞がない。多分アラビア語、ヘブライ語などの古謡の意味が分かる人が翻訳者にいなかったのだろう。
国家・民族間の解きがたい難問と家族が抱える諸問題がダイレクトにつながる様相のなか、花嫁は無事境界線を越えられるか、というスリルを含みつつラストに向かって進んでいくが、重いテーマをかかえながらも、話の展開は軽快なテンポで、時にはユーモラスである。
 登場人物に真の悪人がいないのが、救いである。国家・組織をバックにする役人・軍人なども人間くささを見せ、どこか憎めないところを俳優たちが上手く表現している。シナリオの人物像の彫りが深い故だろう。 ラストは未解決な問題が横たわるなか、境界上を歩いてシリアへ進むモナを見守る姉アマルの顔のアップで終わる。それは映画の冒頭のアマルのアップ表情に回帰するようである。笑みを浮かべたかのような表情が意味するものは決意だろうか、可能性だろうか。謎めいた余韻である。
俳優たちがすばらしい。特にアマル役のヒアム・アッバスは激情を内面にためこむ張り詰めた表情が秀逸で、画面全体に緊張感を生んでいる。
中東地域の複雑な歴史・民族・宗教的背景を抱えた人物群像に対して中東以外の人々が普遍的な共感を寄せることは容易ではないが、アラブ世界やドゥルーズ派に深い知識を有しながら、なおかつ現代的で複眼的な視点を併せ持つこの映画の視点には中東問題解決への希望を感じさせるものがある。
監督はイスラエル人のエラン・リクルスで2004年モントリオール世界映画祭グランプリ作品。2009年2月21日より岩波ホールでロードショー。

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■2008.11.16  マケドニアのローカルな音楽フェスティバル《ジェレム・ジェレム便り③》

○ジプシー・ブラスバンドといえば日本では映画にもなったルーマニアの<ファンファーレ・チョカルリア>や来日公演も多いマケドニアの<コチャニ・オルケスター>などが有名だが、彼らは氷山の一角にすぎず、現地には数多くのブラスバンドが存在する。
メールニュースによると、この10月13日、マケドニアの地方都市クマノヴォ市で "ROMA TRUBA FEST 2008"という音楽フェスティバルが開催された。クマノヴォは首都スコピエの北東に位置するロマ人口の多い町だ。私たちも2006年にスコピエから陸路夜行バスでイスタンブールに移動した際にブルガリア国境に向かう途中立ち寄ったが、石造りの家屋が立ち並ぶこじんまりした中世ヨーロッパ的な趣の町だった。
TRUBAとは、マケドニア語でトランペット系楽器を、広くは象徴的に金管楽器(ブラス)を指すものと思われる。したがって、イベント自体はロマ・ブラス音楽祭とでも訳すとわかりやすいかも知れない。ジプシー・ブラスバンドはチューバや各種ホルンも編成されるが、花形はソロで活躍するトランペッターで、そのトランペットもピストンバルブやロータリーバルブという構造上の違いによってバリエーションがある。いずれにしてもオスマン帝国時代の軍楽隊の放出楽器が起源だろう。それはちょうどジャズ・バンドがアメリカ南北戦争後に払い下げ楽器を使うところから始まったように。
今回のメールニュースを発信しているのは、このフェスティバルを主催したルスィト・シャキール・アンサンブルの団長サメット・サリエフスキー氏。この日はマケドニアのスコピエ、シュティプ、ストゥルミッツァなど4つの都市から集まった5つのブラスバンドが参加し、ゲストとしてグチャ・フェスティバル(セルビアの有名なブラス音楽祭)で優勝したセルビアのボヤン・リスティッチ楽団が招かれた。ソロ部門ではジャンボ・アグシェフが優勝し、オーケストラ部門ではスコピエの<ピチカート・オルケスター>が一等賞を獲得した。最優秀ソリストには金の冠が授与された。調べてみると、アグシェフ(ジャンボはあだ名)は、ヨーロッパでは名前の知られたミュージシャンのようだ。
町の広場で行われるローカル色たっぷりのフェスティバルは毎年行われているらしいが、きちんと審査をして賞を決め、金冠やトロフィーを授与するというこの催し。本当に音楽と踊り、そしてお祭りが好きな人々だ。そして思い出すのが、マケドニアの地元のロマテレビ局が運営するロマ映画祭やミス・ロマ・コンテストだ。賞を競うことも彼らの楽しみの一つに違いない。
(市橋雄二)

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秋田比立内でのイワナつり

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■2008.10.30  至福の時:秋田比立内でのイワナつりービデオレポート(2分)
○9月29日の項に記した秋田のイワナつりのビデオレポート。その模様はビデオレポートに。

グルジア映画「懺悔」から連想する

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■2008.10.20  グルジア映画「懺悔」から連想する
○グルジア映画「懺悔」(監督 テンギス・アブラゼ)をみた。正確にはソビエト連邦時代のグルジア共和国で1984年に製作されたソ連映画である。ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)をある意味で象徴・予見した作品として半ば伝説化していた映画だが、日本では公開されず、今回、24年ぶりに年末から公開されることになった。
 旧ソ連邦時代、架空の地方都市の独裁者の生死をめぐる話はスターリン時代の粛清を想起させる。密告・逮捕・強制収容所行きが横行した暗黒時代に己の信条に生きた画家一家の悲劇的運命と流転を生き残った娘の回想で運ばれるストーリーは暗く、重い。1984年の製作ということで、まだ公開される展望が見えないままの映画の完成だったのだろう。
  1985年、ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、翌86年からのペレストロイカ政策の展開していくある種の熱気のなかでモスクワで1987年に公開され、大ヒットした。メディアがグラースノスチ(自由言論)の風潮のなかでそれまで封印されてきたスターリン時代の負の歴史の事実を明らかに語り始めたなかでの公開だった。
その後のソ連崩壊、冷戦終焉、9・11以来のイスラム圏の登場、イラク戦争と激動を経てきた現在の我々からの視点でこの映画を見れば、さすがに歴史の波を越えられない時代的限界を感じないわけではない。が、最近のロシアのグルジアへの露骨な締め付けを見れば、映画制作時のグルジアと今のグルジアの状況は大して変わっていないようにも思える。
私も1983年以降、ソ連時代のモスクワを数度訪れたがコーカサス3国のグルジア、アゼルバイジャン、アルメニアなどに関する情報は少なかった。モスクワではグルジアワインがとびきり上手く、市内のグルジア調理店アラグヴィには頻繁にロシア・ジプシー一家の流しが現れた。後年、2002年インドからのジプシーの末裔が存在するという情報を得てアルメニアに行ったのがコーカサスへのはじめての旅だった。
とにかくこの地域の複雑に絡んだ歴史的、民族的な流れを把握することは容易ではない。日本に住むひとにロシアとグルジアとの歴史的・民族的確執を分かりやすく説明することは非常に困難である。そのむずかしさはヨーロッパやロシアそしてコーカサスの非アジア系の人々に日本列島と朝鮮半島との歴史的・民族的確執などを説明することのむずかしさに通じるものがある。
映画「懺悔」はそうした限界を超えて尚、人間の意志の強固さがどこから来るのかを訴える作品であり、豊かな人間の感情のほとばしりにあふれる作品である。
公開2008年12月20日より岩波ホール

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■2008.10.11  欧州ロマ・サミットの成果とは《ジェレム・ジェレム便り②》
○今回の<欧州ロマ・サミット>に関しては、日本のメディアでもネットニュースなどで短く報じられた。そこでは、バローゾ欧州委員長が「あらゆる手段を尽くす」と述べたくだりを紹介し、教育や就職、住宅などに関する支援を約束した(9月17日付産経ニュース)として好意的に伝えている。一方、9月16日付け国際版ヘラルド・トリビューン紙がAP電として伝えた記事は「EU、初めての欧州ロマ・サミットで非難される」という見出しでロマ側の反応を中心に違った見方を示している。
ロマの代表は、イタリア政府が今年6月に発表したロマ人の指紋採取政策(イタリア国内のロマ人集落で暮らすロマ人とその子どもたちから指紋を強制採取するという治安強化のための移民規制の一環)をEUの行政機関として批判声明を出さなかったことに怒りを露にし、強く非難したという。一方で、Open Society Instituteなどの財団を通じて慈善活動を行い、長くロマの人権擁護のためにも闘っている米投資家ジョージ・ソロスが演壇に立ち、イタリア政府への法的措置の必要性を訴えると、ロマ団体から拍手を浴びたという。
今回の会議の目的のひとつは、各国政府関係者、ロマの代表、非政府組織を集めて27カ国のEU加盟国に暮らす約1千万のロマが直面している様々な問題への関心を高めるということだった。この点では一定の成果があったものと思われるが、総論ではなく各論を求め、差別政策への迅速かつ徹底した対応を求めたロマの人々の切実な思いとの間には今なお隔たりがあることを浮き彫りにしたともいえる。
(市橋雄二)

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イワナつり

■2008.9.29  イワナつり・・・秋田県北部のK沢にて(2008年9月)
○久しぶりに秋田県最深部のK沢に出かけた。3泊4日の日程でイワナ、ヤマメを釣る。その模様はギャラリーに。

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■2008.9.14  ロマ・コミュニティー向けのメールグループ《ジェレム・ジェレム便り①》 EUロマ・サミット開催
○この9月16日、ベルギーのブリュッセルでEU(欧州連合)欧州委員会が主催する初めてのロマ・サミット(会議)が開催される。EU関係部局や各国政府、市民団体から400名を超える代表者が一堂に会しEU内のロマ・コミュニティーがおかれている現状を確認しつつ、いわゆるロマ問題(根強い差別とステレオタイプ、そしてそれらに起因する様々な社会問題)解決のための具体的な政策を討議するという。
チェコやルーマニアなど東欧諸国へと加盟国を拡大させてきたEU域内には今日約1200万人のロマの人々が暮らし、最も大きなマイノリティー集団のひとつに数えられるようになった。ロマ問題は各国に共通する要素が多く、今まさに国の垣根を越えて解決しなければならない重要かつ深刻な社会テーマなのである。
日本のメディアではほとんど取り上げられることのないロマの今の状況について、ヨーロッパでは日常的に様々なニュースが報じられている。わたしが参加している世界のロマ・コミュニティー向けのメールグループ《ジェレム・ジェレム》に投稿される記事はこうした日々の動きや世界中のロマの動向を伝えていて興味深い。くだんのロマ・サミットのこともこのメールグループの記事で知った。ただし、あくまでも回覧機能がメインであるためひとつひとつの話題について詳しい背景が語られるわけではなく、ネット検索などを利用して必要に応じて知りえた情報を補強しなければならない。ロマ・サミットに関していえば、EUのポータルサイト内に掲載されているプレスリリースが詳しく会議の内容と経緯を伝えている。
今回の会議に出席する欧州議会のロマ出身議員Livia Jarokaさん(ハンガリー市民連盟、ヨーロッパ人民党・民主グループ所属)はヨーロッパのニュースサイトの取材に対して「ある調査によるとヨーロッパ人の70~80%はロマに対して反感を抱いている」といい、「このことが最大の問題だ」と述べている。学校における隔離教室や雇用差別、居住地のインフラ未整備など具体的な問題の根源にあるのは、こうした人々の感情にあるという指摘である。(ちなみに欧州議会議員785名中、ロマ系議員はJaroka氏を含め2名が在任中)ロマの人々がヨーロッパに住むようになって約500年。長い歴史の中で蓄積されてきた根深い問題にEUとしてどのように取り組むのか。単なる政治ショーに終わらせることはよもやないと思うが、その具体的な施策に注目していきたい。(今後もメールグループ《ジェレム・ジェレム》の記事の中から「これは」という話題を取り上げて報告していきます。)
(市橋雄二)

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■2008.8.25  藤原新也『日本浄土』と「イザベラ・バードの日本紀行」・・・日本列島『原風景』の130年後の変貌
○偶然が重なり、藤原新也の近刊「日本浄土」(東京書籍)「イザベラ・バードの日本紀行」(講談社)を併読することになった。
イザベラ・バードは72年の生涯の多くを旅ですごし、いくつもの旅行記(「朝鮮紀行」など)を著したイギリスの女性で、彼女が日本にきたのは1878年、47歳のときだった。日本列島が江戸時代から明治維新をへて大変革を遂げている最中の東京、横浜などの都市だけではなく、東北や北海道、京都、伊勢神宮などを巡り、当時の日本人の文化・習俗・自然などを記した紀行記録である。
印象深いのは近代化(欧化政策)を急ぐ都会だけでなく、列島の原風景を宿す東北・北海道・関西など地方の習俗・風景を活写している点である。北海道に渡ってアイヌの人々との交流を重ねながら、当時のアイヌ文化や習俗をひろく活写して広く知らしめた功績は大きい。侮蔑と愛情と敬意が入り混じった記述は全編に散見されるが、19世紀末という時代性の制約を考慮すべきだろう。西洋人の価値感、理解不可能な習俗に当惑し、時代背景に制約された侮蔑的表現などを超えて、全体を貫く旺盛な探求心・冒険心と苦難を乗り切る意志力は説得力を持つ。
なによりもこの本の価値は、当時の日本列島がいかに豊かな自然に満ち、美しい風土だったか、そして当時の日本人がいかに無垢で優しい心根をもっていたかをしみじみと伝わえてくれることだ。異文化で育った異邦人イザベラ・バードの目を通してでも偏見・宗教観の相違を乗り越え見えてくる日本列島の風景と庶民がまぶしいほどの輝きを放つ。
藤原新也の「日本浄土」は、(列島風景の不気味なまでの画一化、空洞化、疲弊、そして人の情の変化・・・など)のっぺらぼうになってしまった日本の街のなかから、なにか希望、光めいたものを求めてあてどなくさすらうような著者のゆらめくような呼吸が独特の読後感を残す。
死屍累々の列島の片隅から「地味でありながら独自の呼吸をしている細部のそれぞれが,ひとつの集合体となった時、そこにもうひとつの日本が私の中で息を吹き返す。」ことを希求しながらの旅なのだ。島原、天草、門司港、柳井、尾道、能登、房総などを幼時の思い出などを交え訪ねるが、一日中歩いても、一枚の写真も撮れないほどのこの旅は藤原新也にとっては苛酷なものだったろう。
「印度放浪」「西蔵放浪」などとは位相が違う今の日本列島の病理は表現者にとっては逆説的に手ごわい被写体なのだろう。
イザベラ・バードが訪ね歩いた日本列島の美しい原風景から130年後の「風景」は藤原新也に「歩き続けることだけが希望であり 抵抗なのだ 歩行の速度の中でこそ、失われつつある風景の中に息をひそめるように呼吸をしている微細な命が見え隠れする」と言わしめるほど切迫した時代を反映するものなのだ。

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■2008.7.30  「山をあげる・・・」比類なき移動野外歌舞伎・・・山あげ祭(那須烏山)
○全国でも類例のない絢爛豪華な野外歌舞伎を栃木県の那須烏山で見てきた。住民が450年にわたり伝えてきた野趣の香り漂う野外歌舞伎そのもののおもしろさはもちろんのことだが、演じ終わるや否や舞台、背景などを迅速に解体し、荷つくりして、次の場所に移動してゆくダイナミックな一連の動きがまた素晴らしい。笛の合図で見事に統制の取れた若衆のきびきびした動きは日ごろの修練をものがたり、その背景にはこの祭にかける烏山市民の熱い熱情がしのばれる。
7月25日から3日間にわたり、烏山の市街地は完全に野外歌舞伎場として日常性から浮遊した空間と化す。
舞台の左右には囃子屋台と浄瑠璃屋台、そこから奥に向かって橋、館、前山、中山、大山と名づける張子の山が遠近良く立てられる。これを山をあげるという。これらの山には山水が描かれ、四季の情趣が表現されている。道幅8メートル、奥行き100メートル、高さ20メートルに及ぶ巨大な野外演舞場が街の若衆の手際よい段取りで見る間に出来上がる。館や橋が踏み板と呼ぶ板で舞台から前山までをつないで花道のように使用するという具合で、スケールが大きく、立体感あふれる装置ー仕掛けーを設営してしまう・・・舞台の組み立てから上演そして解体して、次の上演場所へ移動していく一連の野外劇はまったく類例なきパフォーマンスだ。ここで常磐津に会わせて、「将門」などの数演目が演じられる。
さらにこれらの野外劇は鳴り物がホンモノで、囃し方の笛、鉦は当然、浄瑠璃の演奏、常磐津語りなども地元のひとびとによって演奏されている。これは日ごろの修練がなければ実現しない凄いことだ。テープの鳴り物などとは縁がないのだ。
服部幸雄先生は次のように書いておられる。「・・狂言が終わると、山揚げの場合と同じように、若衆たちが大活躍して、30分とたたないうちにバラバラに細かく解体し、手際よく車に積み込む。そして、道具のいっさいを乗せた車が去って行ったあとは、まったく日常と変わりない道路になる。もはや音もない。ほんの先程まで、この<場>は感動のある劇場だった。日常性を転換した聖なるトポスであった。(中略)この<場>の瞬間的なコード変換が、非常におもしろく思われる。」(音と映像と文字による大系日本歴史と芸能 第10巻「都市の祝祭」平凡社)
この山あげ祭の様子をビデオレポートにアップする。

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■2008.7.15  阿波のでこまわし・・・・人形つかい門付け芸の復興
○今やかつて日本列島を門付けを生業とする諸芸人が闊歩していたことを知る人も少なくなりつつある。中世以来連綿と続いてきた放浪諸芸人たちの道の芸・街の芸は1970年の大阪万博あたりを契機に日本の近代化・高度成長とともに急激に列島から姿を消していった。
猿回し、万歳、獅子舞などの芸能者は豊穣を願い、厄病を恐れる民にとっては神の使いとして畏敬すべき訪問者であると同時にその職能故に賎視すべき存在でもあった。
「ほんらい彼らは風のように去来する漂泊の民で、それがまた何かしら神性と呪力をたくわえた神人の印象を与える生活様式なのであった」(永田衝吉「人形芝居」より)
そのほとんどは絶滅してしまったが、復活を遂げた稀な例としては猿回しがある。猿回し復活については1960年台後半からの小沢昭一の放浪芸探索がきっかけになったのだが、今回、猿回し、万歳などと並ぶ代表的な門付け芸である人形つかいの復活についての記録を読むことが出来た。
 「阿波のでこまわし」(辻本一英 解放出版社)はかつて列島各地を祝福門付芸能者として巡った多くの人形(でこ)まわしを輩出してきた徳島県の吉野川流域の出身者であり、自身も苛酷な被差別の体験をへてきた著者がふるさとの誇るべきでこまわしの復活にかけた思いをのべたものである。(でこ:でく、木偶とも表し木彫り人形や操り人形の意味)
 人形まわしは淡路島の人形浄瑠璃などにみるように阿波徳島に強く伝承されてきた芸能形態で日本の芸能史でも重要な位置を占める芸能である。
全体には著者の講演記録などをおりまぜた平明な語り口で率直に出自にまつわる悩みから、でこまわしに己の誇りの源泉を見出し、復活をめざしていく過程を述べている。絶滅しかかっていた箱まわしに伝わる三番叟・えびすまわし・大黒まわしなどの演目を辻本たちははひとりの現業老人形つかいに3年間弟子入りして継承、復活していった。
はじめに写真グラビアが続き本文に入るが、その中扉に挿入されている一葉の小さな白黒写真(1955年撮影)には胸を突かれる迫真性がある。資料として集められた写真のなかに著者、辻本の祖母(ばあやん)が大黒人形を手にして門付けしているものが偶然まじっていたのだ。長年にわたる風雪を耐え抜いてきた祖母のまなざし、手ぬぐいをかぶり風呂敷を背負い、手にした大黒のでこ人形・・・、この写真だけでこの本の目的は達せられたといえるほどだ。
 私も1970年に小沢氏とともに徳島を訪れ、人形まわしを取材したが、当時すでに取材そのものが困難な状況だった。賎視のなか、子孫たちのことを考えて己の生業である人形まわしを次々と廃業するものが続出し、ついには人形まわしであったことまで深い闇の中に秘してしまっていたのである。当然、人形も川に流されるなどして消滅していった。そのなかをなんとか夫婦の人形まわし(現地では箱まわしともいう)に会うことができたが、以来40年が経過した。当時の写真をギャラリーにアップした。
  活動主体である「阿波木偶箱廻しを復活する会」は被差別民衆の生活文化や伝承芸能を掘り起こすという作業の中から聞き書きや技術の伝承に取り組んでいる。 猿回しの復活が意義深いのは、現業としてそれで食っていくことを可能にしたことである。保護政策、文化擁護の名目で保存されているだけでは、その芸能は力を持ち得ない。芸能を享受する側が、対価として金を払ってもいいと納得させられるものでなければ持続しない。お金に換える芸能こそが生きた芸能である。 今後、阿波の人形まわしがお金に換える芸能として真の復活をと遂げることはあるだろうか。期待したい。

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■2008.6.28  したたかな生への渇望、リアルな生への執着~<エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラ>来日コンサート雑記
○2005年5月、買い付けの仕事でカンヌ映画祭に参加していたときのこと。世界中の映画関係者でごったがえすクロワゼット大通りに面するグランド・ホテルのカフェでたまたまエミール・クストリッツァの一団と隣り合わせになった。この年審査委員長を務めていたクストリッツァ氏は数多くの試写や打合せをこなしていたはずで、つかのまの休息をとっているかのようだった。あの大柄な体格でソファーに沈み込むように腰掛け、ゆったりと葉巻をくゆらせていた。
そんなクストリッツァ氏のバンドが、ノー・スモーキング・オーケストラというのだから、もうコンサートを見る前からアイロニーとユーモアに満ちたステージになるだろうことはじゅうぶん想像がついた。しかし、今回会場を埋め尽くした3000名の観客の熱狂ぶりは、予想をはるかに超えるものだった。
ヨーロッパを中心に絶大な人気を誇り<世界90カ国、500公演以上のライブで奇跡的な大成功を収めてきた>彼らの今回は初来日コンサートである。定刻を少し過ぎた頃、コンサートの開始を待ちきれない一部の観客が大声を上げはじめ、会場にやや張り詰めた空気と人々のはやる気持ちが漂う。そして客電が落ちいよいよメンバー登場か、という段になってイントロダクションとしてテープで流された曲がまずふるっていた。ソ連時代のモスクワ放送でよく耳にした曲だが、国歌だったか共産党あるいは赤軍の歌だったかはっきりと思い出せなかった。あとから確認したところやはり旧ソ連国歌だとわかった。(強いロシアを目指すプーチン大統領の肝いりでこの同じ曲が2001年から新しい歌詞をつけて現在のロシア連邦国歌に制定されていることも今回調べてみて初めて知った。)ユーゴスラビア時代から体制に異を唱えてきた彼らのコンサートを共産主義のシンボルとも言うべき曲で始めるあたり、おもわずにんまりしてしまった。
メンバーはボーカル、ギター×2、ベース、バイオリン、サックス、アコーディオン(曲によってチューバに持ち替え)、ドラムスの計8名編成で、リーダーでボーカルのネレ・カライリチが、ステージ上だけでなく客席に飛び降りてはアリーナから2階席まで縦横無尽に走り回って、観客を乗せていく。ステージでは映画「ジプシーのとき」「アンダーグラウンド」「黒猫・白猫」のテーマ曲、2000年のアルバム「Unza Unza Time」収録の同名の代表曲など約20曲を休憩なしで2時間ぶっ続けで演奏した。まさに<独自のアップテンポの2ビートに乗せたジャズ、スカ、ハードロック、そしてジプシーミュージック等をすべて飲み込んだミクスチャーロックサウンド>なのだが、ステージ上でピンク・フロイドやディープ・パープル、ブルース・スプリングスティーンといった70年代ロックの名曲のリフを繰り出す当たりに、あくまでもロックサウンドにこだわろうとするメンバーの音楽のルーツを見る思いがした。
ステージでは、ギターを頭の後ろに抱えて演奏したり、3メートルはあろうかという巨大な弓にバイオリン本体の弦をこすりつけて演奏したり、それにクストリッツァがギターを同じようにこすり付けて掛け合うなどの曲芸的なパフォーマンスも随所に織り込まれ、ボディーに電飾を施したギターをおなかの前でグルグル回してみせるころには観客はその豪放なステージングに興奮の頂点に達していた。
それにしても、こういっては失礼だが頭が禿げ上がり、おなかの出た決してかっこいいとは言えないルックスの中年おやじのバンドがかくも若者を熱狂させるのはなぜか。クストリッツァはTシャツ姿、リーダーはサッカーユニフォーム、あとのメンバーはテカテカ光るシャツに白のスラックス、へたをすると場末のキャバレーバンドかとも思えるいでたちで、メンバー紹介ではエリック・クラプトンです、とか、プラシド・ドミンゴです、とか、はたまたリーダーは自分のことをデヴィッド・ベッカムです、と紹介するベタなやりとり。しかし、そうした一連の振る舞いからは、混沌とした時代を肯定的に楽しむんだ、権力に屈することなくしたたかに生き抜くんだという強烈なメッセージが伝わってくる。
彼らの音楽にはロシアや中国などにも共通する冷戦下の共産主義社会を生きた人々特有の、自由が制限された不条理な体制を生き抜くために育まれたしたたかな生への渇望、あるいはリアルな生への執着といった臭いを感じないわけにはいかない。あらゆる要素のミクスチャーから紡ぎだされる新しいビート感もさることながら、まさにこの部分が価値観を喪失しつつある今の旧西側世界の人々を引き付ける力になっているのではないだろうか。
最後に、今回のコンサートではクストリッツァ自身が語る場面がほとんどなく、唯一言葉らしい言葉を発したのがコンサート終盤の観客とのこんなやりとりだった。
クストリッツァ:Are you ready?
観客:Yeah!
クストリッツァ:Are you ready?
観客:Yeah!
クストリッツァ:Are you ready to make a revolution?
観客:Yeah!
クストリッツァ:OK. Next time...
・「エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラ」コンサート
2008年6月26日(木)/主催:カンバセーション/後援:セルビア共和国大使館 J-WAVE/企画制作:カンバセーション/会場:JCB HALL(東京ドームシティ内)
(市橋雄二)

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かくして神話は生まれる?ー不条理な世界

■2008.6.17  かくして神話は生まれる?ー不条理な世界
○毎年、フライフィッシングという毛ばり釣りで東北の山々の奥地にでかける。ここ20数年来の習慣になっている。特に岩魚(イワナ)、山女(ヤマメ)釣りのベストシーズンは東北では6月から始まる。5月までは渓流のにごりや増水などを起こす雪代(ゆきしろ:山に残る雪の溶け出す冷水)が残り、釣果にむらがあるが、6月になると一気に岩魚,山女たちは活性化し、えさを貪欲に追いだすのである。釣り人は先行者がいないポイントまで入るため、源流部に近い奥地までも入渓するものだ。
今回の岩手・宮城内陸地震で釣り人が数人含まれているのは、ある意味で当然であった。この地域は私も秋田北部への釣行の際に何度も通っているので、地形などは頭に入っているが、日本列島を東西に縦断する342号線、398号線などの沿線は人家が少なく山間の狭い平地に数軒の家々が点在する風景が連なる地域だ。磐井川の多くの支流沢にも釣人が入る。
その地を開拓し、長年住み続けてきたものにとっては離れがたいほどの愛着の情を抱かせるのがシミジミと美しい山々と川のある風景なのだ。
私も秋田北部の渓流の幾つかを釣り歩きながら、人里離れた奥地に入るとき、一番警戒するのは、熊との遭遇、ついで地震だった。しかしながらこの20年以上熊には遭遇したけれども、地震には一度もあっていなかった。今回の震源地も可能性は限りなくゼロに近い無警戒地域だったようだ。
山が崩落し、道路が消滅したこの地域の復旧は困難を極めるだろう。人口の過疎地域だけに費用対効果を考える行政にとっても頭がいたいところだろう。一方、山を開き、田を耕し幾多の苦闘を重ねてきた庶民の個人史は無残にもこうした形で閉じられるのか。不条理というしかない。
四川大地震からほぼ1ヶ月後の5月14日に起きた岩手・宮城内陸地震そしてミャンマーの大洪水被害も含めて甚大な地球規模の変動が起きている。地球が何らかの変動を起こしている。四川大地震で失われた人命には少数民族のチャン族の人々が少なくない。おそらく岩手・宮城内陸地震の何倍かの規模で崩落を起こした山間に埋まった人びとの正確な数は永久に分からないだろう。チャン族には民族創世の神話が残されているが、今回の大地震が後世、創世神話に新しいページに加えられるのか、生き残った人々が無念の思いをどのように語り伝えていくのか。
岩手・宮城内陸地震で一瞬にして山が崩落・消滅し地形が激変した姿を目にした人々は、この不条理な現実をどう受け止めるのか。山を離れざるを得なくなる山の民それぞれのこころの奥には何が残るのか。
人間の歴史は想像しえないほど巨大なエネルギーに満ちた自然による災害を目の当たりにしながら築かれてきた。かくして庶民には不条理な神話伝承・伝説が生まれるのか。個人個人の無念の思いの膨大な蓄積はどこに向かうのか。

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貧困への切り込みとしての神話

■2008.6.05  貧困への切り込みとしての神話:ポルトガルの異才ペドロ・コスタの最新作「コロッサル・ユース」
○平日の夕刻の映画館には10名ほどの観客。あまり予備知識もなく、単にポルトガルの映画監督作品というだけで入った。カンヌ映画祭で退場者続出だったという話を後で知り、なかば納得したくらい果敢な挑戦に満ち、刺激的な映画だ。
しかし、少なくとも私にとっては画期的な作風をもった映画作家ペドロ・コスタの登場である。(前作「ヴァンダの部屋」も話題を呼んだらしいが、未見)ポルトガル、リスボン郊外のスラム街が取り壊され、こぎれいな団地に移住させられる話が、筋といえば存在する程度である。ドキュメンタリーとかなんとかいう議論はほとんど意味がないほど、映画そのものだ。
この映画の功績は主人公にヴェントゥーラという現地の素人を発見したことに尽きる。それくらい「隠者にして破格のオウトロー」(ペドロ・コスタ)で荘厳な雰囲気をまとった初老の男が主人公だ。ヴェントゥーラは北アフリカからの移民で身よりもなく長い間リスボンなどでつらい日々を刻んできたというようなことがなんとなく分かってくる。映画は、立ち退きの苦労と妻からの離別という現実に打ちひしがれながら、数人の"子供たち"を訪ねるシーンがつらなる構成。寡黙な女もいれば、麻薬治療中のヴァンダのように出産時の痛みを延々と話し続けるものもいる。乞食を生業にする息子が戻る等々。
ヴェントゥーラとの実際の関係が決して明らかにされない数人の"子供たち"の話を聞きながら、古い家と新しい住まいを行き来し、家から小屋へ、部屋から部屋へと渡り歩く。
饒舌に話す"子供たち"の話は現代の祭文語りのように響き、それをただ聞くだけのヴェントゥーラの徹底した寡黙が何かを象徴しているかのようであり、身のこなしひとつひとつが何故か優雅であり、ゆったりした彼の動作が心地よい。
人間の関係もよく分からないままに、ヴェントゥーラの世界に引き込まれていく。
離れていった妻へ思いが、繰り返される詩の朗詠は21世紀の神話語りを聞いているかのような余韻がただよう。グルベンキアン美術館でルーベンスなどの名画に囲まれ豪華な椅子に座るヴェントゥーラのシーンのはっとするような美しさ。
「知性にあふれ優しく荒々しい」スラム街の住人たちを見つめ続けるペドロ・コスタの視野がゆるぎなく透明で、目線は低い。これらは少人数の撮影スタッフでスラム街にアプローチしていく手法とマッチして新鮮な映像表現を可能にしたといえよう。 4人という最小スタッフによる小型DVビデオ撮影の成果が効果を上げている。アップ気味のローアングルに徹し、徹底的な長廻しを基本に、カメラは静止し続けズームはない。ラスト近く外界風景に一度だけパン移動という法則性が貫かれる。照明は美術館以外のシーンはほとんど自然光だけで撮影したらしいが、光と影で感情の機微までを表現しようとする強い意志を感じる。
2年間にわたりスラム街に通いカメラへの違和感をなくし、ヴェントゥーラたち住民と接触を深く重ねた信頼感がしのばれ、つらい神話的叙事詩のような現実世界に情感が沁みだしてくる異色の傑作である。
詩の内容:
「お前に10万本の煙草を贈りたかったのに、両手で数えきれない流行りの服、車もひとつ、お前がずっと憧れていた溶岩のかわいい家に、はした金で買う花束も、でも、なによりもまず、うまいワインを1本空けて、僕のことを想ってくれ。素敵な言葉を身につけるよ、僕ら二人のためだけの、僕らにぴったりの言葉を、まるでやわらかい絹のパジャマのように。」
題名は「途方もない若さ」はヤング・マーブル・ジャイアンツの同名アルバムから連想されている。ポルトガル原題は「Juventude em marcha」。英語題「Colossal Youth」 映画のHP

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最近の欧州のジプシー(ロマ)の状況

■2008.6.03  最近の欧州のジプシー(ロマ)の状況
○最近の朝日新聞に2回ほどジプシー(ロマ)に関する記事が出た。こうしたジプシー(ロマ)関連の記事の内容は彼らが欧州において抑圧されている状況についてのものが多く、取り上げ方という面ではやや画一的である。とはいえ、内容はそれほど間違ったものではなく、むしろジプシー(ロマ)の立場に配慮したものであるが掘り下げ方がやや不満である。。
欧州では1989年のベルリンの壁、崩壊後に、旧東欧やバルカン半島から大量のジプシー(ロマ)が西欧に流入しはじめ、その後のユーゴスラビア解体もそれらの流れを加速させた。その後20年近く経過して旧東欧の多くの国々がEUに加盟し、旧ユーゴもそれなりに安定しはじめたとして、仏、伊、独などのEU諸国が東方へジプシー(ロマ)を送還させる動きが活発化してきた。EU各国も内部にそれぞれ格差・移民問題をかかえており、少しでも不法滞在者を帰還させたい本音をかくさない。受け入れる側からセルビアの事情、送り出す側としてフランス、サルコジ政権の不法移民の強制送還そしてイタリアのベルルスコーニ新政権の移民規制強化案などが骨子である。
大きな流れは分かるが、実際に不法滞在者とされるジプシー(ロマ)の人びとの生の声が聞こえてこない。かれらに直に取材することの困難さはあるが、記事にでる内容はだいたい行政サイドの意見、支援活動、人権擁護団体のひとびとの意見で構成されている。それぞれの見解が要領よくまとめられており、分かりやすいのだが、何となく物足りないのだ。記事から記者が人間としてなにを感じているのか伝わってこない。当事者であるジプシー(ロマ)の人びとに直接取材していないのだ。ロマ人のなかにも様々な階層・境遇・職業があるはずなのに、彼らの肉声が聞こえてこない。もどかしく感じる所以だ。
1989年の大量移住・流入以前のはるか昔、数百年にわたりジプシー(ロマ)の人びとは西欧・南欧・北欧・ロシアなどに分布してきた歴史がある。
西欧の音楽・舞踊などに分野に限っても、ジプシー(ロマ)の人びとが従来の西欧文化にもたらした豊穣な実りは明白であり、それらの影響がなかったならば、今の文化は貧弱なものになっていただろう。日常生活に深く浸透しているだけに、あらためて考えることをしないほどだ。
こうしたジプシー(ロマ)の人びとがはたしてきた積極的な実りの面にも目を配った報道がないと、これらの記事を読み続ける読者にはゆがんだイメージばかりが増幅されていく。
旧ユーゴのなかのマケドニアに行ったとき、これらの問題の一端をみたが、様々な矛盾を生きながらも、生きることの基本をきちんと見せてもらった思いが強い。差別、排斥、不法などだけでは語れないジプシー(ロマ)の多様で、したたかな生き方にふれた報道が増えて欲しい。

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■2008.5.27  エミール・クストリッツァ監督率いるバンドが6月に来日公演。&小沢昭一「僕の映画史」上映会。
○「アンダーグラウンド」「黒猫・山猫」など世の中の常識を覆し続ける映画を作り続けている鬼才エミール・クストリッツァがバンドを率いて公演する。ジプシーサウンドを基調にしながらも様々なジャンルを換骨奪胎したようなバンドらしい。とにかくあのクストリッツァがどのようなパフォーマンスをするのかたのしみである。公演情報
○小沢昭一「僕の映画史」という味のある上映会が、今月末からポレポレ東中野で行われる。日活時代の川島雄三監督の代表作「幕末太陽伝」から今村昌平の傑作「エロ事師たちより~人類学入門」などから快作「競輪上人行状記」まで小沢サンらしいプログラムである。私がプロデュースした「新・日本の放浪芸」も上映される。この放浪芸のカメラマンは2人だったが、「神々の深き欲望」「楢山節考」などの今村映画の常連、栃沢正夫さんがメイン担当、栃沢さん亡き後「うなぎ」(カンヌ映画祭パルム・ドール賞)を撮ったカメラマン、小松原茂さんがサブというゴールデンコンビだった。
○トップページを通常に戻す。5.26付けで四川大地震・震源地、ブン川県チャン族のビデオを閉鎖。(予告済)
予告通りトップページのデザインをもとに戻し、チャン族のビデオを閉鎖した。四川大地震の実相は未だ完全には明らかになっていない。そしてチベット抗議運動のニュースはあっという間に姿を消した。すべての事象・報道は表面的には流され消費されていくかのように見えるが、本質的な地殻変動は起きているのか、いないのか。じっと見つめ続けることだ。

■2008.5.16  四川大地震・震源地、ブン川県チャン族の村の芸能の記録
○2008年5月12日に起きた四川省大地震の震源地・ブン川県を私は1996年7月に訪ねていた。?川県は、中国国内の報道では「ブン川地震」と称されているほど四川大地震の象徴的地域となっている。
55の少数民族の芸能を記録する最終の旅はチャン族の村に入ることが目的だった。当時から?川県方面にアクセスすることは困難だった。チベット系の少数民族チャン族が多く住むこの地を襲った甚大な被害は未だに全貌がみえない。救助活動の筆舌にしがたいむずかしさがよく理解できる。当時、記録した写真、ビデオ映像から一部公開する。失われたであろうチャン族の美しい自然と豊かな芸能を伝えておきたい。情報によれば、訪ねた龍渓郷が震源地の中心地だった可能性があるという。参照:ギャラリー。なおこのHPのトップページ使用写真とブン川県のビデオ公開は期間を1週間程度に限定する。なお中国の55に及ぶ少数民族の詳細については 「中国55の少数民族を訪ねて」(共著 市橋雄二、白水社) を参照されたし。

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button169.gif    2008.4.29  DVD「雲南紀行~こころのうたを求めて2007-8」(72分)完成

dvdjacketunnan.jpg ○2007年末から2008年はじめの雲南省、怒江大峡谷などへの紀行ドキュメント(DVD)が完成した。悠々と流れゆく大河、怒江と大峡谷のパノラマに息をのみ、怒族キリスト教徒のこころを打つポリフォニーに"うた"の本質を見た思いだった。

■2008.4.23  DVD「雲南紀行2007-8」のサンプルビデオ完成
○2007年末から2008年はじめの雲南省、怒江大峡谷などへの紀行ドキュメント(DVD)が制作進行中。本編は近日完成予定。

遥かなるチベット

■2008.4.12  遥かなるチベット

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bigtibettodaidougei.jpg  ○チベット情勢に関する中国当局の対応は相変わらず硬いようだ。記者会見での報道官の話し振りを見ていると、その語気の強さにあきれる場合が多い。特にダライ・ラマについて発言する際は凄い。ダライとはき捨てるようにいい、ダライ・ラマとは言わない。「ラマ」とはチベット僧侶に対する尊称であるからなのだろう。現在チベットに入国するのは困難なようなので、チベット、ラサの現状はうかがい知れない。チベット族の人びとの思いは推測するしかない。そこで1996年に1ヶ月ほど取材で滞在した際の写真を取り出して見ていたが、当時のラサの雰囲気などが伝わるものなどをギャラリーにのせることにした。

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「カラマーゾフの兄弟」の復活

■2008.3.25  「カラマーゾフの兄弟」の復活
○この世の中に身をおいていると虚偽、虚飾にあふれたことにふれたり、見たりしなければならないこともある。普通はそうしたものをやり過ごしたり、かわしたりしながら過ごしていくものである。しかしそうしているうちに身に付着した垢やおりの匂いが急に気になりやりきれない気持ちになる。
突然、なにかホンモノに触れてみたくなり、直接、利害に関係のない大きい世界に身を置きたくなる。つまりバイアスの掛かった気持ち、不均衡な気分をリセットしたくなるのである。
ドフトエフスキーを高校以来まったく久しぶりに読んだ。「地下室の手記」「貧しき人々」などには、強く心を揺さぶられたが、かれの底知れぬデモーニッシュな闇におそれを感じ、ツルゲーネフなど別の作家に移っていった。それ以来ドフトエフスキーはもう読むことはあるまいと思っていた。
評判の「カラマーゾフの兄弟」の新訳(文庫5巻)である。やはり亀山郁夫の訳がみごとである。亀山があとがきで述べているように「いま、息をしているリズム」の日本語がみごとにドフトエフスキーの広大で深遠な世界をつむぎだしていく。楽な呼吸のままに文章がすっと体に入っていき、流れていくかのごとき文体である。
19世紀の帝政ロシア時代のカラマーゾフ一族を描きながらも、抽出されるテーマは父殺しを軸にしながら、神の存在、信仰と教会、家族、男女の愛と嫉妬、友情などなどあらゆる根源的テーマを包含しつつ、壮大な物語が怒涛のように展開していく。
登場人物たちのなんと魅力的なことか。主役から脇役にいたるまで、血肉あふれんばかりの人間そのものだ。人物の造型・彫琢は大胆にして細密。
それぞれの性格は多様性に満ち溢れ、一面的な解釈をあざ笑うかのように、つぎつぎと読者の先入観・固定観念を打ち砕いていく。全体の構成から人物の造型すべてにポリフォニー(多声)性が貫徹して、複眼で微細を確かめつつ、俯瞰で全体を見透す目配りが行き届き人間存在の不可思議を徹底的に掘り下げつくす。
一人一人が自在に吐き出すことばが多様性に富み、それぞれが反応しあい、響きあい、全体のポリフォニ-(多声)性を形成していく大交響曲そのものだ。
思想・思弁小説にして、宗教小説、恋愛小説でもあり大ミステリ-小説でもある。固唾をのみながら読み進めるなかで味わう混沌とした気分はいつしか浄化されたものに変貌している。
進路を失って、迷走をはじめた21世紀現代社会の混迷を待っていたかのように、「カラマーゾフの兄弟」は復活した。

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■2008.3.18  「暴動」ではない。チベット民族の抗議行動と漢民族との相容れない相克
○前々回のこの欄でビョークのコンサートでのチベット独立シュプレヒコールについて書いてから、ほどなくチベットで抗議行動が起こった。日本のマスコミ、新聞、テレビなどの多くがこのチベット抗議行動をチベット暴動、ラサ暴動と称していることはことの本質を伝えない恐れがある。テレビニュースなどに流されている映像などはほとんど国営の中央電視台CCTVが意図的な編集を施した海外向けの映像であり、治安軍などが発砲している映像はオミットされている。群衆が乱暴狼藉をしているかのような印象を助長する映像が多い。検閲された映像はイラク戦争でも垂れ流され、この戦争の実態が曖昧にされてきたのは今や明らかである。(戦闘場面のない奇妙な戦闘映像の連続!)同じ過ちを日本のマスコミはすべきではない。これらの映像の性格をきちんとコメントすべきである。
暴動という言葉には無秩序の破壊・無法者の乱暴狼藉という意味合いが濃いが、今回のチベットを初めとする青海省、甘粛省、四川省など旧チベット地区でチベット族が多く居住する地域での抗議運動はあくまでチベット族が漢族に対して起こした抵抗運動としてとらえなくてはならないと思う。この点を早速指摘した藤原新也の着眼は的を射ている。ざっとみたところでは読売、毎日は暴動と称し、朝日、日経は騒乱、サンケイは両方使っているようだ。
長年歴史的に蓄積されてきたチベット族の民族的鬱屈が噴出しているのである。ラサなどは実質的人口は漢族が過半数をこえるまでに増加して、経済的果実は多く漢族の人びとにもたらされている。遊牧・農耕の民、チベット族と定住型農耕民族にして現代中国の主流の経済を握る漢族の力関係は圧倒的に差があり、その差は定住の論理と非定住の論理の相克の結果であり、地球規模で定住型文化が非定住型文化を駆逐している一環であることを考えると、現代史はまたもや無慈悲な残酷なページを記しているのだろうか。今後の展開をみつめたい。

歌手、山崎ハコのこと

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■2008.3.14  歌手、山崎ハコのこと
○何となく気になる存在の歌手に山崎ハコがいる。特に彼女の歌を集中的に聞いたことはなかったが、1970年代の半ばにデビューしたころには、はかなげで、弱弱しい風情と情感あふれる声質が印象的な歌手だった。中島みゆきなどがメジャーになっていく時代にひっそりと歌をうたう彼女のような存在も貴重だと思っていた。その後も五木寛之のラジオ番組などに出演してるのを偶然聞いたりして、ああ、それなりにやっているんだなと思っていた。よく言われるように暗い唄うたいの代表みたいにいわれたようだが、それはそれで個性だからいいのではないかと彼女を支持したい気持ちもどこかにあった。
今年の2月に「大竹まことのゴールデンラジオ」(文化放送)を聞いていたら、山崎ハコがゲスト出演していた。大竹との対談もなかなか良かったが、そこで流れた新作シングル「BEETLE」はおっと思わせるものだった。彼女をまとめて聞いてみたくなり、3枚ほどベストものを取り寄せ、このところ聞いている。「望郷」「白い花」などハコ節とでもいうべき数々のうたから1970年代以降の日本の姿が浮かんでくる。それは晴れがましい世界ではなく、ごく狭い、些細な日常における人間の感情の表出だ。なによりも歌わずにはいられないという切迫感が鮮明だ。過剰な装飾もなく、派手な演出もない。見方によれば、不細工、不器用なほど生硬でいて、どこか清浄なものが聞こえてくる独自な世界をもっている。こうした一貫した姿勢で30年歌ってきた山崎ハコがとても貴重な存在に思えてきた。そういえば、浅川マキはどうしているだろう。気になってきた。

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■2008.3.06  ビョーク、上海コンサートで「チベット独立」を叫ぶ
○6日付けの朝日新聞の国際面囲みで、2日に上海で開いたコンサートで「ディクレア・インディペンデンス」の最後に「チベット独立!」と叫んだという記事が掲載されている。中国のアキレス腱ともいえるチベット問題を中心地・上海で突きつけたわけで、中国当局は苦虫をかみつぶしていることだろう。観客の反応は載ってないが、おそらく本音の部分では喝采をするものから、不快感をもったものまで様々だったと思われる。北京オリンピックなどという一時的なイベントを迎える中国の思惑をはるかにこえて、少数民族問題を提起したビョークの行為は中国のわかもののこころにどの程度届いたのか。そして、コソボを連呼された日本のわかものにはどのように届いたのか。ビョークはいろんな意味でおもしろく、気になる存在である。
○1990年代に中国の辺境地域を巡った経験からいえば、環境・人権・自由などのすべての中国的矛盾は領土が広大すぎ、人口が多い(13-4億!)ところから起きている。共産党独裁で指令を地方末端までいきわたらない不徹底。だからといって民主主義国家になったら、地方地方で勝手にやりだして、その時点で国家は空中分解するのは明白だ。ゆるくも、きつくも統治するには中国は規模が大きすぎるのだ。その有効な解決策の一つはチベットとウィグルを自治区として「解放」することだろうと思う。チベットに行ってみて、漢民族の支配・浸透が広く、深く進んでいるのに暗澹たる気持ちになり、チベットの人の心中を思った。インドに生まれた仏教が本家インドでは衰退したが、チベットと日本列島において踏みとどまり、それぞれ文化的独自性をはぐくんだという意味でも対岸視し得ない地域だ。

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■2008.3.01  ビョークからコソボとマケドニアのロマを思う>
○昨日の朝日新聞(夕)のステージ評にビョークのコンサートの批評が載っていた。見出しは「最後に異様な高揚感」。エンディングに歌われた「ディクレア・インディペンデンス」は強烈なパフォーマンスだったという。「独立を宣言せよ」とシュプレヒコールを繰り返し、「コソボ、コソボ」と連呼したという。評者の高橋健太郎氏は忘れ得ぬ体験だったと記している。
ビョークの際立つ才能、特異な存在感は映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見てから肝に銘じていた。私には、変幻自在、万華鏡のような彼女の音楽を評する能力はないが、その強烈な訴求力からしてただならぬ音楽家・アーチストであることは分かる。「ディクレア・インディペンデンス」をメッセージソングとくくっていいのかはわからない。優れたメッセージソングとはなにも政治社会状況を取り上げて告発するだけでなく、花鳥風月をテーマにしても切り込み方や表現次第で十分物事の本質をつかみとる力をもつものだ。テーマではなく、何をどのように深く、表現し得たかということだろう。
しかしながらビョークのうたにはそうした問いを無意味にしてしまうほどの切迫感・緊迫感が漂う。彼女の奥深い内部からほとばしり出てくる気配が濃厚だ。ビョークがコソボにそれほどの関心を示したことには関心はあるが、事情に疎い私には分からない。コンサートで圧倒的比率を構成した日本の若者がコソボのことをどれほど認識していたかは分からないが、おそらくは非常にあやふやなものだろう。それが今の日本の鏡そのものだから。
1991年のユーゴスラビア解体からボスニア・ヘウツェゴビナやコソボなどに深刻な民族間の抗争が起きて現在にいたるまで火種は消えていない。セルビアの一部ながらも大多数のアルバニア人が住むコソボ自治州の独立をめぐり、紛争が続いていたが、2月18日に一方的に独立を宣言した。EUにとってはバルカン半島は無視しえぬ近隣地域であり、ロシアも含めて利害が複雑に絡み合う。コソボの人口の約9割はアルバニア人だが、セルビア人にとってコソボはセルビア王国の発祥の地であり、コソボの分離独立は許しがたい。背後のロシアもチェチェンやオセチアなどに自国の民族問題を抱えており、なにより影響・波及を恐れている。中国(ウィグル、チベット)、スペイン(バスク)然り。コソボの問題はイスラエルとパレスチナの関係を思わせるものがある。これは解けない難問だ。
2006年夏にマケドニアのスコピエにある世界最大のロマ集落地シュト・オリザリを訪ねた際にも隣国セルビアの自治州コソボからの難民の流入は続いていた。2001年のコソボ紛争の際にはシュト・オリザリのロマもマケドニア軍に徴用されて、従軍している。この後、ようやくロマはマケドニアで正式に民族として認められたのである。
コソボ危機を通じてコソボから1万人を越えるロマがシュト・オリザリに流入しているという。もちろんアルバニア人も流入している。ちなみにシュト・オリザリの人口4万2千人の80%がロマで、アルバニア人は12%程度だが、民族間の関係は微妙なバランスにたっている。シュト・オリザリのロマの人びとにとってはマケドニア人は行政上の支配民族であり、アルバニア人はマケドニアでは少数民族に属している。しかしシュト・オリザリのメインストリートの多くの商店の雇用主はアルバニア人であり、ロマは雇用される立場だ。どちらも支配的な立場にたつが、ロマはマケドニア人よりもアルバニア人に対して親和的だという。アルバニア人の経営者は保険や年金などの支払いがマケドニア人よりもきちんとしているというのだ。いずれにしてもロマはセルビア、マケドニアにおいて重層的に支配される側の存在である。
民族紛争を見つめる視点の定め方に応じて様々な主張が起きる。その対立はいつ果てるとも尽きない。こうした民族が抱える宗教・歴史に絡むアイデンティティの対立は底なし沼に入りがちである。こうしたときにはロマの人びとの自由さを思うと気が楽になる。あえて定着する土地に固執せず、宗教にも固執せず、コーランや聖書のような歴史的大叙述などは編纂しない。せいぜい地域に伝わるささやかな伝承くらい。彼らの非定着・不定形な生き方から見えてくるもののなんと貴重なことか。

怒族のキリスト教会賛美歌と掛け合い歌

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■2008.2.11  怒族のキリスト教会賛美歌と掛け合い歌<怒江情歌>(中国雲南省西北最深部)のビデオ・レポをアップ
○録音器と同時にカメラもデジタルHDビデオカメラ(HVR-A1J))に変更した。
解説はオーディオレポから転用。ビデオ・レポへ

怒族のキリスト教会賛美歌と掛け合い歌

■2008.2.04  怒族のキリスト教会賛美歌と掛け合い歌<怒江情歌>(雲南省西北最深部)のオーディオ・レポをアップ
○昨年末から取材してきた怒族の賛美歌と掛け合い歌の録音をアップした。
解説は市橋雄二氏。今回からは録音器をPCM-D1にした。2001年以来、録音機材はソニーのDAT(TCD-D100))を使用してきたが、今回からさらに充実した機能をそなえた新機種にした。当HPの音は圧縮したものである。オーディオ・レポへ

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■2008.1.29  映画「ジプシー・キャラバン」と「クロッシング・ザ・ブリッジ」をみて
映画「ジプシー・キャラバン」はルーマニア、マケドニア、スペイン、インド、4カ国のジプシー音楽グループが6週間にわたり北米諸都市を巡るライブ・ツァーのドキュメンタリーである。
出演者は5グループ。ルーマニアのタラフ・ドゥ・ハイドゥークスはツィンバロムを中心に、バイオリン、ネイ(笛)、アコーディオン、ダブルベースなどが加わる弦楽器編成で、バンドの象徴的存在であった最長老ニコラエ・ネアクシュは映画編集中に死去した。ルーマニアからのもう一つのグループはブラスバンド、ファンファーラ・チョクルリーア。スペインからはフラメンコ・ダンサーのアントニオ・エル・ピパ。マケドニアからはジプシー・クィーンの異名をもつ大歌手エスマ。インドからは今やヨーロッパなどでの公演で活躍しているラージャスターン州出身のグループ、マハラジャ。ドーラク、ハルモニウム、サーランギそしてヴォーカルとダンサーという典型的編成だ。
いずれも国際的に活躍しているジプシー(ロマ)のミュージシャンである。タラフ・ドゥ・ハイドゥークスは何度も日本公演を行っているし、エスマも2001年に来日して、強烈な印象を残している。
この映画の面白さは彼らそれぞれのオリジナリティある音楽を楽しむことはもちろんだが、彼ら同士が互いに感じる違和感・異質性を描写する場面だ。特にツァーの初期のシーンは興味深い。同じジプシーという出自を持ちながら異なった風土に育まれた彼らはそれぞれの音楽の違いに戸惑い、違和感を実感する。せっかく、ビッグなグループが共演するのだから、ジョイントするシーンを演出したいプロデューサーが仕組んでも強烈過ぎる個性集団は一つに同化できないのである。エスマの歌にはスペインのグループは乗れないし、ルーマニアのグループはたちすくんでいるだけだ。こうした描写は監督の意図を越えて、ジプシーミュージックの多彩さ・豊富さを物語るものとして興味深い。
さらにツァーの描写の合間に、それぞれの出身地を訪ね、出演者の育った風土と人びとをとりあげている。ここはやや月並みな描写ではあるが、ジプシーミュージックが育った背景を語るには重要なシーンである。マケドニア、スコピエのジプシー集落シュト・オリザリにおけるエスマの社会的奉仕活動、スペイン、アンダルシア地方でのアントニオ・エル・ピパの教室風景、ニコラエ・ネアクシュが故郷の村でのびのびと話す様子は心地よいシーンである。
6週間の長いツァーを経るなかで、徐々に彼らがお互いの同質性と異質性を冷静に認識し始め、それぞれに敬意を払うようになってくる。人間的には皆、解放的でざっくばらんな彼らが、同じジプシー(ロマ)でもいろいろ存在するのだということを、改めて確認する。これらのことを暗示する数々のシーンが丹念に挿入されている。
ただ、彼らの音楽を楽しもうとする人にとっては、少々欲求不満が残るかもしれない。せめて各グループの1曲くらいはキチンと聞きたい。ほとんどの曲が中途半端でカット変わりして飛んでしまうのが、わずらわしいし、疲れる。監督の製作意図は音楽自体よりジプシー(ロマ)の内包する多くの問題を盛り込もうとしたのだろうが、意欲倒れの感がある。
だが、これだけ豪華な出演メンバーのツァーのドキュメンタリーを企画し、長期にわたり撮影したことには敬意あるのみ。彼らの音楽に接することができたことは至福の時間であった。監督はジャスミン・デラル。
「クロッシング・ザ・ブリッジ~サウンド・オブ・イスタンブール~」は題名の通り、東西文明の十字路イスタンブールに息づく多彩な音楽シーンのドキュメンタリーである。監督はファティ・アキン。「愛より強く」でベルリン国際映画祭・金熊賞を受賞し、今、油が乗っているドイツを代表する俊英監督で、自身もドイツ生まれのトルコ系2世。
「愛より強く」で音楽制作を担当したドイツの前衛バンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのギタリスト/ベーシスト、アレクサンダー・ハッケが自ら録音機材を携えてイスタンブールの実に多種多様な音楽家たちを訪ね、時には自らもセッションに参加しながら録音の旅を続けていく。出演するミュージシャンたちのジャンルには驚くべき多彩さ、広さがあり、東西文化が複雑に混在するイスタンブールの独特な魅力さをあらわしている。オルタナティヴロックからヒップポップ、スーフィー風、路上のミュージシャン、ハルク(民謡)、ジプシー音楽、クルド音楽、アラベスク(演歌)、ポップスなどなど驚きの世界だ。
どのミュージシャンも、個性的で魅力的だが、印象に残ったものは、1.エルキン・トライ:トルコ語のロックの先駆者、トルコ音楽を電子楽器で演奏した最初のミュージシャンの1人。異端者であり、新ジャンルの先駆者として、若者からも崇拝されている。2.セゼン・アクス:トルコポップスの女王。「イスタンブールの声」と呼ばれ、階層や世代を越えた国民的歌手。遥か昔のイスタンブールをテーマにした名曲「イスタンブールの思い出」を歌うが、言葉に込められた感情の深さが滲み出してくる絶唱である。3.オルハン・ゲンジュバイ:トルコ最高のスター、映画俳優でもあり、トルコの演歌であるアラベスクのビッグスター。また、サズというリュート属の弦楽器の名手。ライブをしない主義の彼が映画のためにサズを奏する。
その他10グループ(人)を越える個性的な音楽家が出てくる。その中にはクルド民族出身の歌手アイヌールも出てくる。この方面の音楽に関心のあるものには見逃せない貴重な情報がぎっしり詰まった内容だ。全体はアレクサンダー・ハッケの視点で統一されており、映画としての完成度も高い。

中国雲南省西北最深部

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■2008.1.17  ギャラリー更新:中国雲南省西北最深部・怒(ヌー)江地域への旅/番外篇雲南の料理アラカルト(2007-8)
○ギャラリーに中国雲南省西北最深部・怒(ヌー)江地域で撮った写真をアップ。ギャラリーへ

■2008.1.11  中国雲南省西北最深部・怒(ヌー)江地域への旅
○15年ぶりに中国雲南省を旅した。雲南省は25にも及ぶ少数民族が居住(中国全土では55の少数民族が公認されている)し、多彩な少数民族の文化を内包する中国南部の省であり、当時、たびたび訪れた地である。1991年から6年間にわたり、ビクターと中国民族音像出版社の日中合作で中国全土に居住している55少数民族の村を訪ねてその民族特有の音楽・踊り・習俗などを映像記録としてまとめる気の長い仕事をしたが、今回の雲南行はそれ以来の再訪である。
1990年代初期からの5-6年間、中国周縁部の辺境地域をほぼくまなく旅した時期は中国が北京・上海などの大都会を中心にしてすさまじい変貌を遂げていく初期の時期と一致する。特に都会の変化のスピードはめまぐるしいほど速く、1年ぶりに訪れると様相が変わっていることはよくある経験だった。
2000年以降も北京・上海などはたびたび訪れてその驚異的な変貌ぶりは目撃しているが、この変化が周縁辺境地域の経済はもとより多彩な少数民族の文化・習俗にどのような影響を及ぼしているのか、そして環境問題の実情はどうなのかについてはあまり詳細な報道はない。ただ、大都会地域と地方との経済格差はかなり深刻だという一般論が流布されている。
とにかく中国全土は日本の25倍の広大な面積を有し、漢民族が肥沃な国土のほとんどに居住し、少数民族はやせた土地、自然環境が苛酷な辺境地域に散在しているのである。道路事情は劣悪で、電気・水・住居など社会的インフラも遅れている。少なくとも私が1990年代に目にした状況は厳しいものだった。
しかしながら、日本の標準から見れば貧しい生活をしている少数民族の村々はある意味で豊かな生活だった。家族の結びつき、多彩な習慣・習俗、楽しい祭り・行事の数々、自然に帰依するやさしいまなざしなど人間が生きている実感がくっきり感じられ、生活の基本形がはっきり目に見えた。これらは何ものにも勝る人生の宝だとしみじみ思った。
15年ぶりの雲南への旅に向けての私の関心は、こうした辺境の地域がどのような変貌を遂げているのか、それとも旧態依然そのものなのか、民族固有のうたや踊りや習俗は変貌しているのかということだった。地球上を多い尽くすかのようなグローバルゼイション、画一化の大波、「地球温暖化」と「環境問題」の影は少数民族の村々に及んでいるか。これらのことを旅のなかで考えることによって今後の中国の姿、はては地球の未来像が浮かび上がってくるのではないか。
旅の同行者は市橋雄二氏(当HP同人)と唐大堤氏(アートディーラー)を含む6名である。市橋氏は当時のスタッフでプロデューサー、唐大堤氏も中国取材当時のスタッフですべての取材のコーディネーションを担当し全行程を踏破した経験を有する。2名の強力なサポートがあってはじめて可能になった今回の取材である。
取材地に怒(ヌー)江地域の踏破を選択したのは、全取材地のなかでも強烈な印象を残し、半ば挫折した経験がある地域で、それだけ思い入れが深かったということだろう。当時、最深部までの道路事情は最悪で、道なき道を行くという行程の厳しさに戸惑いながらも、狭い山道から遥か見下ろす怒(ヌー)江の息を呑むような絶景に何度息を呑んだことだろう。奥地に住むというトールン族に出会えるのか、さまざまな不安、期待を抱えての当時の旅だった。
それから15年が過ぎたが、道路事情はどう変化したのか。唐さんがいろいろ現地に問い合わせてみたが、少しは良くなっているらしい。確かな情報はないままの出発となった。
ハードスケジュールの旅中には実に様々なことが起こった。未だ頭の中は整理し切れていない。取材した内容を検証していくなかで、何かが見えてくればと思う。追々、HP上のギャラリー・紀行・ビデオ・オーディオ(できればDVD化も)に逐次アップしていくべく準備中である。また、今回は雲南の最南端シーサンパンナ州の景洪(チンホン)周辺も歩いたのでその情報も加えていく。

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■2007.12.19  トニー・レオン讃 ~映画「ラスト,コーション」
○名匠アン・リー監督の最新作「ラスト,コーション」は中国現代史のなかでも「政府が裏切り者とみなされていた、歴史の穴とも言える空っぽな時代」(アン・リー)を生きた二人の男女のものがたりである。
日中戦争の最中、重慶の蒋介石国民党政府の内部対立者、副主席汪精衛を日本が擁立して汪政権が成立し、重慶政府は汪精衛を裏切り者として、上海に秘密テロ工作機関を送り込んだ。トニー・レオンが傀儡政権特務機関の顔役イー。イーの暗殺を狙う女スパイ役ワン・チアチーに新人タン・ウェイが起用されている。
物語は当時の国際都市上海と香港を舞台に流麗な運びで進行する。2人の禁断の愛が映像表現上かなりリアルに表現されるが、時代背景の切迫感・焦燥感が丁寧に描かれているので、より説得力、迫真性が強い。
私は158分のやや長い物語をオペラに身を委ねる如く堪能したが、なんといってもトニー・レオンの俳優としての力量に魅了された。
今、世界中の映画界を見渡しても彼ほどの俳優はいないと思えるほどだ。ウォン・カーウァイの「欲望の翼」「恋する惑星」「ブエノスアイレス」「花様年華」、ホウ・シャオシェンの「悲情都市」、そして「インファナル・アフェアー」等々、まばゆいばかりの俳優経歴。
彼の場合は、演技のうまさなど俳優術もさることながら、彼がかもし出す甘美で憂愁な雰囲気、陰影ある人物造形などは天賦のものだろう。これほどの陰影感がありながら、花がある男優はアジア人のなかでは「雨月物語」(溝口健二)「乱れる」(成瀬巳喜男)などの森雅之以外に思い浮かばない。
アン・リー監督は2005年の「ブロークバック・マウンテン」に引き続き2007年にも「ラスト,コーション」で2度目のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したことからも彼の存在感の重さが伝わる。尚ラスト,コーションLust CautionのLustは仏教用語の"欲情"を、Cautionは"戒め"を意味するらしい。公開は2008年2月2日シャンテ・シネ、Bunkamuraル・シネマほか。なお原作はアイリーン・チャン短編集 ラスト、コーション 色|戒 集英社文庫


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 ■2007.11.23  沖縄と中国少数民族の魂:佐藤優『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読んで
○佐藤優の『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)の文庫本が出たので読んだ。彼の作品で最初に読んだものは『獄中記』(岩波書店)だが、すべての面で第1級の記録文学だと思った。512日間の独房生活での読書と思索の日々の丹念な記録であるが、その記録性、客観性、分析力、説得力、論理のダイナミズムそして筆力の確かさなどに引き付けられて一気に読み終えた。なによりも読み物として面白かった。
佐藤優は一審判決で執行猶予中の起訴休職外務事務官でもあるが、今や論壇の寵児の感がある。私はこの3年間、佐藤のものすごい表現エネルギーがどこからくるのか謎であったが、今回『国家の罠』を読んで、初めて分かったことがあった。
それは彼が文庫本の長いあとがきのなかで「人間の生命は一つであるが、魂は複数ある」と記述した部分であった。鈴木宗男バッシングの嵐のなかでの逮捕、獄中生活、その後の様々な場面で、かつての盟友たちが態度を豹変し、検察側に迎合し、佐藤の犯罪を立証する側に協力をしていった苛酷な体験を経る。しかし佐藤はこうした人々に対してまったく腹が立たなかったこと、バッシング報道を垂れ流す新聞、雑誌の記者に対してもそうだったことを述べている。看守や友人たちから、なぜそれほど冷静でいられるのかを問われて、怒りは判断力を狂わせるからという計算があったことを認めながらも、それだけではない「何か」を求めて自省する中から「人間の生命は一つであるが、魂は複数ある」という自己認識にいたるのである。周辺の人々の変節も彼らの内部の別の魂が働いた結果と考えるのだ。
彼はそれを自己のなかにある沖縄性が密接に関係しているという。沖縄には独特の人間観があり、一人の人間には魂が複数あり、それぞれの魂が個性をもっており、それぞれの生命を持つ。一人の人間は複数の魂に従って、いくつもの人生を送れる。複数の魂によって多元性が保障されているのだ。沖縄のユタ(霊媒師:在野の女性のシャーマン)は、人間の魂は六つあるといい、自分の実感にも合致するという。彼の母親は沖縄の久米島出身で戦時中の苛烈な体験を持つようだ。佐藤優の体の中にはウチナーンチュ(沖縄人/琉球人)の血が流れているのだ。
 そして佐藤は自らを省みて、己の魂をナショナリストとしての魂、知識人としての魂、キリスト教徒としての魂があるという。インテリジェンス(特殊情報活動)という国益上の仕事に従事するときはナショナリストとしての魂が活動し、モスクワや東京で大学の教鞭をとり、哲学書や神学書に向かうときは知識人としての魂が機能し、人生の岐路に立ったときはその選択をキリスト教徒としての魂を基準に行う。
これらの魂の複数性を認識した瞬間から佐藤優は「猛烈に書きたい」意欲が生まれたという。表現エネルギーの噴出だった。
○彼の中の沖縄性を考えると、私にも納得できることが多い。かつてほぼ5年間にわたり中国の少数民族の民間芸能を取材した際、多くの少数民族の信仰は、生物、無機物を問わず、すべてのものに霊魂が存在するというアニミズム(精霊信仰)であり、シャーマンが村落共同体の中で一定の力を保持していたという事実を確認している。これら少数民族の霊魂、魂が複数存在するという精霊信仰は沖縄のユタの信仰、人間観と近縁性があり、強く繋がっていると思えてならない。沖縄、中国少数民族の世界には、それぞれの土地や人びとの真理に根ざした魂を認める寛容さ、多元性がうかがわれ、現代社会に見られる息苦しさ、閉塞感がないという共通性がある。
雲南地方の北西部のヌー江沿いに奥深くさかのぼると、2000mを越える山岳斜面にへばりつくようにヌー族の村が点在する。1993年私が訪ねた村は戸数200弱、人口1000人足らずの村だったが、80パーセントがキリスト教を信仰していた。高地の村にも19世紀末に宣教師が入った結果だ。丸太で作った素朴な教会でヌー族の人々が、独特の伝統の地声発声で歌う賛美歌は民族固有の民間芸能を求めて訪ねた我々には複雑な感動を呼ぶものだった。キリスト文明と民族始原の音感覚との奇妙だが、魅力ある融合があった。そして、驚くべきことにはこの村にはシャーマンも存在したのである。シャーマンは実際に病気治療の儀式も行っていた。キリスト教とシャーマンの共生という不思議な現象に、私ははじめ戸惑いを感じたが、両者が小さな村に存在し、互いを侵食しないゆるやかな関係が働いていたように思う。正に人間に複数の魂を許容するおおらかさが存在していたということだろう。
世の中はあるゆるものを、あらゆることを一つに統一しようとするグローバライゼーチョンの波に巻き込まれようとしている。
佐藤優の厳密、俊敏な文章の運びのなかに息苦しさを感じることなく、安らぎさえ感じるのは人間の多元性、多様性を許容するおおらかさ、寛容さが全体に通底しているからだろう。
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   ○年末から2008年初頭にかけて15年ぶりに雲南省北西部のヌー江沿いの少数民族の村を訪ねるべく、準備中である。かつてはたどり着くまでに悪路、泥道の連続で悪戦苦闘をしたが、その後、この近辺はどのような変貌をとげているだろうか。あの教会はどうなっているのか。取材がうまくいけば、映像・音によるレポートができるかもしれない。
≪写真説明:(左)キリスト教会で賛美歌を歌うヌー族の人々 (中)山の中腹に立つ教会 (右)病気治療の儀式をするシャーマンの男性<左端>と病人の男性<青い服>、右は助手の男。いずれも雲南省ヌー江リス族自治州福貢県匹河郷・ラムトゥン村。1993.6.6 撮影 市川≫

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■2007.11.09  人間の業を引受ける潔さ:映画「サラエボの花」から
○ボスニア・ヘルツェゴヴィナの映画「サラエボの花」は一見の映画である。1992年、旧ユーゴスラヴィアが解体していくなかで勃発したボスニア内戦は、死者20万人、難民など200万人の多大の犠牲の上に1995年に一応の決着をみた。この近年の最悪の紛争はバルカン半島の複雑に絡み合った民族と宗教が背景にあり、我々にはなかなか理解しにくい地域である。ちなみにボスニア・ヘルツェゴヴィナを構成する民族はムスリム人(イスラム教徒44%)セルビア人(セルビア正教徒31%)クロアチア人(カトリック教徒17%)。1992年に旧ユーゴからの独立を問う住民投票を契機に3民族の利害が対立して紛争が勃発した。
昨年夏に旧ユーゴの一つマケドニアでジプシー<ロマ>の集落、シュト・オリザリに滞在した。そこで私はまだこの紛争が現実に日常生活に影響を及ぼしていることを経験した。ボスニア内戦が収まってからもセルビアのコソボ地区からロマの難民がシュト・オリザリにも流入して様々な問題を起こしている。旧ユーゴ地域の状況を知るためにもこの映画は見たかったものである。
舞台はボスニアのサラエボの一地区グルバヴィッツァッであり、ここは戦争中はセルビア人勢力に制圧されていた地域である。映画のテーマはこの時期に起こった深刻な事実が12年経過した現在でも人びとの生活のヒダまでも影響していることを描いている。シングル・マザーのエスマとその娘サラが軸になりそれらを取り巻く人びと、こどもたちにも視点は及ぶ。未だ貧困から抜けだせない市民が必死に職を求め、生きる日常生活を丁寧に描きながらも、それらの表情は深く重い影を湛えている。俳優陣が実にいい。演技を越えた自然さがあり、それだけに説得力を増す。当時の苛酷な体験を一切描かずに、現在の日常生活を描きながら、過去の深刻な事実を想起させていく手法は見事なものだ。通常は、フラッシュ・バックなどで挿入するのだが、一切そうした気のきいたテクニックは使わず、さりげない伏線をちりばめてある。ボスニアの町の冬の寒々しい光景が身に沁みるほどだ。カメラマンの力量もただならぬものである。
また各シーンで重要な役割を担う音楽の使い方も効果的であり、画面にふくよかさを醸成する。
ラスト近くにはエスマが体験した苛酷な事実とこの母娘の背負った宿命が一挙に明らかになり、その重さにたじろぐ思いだが、この監督の視野は広く、深いのだ。人間の業を引受ける潔さがまぶしい。監督が女性だから生み出せた映画だろう。ヤスミラ・ジュバニッチ監督、33歳、長編第一作。2006年ベルリン映画祭金熊賞他多数の映画賞を受けたが、末恐ろしい才能の出現だ。12月1日から岩波ホールで公開。

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■2007.10.31  クルド民族問題とジプシー<ロマ>の存在から現実世界の冷厳な様相を垣間見る
○このところトルコとクルド人との関係がきな臭い。イラク北部のクルド系武装組織「クルド労働者党」(PKK)とトルコ軍とのあいだで戦闘状態にあるようだ。PKKの解体を目指すトルコが、イラク北部への本格的な越境攻撃の可能性をちらつかせ、国境地帯の緊張が高まっている。トルコは米国やイラクにPKK掃討を迫る外交圧力を強める一方、国境付近への軍部隊増強とPKK拠点への攻撃を続けている。
国家を持たない最大の民族クルド人2~3千万人はトルコ、イラン、イラク、シリア、アルメニアなどにそれぞれ少数民族として分散している。イラクにもともと居住してきたクルド人たちは、イラク戦争でアメリカがフセインを倒したのを機会に、北部に自治区を樹立した。この地区の近くにはイラクで最大級のキルクーク油田もあり、各国にとっても重要な戦略的地域でもある。トルコ軍とPKKとの戦闘は中東地域と欧米,ロシアの思惑が複雑に絡み合い新たな火種になる危険性が強い。
一方、トルコ国内に少数民族として苦難の生活を強いられている1000万を越えるクルド民族がPKKに共鳴し、イラク国内のクルド人と同じようにトルコ政府にも自治を求める動きが急進化し、またトルコとPKKとの戦闘に参加するようになってきた。(これらについての状況・情報は日々変化している)
○私がクルド民族のことを意識するようになった契機は1980年初頭にトルコ在住のクルド人監督ユルマズ・ギュネイの映画「路」そして「群れ」を見たことだった。「路」は衝撃的だった。ストーリーはトルコ(1980年当時)の数人のクルド人政治犯が仮釈放で故郷に数日間帰省する様をオムニバス風に綴ったものだったが、それぞれのストーリーが限りなく重く、不条理に満ちており、独特の風習などの映像表現加わり鮮烈な印象だった。そこにはクルド民族の歴史、男女の生き方、世界観の違い、因習と伝統が織り成す人間模様が叙事詩のように繰り広げられていた。
この「路」は1982年のカンヌ映画祭でグランプリと国際批評家大賞同時受賞したのだが、ギュネイ自身が監獄から指揮したり、亡命先のフランスで編集をするなどの話題も重なりクルド問題の存在を日本人に認識させた意味でも意味ある作品だった。
例えば、一つの話。入獄中に不義を働いた妻は実家に戻され8ヶ月鎖につながれている。民族の掟で、家名を汚した妻を自ら殺さなければならない男。なお妻を愛する男は不条理な思いを背負いながらも彼女を極寒の雪山越えに連れ出すが、衰弱している妻は凍死してしまう。別の話。兄を亡くしゲリラになることを決意した弟には、心を寄せる美しい娘がいるが、クルドの慣習では兄が死に独身の弟がいる場合は、弟は兄嫁と結婚しなければならない。ゲリラとなりクルドの自由の為に戦おうとする弟はそうした因習を拒否できない。等々。
これらの不条理ながらも民族独自の伝統を強く意識せざるを得ない彼らの状況が痛いほど納得できた。国家を持つことを許されないクルド民族の存在理由・存在価値を追及してゆけば、必然的に民族固有で、苦難を経てきた先祖が保持してきた風習によりどころを求めてしまう不条理な世界に生きざるを得ないのだ。
そして、2007年のクルド民族も状況は変わっていない。ようやくできたイラク北部のクルド自治区もトルコ軍が越境してくれば、つかの間の安寧は破られるのである。
○クルドの民族求心性とジプシー(ロマ)の無定形な拡散性・・・・民族という存在は己の歴史伝統に誇りをもたなければ生きていけない。クルド民族も同様で、自分たちの国家を要求して戦いをやめることは当分ない。この感情はどうしようもなく強く、抑圧されればされるだけ、強固になっていくものだ。しかしながら冷厳な既成の国家秩序を保持することが何よりも優先する欧米露・イスラム国家などはクルド民族の自決への動きが自国に跳ね返るのを警戒する。国際政治の現実の壁は厚い。私はため息とともに彼らの心情に寄り添うしかできないのでである。
そんな袋小路に入ったように思われる地球上の諸課題に押しつぶされるような思いでいるとき、私の思いは一気にジプシー(ロマ)の人びとの生き方に向かうのである。各国に点在するように存在するジプシー(ロマ)の人々はせいぜい集落を形成する程度で、それ以上の共同体・組織ましてや国家などを樹立しようなどとは思わない。行く先々で複雑な蔑視を含んだ視線を受けながら、イスラム教徒にもキリスト教徒にもなり、土地伝来のうた・踊りに順応しながらも、それらを変容させていくしたたかさ。ノーテンキとも思える自由さ、束縛嫌い(賃金労働を嫌悪!)、独自の清濁感、歴史への無関心、文字を持たないそして何よりも表現世界に発揮する天分など・・。
彼らは少なくとも戦争やジェノサイドには加担してこなかった稀有の存在である。これらの罪から逃れられる国家・民族のどれだけ少ないことよ。
地球上の国家群は様々な地に定着して、そこに文明を発達させてきたのだが、その営々と積み重ねてきた文明の功罪、その行き着いた現在の何と問題多きことよ。我われは己の価値観を一度投げ捨て、まっさらな気分ですべてを問い直す必要があるのではないか。

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土浦の花火大会を見ての感想・連想

■2007.10.11  土浦の花火大会を見ての感想・連想。    
hanabi2007.jpg ○日本三大花火大会といえば、新潟県の長岡、秋田県の大曲そして茨城県の土浦というのが定説だ。たまたま土浦で生まれた私は小さいときから毎年のように見てきたが、それほど有名なものとは知らずにいた。大学に入って東京に移ってからは花火見物とは遠ざかっていたが、たまに電車から両国の花火などを見ても、身びいきもあり土浦の花火に比べると大分見劣りするななどと勝手に思っていたのである。
最近、5-6年は友人などを案内しがてら土浦の花火を見る機会が多くなってきたが、やはり良いものは良い。
開催日は毎年、10月の第1土曜日という設定で、日本国中で一番遅い時期に開催されるが、各地から屈指の花火煙火業者 が集い、技を競うプロフェッショナルの晴れの舞台でもある。土浦花火の花形・呼び物はスターマインという速射・連射の部門だ。大小の花火をいくつも組み合わせて一度に連射して、そのなかで一つのテーマを描きあげる。最近では音楽にのせて打ち上げるものがほとんどになった。スターマインはふた昔までは、裏打ちと呼ばれ広告仕掛け花火の添え物で打たれていたものだという。それが昭和34年、土浦全国花火大会競技大会が初めて速射・連射の部門を設けたのがスターマインが表舞台に登場した契機らしい。
今年は10月6日に行われ、80万人を超す人出でにぎわった。スピード感、リズム感、豪華絢爛、変幻自在・・。色彩とドンという花火音そしてテーマ音楽の融合・炸裂の連鎖にしばし酔い堪能した。翌日の新聞によると、山梨の煙火業者が優勝だった。
○この花火大会は筑波山のほうから流れてきて霞ヶ浦に流れ込む桜川の畔で行われる。昔は川幅も狭く、戦前は水害に悩まされて、川幅を広げてからでも3-40年は経つだろう。まだ川幅も狭く、霞ヶ浦にもワカサギ漁の雄大な帆をかけた舟(帆引き舟)が何百艘も見られた。筑波山を背にした帆引き舟の光景は私の日常風景であり、桜川は泳いだり、フナを釣る遊び場だった。
華やかな花火を眺めながら、過ぎ去った少年時代の桜川を思い返していると、なぜか当時、川辺にいた何艘もの水上生活者・船上生活者たちの姿、光景が陽炎のように浮かんできた。彼らの存在はずいぶん長い間私の脳裏から消えていたのだが、漂泊・放浪の芸能者そしてジプシー(ロマ)について考えるようになってから、様々な折に触れて、船上生活者の姿がよみがえってくることが多くなった。漂泊と人生についてこだわり続けてきたからか。この花火見物の夜も同様だった。
彼らの中には長期間河岸に滞留するものもおり、こどもたちは土浦の小学校に通学していたものもいたくらいだ。彼らがどのように生計を立てていたのか、今では知る由もないが、船上に干されていた洗濯物、懸命に働く母親たちの姿は忘れられない。水上生活者・船上生活者を描いた映画などは多くはないが、何といっても小栗康平監督の「泥の河」(原作・宮本輝)が有名だろう。河辺に住む少年と水上生活の少年の交流、水上船の中で春を鬻ぐ母親(加賀まりこ)など、いろいろなシーンが浮かぶ。また、つげ義春の「義男の青春」にものっていた記憶がある。(雑誌が見つからず未確認だが)
とにかく皆当時は貧しかったのだ。そのなかでも水上生活者・船上生活者を見つめる周囲の目は冷たかったように思う。流れ者、さすらいもの、油断のならないものとして蔑視の対象だったのはこども心にも伝わってきた。しかしながらいつの間にか彼らの姿も消えていき、ワカサギ漁の帆引き舟も消えていった。折りしも日本列島は高度成長への道を邁進し始める直前だった。

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ビデオレポート

■2007.9.25  西馬音内盆踊りと花輪ばやしのビデオクリップアップ○8月に取材した西馬音内盆踊りと鹿角ばやしのサンプルビデオを紀行コメントにアップ。

■2007.9.15  ちょっといい話・・・ギター門付けとある作曲家
○先日、ある集まりがあり、久しぶりに先輩S氏に会った時のことである。以前、彼から聞き、それ以来、長年、気になっていたあるエピソードのことを再度確認した。その後S氏がご母堂に改めて確認して知らせてくれた内容は以下のようなものだった。
昭和32年(1957年)の春。S氏が育った山形県藤島町(一昨年鶴岡市に併合)は人家の少ない田畑しかないところだったが、ある日、小さな女の子を連れた30代の男の門付け芸人が訪れてきた。彼らは門に立ち、ギターを巧みに弾いて歌ったという。何の曲だったかは憶えていないが、ギターも歌もそれまで聴いたことがないほど抜群の出来だった。彼はギターと歌の修行をしているようでオーラを感じるほどだったという。S氏の家も貧乏していたので多くは上げることは出来なかったので、ご母堂が取敢えず温かいおにぎりを与えると美味しいといって食べた。その後、その子にとS氏のお下がりのオーバーを勧めたが、それは辞退したという。
その後、数年してからテレビを観ているある日、ご母堂が歌番組(NHKだと思われる)で作曲家の遠藤氏を見つけて、あの門付けに来た人だと言ったという。S氏の家は戦後農地解放で田畑を失って苦労したが、米作地帯なので、母方や父方の実家から米をもらって食べることが出来たとのこと。庄内では禅僧の寒修行の托鉢、羽黒山山伏の勧進、門付け芸人に対して鷹揚なところがあったように思うとS氏はいう。
以上がS氏が再確認してくれた内容である。この話は芸能の本質を考える上で示唆に富んでいる。東北地方は、秋田万歳、会津万歳をはじめ多くの門付け芸能が盛んだった。江戸時代に東北地方をくまなく旅した菅江真澄の著作にも門付け芸人に遭遇した記述は多い。高橋竹山が津軽三味線修行時代には津軽などを門付けしていたことは有名である。
芸能の原点・根本はお金に換える芸能であり、中世以来、日本列島に跋扈してきた幾多の門付け芸能者が現在のもろもろの芸能の先駆者であることは間違いない。生きるための生業としてのうたや踊りなどの芸能が人々の心に響くことはジプシーの芸能を考えるまでもなく、日本の唄の世界でも全く同様である。
私は歌謡曲の中の演歌というものを、演歌だから特に好んで聞くということはない。美空ひばりやちあきなおみは歌手・表現者として稀代の存在だと思うが、うたにはジャンルに関係なく<いいうた>と<つまらないうた>があるだけだと思っている。S氏の話を聞いて、私が以前から気になっていたことが分かったような気がした。
遠藤実の作品「星影のワルツ」や「北国の春」などのメロディラインには、通俗性を突きつめた普遍性を獲得しているような気がしていたが、その理由の一端が遠藤実の門付けにあったのだ。これらの曲には庶民の基層の感情を掬い取る力があり、そこが凡百の演歌を超えている。(「北国の春」は中国でも愛唱歌になっている。)過酷ながらも時には人情の機微に触れてきた門付け芸能者としての体験がそうした力を作曲家・遠藤実に付与したことは間違いない。

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     ■2007.8.29  往く夏を惜しみ、逝ったものを偲ぶ・・・東北の西馬音内盆踊りと花輪ばやし
nisimonaiamigasa.jpg    ○今までに仕事の関係上、日本各地の盆踊りなどの祭りを様々見てきたが、どれも、風土に根ざした忘れがたいものだった。中でも特に印象に残り、いつかまた来てみたいと思い続けてきた盆おどりが秋田県羽後町西馬音内地区で行われる西馬音内盆踊りである。(8月16~18日の3日間)
この盆踊りは西馬音内地区の人々だけが参加できる地域密着の祭りである。中心街の通りを交通止めにして、通りの中心にかがり火が数十メートルおきに焚かれる。夕闇が迫るにつれて、かがり火の明るさが増して、まきがばちばちと音を立てる。夕刻7時半からこどもたちの踊りで盆踊りは始まり、次第に住民が踊りの列に加わり列が長くなっていく。野趣にとんだ歌詞の秋田音頭が三味線、笛、太鼓、鉦などの囃子に彩られダイナミックに歌われる。一方、踊りは対照的に優美・流麗・優雅そのものだ。踊り手(女性が8割)の顔は深くかぶった編み笠かひこさ頭巾でほとんど隠されており、幻想的な趣が漂う。女性たちの髪を結い上げた白いうなじがかがり火に映える。顔面に黒い布を下げる黒子風のひこさ頭巾は亡者を連想させるものがある。
9時を過ぎる頃から年配の踊り巧者が続々と加わり、熱気も上がり、囃し方と踊り手が一体化するかのような陶酔感が感じられる。踊りには音頭とがんけというものがあり、がんけには節回し、歌詞に哀調が漂う。11時過ぎまで盆踊りは続き、暑かった夏が過ぎ去るのを惜しむ東北独特の感情があたりを支配する。
この盆踊りには歴史的な文献資料が存在しないが、伝承では8世紀頃から始まり、江戸のころから今の姿になったらしい。おそらく豊年祈念と逝ったものを偲ぶための盆踊りだろう。西馬音内の人びとには、さまざまなことが起こる日々のもろもろを一時でも忘れ去り、ハレの感情に浸る至福の時だったのだろう。
○次の日、秋田南部から一気に北上して鹿角市に向かい、花輪ばやしを見た。この祭りは花輪の地元の神社に奉納される祭礼囃子で、この祭りにかける人々の情熱とエネルギーが炸裂するような迫力に富んだ祭りだ。10台の山車(屋台)が市内を巡り、最後は駅前広場で10台の山車が揃い大音響の囃子の競演が続く。山車は「腰抜け屋台」で床底がなく、太鼓の囃し方が歩行して演奏する独特の屋台である。屋台はケヤキなどを贅沢に使い、漆で豪華に仕上げられている。鉦を打つものが、音頭をとり、太鼓、三味線、笛が町内それぞれの囃子を奏しながら、練り歩く。魅力はなんといっても、若い人々が中心になっているダイナミックな囃子の演奏だろう。疲れを知らない力強く、歯切れよいリズムを刻む合奏が心地よい。祭りは8月19,20日の2日間不眠不休で続き、目前に近づいた秋の到来に抵抗するような熱気と自然の摂理を受け入れなければという諦観が交錯する。
○逝った人びとの魂を偲び、豊作を祈り、去り往く夏への惜別の情そして厳しく、長い冬の到来を待つ気持ち・・・過去延々と繰り返されてきた祭りには東北人の生活への様々な思いがこめられてきたが、この2つの祭りからはひときわ東北人の切なる思いうかがわれるのだ。
これらのレポートは紀行コメントでアップする予定。

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■2007.8.15  アルメニアのこと
  ○ アルメニアのジプシー(ボーシャ)の存在を確認し、できれば彼らのうたなどを採録したいと思いながら、日本ではほとんど情報が取れないままぶっつけ本番覚悟で行ったアルメニア取材の映像・音の素材を整理・編集しながらDVDを製作中である。
アルメニアについての平均的日本人のイメージは希薄なものだろう。しかしながら、ジプシーが北西インドから出立し、ヨーロッパ大陸各地に拡散するジプシー・ロードとも言うべき経路を考えると、アルメニアは重要な地域であった。そこに何らかのジプシーの痕跡があるのではないかというのが訪問の理由であった。
○アルメニアはグルジア・アゼルバイジャンとともにカフカス3国に数えられ、地理的にはトルコ、イランのほぼ北に位置する。アルメニア民族の歴史は古く紀元前7~5世紀までさかのぼれるし、紀元4世紀には国としてキリスト教を最初に受け入れた国家である。9~11世紀には小アジア東部一帯に広がる大アルメニアを形成する一大王国であった。
アララト山(5165m))はアルメニア民族の心のよりどころとされており、ノアの箱舟が漂着したところとされているが、現在はトルコ領である。黒海とカスピ海の間に位置しながら、グルジア、アゼルバイジャンと違って、港湾を持たない地形状の弱みを抱えて、歴史のすべての時期にわたって領土の分割と植民地化の命運をたどってきた。特にロシア、トルコの両大陸との関係では常に圧迫を受けてきた。
アルメニア民族にとっての最大の惨事・悲劇は第一次世界大戦をきっかけに起こったトルコ領内でのアルメニア人虐殺であり、100万人を超える人びとが死亡し、国外脱出者は50万人に及んだという。この問題(ジェノサイド)は現在にまで深刻な国際問題になっており、虐殺の事実を認めるべきだとするトルコ人ジャーナリストが暗殺されるなどの事件は記憶に新しい。
○そうした民族的悲劇を記憶にとどめるアルメニアにひっそりとジプシー(アルメニアではボーシャと称される)は生きていた。DVDは9月に完成する予定である。

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■2007.7.23  7.03の更新記録でふれたムサフィール公演を市橋さんとみた。以下は市橋さんのレビューである。
<現業の芸人ならではのパワー!=ラージャスターンのジプシー"ムサフィール(Musafir)東京公演コンサートレビュー>
インドの北西部ラージャスターンから伝統芸能を携えてやってきたMusafirのステージは現業の芸人ならではのパワーに満ち溢れていた。伝統芸能というと何か過去のものというイメージがつきまとうが、彼らの演奏はそうではない。メンバーのミュージシャンたちはかつて王家や貴族などのパトロンに仕えて世襲で楽士をつとめてきたマンガニヤールという職能集団の出身だが、第二次大戦後藩王制が廃止され社会の仕組みががらっと変わったあとも、観光客や海外の聴衆をそのパトロンとして自らの芸を絶やすことなく保ち続けてきた。
2001年の夏にわれわれ(市川氏と筆者)がジャイサルメールを訪れた際、日々親から子、年長者から年少者へと芸が伝えられている様子を垣間見ることができた。マンガニヤールの中でも海外に出て演奏するのはごく一部でその背後には多くの現地ミュージシャンたちが存在する。そうした厚い層のなかから出てくるプロの芸人のステージが一級のエンタテインメントにならないはずがない。
7月18日東京渋谷のO-Eastで行われた公演は19時開始。10分ほど遅れて到着すると、ステージでは軽快なリズムの歌が響いていた。ジャイサルメール地方の有名な民謡「ゴールバンド」だ(*ビデオレポートの1曲目)。伴奏のドーラク(両面太鼓)の低音が腹に響く。あとで聞いたところではこの曲の前に<バパング>という一弦の楽器やたらいのような形の楽器を叩くシーンがあったらしい。音楽と大道芸を融合させた独自のパフォーマンスで新しいインド音楽の魅力を伝える彼らならではのオープニングである。
続いて長いボーカルの前奏部から始まる古典的な楽曲、そしてカルベリヤ・ダンスでは、手に持ったハンドシンバルで脛に結びつけた7個ほどのシンバルを順に打ち鳴らし、反り返って床に置いた指輪を両目ではさんでとるというアクロバティックな踊りを見せてくれた。
メンバーはタブラ、ドーラク、カルタール(口琴・バパング)、サーランギー&歌、歌&ハルモニウム、カルベリヤ・ダンサー、大道芸の総勢8名で曲に応じて出入りする。
その後、口琴のソロ、カッワーリの有名な曲「ダマーダム・マスト・カランダル」(*ビデオレポートの5曲目)を演奏したあと、自転車の車輪を頭や両手、両足にのせてくるくる回す大道芸と飽きさせることがない。オリジナルだという「旅人とラクダ」という歌の途中ではドーラクとタブラのソロを織りまぜていた。カルベリヤ・ダンスの2曲目は「カーリョー」(*ビデオレポートの2曲目)。黒地のスカートを広げて激しく回転し、体をくねらせ腰を斜め上にもちあげてぐんぐんと迫ってくる独特の動きは官能的ですらある。踊り子はすっかり疲れきって、踊りが終わるなり演奏者用の台に腰掛け息を切らしていた。しかし、続いてステージ最後の曲が始まると、そんな疲れをまったく感じさせず総勢8名が登場して、メドレーを演奏した。鳴り止まない拍手に応えてアンコール曲を披露。「ニンブラー」(注:オーディオレポートの2曲目にリンク)というノリのよい曲。2時間弱というコンサートとしてはやや短い時間設定であったが、会場を埋め尽くした観客は一様に満足していたようだ。
ムサフィール(Musafir)とは「旅人」を意味するアラビア語起源の言葉でペルシア語やヒンディー語でも使われる。実際にはムサーフィルと発音される。楽団を率いるウスタード・ハミード・カーンはラージャスターンの古典音楽家の家系に生まれ、パリでミュージシャンとして活動したあと1995年にこの楽団を作ったという。
そのハミード氏がMCでラージャスターンはジプシーの故地であり、自らをラージャスターンのジプシーだと名乗っていた。ジプシーという語は差別語としてタブー視されることが多いが、音楽の世界ではむしろ肯定的に捉えられることが多い。こんなノリのよいステージでロマなどと言い換えることは無粋というものだろう。そして、今回のコンサートの会場となったO-Eastは渋谷道玄坂上のクラブ・ストリートにあり最先端の音楽シーンのライブを提供している場所だ。そのことが今の彼らの音楽がどのような人々に受けているかをよく物語っている。インド音楽といえばシタール音楽という時代には瞑想しながら聴くものだった。そんな時代から遠く離れて、オールスタンディングで体を揺らしながら聞くインド音楽もあるのだということを改めて印象づけた今回の来日であった。(市橋雄二)

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ジョニー・デップ

■2007.7.17  先日、市橋雄二さんと会った際にジョニー・デップのちょっとした話を聞き、詳細を尋ねたら、以下のようなメールが届いた。何となく納得できる内容。(氏の同意のもと記す)
市川様
ネイティブ・アメリカンの血をひく彼はやはり少数民族に関心が深いようです。以下のブログにあるインタビュー記事が参考になります。この記事にあるThe Man Who Criedは邦題が「耳に残るは君の歌声」です。ルーマニアのジプシー楽団タラフ・ドゥ・ハイドゥークスが共演しています。まだ観ていませんが、近々レンタルビデオで観てみようと思います。 市橋雄二

浪曲師 国本武春のライブ

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■2007.7.08  浪花節について考える=浪曲師、国本武春のライブ「どかーん!武春劇場~日本浪曲史と気さくな黒船~With The Last Frontier」をみて=
○現在は漫才系のお笑いタレントがテレビを席巻しているが、明治・大正そして昭和の初期までは浪花節・浪曲が大衆芸能の王者だった。桃中軒雲右衛門、広沢虎造をはじめとする幾多のスーパースターが輩出したのである。浪花節は日本芸能史を考えても重要な位置にいる。江戸時代・明治時代まで綿々と続いてきた大衆芸能の講談、落語、歌舞伎、義太夫、長唄など様々な要素が交じり合って浪花節が誕生したのだが、その初期の形はでろれん祭文、あほだら(阿呆陀羅)経、浮かれ節、ちょんがれなど大道・門付けの芸能であった。一種の差別・蔑視の中にいた浪花節が大道の門付け芸からよしづ張り小屋を経て、舞台(板)に上り、ついには劇場公演で数千人の観客を集めるまでに至る過程は近代日本の大衆芸能史でもある。
国本武春のライブは、そうした日本浪曲史を5日連続でたどる日替わりメニューを第1部に、国春がテネシーに留学していた時代に結成された三味線ブルーグラスバンド(ザ・ラスト・フロンティアー)のライブが第2部という構成である。
初日は浪曲の誕生篇で、でろれん祭文のほら貝から幕があがる演出。国春がでろれん祭文を演じる(語る)が観客のほとんどはでろれん祭文がどのようなものか理解できなかったろうが、苦労して再現していた。細かく言えば、右手に持っていた錫杖の形状が違っていたりしたが、やる勇気を買うべきだろう。それからあほだら(阿呆陀羅)経などを経て、浮かれ節を語るが、これはなかなかのものであった。浮かれ節独特の揺れる廻しや軽妙洒脱さがよかった。ここまでが第1部。
第2部は雰囲気が一変して、ブルーグラスのライブ。国春の三味線にバンジョー、マンドリン、ギター、ベースの5人編成で、次々と歌いまくり、演奏しまくる構成が心地よい。通訳を入れないのも正解で、曲の余韻を盛り上げ、舞台の流れを滑らかにしていた。三味線と洋楽器のアンサンブルが絶妙で、アメリカ公演でも受けているのが納得できる。
現在、浪曲という芸能が一般的には滅びかかっていると思われているが、国春の舞台は伝統芸能のあり方に多くの示唆を含む点で注目すべきものだ。芸能というものを大きくとらえれば、<ひとの前で何かをやって喜ばせ、何がしかのお金をいただく>ということに尽きる。その時代の人々の気分、傾向、思いなどにじっと耳を澄ませ、そこに合うものを提供することが何よりも時代とともに生きていく芸能者ということだろう。その精神があれば、なにをしても芸<浪曲>の本質を保ちつつ、21世紀の浪曲・浪花節は残るのだ。国本武春を応援したい。
○小沢昭一さんと浪花節の源流を探索したころ=
国本武春のライブを見ながら、かつて小沢昭一さんと1970年代から80年代にかけて、ともに夢中になって日本国中から韓国・インドにまで大道芸・門付け芸を追い求めていた風景が走馬灯のようによぎっていた。当時すでにこうした芸能は日本列島から絶滅していく瀬戸際にあり、小沢さんとの旅は万歳・浪花節・人形つかい・ちょんがれ・女相撲などなど実に多彩だった大道・門付けの諸芸能の臨終に立会う旅となり、墓標をたてる旅になったのである。
浪曲・浪花節は万歳とともに小沢さんが特にこだわった芸能であり、その源流への探索行は執拗を極めたものだった。
でろれん祭文は山形に行き、計見八重山さんと計見楽翁さんからほら貝を使った祭文を聞き、独特の錫杖の形をはじめて確認できた。あほだら(阿呆陀羅)経も市川福治さんが大阪の芸人長屋で、不自由な身体ながらも精一杯演じてくれた。浮かれ節は当時の浪曲界の重鎮、梅中軒鶯童師が昔を思い出しながら、角座の楽屋で再現してくれた。94歳だった広沢虎吉老(西南戦役時の誕生!)から浪花節創成期の生き証人として、宝物のような話をたっぷり聞けた。浪花節の源流をたどり、四国徳島にでかけ、訪ねた目当ての老人がうなぎ採りに出かけていると聞いて、田んぼの畔の小川にまで押しかけ、分けがわからぬままの古老に源流のひとつとされる<ほめら>を唸ってもらったこともあった。当時、大学を卒業して間もない私にはなにもかもが驚き、新鮮で目眩く(めくるめく)日々だった。

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■2007.7.03  インド北西部ラージャスターン州から来日の伝統芸能集団ムサフィールMusafirの公演について=
ムサフィールはインドの古典音楽の伝統とタール沙漠などに現存する大道・門付け芸能の今日性をともに包含するグループとして貴重な存在だ。当ホームページでも出している「ジプシーのうたを求めて」のDVD、CDにも出てくるマンガニヤールやカルベリアのダンスなどがふんだんに楽しめる公演のようだ。公演は東京は7・18(月)渋谷O-EAST7・14(木)兵庫県立芸術文化センター7・16(土)河内長野ラブリーホール7・21徳島県立21世紀館野外劇場(問い合わせはカンバセーション03-5280-9996。)詳細はこちらへ

舞踊家、田中泯のこと

■2007.7.02  田中泯の踊りを追った映画「ウミヒコヤマヒコマイヒコ」を見て=
舞踊家、田中泯がインドネシア諸島を巡ってのダンス・ロード・ムービー。ドキュメンタリー映画としてみれば、様々な異論がでるだろうが、田中泯の踊りに関してはとても理解ができ、共感できる内容だった。
ずいぶん前(80年代)になるが、大野一雄の「ラ・アルヘンチーナ頌」を見たときが、舞踏なるものとの初遭遇だった。80歳を越えた晩年の大野は深い皺の顔面を白塗り、真っ赤な口紅、フラメンコ風の衣装という異様な様だったが、踊り始めると魔法のごとく女そのものに変貌し、踊りからは香り高い歌謡性が漂っていたのを思い出す。(女型といえば、唐十郎の状況劇場にいた四谷シモンも妖艶だった。)映画「たそがれ清兵衛」のラストシーンで、田中泯は亡き子どもの遺骨をかじり、最期の決闘にいたるが、その殺陣は彼の踊りそのものであった。
いわゆる<舞踏>というものが、欧米のバレエをはじめとするダンスシーンに衝撃を与えはじめてから、大分経つが、その余波は続いている。田中泯はまさしく土方巽の流れを受け継ぐ舞踊家である。土方巽は日本の舞踏の始原とも言うべき舞踊家で、暗黒舞踏といわれた表現形式を確立し、その影響力はジャンルを超えて、、文学、美術、哲学、演劇、音楽の分野にまで及んだ。
「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という土方の言葉は衝撃的な至言だ。土方は東北地方の大地に密着し、生への肯定・昇華ではなく、死へ向かう身体のあり方、滅亡・衰退する身体に美を見出し、そこから踊りを生み出す画期的メソードを確立した。その土方からから幾多の踊り手が派生したのである。
そして田中泯である。バレエが跳躍、回転運動など身体が舞台から浮くことに躊躇しないのに対し、田中泯の身体はまさに正反対の動きが基本だ。バレエなどの基本メソードは静から動へ、あるいは動きをさらにダイナミックにする動きの転換・加速による昇華・カタルシスのダイナミズムに向かうが、田中泯の踊りは逆ベクトルを志向し、あくまで身体が沈潜することに執拗にこだわる。徹底的な下方指向である。それはあたかも大地に横たわる身体が地下から湧き出るエネルギーを待ち受け、そこから必然的に身体が反応し、動きだすのを気長に待つというイメージが強烈だ。
彼が山梨に住み、農業をしながら、踊ることを続けているというよりも、むしろ農業と踊りが一体化している生き方が伺える。映画の舞台がインドネシアの農民・農作業が中心であることは必然だろう。
インドネシアの島々の農道を歩く様は足の指、足首、膝、股関節、肩、首までが滑らかではなく、ギシギシと音が聞こえるかのように屈折感がある。もちろん歩いているのではなく、踊っているのだ。村人がすれ違い、耕耘機がエンジン音をたてて過ぎていく。村の中に入り、村人が見守る中で、踊り、耕し、田を植えそして子どもたちと泥を投げ合う。すべてが踊りともいえるような光景だ。しかしながらその光景には田園風景の自然や子ども時代への記憶が懐旧としてあるのではなく、滅び去ってしまった自然、回復できない記憶への渇仰があるように思える。
海をただながめたり、舟の舳先に突っ立ち、風を切るシーンや横たわるポーズ、あるいは背中を地につけて、両手両足を昆虫のように屈曲させるイメージには、田中泯が動けない姿に魅力を感じており、その中にも踊りの美が存在するという独特の視点がある。動けないイメージは死、胎児のイメージに連なり、師、土方巽の本質に連なる。
バリ島に渡ってからの踊りはそれまでの形とは幾分違い、観光客も交じり、ガムランを伴奏としながらのミニ公演のシーンだった。ガムランの速射砲のような連打音には彼なりの動きで応え、決めのポーズはバリダンスのポーズで決める。このシーンは、観客を前にしたときの踊りと、村のなかで、道端で、水辺で踊りたくなったら勝手に踊るという踊りのシーンとの決定的な違いがあり重要である。田中泯はこれから勝手に踊る方向に向かうような予感がする。
人間は食って、排泄して、眠ることからは逃れられず、その基本形を踏まえずに高邁な思想も、様々な芸術・芸能の行為は成立しないということを改めて思う。

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佐藤花那子さん

■2007.6.27  佐藤花那子さんのこと=
スペイン在住のフラメンコ舞踊家。生きながらにして伝説の人、マヌエル・アグヘタ≪カンタオール(フラメンコの唄い手)。伝統的で純粋なフラメンコの最後にして最大の継承者。≫の妻でもある。彼女の著書「モーロ人は馬に乗って~アンダルシアで舞い、耕し、生きる」(解放出版社2004年)は、ヒターノ(ロマ・ジプシー)である夫のアグヘタとスペイン南部アンダルシア地方の最南端の町、チピオナで家畜や野菜を自給しながら過ごす日常そのものが如何にフラメンコに根を生やしているものかを実感させてくれる稀有の記録である。フラメンコを踊ることは生活そのものであるという彼女の確信、そしてヒターノの本質的な生き方や思考形式を時には過激ながら、したたかなユーモアも交えて語っている。この土地の苛酷な夏の生活など自然への視野も深い。そして自己を内省する目は意外に冷めている。とにかくロマ(ジプシー)の真情やフラメンコの真実を(文字を持たない)ヒターノの内側から彼らの心のヒダをめくるように伝えてくれる実に貴重な証言だと思う。ジプシーに関する著書という意味でも「立ったまま埋めてくれ」(イザベル・フォンセーカ くぼたのぞみ訳 青土社)と比肩しえるものだ。

その佐藤花那子さんがその後の生活ぶりなどのエッセイをSPAZIO65号,66号に寄せている。これらのエッセイにも、さらに土地に根付いた生活からあふれ出るフラメンコへの透徹した洞察力と日本にいる老いた母への思いが交差しており切ない。そして、彼女のフラメンコ舞踏家としての姿勢や夫、マヌエル・アグヘタの肉体化されたフラメンコへの記憶(3日間唄いつづけても同じ歌詞を繰り返すことは絶対にない)について語っている。文字を持たないが、その頭脳のなかには膨大なフラメンコの歌詞が整然とはいっており、それらはヒターノの歴史を物語る図書館でもある。
昨年マドリッドに行った際、滅多に見られない豪華メンバーでのライブがあり、アグヘタはトリで出演していたのだが、どうしようもないスケジュールの都合でアグヘタの唄を聞けなかったことが今でも心残りである。

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雑誌「コヨーテ」

■2007.6.26  雑誌「コヨーテ」19号は特集インド<ジプシーの旅立ち~タール沙漠を彷徨う>である。この雑誌は藤原新也が「日本浄土」という連載を始めているので、気にはなっていたが、いずれ単行本になってからと思っている。特集の中にはCD「ジプシーのうたを求めて~沙漠に生きる漂泊の芸人たち(ビクター)や拙著「ジプシーの来た道」(白水社)が紹介されている。

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ホームページのこと

■2007.6.08  ホームページのトップのイメージ更新。

トルコのチンゲネ

■2007.5.30  トルコのジプシー(チンゲネ)バンドのDVD「イスタンブールのジプシーバンド」(約42分)の映像編集作業完了。現在、市橋氏が解説執筆中。6月中~下旬に完成予定。

製作状況

■2007.5.06  長編音楽ドキュメントDVD「マケドニアのロマ・ミュージック~世界最大のロマ・コミュニティー、シュト・オリザリの現在」(57分)が完成。詳細は こちらへ
引き続きインド、ラージャスターン州の漂泊芸能の数々を収めたCDの制作進行中。

市橋氏の携わる映画「クロッシング・ザ・ブリッジ~サウンド・オブ・イスタンブール」のDVD,CDの新情報はこちらへ

マケドニア、インドのDVD,CD編集

■2007.4.26  マケドニアのDVDの編集作業、そしてインド、ラージャスターン州の沙漠の漂泊芸能のCD編集作業がほぼ完成した。現在、市橋氏が解説文などを執筆中である。予定通り、5月中の完成を目指している。マケドニアのDVDはスコピエにある世界最大規模のロマ集落地、シュト・オリザリ地区のジプシーミュージック、とりわけ結婚の祝宴の場でのバンド演奏・舞踊を重点的に収録した。インドのCDはタール沙漠の漂泊芸能の民で、ジプシーの祖とでもいうべきジョーギーの女たちのうた、マンガニヤールという芸能専業者の超絶技巧などを収録した。

DVD,CDなど編集中

■2007.4.09  マケドニア、トルコのジプシーミュージック(2006年8月取材)のDVDの編集作業順調に進行中。さらにインド、ラージャスターン州での撮影取材時(2001年)のDAT録音のCD化も進行中。これはCD「ジプシーのうたを求めて」(ビクター発売中)には未収録(未発表)の10数曲で構成したものになる。予定では、マケドニアDVD,インドCDの2点は5月中、トルコDVDは6月に完成させたい。

トルコ

■2007.3.21  トルコで撮影取材したジプシーミュージックのDVDの編集作業開始。その後、予定しているマケドニア、アルメニアの取材映像との兼ね合いは未定。それぞれ別々に独立させるかすべてを一つのものにまとめるか思案中。できれば4月中に完成させたい。

イタリア

■2007.3.20  13日からフィレンツェ。ここにもジプシーは多かった。広場ではルーマニア?からのジプシーバンドが街頭ショーをしていた。

CDの件

■2007.3.11  小沢昭一さんとの放浪芸取材時(1970年当時のもので未発表の音素材)を仮題「蔵出し まだまだあった日本の放浪芸」資料集成としてまとめる準備を昨年から始める。今日、小沢宅から見つかった音素材の資料届く。小沢さんの意向は資料性を重視したいということなので、整合性に固執せず、まとめたい。CD何枚になるか検討もつかないが、じっくりやるつもりです。逐次、報告します。

DVD「ジプシーのうたを求めて」

■2007.1.17  北西インドの漂泊・門付け芸の長編ドキュメントDVD「ジプシーのうたを求めて」(61分)制作進行中。予告編アップ。

■2007.1.10  ビデオオーディオの楽曲解説(執筆 市橋雄二)アップ

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■2006.12.06  ホームページ開設

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