2010年9月アーカイブ

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「(つづき)1983年のロマニ・フェスティバルとそれがチャンディーガルで開かれた背景には、インドの外交官W.R.リシ氏の尽力があった。パンジャブ地方の貧しいバラモンの家に生まれたリシ氏はロシア語を志望していたおかげで一地方公務員から1945年新たに設置された外務省での仕事に就くことができた。この機会を得て氏はソビエト陣営とのコネクションを広げ、そこでロマと出会い、彼らの言葉を耳にしたとき、その瞬間が訪れた。氏の興味はやがて情熱へと変化していった。氏はさまざまなロマ活動家と連絡をとったが、最初多くの活動家はロマではない外交官を信用しようとしなかった。しかし、氏の誠実さを知るにつれ、影響力のある窓口役として重んじるようになった。
リシ氏はインドの外交的ロビー活動によってユーゴスラビア政府に対してロマを正式な少数民族としてみなすよう働きかけたり、チャンディーガルにインド・ロマニ学研究所(Indian Institute of Romany Studies)を設立し、<Roma>と題する定期刊行物を編集するなどした。(原注:研究所と刊行物がともに現存するかどうかは不明。リシ氏は2002年に亡くなり、息子が仕事を引き継ぐと思われていたが、ネット上に掲載されている研究所の電話番号は現在使用されていない)いずれかの機会にリシ氏はガンディー女史にロマについてレクチャーし、女史はその物語に心を奪われたに違いない。ロマを擁護することに政治的なメリットは何もないにもかかわらず、女史は1976年と1983年の2回のイベントに参加した。2回目のイベントの際に、タイムズ・オブ・インディア紙は、いささか言い古された言い方で、次のようなコメントを掲げている。「インディラはジプシーの気楽な生活スタイルに取り込まれたようだ。彼女の陽気で楽しげな物腰はいかにも周囲に影響を与えそうであった。」
その後インドの政治家で女史のようにロマに関心を持つものはいない。その証拠に今のところインドは今回のフランス政府の政策に何の反応も示していない。おそらくロマ自身もインドとの関係を前面に押し出そうとは思っていないのだろう。イザベル・フォンセーカの本("Bury Me Standing"訳書『立ったまま埋めてくれ』青土社刊、1998)に1995年オーストリアで鉄パイプ爆弾によって殺害された4人のロマの生々しい写真が載っている。(前掲書p.297)爆弾は男たちが「ジプシーはインドへ帰れ」と書かれた看板を取り去ろうとしたときに爆発した。フォンセーカはこうコメントしている。「ロマたちはもう300年以上もオーストリアのその地方に住んできたのだ。」
なぜロマは常にこのような敵意にさらされ続けているのか。定住者による放浪者への不信、すべての罪悪をよそ者に着せようとする変わらぬ人間心理、異質なものに対する恐れ(ロマに関する好意的な報告でさえ、常に彼らのエキゾチックな性質を強調しようとする)、あるいは単なる人種差別なのか。ロマの人々は多くの仕事に従事することを許されなかったために、生きるための最低限の手段へと追いやられたのであり、その結果盗みの誹りをうけることとなった。わたしたち(インド人)は、このような偏見の源を知るのに遠くを探す必要はない。なぜならば、インドのアウトカーストの部族の、なかでもかつてイギリス人から<犯罪部族>とレッテルを貼られた部族に対するわれわれの態度を見ればわかるからだ。ロマに関する最初のころの仮説の一つは、インドにおける偏見から逃れようとしたが結局それを拭い去ることができなかった部族ではないかというものだ。
この説には一部のロマ研究者が疑問を呈しており、その屈辱的な起源を怒りとともに否定している。また一部の研究者は追放されたクシャトリヤ階級の戦士との関連を唱えているが、インド人はどこにいようともカーストの呪縛から逃れられないことを示している。そのような仮説はさておき、言語とともにそれ以外のインドとの明らかな関連が、伝統的なロマの生活を規定している浄不浄の観念に見られる。もっともはっきりと見て取れるのは食事についてである。たとえば、女性は生理中調理をしてはならず、ものに触れてもいけない。ロマの間にもいくつかの身分階層がある。このため、どこでも自分たちの道具で食事ができるように皆ナイフを持ち歩いている。
フォンセーカは書いている。「伝統的なロマの習俗では、飲み物は器が唇に触れないようにして口の中に流し込む。(中略)アン・サザーランド(アメリカの文化人類学者)はイリノイのある食堂で何人かのロマ系アメリカ人と一緒に食事をしたときのことを述べているが、それによると、食堂のフォークやナイフを使う危険を冒すよりも手で食べる方を選んだということだ。」(前掲書p.145参照。上記訳文は本稿筆者によるもので前掲書の訳とは異なる)フォンセーカは、また、アルバニアでの体験として、ロマの協力者の一人は、フォンセーカがアルバニア人と一緒にいる家の中には決して入ろうとしなかったと語っている。そして、これは恐れとか偏見ではなく、彼自身の問題なのであった。つまり、アルバニア人は客人には食べ物をふるまうということをもてなしとしているが、彼は食べ物が不浄であるかどうかを知らずに食べるわけにはいかなったのだ。実際のロマの料理はその土地の食材を利用する。それはただ単に彼らの置かれた状況から手に入るものは何でも食べなければならないことによる。インドとの関連性は食材そのものよりも食事一般に対する態度において見られる。
多くのインド人社会に色濃く残るそのような習慣があったために、放浪の間もロマは自分たちの文化を保つことができたのだ。それはまた彼らの他者性を規定し、地元の社会に統合されることを拒む理由にもなった。このことはロマが直面している偏見を正当化するものではないが、当局の怒りは理解することができる。ロマの女性は低い地位に置かれ、子供たちは教育を受けないままだ。予防接種を嫌がり、争いの解決のために独自の自治組織を持つなど強烈なインド性が見て取れる。
現在のヨーロッパ政府がロマへの対応に苦慮している姿は、強固な部族習慣がインドの中央政府や州政府を悩ませている状況と類似している。しかし、インドにおいてそうであるように、ヨーロッパにおいても唯一の答えはあくまでも関与を続けることと教育であって、フランスが行っているような追放ではない。追放することは一見簡単な解決方法に見えるが、それはモラル破壊であり屈辱を与えるものであり、何よりも有効性に欠ける。ロマは必ずやそれを生き抜き、また変わらず戻ってくるであろう。彼らは何世紀にも渡って同じような迫害に耐え、同じような時代を生き抜いてきたのだから。(おわり)」(市橋雄二/カッコ内は筆者注)
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発端はフランスのサルコジ大統領がこの(2010年)8月25日の閣議でロマの送還を継続する方針を表明し、今年に入ってすでに8,030人の「不法滞在者」をルーマニアとブルガリアに送還したことを明らかにしたことにある。欧州連合(EU)は即座に反応し、域内移動の自由を保障しているEU法に抵触する可能性を指摘するなど反発が広がっている。なお、ルーマニアとブルガリアは2007年1月にEUに加盟している。この動きにインド紙The Economic Timesが興味深い論評を掲載しているのでここに紹介してみたい。
「インディラ・ガンディーならフランスのロマ追放政策に抗議を表明していただろう。抗議すべきは疑う余地はなく、すでにフランス内外から激しい非難の声があがっている。ロマを追放することによってフランス政府は域内を自由に移動できるEU加盟国民の権利を侵害し、特定のコミュニティに烙印を押すことにより基本的人権を脅かしていることになる。何世紀にもわたる反ロマ運動の際に用いられてきた犯罪行為や非定住を根拠とする理由づけがまた今回も繰り返されている。そうした動きが頂点に達したのがナチスによる死の収容所でのロマ撲滅の試みだった。ナチスとの比較は軽々にするべきではなく、もちろんフランスが同じであるというわけでない。言えることは、文明国家であるならばユダヤ人や同性愛者を追放することなど考えもしないだろうということだ。しかし、フランス政府はロマにはそれができると考えているのだ。
現在のインド政府はロマに対する明確な方針を持っていないようだ。しかし、ガンディー女史はロマの支持者だった。「ロマの人々を親族だと感じている」、女史(当時インド首相)は1983年チャンディーガル(インド北部の都市)で行われた第2回国際ロマニ・フェスティバルでこう公言したのだ。それを消し去ろうとする人的作用や時間の経過に抗して、独自の文化を保ってきたロマの人々の生き方を賞賛した。「偏見を越えた、国際主義のなかのナショナリズムの好例」だと述べ、最後にロマニ語とヒンディー語の両方で演説を締めくくった。「アプレ・ロマ!」「ロマ・ズィンダーバード!」(ロマ万歳の意)さらに偏狭なナショナリズムによってこの演説のあとガンディー女史の命が奪われていなければ(1984年狂信的なシク教徒分離主義者により暗殺)、おそらく今頃インドは世界をリードして抗議を行っていたことだろう。
ガンディー女史が関与する理由はもちろんロマのインド起源にある。インド起源についてはオリエンタリストの空想だとする人々もいる。確かにロマのラベルが余りにも容易に多くの移民集団に張られてきたことも事実である。しかし、ロマニ語のバリエーションを話すコミュニティとインドとの関連は驚くほどに明白だ。インドから西アジアを経てヨーロッパへと何世紀にも渡って移動を続けたにもかかわらず、言語の核となる部分には明確に西インド諸語との関連が保たれている。
イザベル・フォンセーカによる、ロマに関する本の中で忘れてはならない『立ったまま埋めてくれ(原題Bury Me Standing)』に、あるロマ活動家が彼女に向かって「(せめて立ったままで俺を埋めてくれ。)生まれてこのかたずっとひざまずいてきたのだから」と叫ぶ部分があるが、彼が実際に言ったのはロマニ語で"Prohasar man opre pirende sa muru djiben semas opre chengende"とある。(『立ったまま埋めてくれ』青土社刊p.403参照。本文中、「これまでずっと」と訳されているが、「生まれてこのかたずっと」とした方が原文の意味に近い。)中ごろにある"sa muru djiben"(生まれてこのかた)という言い方は今日のグジャラートあるいはラージャスターンの言葉と対応する。
ロマが旅したところではその土地の言葉を覚える必要があった。したがって、自然と彼らの言語の中の多くは変化を余儀なくされた。言語学者らは言葉の痕跡から何世紀もかけて彼らがたどった足取りを知ることができると主張する。つまりアラビア語が少々、それよりは多いペルシア語、そしてたくさんのアルメニア語起源の言葉が存在する。しかし、djiben、あるいは人を意味するマヌーシュのように身体や身近な物に関する語の多くはインド語である。羊はbokro、肉はmas、サーモン(サケ)はbauromatchi(大きな魚)、キャベツはshok(shaak)であり、飲むはpeeve、水はpaniである。蜂はpishomというが、これはインド語とは思えない。しかし、蜂蜜はpishomgudloといい、蜜の甘さとgudlo/gurはここでも対応する。
こうした関連性の指摘は過去何度も繰り返されているが、おそらく最初に行ったのはIstvan Valiというハンガリー人で、1753年ライデン大学(オランダ)に留学中、三人のインド人と出会い、さまざまな単語をメモにとった。のちに実家に戻り、知り合いのロマがそれらを理解できることを発見した。フォンセーカは著書の中で、マケドニアに住むロマで1983年の国際会議にも参加したシャイプ・ユスフと出会ったときのことを書いている。(前掲書p.146-154参照)彼は、今でもガネーシャの宗教画とインディラ女史の写真を飾っている。ユスフがインドとの関連を知るようになったのは、第一次世界大戦にトルコ軍兵士として従軍したおじの話がきっかけだった。インドで捕虜となったとき、そこで看守たちが話す言葉がわかったというのだ。(次号につづく)」(市橋雄二/文中カッコ内は筆者注)

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