2011年3月アーカイブ

東日本大震災の実相-―藤原新也のブログ

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夥しい発信がされているが、藤原新也のブログが大震災の実相を伝えている。大地震後、救援物資を積んで、飛び出していった行動力はカメラマンとしての性もあるだろうが、事に及んでの一瞬の逡巡を見せないところは、柔な知識人ではない。カメラを手にしながらの、日に数度の短いコメント、つぶやきがすさまじい現場の様子を想起させる。要、注目。藤原新也HP

「パゾリーニ詩集」~永遠の革新性

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ピエル・パオロ・パゾリーニという名前ほど強烈なインパクトを与え続ける映画監督はいない。不可解な死後、35年が経つのに映画史を彩る「奇跡の丘」「アポロンの地獄」「王女メディア」などの幾つかのシーンが折にふれて鮮明に蘇る。
それは最近では「ヘブンズストーリー」「アンチクライスト」などを見ている時にパゾリーニのことを想起してしまうという具合である。人間の根源的諸問題をを突き詰めていくと、パゾリーニ的世界に突き当たる。永遠の革新性とでもいうべきか。
そこにはキリストの十字架への磔を戦慄すべきリアルさで描いた「奇跡の丘」、父殺しなどギリシャ神話を思わせる「アポロンの地獄」、プリマ、マリア・カラスを起用し、日本の地唄などを使った「王女メディア」の様式美などでの映画体験が風化しないで持続している不思議さがある。パゾリーニ体験の強烈さがある。
 そのパゾリーニの詩集(「パゾリーニ詩集」四方田犬彦訳 みすず書房)がでた。四方田犬彦翻訳による日本だけで刊行された詩集のようだ。パゾリーニの過去の膨大な作品群から、四方田が独自の視点で編纂したアンソロジーともいえる。
四方田犬彦のまえがきによれば、「畏友中上健次の死に始まった意気消沈から逃れるため、1993年にパゾリーニ詩集の翻訳を思い立った。」そのためボローニャ大学で研究生活を続け、ようやく刊行に至ったという。
 パゾリーニの詩人としての評価は以下のようである。少々、長いが同じくまえがきから引用する。
「20世紀を代表するイタリア詩人はだれであったか?この問いがそれ以前の時代であるなら、中世はダンテ、ルネッサンスはアリオスト、ロマン主義時代はレオバルディ、と答えは決まっているのだが、この百年ではとなると諸家の間では意見が分かれるだろう。(中略)だがイタリアの民衆に一番近いところにあって、日常生活の卑小な悲しみから天下国家の行く末までのいっさいを射程に入れ、この国の言語的多元性、多層性を肯定的に取り上げるばかりか、ときに過激な実験に訴えつつも伝統的な韻律に忠実であった詩人は誰かといえば、それがピエル・パオロ・パゾリーニであることを否定する人はいないだろう。」
 日本においてはパゾリーニはゴダールなどと並んで、1960年代から70年代にかけて一世を風靡した映画監督としての印象が圧倒的に強いが、彼の実像は詩人にして小説家、戯曲家、批評家、理論家であり常に現実社会にたいして挑戦的な論争を仕掛ける知識人だった。
彼の生涯において詩作が中心的所業であり、混沌、矛盾に満ちた現実世界を把握する方法のひとつが表現行為としての映画だったのだろう。彼が抱えていたであろう問題意識は余りにも多様で、複雑であり、のた打ち回るような懊悩に身もだえしながらの一生ではなかったか。
異端、貧困、抑圧、醜聞、自由、芸術・・様々なテーマにわたるパゾリーニの真剣な思索の過程が明らかにされ、彼の映画つくりと照らし合わせ、その背景などを探る上で重要な資料でもある。
翻訳詩集を読むということは、言葉の厳密なニュアンスを探る上で、翻訳者の力量にほとんど帰依しなければならない。その意味では四方田犬彦の立派な仕事に感謝しなければならないだろう。最後に好きになった詩をあげる。
「ローマ1950」より
・・・・・・
この十月に聖ルカの丘は
  どれほど涼しげなことか、
円形競技場を上から覆う海の、その上で。
あるいはトリエステの九月二十日通りで
涼気を含んだ草花とか
白く悲しげな橋桁とともに。
ラジオから微かにタンゴが流れてくる、
なにかの伴奏のように、絶望しきって
蚊のなくような音で。ローマの
祭りの輝きは忘れられた、ぼくの憂鬱は
眠たげな眩暈の前に負ける・・・・
 

 
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「ダンサー・イン・ザ・ダーク」などで常に問題作を送り続けているデンマーク映画界の巨匠にして鬼才、ラース・フォン・トリファー監督の新作である。2009年カンヌ映画祭でも激しい賛否の渦にさらされたようだ。
幼子をふとした事故で失った妻が陥った重い精神の病をセラピストでもある夫が、自ら治療しようと、山中の一軒家にこもり、妻の再生をはかる。しかし次第に明らかになる事実とともに二人は悲劇的結末(カタストロフィ)へと進んでいく。
①プロローグ②悲嘆③苦痛④絶望⑤3人の乞食⑥エピローグの全6章で構成されるが、プロローグとエンディングで流れるヘンデルのオペラ「リカルド」のアリア「私を泣かせてください」が清澄な曲調だけに、物語の残酷さ、衝撃性、異常性が際立つ。
「アンチクライスト」というタイトルから反宗教性の漂う内容を予想したが、そうした傾向よりはサイコドラマの色彩が強い。反宗教性というとパゾリーニの「奇跡の丘」をすぐ思い浮かべるほどだが、トリファーの場合は己が様々な恐怖症を体験してきた個人的な歴史が色濃く投影された内容である。
パゾリーニはイタリアの地方性、血縁性、郷土性に根付く政治、宗教の呪縛と格闘しながら映画表現の革新性を獲得したが、ついには非業の死を遂げる。
一方トリファーは恐怖症や欝との苦しい闘いのなかから見いだしてきた手法が異常だとして世の常識としばしば対立する。彼の描写の激しさは、北欧の映画や小説にみる道徳の先進性とでもいうべき傾向をしめしているようだ。
これはイタリアと北欧ではキリスト教に対する戒律・姿勢が大きく違うことに一因があるのではないか。そしてトリファーの内面にシャーマニズム・呪術への強い親和性があるような気がしてならない。鹿、トリ、狐などの描写は独特なものだ。
北欧神話の終末観はギリシャ神話が語らない「神々の死」だという。そこには「宗教性」や「倫理性」はなく、あるのは「自然」を見る見方だけで、つまりこの自然世界は「終わる」ということ。
この映画の表現の過激性はこれからも語られようが、そうした表現行為がどこから来るのかを考えるとき、無神論者とされる彼の内面が抱える諸問題と「神々の死」そしてシャーマニズムへの傾斜が複雑にからみあい、攪拌された結果の表現だと解したい。

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