2011年5月アーカイブ

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バレエをテーマにした映画としてともに出色の出来栄えだろう。「ダンシング・チャップリン」ではバレリーナの修練を通して、作品を仕上げていくドキュメンタリーとして、「ブラック・スワン」においてはバレリーナが創造する苦悩から幻覚にまで至るサイコスリラーとしてみるものを魅了する。
「ダンシング・チャップリン」はローラン・プティがチャップリンに捧げたオマージュのような作品で、ルイジ・ボニーノのために振り付け、彼だけが演じられるという。1991年初演時の全2幕20場を監督の周防正行が13場として映画用に再構成している。引退する草刈民代を記録するテーマとしても格好の素材だろう。
1部は公演までのリハーサル風景を骨子として、作品の成立、狙いなどをプティやボニーノへのインタビューで浮かび上がらせる。丹念に繰り返えされるリハーサル風景はバレエがいかに人間の肉体の限界に挑戦する苛酷なものであるかを表現するが、草刈民代の涼しげな容姿が画面を華やかな雰囲気で満たしている。監督,周防のバレリーナとしての草刈を憧憬し、尊敬している心根が垣間見える。
映画「街の灯」のシーンのリハーサルで、眼の見えない花売り娘と男(ルイジ)のからむくだりで、ルイジが繰り返し娘の仕草に自然な動きを要求するところが印象的。 2幕のチャップリンメドレーは「黄金狂時代」、「モダンタイムス」、「外套」、「キッド」、「街の灯」などチャップリンの諸作品をモチーフにしたシリーズで、これらの作品を観たものにはさらに当時の感懐が加わり、一層味わい深い内容だ。
この映画を観ながら、一番、興味深かったのはルイジ・ボニーノのチャップリンを演じる際の気持ちの持ち方について話したところだ。技術的にいかに上達しても、チャップリンを表現することは不可能で、けっきょく内面的に複雑な人間(チャップリン)を表現するのは、自分のなかから滲み出してくる力でしかないというような意味を繰り返し語ったことか。血のにじむような肉体的鍛錬をしたうえで、成果を決定する要素は技術を越えたところにある"なにか"なのである。
チャップリンはおよそあらゆる大衆芸能・・・サーカス、大道芸、うた、ダンスなど・・の本質を肉体化し、昇華させ、本人自身も通俗、悪、邪念など複雑な内面を抱えつつ、人間のもつ毒に身をさらしながらも、ある種の崇高な理念を掲げ続けた巨人であった。 「ダンシング・チャップリン」は彼の偉大さをダンスを通じて再認識させてくれたともいえる。
一方、「ブラック・スワン」はバレエ「白鳥の湖」の上演をめぐって、主役の座に挑む踊り子の物語である。監督は「レスラー」のダーレン・アロノフスキー。ナタリー・ポートマンはこの作品でアカデミー賞の主演女優賞を獲得。ニューヨーク・シティ・バレエ団の協力を得た。
才能もあり、十分美しいニナ(ナタリー・ポートマン)はどこか優等生的なタイプがあり、主役を射止めるための必須条件の黒鳥の表現に未熟さがネックになっている。優美、はかなさの象徴である白鳥に比し、黒鳥は邪悪さ、官能性の象徴であり、両方を演じ分ける力量が求められるのである。つまり人間のもつ善と悪の2面性をリアルに演じきることが要求される。
バレエシーンの重要なところはロングショットはさけて、クローズアップが多用されている。ナタリー・ポートマンがいかにこのために肉体改造し、半年、一年の厳しいレッスンを重ねたとしても絶対に越えられないほど真のバレリーナの地平は高い。よって全身を写すシーンは綿密に編集され、一般の観客の目からはボディダブル(替え玉)のシーンは判別しにくいほどたくみに編集されている。そのことはポートマンにとってはマイナスではない。この映画の骨子は踊り子の内面が崩壊していくというサイコスリラーであり、その過程で表現者としての本質的苦悩を表現するという行為については見事な成果をあげているのだから。
人間のもつ2面性は日常の生活ではおだやかに個々人の内面に存在しており、意思的に抑制されているが、こと芸能や芸術という世界では、人間の奥底をさらけ出すことが作品の要諦であり、善と悪という2面性が絡まりあい、影響しあってその人の表現力となる。時と場合によっては、悪の側面が強く作用するほうが、表現力の達成度が高く、豊穣であると評価される世界である。デモーニッシュな表現力が演者に要求される。
主役の座を射止めたニナが初日を迎えて、次第に幻覚、強迫観念に追い詰められ、現実感覚か崩壊していく様は完全なサイコスリラーである。 二つの作品はともにバレエを扱いながら、私の胸に来たのは、芸術的、芸能的表現者の栄光と悲惨は紙一重という思い事実だ。そして本当に人の心を打つ表現とはどこから来るのか、そしてそれは後天的に獲得できるものなのかということである。 日常的に修練を重ねていくなかで、いつしか次の高みへ上れるのか、それともそうしたものは生まれつき備わったもので、努力ではいかんともしがたいものなのか。こうした問いは永遠のテーマであるが、この二作品を見て同じような感慨にふけったのである。
ニナは黒鳥になれたのか。
チャップリン的資質をもちながら、白鳥的世界と黒鳥的世界を肉体化し、統合した稀有の存在になることは人間としての幸せとは合致しないことも事実だろう。「芸は身を助ける、幸せ、不幸せ」(小沢昭一氏の言葉)・・・なのである。
(追記)蛇足ながら、デモーニッシュな表現力から連想するのは、歌手では美空ひばり、ちあきなおみ、中島みゆき、エディット・ピアフ、ビリー・ホリディか、オペラではデル・モナコ、マリア・カラス、ピアニストではリヒテル、そしてバレエではなんと言ってもヌレエフか。映画監督はフェリーニ、黒沢、俳優では・・・きりがないのでやめる。
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ドイツにもかつて都市の周辺部にバルカン諸国にみられる<マハラ>のようなジプシー居留地があった。これを記憶している人は今やほとんどいないが、ワイマール共和国(1919~33)時代の表現主義画家オットー・パンコックが版画と木炭画の技法で描いたデュッセルドルフ郊外のスィンティの野営地とそこに住む人々の絵が当時の様子を伝える貴重な記録となっている。
パンコックというファミリーネームはドイツでは珍しい。同じようにドイツのスィンティを題材にしていたドイツ表現主義画家にオットー・ミュラーがいるが、ミュラーほど知られているわけではなく、オークションで同じ値段がつくこともないが、パンコックの名はヨーロッパに住むスィンティの間ではよく知られている。
パンコックの兄弟の孫にあたるモーリッツ・パンコックは自身も画家で、十代の頃からこの大叔父の作品に関心を寄せてきた。最近ではロマとスィンティの現代絵画専門の新しいギャラリーをベルリンに開設すべく活動している。モーリッツは、ドイツで催されたパンコックの作品展でスィンティの老人が目に涙を浮かべて木炭で描かれた肖像画に見入っているのを目にしたことがある。それはアウシュヴィッツで死んだ親族の遺言ともいうべきものだった。ドイツ・スィンティの生活を描いたことで彼らの間では有名なオットー・パンコックの親類かと言ってドイツやその他の国のスィンティがモーリッツのもとを訪ねてくることも稀ではない。
パンコックは1893年ミュルハイム・アン・デア・ルール(ルール地方デュッセルドルフ近郊の小都市)で生まれた。最初にスィンティやロマの文化に触れるようになったのは、束縛の多い現代生活が嫌になったからだった。1930年、南フランスのサント・マリー・ド・ラ・メールを訪れたとき、ヨーロッパ中からやってきたロマの巡礼に偶然出くわした。彼らは<黒いサラ>の聖像を礼拝するために来ていた。「ゴーギャンと同じように文明に嫌気が差し、ゴーギャンが南太平洋の人々の中に見つけたものをパンコックはロマの人々の中に見たのだろう。」とモーリッツは言う。
ナチスが勢力を増し、ドイツがかたくなな保守主義のとりこになっていたころ、ロマとスィンティはパンコックの心を解き放つ存在だった。やがて彼はデュッセルドルフ郊外のスィンティの居留地<ハイネフェルト>に引き寄せられていった。この時期、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制下ルール地方が占領されたことによりハイネフェルトは事実上フランス領となり、ドイツの支配権は及ばずドイツの建築条例の対象にならなかった。このため、デュッセルドルフのスィンティは幌馬車を停留させて小屋を立てることができたのである。ハイネフェルトは無法状態で貧しいが自由にあふれた場所だった。モーリッツ・パンコックは言う。「居留地は小さな庭を備えた掘っ立て小屋の群れからできていました。にわとりともちろん馬もいました。デュッセルドルフの市街地とは大きな対照をなしていました。なにしろデュッセルドルフは整然とした豊かな都市でしたから。だからこそ彼はそこが気に入ったのです。そこには独自の文化を持ち、飾り気のない、ひとなつっこい人々がいたのです。」
パンコックは住人たちの世話をするようになり、ハイネフェルトとスィンティの版画と木炭画を描き始めた。その地に溶け込み、言葉を覚え、絵を描かせてもらった子供には自分の絵かき道具を差し出した。スィンティの人が書いた彼自身の肖像画は感謝して受け取った。最後にはパンコックはハイネフェルトに住むスィンティの人々の顔を"Passion of Christ"と題する大きな一枚絵にまとめ、これが彼の最高傑作となった。
「彼は今なら当然と思われることをしたまでです。」とモーリッツ・パンコックは言う。「彼は近代主義者ではありませんでしたが、彼がおこなったことは当時としては前衛的でした。境界を越えて貧しい地域に入り、そこの人々と触れ合ったのです。」
1933年ナチスが政権に就きルール地方を奪還すると、ハイネフェルトに住むスィンティは徴集され捕虜収容所に放り込まれた。そしてそのうちの多くがのちに強制収容所へと送られた。パンコックは身を隠し、親戚が所有するデュッセルドルフの新聞社で仕事を始め、偽名を使って記事を書いた。1937年、パンコックはナチスから<退廃芸術家>とのレッテルを貼られ、作品は公共の場から取り払われて、燃やすか破棄された。パンコックはデュッセルドルフから逃げるしかなかった。そして、田舎の隠れ家で第二次世界大戦を生き延びた。
モーリッツ・パンコックは現在ベルリンでヨーロッパのロマとスィンティの現代絵画ギャラリーの設立に携わっている。そして、近い将来ベルリンの展覧会で先祖の作品を飾るつもりだ。それはヨーロッパのスィンティの歴史にとって不可欠だとの思いからだ。「大叔父の絵はハインフェルトの人々の記録であり、ハインフェルトの人々を描いた唯一の現存する絵画なのです。展覧会をやると当時のスィンティの親類や生き残った人々が大叔父の絵のことを聞き付けてやってきてくれます。ワルシャワで展覧会を開いたときは私の名前のことを尋ねる人たちがいました。彼らはうれしそうに言うのです。あなたはパンコックという名のドイツ人画家の親類なのですか。そんな方がいらっしゃるとは思ってもみませんでしたと。」(市橋雄二/2011.5.8)

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