2012年3月アーカイブ

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井上ひさし前夫人、西舘好子による井上ひさしとの25年に及ぶ壮絶な生活回想記。とにかく一気に読ませる筆力はたいしたものだ。手馴れたプロの文筆家では出せない直裁な表現と鋭敏な直感力で、複雑に屈折している作家の心の内側を鮮明に浮かび上がらせた。
元妻という視線で書き上げられた文章は好子氏側からの一方的な見解で、そうしたバイアスがかなりかかったものとして、割り引きながら読んでもやはり相当屈折したこころ模様である。しかしながら、ひさし氏が生きており、反論を書けば、180度違った様相を見せるかもしれない。
井上ひさしは東北生まれ、強烈な個性を持つ母親マスから生まれ、孤児院へ入る複雑な出自を背景に抱き、好子は東京下町のかもじ職人の娘で、チャキチャキの江戸っ子というそれぞれが両極端のバックグラウンドを持つことから生じる亀裂は次第に修復不可能になっていく。
井上ワールドは湿気のある情緒、義理人情を拒否する乾ききった笑いが底流にあり、好子が育った江戸情緒を伝える人情、抒情で繋がる人間関係を否定し、認めないところが出発点みたいなものだ。出会い当初からしばらくは互いにないものをもった相手に新鮮なものを感じながら、次第に相容れない互いの本質がぶつかり合う。
  別れる直接の原因と思われるひさし氏の好子氏への壮絶なDV行為は人間の業の深さを思わせ、暗澹とするし、そうしたデモーニッシュなものを抱えた内面のみが生み出すことが可能な作品群なのかと思うと文学とは何なのかと思う。一将功なりて万骨枯。
しかしながら、読後は後味が悪くないのは何故なのか。好子氏のひさし氏を見る目は澄んでおり、雑念や不純な思いで曇っていないのが救いだ。どろどろした怨念のようなものが感じられない。
芸術至上主義を貫くひさし氏と彼の遅筆から起こる経済的、道義的、世俗的な深刻な影響は各方面に及んでいる。(私も)仕事の中で、接点をもった人々も数人おり、当時を思い出しながらの感慨にもふけったのである。
まず、五月舎の本田延三郎氏。 「井上さんの演劇界での恩人を挙げるとすれば、一も二もなく本田延三郎さんだ。彼の制作による演劇が、井上ひさしの演劇界での地位を決定付けたといっていい。」(235P) 本田氏が渋谷に創設される西武劇場(現パルコ劇場)のこけら落としの芝居に井上を起用しようとしたのだ。そして名作「藪原検校」が生まれた。このとき経緯は忘れたが、当時レコード会社のディレクターだった私にレコード化の話があり、本田さんにお会いした。本田さん直接から話があったのか、人を介してかは思い出せないが、本田さんの奥行きのある人柄はすぐに伝わった。当時の演劇界の巨人だった本田さんだが、そんなそぶりは少しも見せなかった。高橋長英、太地喜和子、財津一郎、演出が木村光一という目も眩むスタッフだった。そして音楽は井上さんの実兄、滋氏がギターの生演奏出演。
その本田さんが痛烈に打撃を受けたのが、本著にも出てくる遅筆による「パズル」の上演中止事件。(1983年)これにより多大の負債を背負ったようである。
人気作家、井上ひさしの芝居は、プロモーターや観賞団体などからはドル箱扱いで、日程が決まれば、公演依頼が殺到する。なんども初日の幕が開かない事件を起こしながらも、上演に至れば、圧倒的な動員を実現し、劇評も好評だ。幕が上がらない事件を何度も起こすひさし氏に、脚本がすべて出来上がってから、日程などを決めればいいと他人は思うが、彼はテーマを決めた脚本依頼があり、芝居の日程が決まらないと書く気が起こらないという癖をもつ。絶望的な状況に追い込まれないと、書けないという生癖は、人から見れば笑ってしまうが、当事者たちは地獄を見る。初日が数日後に迫っても、台本ができず、俳優たちは急に膨大なセリフが回ってきても、覚え切れなく、舞台上でさらしものになるのではないかという恐怖感に襲われ、降板を申し出るものも出る。
小沢昭一さんもひさし氏とは浅からぬ縁があり、主謀劇団、芸能座で井上書き下ろし作品「浅草キヨシ伝」「しみじみ日本・乃木大将」「芭蕉通夜舟」を上演したが、どれも締め切りに間に合ってない。このときは小沢さんとの「日本の放浪芸シリーズ」直後のことでもあり、芸能座の芝居をレコード化する作業を通じて、井上さんの遅筆に翻弄される小沢さんはじめ芸能座スタッフの困惑振りを見ている。 読み物としても面白いが、直木賞受賞や大手出版社や文壇世界の不可思議な閉鎖世界は側面史として、文学界、演劇界、新劇界の裏面史としても貴重な資料である。(出版:牧野出版)
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スウェーデン・ロマの作家カタリナ・<カティツィ>・タイコンの作品は時を経てもなおヨーロッパの多くの人々の心に残っている。タイコンの最も有名な作品である半自伝的な『カティツィ』は1940年代のスウェーデンを生きたロマの少女の物語を描いたもので、もともと子供向けに書かれ1979年にはテレビドラマ化されたが、偏見の現実を描いて大人にとっても示唆に富んだ著作である。
主人公<カティツィ>は9歳のときに養護施設から家に連れ戻されるのだが、施設での彼女はその無邪気さによって当時のスウェーデンでロマが直面していた偏見をさらに際立たせている。この本は異なる文化の理解を助けたばかりでなく、スウェーデンやその周辺国が抱える政治や社会の問題を大人の読者に気付かせることになった。彼女の著作は他の言語にも翻訳出版されており、その影響はさらに広がっている。
カタリナは1932年スウェーデンのエレブルーという町で生まれた。正規の教育を受けずに育ったが、女優としての才能を見出され、1948年には10代の少女の役で映画デビューした。カタリナはロマが平等に扱われることを信念とし、文学の領域のみならずその大義のために闘った。勇敢にも、新聞社や政府、議会、政党に働きかけロマの声を聞くように訴えた。また、スウェーデンのロマに関して大学で講義をおこなったりもした。スウェーデンにおけるロマの歴史は長いが、カタリナはロマについて公に発言する数少ない人間の一人だった。
今日スウェーデンに暮らすロマの人口は4万から5万と推定され、いくつかのサブグループに分かれる。最大のグループはトラベラーズと呼ばれるグループで、14世紀にはこの国に住み始めたとされる。ほかに、フィンランドから移ってきたカーレや1990年代に内戦下のユーゴスラビア、特にボスニア・ヘルツェゴビナから来たおよそ5千人のロマ難民などがいる。
2006年、スウェーデン政府はロマの問題に関する特別委員会を立ち上げ、異なるロマのサブグループから専門家を招聘した。同委員会にはロマの生活水準の改善について提言をまとめることが求められた。
しかし、4年後に50人のEU市民であるロマが突然国外退去にされると、スウェーデン当局は厳しい批判にさらされた。欧州評議会の人権委員を務めるスウェーデン出身のトマス・ハマーベリ氏は、自分の国の人間はロマの差別に力を貸しているとして次のように述べている。「ロマの人々は政治家にとっては社会に対する脅威だと映っているのです。逮捕や集団退去の危険にさらされています。」
そういう意味では、カタリナの妹のローサがユネスコの刊行物に、大人の心から偏見をなくすことは難しいと書いた1980年代から、事態はあまり変わっていないのかも知れない。カタリナはそれをわかっていて、カティツィの物語を書いて子供たちに少数民族のことをもっと知ってほしいと願ったのだ。
 ローサは20世紀を生きたロマとしてその経験を語り続けている。そして、何よりもロマの教育には特に関心を寄せている。彼女は言う。「私はスウェーデンで生まれたスウェーデン国民でありながら、33歳になるまで学校に行ったことがなかったのです。」1982年カタリナは心臓病を患い寝たきりになった。それ以来起き上がることなく、1995年63歳で亡くなった。しかし、スウェーデンにおけるロマの子供の教育に対する思いはヨーロッパのすべての年代のロマの間に響き渡っている。(市橋雄二/2012.3.18)

トリアー監督の最新作~「メランコリア」

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「アンチクライスト」に続くラース・フォン・トリアーの最新作である。まず導入からワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の壮麗な調べにのって、宇宙映像詩が奏でられ、あたかもオペラ・楽劇の序曲のごときである。官能的、神話的なワーグナーの調べで見る者を一気に劇的世界に引きずりこむ力技である。下手すると下心が透けてあざとさに陥るが、トリアーは正攻法で押し切る。
第一部ジャスティン
主人公ジャスティン(キルスティン・ダンスト)が新郎マイケルとともに結婚パーティーに2時間遅れで到着するという導入から、ただならぬ展開を予想させる。パーティーでの数々の異様な光景や振る舞いが次々に起こる。母親による異様なスピーチ、度々、ジャスティンはパーティーを抜けだして豪華なゴルフ場の芝で星座を見ながら放尿し、他人とセックスし、風呂に入る、居眠りをする。ひいては上司にむかって罵詈雑言を浴びせ、その場で首になり、新郎も精魂尽き果てて会場を去っていく。
明らかに精神を病んでいるジャスティンの奇行の積み重ねはそのまま常識社会への反逆性を内包した時限爆弾みたいなものだろう。
第二部クレア
姉クレア(シャルロット・ゲンズブール)は廃人のようになったジャスティンを引き取り、療養させる。クレアはアンタレスをさえぎり、地球に異常接近してくる惑星メランコリアが地球に衝突するのではないかとおびえている。夫は不安から自殺する。一方、病んだジャスティンは「終末」が近づいてくるにつれ、「地球は邪悪だわ」と言いつつ表情が安らぎ、心の平安を得る。ジャスティンは森で拾った木々で「シェルター」を作り始める。
既成の概念や常識がまかり通る世界へのアンチテーゼとしてジャスティンは存在し、病んだ者だけが見える真実を提示する。異常にも思える鋭敏な感覚は地球上の人間社会が長年かかって失ってきた大切なものかも知れない。
心地よい肌触りのいい映画があふれるなかで、トリアー監督のように時には危険な毒を含みながらも常識の欺瞞性を暴き続ける反逆性は貴重な存在だ。己も鬱だとするトリアー監督の次回作を期待する。
映画全体としては構成的に冗漫であり、やや長すぎるシーンも目に付き好き嫌いが別れる作品だろうが、見てから時間がたつにつれ印象度が増してくるのは間違いない。

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