2013年6月アーカイブ

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    カーネギーホールの上に住み、自転車でニューヨークのストリートファッションをとり続けるビル・カニンガム。ニューヨークタイムズの長期連載フォトコラムで世界的な影響力を持つ80歳すぎの「カメラ小僧」ぶりをドキュメントした傑作といえよう。
     安物の青い作業着を身に着け、ニコンを手に自転車でニューヨークの町を飛び回る。その身のこなしの俊敏さとかっこよさに見とれてしまうのだが、ビル・カニンガムは己の美意識に忠実にニューヨーカーのファッションを瞬時にカメラで切り取るのに無我夢中に没頭するのみ。
     このドキュメンタリーフィルムの最大の魅力と成果はまるでカメラ小僧のような躍動と撮る喜びそしてニューヨークの生々しい息吹を記録したことだろう。街とニューヨーカーの生きてるリズム感が弾ける。様々な市井の人々から、周囲のアーチストたち、社交界のセレブまで対象にしながら、透徹した視線で選ばれた素材は独特のカニンガムの世界となり、巨大な影響を持つ。
    しかしながらビルはそうした世俗的な評価や金銭的欲には無縁・無関心で、住まいや食事などにもこだわりを持たない質素を絵に描いたような男だ。
     この映画のもう一つの魅力はこうしたビルの無私無償にも見える行為が金まみれで欲望渦巻く街と一般的に想われているニューヨークで貫かれていることに驚くとともに、涼しい風が全編を流れるのを実感できることだ。
     職人芸の潔癖さ、アナログぶりはデジタル時代にフィルムで撮ることやデジタル紙面編集における編集担当者とのやり取りに発揮される。一見、おおらかで、親和的な雰囲気が横溢しているが、彼の私生活は誰も知らないという。謎めいた彼の内面にはどんな細部も見逃さない研ぎ澄まされた感性が宿っており、休息することがないようだ。
     この映画をより傑作にしたのが、終盤近くのインタビューだ。答えなくなければ、答えないで下さいと、遠慮がちに、生涯独身のこと、恋愛経験の有無、家族のこと、そして信仰についてを尋ねるシーンは迫真に迫るものがある。信仰のくだりで突然嗚咽し、続く無言のシーンはビル・カニンガムの表面的には明るく、のびやかな表情の裏には経てきた人生の襞(ひだ)の深さが忍ばれ、感動的だ。
    完成までに10年、うち8年は映画を撮らせてもらう交渉に費やした、というリチャード・プレスの監督デビュー作は映像の持つ力を再認識させてくれた。
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    2003年、9時間に及ぶ3部作「鉄西区」で山形国際ドキュメンタリー映画大賞を獲得したワン・ビン(王兵)監督、注目の3作目である。
    舞台は中国の西南部に位置する雲南省のなかでも辺境の地、雲貴高原3200メートルにある洗羊塘村。5年前に電気が通じたというから、中国全土で最も『開発』が遅れた地域であろう。わずか80戸の家族が暮らしている寒村だ。この村はかつては少数民族イ族が住んでいたらしいが、漢民族同化政策でいまや漢族の村になったようだ。br> 雲南省といえば25の少数民族が居住し、多彩な民族文化と習俗に彩られ、他地域の中国人にとっても未知の魅力に富む憧憬の土地である。しかし洗羊塘村はそうした憧れとは縁遠く、中国経済の成長の恩恵からも無関係な辺境の村である。
    カメラが見つめるのは3人の姉妹と肉親そして村人たちの日常だ。彼らが暮らす村の家々の家並に目が奪われる。泥と藁と木で無造作に作られ、傷みも激しい。家の中の生活もごくシンプルにして貧しく、衛生的にも問題ありだ。家並の前のちょろちょろとした流れは家事の排水や時には子供たちの排尿の場だ。3姉妹の母親は家出して行方不明、父は出稼ぎで留守。近くの祖父や親戚たちの家に行ったりしながら、姉のが二人の妹たちの面倒を見ている。
    150分にも及ぶ長尺の記録は彼女たちの日常生活をひたすら追うのみである。豚、羊、馬などの世話、食事風景、学校の授業模様、家畜のえさの草刈り、そして燃料になる羊の糞の回収作業等々、次から次に仕事が待っている。
    これらの一寒村の日常を追い続けるカメラワークが意志的に固定された位置を守り、パンやズームやアップはまったく使わない。室内撮影では照明は使わず、自然光の木漏れ日のみに頼り、これが光と影の絶妙な効果を生み、画面はときおりレンブラントの絵画みたいに美しく、切実感で満たされる。
    こうした抑制された取材態度が映像全体に独特な格調と品格を生み出しており、はじめは 目を奪われがちな貧しい環境が次第に別な様相、色彩を帯びてくるとともに、いつしか人間の生きる原初の姿がくっきり浮かび上がってくるのだ。
    家々の泥壁やがたがたの石の道、豚や羊や馬などが圧倒的な存在感をもって迫ってくる。子供たちの顔や表情、祖父の風雪にさらされたしわだらけの顔が美しくなってくる。
    棚田の並ぶ雲南の光景もカメラは美学的に撮ることはせずに、つねにもやに霞んだなかからぼんやり浮かぶ風景として提示される。そして高原を吹き抜ける風の音が防風装置を排したカメラマイクを通じて生きているかのように響く。雲南の大地の咆哮だ。
    出稼ぎから戻った父と連れてきた子守り女と連れ子を交え5人の生活がこれからも続いていくことを暗示して映画は終わる。
    この記録映画からは安易に現実批判めいた告発は感じられない。もっと沈潜した、透徹した視座が感じられると同時に、観るものの視界の奥行きを試されるようでもある。監督の声高なメッセージがないだけ、ワン・ピンの意図を超えて問いの重さにたじろいだ。
    爛熟した、豊かな生活からではなく、貧しいながら働き続ける人々の姿を追うことから人間の生活の基本形が迫ってくるというのは何たるアイロニーだろうか。
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