2014年2月アーカイブ

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    2週間毎にひとつ言語が消滅する。2100年までには今日話されている6,000の言語の半分近くがなくなると言われている。国境を越えた、あるいは地方から都市への移住がひとつの理由だ。移住してきた人たちは普通母語にこだわるもので、少なくとも家庭内では母語を話そうとするが、その子供たちはそうではない。もうひとつの理由として英語の優勢がある。このような流れに対してふんばっているのが、世界におよそ1100万いるロマ(ジプシー)のうち4百万人によって話されているロマ語である。言語の健全さがアイデンティティを形作る上で重要であることは言うまでもない。
     多くの言語とは異なりロマ語には故郷と呼ぶべき国がない。ロマ語の起源はインドにあるが、10世紀以降その話者たちは拡散し移動を続けた。その結果彼らはどこへ行っても言語的少数派となり、また150もの異なる方言が使用されることになった。イギリスでは<アングロ・ロマ語>が話され、フランス、ブルガリアそしてラトビアでは方言間の差異が大きい。ニュージーランドのあるロマはかつてウェールズ地方でのみ聞かれた方言を話す。
     フィンランドに住む29万人のスウェーデン語話者が自分たちの言語を使わなくなる兆候はない。しかし、それはスウェーデン語がフィンランドの2番目の公用語になっていて、すべての学校で必修とされ、隣国の950万のスウェーデン人によって話されているという事情による。アイルランド語が何とか持ちこたえているのは、政府が道路標識や公文書における二言語表記や放送、教育に予算を使っているためで、学校の試験でアイルランド語を選んだ勇敢な生徒には点数が加算される措置がとられている。
     しかし、それを保護する政府もなく、ロマ語はおもに家庭で話されている。研究者や言語学者がロマ語を記述し、標準化しようとしてきたが、ロマ語話者の多くは読み書きができない。アメリカは2000年に行われた国勢調査の記入要領をロマ語でも印刷したが、これはまれなことであって、公的な文書に用いられることは皆無といってよい。書かれたものがないということはそれを教えることが難しいということだ。
    スウェーデンにあるロマ語の学校Roma Kulturklassは世界でも珍しい存在で、35人の生徒がスウェーデン語と英語を除く教科をロマ語とスウェーデン語の両方で学んでいる。しかし、教科書もほとんどなく教師たちが自ら翻訳したものを使わなければならない。
     このように言うとロマ語は死にかけているかのように思われるかも知れないが、少数派としての地位や散らばって話者が存在するという弱点が今やロマの言語を維持する力になっている。理由のひとつは、差別された民族にとってのプライベートなコミュニケーションの手段としての有用性である。イギリス系ロマで作家のダミアン・ル・バスは、警官が来てロマを居住地から追い出そうとする時などにロマ語が真価を発揮するという。慈善団体Human Rights Leagueによると、およそ2万人のロマが去年フランスのキャンプから追放されている。
     多くの方言があるといいながら、一方でロマ語は異なる国にいるロマ同士のコミュニケーションの役にもたっている。抑圧の激しかったところでは、移民することが言語滅亡の危機から逃れることにもなった。スペインでロマ語を話すのは75万人のロマの1%にも満たないが、これは18世紀にロマ語の使用が禁止されたことが影響している。しかし、東欧のロマ語話者はロマ語の再興を先導している。
     ロマ語の使用はインターネットによっても増大している。若者たちはメールやコメントをロマ語で書く方法を様々に編み出している、とマンチェスター大学のヤロン・マトラス氏は言う。ロマの間で福音派キリスト教徒が増えていることも言語使用の機会を増やすことにつながっている。イギリス・ブラックプールのイギリス系ロマとアイルランド系トラベラーのショーンとシェリーは、2001年に東欧からの移民が教会にやってきたときにロマ語を習い始めた。ロマ語は「福音書とともに戻ってきたのさ」とシェリーはいう。宗教的な情熱によってもロマ語は生きながらえることになるだろう。
    (市橋雄二/2014.2.17)
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    昨年末に発刊された小沢昭一の写真集「 昭和の肖像〈町〉」に続いて2月6日から「 昭和の肖像〈芸〉」が刊行された。これで2巻そろっての「昭和の肖像」の簡潔ということになる。 今回の「芸」篇には「昭和の芸人たちー路上の商い、寄席、芝居、見せ物、ストリップ、句友、そして消えゆく放浪芸・・・」の実に多様で、複雑で、懐かしい姿、表情が納められており、昭和という時代に生きた彼らの息吹や、呼吸や、体臭までもが間近に聞こえ、匂ってくる。
    思い起こせば、彼らの芸能的な出自は日本列島の中世にまで遡れ、祖先が漂泊遊行の旅を続けながら、各地に残した芸能の血脈を受け継ぐ昭和の芸能民なのである。
    小沢昭一さんは俳優としての生き方を突き詰めるという、極めて個人的な欲求から彼ら、漂泊芸能の人々に接し、芸能民の中に芸の必然性とも言うべき規範をつかみ取った。それは差別される側に生まれ育ったものが、生きるために仕方なしに歯を食いしばって身につけたお金に換える芸能というものだった。
    ここに納められた写真の数々は、小沢さんが昭和40年代に各地を行脚しながら撮られたものが中心である。どれもこれもが私には懐かしく、思い出に溢れるものだが、冷静に思い起こせば、これらの殆どは今や消滅の境にあるものが多いのだ。
    芸能は時代の要請により、変貌を繰り返すものではあるが、今のテレビ、マスコミなどに現れる芸能的表現にはこの本にある芸能民の持つ時代を撃つような力強さがない。芸能とは、時には時の権力にとり不都合であったり、邪魔なものであり、それだけに庶民の願望や怒りを代弁する存在である。たまには行儀不作法であり、猥雑であるが、人間の本質を鋭く突いた表現も生まれる。
    そうした意味において、ここに納められた芸人は、いずれもお金に換える芸能の腕前を小沢昭一に認められた人々であり、貧しさの中から力強く己の人生を貫いた人々なのである。
    写真集「昭和の肖像〈町〉、〈芸〉」の2冊の内容は重い。視点の斬新さ、予定調和ではないものの見方、見逃されてきたものへの熱い思い、少数者と弱者への視野、正当性、常識への疑い、主流ではなく傍流、中心より周縁・・・。小沢さんの写真を見ているとこのような言葉が思い浮かぶが、小沢さんはこうしたことをことさら大きな声で言い立てたりはしない人だった。そうしたことを恥じるような姿勢があった。俳優として非常に多くの著書を残したが、大きな声でメッセージを述べることはなかった。ただ彼の残してきた仕事をみれば、その思いの総量に粛然と頭を垂れるしかないのである。
    たまたまこの本の巻末解説を依頼され、私なりの思いを書いたが、小沢昭一という存在を的確に伝えられたかというと心もとない。小沢さんの多面的で、重層的な有り様は一筋縄ではいかない。
    筑摩書房刊。
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