2014年11月アーカイブ

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    世界で最も名を馳せたフラメンコ・ギタリストの一人、マニタス・デ・プラタが、11月5日フランス、モンペリエの老人ホームで亡くなった。93歳だった。1億枚に及ぶレコード・CDセールスを誇り、その超絶技巧とステージ上でのカリスマ的な存在感からチャールズ・チャップリンやブリジット・バルドーら著名人の間でも信奉者が多かった。甥のリカオ・ビシエール氏がAP通信社に訃報を伝えたが、死因は明らかにされていない。
     デ・プラタ氏は、本名をリカルド・バリアルドといい、南フランスとスペインの伝統をひくロマ(ジプシー)の名高い音楽一家に生まれた。長らく同胞の聴衆の前だけで演奏していたが、世の中の脚光を浴びるようになると<銀の手>を意味するマニタス・デ・プラタの芸名を名乗るようになった。
    1960年代初頭には、フランス映画界のスター女優バルドーや作家ジャン・コクトー、画家パブロ・ピカソらが絶賛し、<リヴィエラ(南仏)発の大旋風>と呼ばれた。ピカソはマタドール(闘牛士)と闘牛の姿をデ・プラタのギターに描き、こう宣言したことがあった。 「あの男は私よりも偉大だ。」
    1967年には、デ・プラタ氏はシュールレアリズム画家のサルバドール・ダリとともにステージに立ち、ダリがデ・プラタ氏の音楽に合わせて絵を描くというパフォーマンスをおこなった。同じ頃、スクリーン*でデ・プラタと共演を果たしたバルドーはたいそう喜んだ。バルドーはコメントの中で述べている。「マニタスはいつも生きる喜びを湛え、私の青春時代の頃のような気楽な生き方だった。」
     デ・プラタ氏はまだ駆け出しの頃、なかなかレコードを出そうとしなかった。騙されることを恐れていたのだ。通算80枚以上になるアルバムの最初のリリースは1963年のことだった。早弾きのスタイルはたちまち注目の的となり、複雑なフラメンコの曲を時に伝統的な型にはまらない独特のオリジナル奏法で演奏した。最初のアメリカでのコンサートは1965年のニューヨーク、カーネギーホールでのことだった。
     「音は厚く、感情移入は激しく、テクニックは並外れていて、多彩なフラメンコの奏法を熟知していることは誰も目にも明らかだった。」と音楽評論家ロバート・シェルトンはニューヨークタイムズに寄せている。
    ピカソが感じていたようにデ・プラタ氏にはマタドールを思わせるものがあった。引き締まった体、ハンサムで彫りの深い顔立ち、長い髪といういでたちで、右足を椅子に乗せ、一言も発することなく、愛用のスペイン製のラミレス・ギターを奏で始める。手を除けば、体は一切揺れることはなかった。
    早いアルペジオの合間にギターのボディーをドラムのように打ち鳴らす。右手をさっと宙に上げたかと思うと、左手だけで完璧にメロディーを弾いていた。またある時には、ギターを置いて踊り始め、ヒールをタップし、手を打ち鳴らして優美な正確さでフラメンコのリズムを刻んだ。演奏が終わるとギターを前に持って、沸き起こる拍手をギターに捧げようとしているかのようだった。
     リカルド・バリアルド(本名)は1921年4月7日、フランス南部の町セットの移動生活を送るジプシーの家に生まれた。子供の頃、おじに勧められてギターを始め、9歳の頃には天才と呼ばれた。
    デ・プラタ氏は1975年、ワシントンポスト紙に語っている。「先生は自分自身だった。」読み書きを習うことはなく、何年もフランスとスペインのロマの集まりの時だけ人前で演奏していた。子供の頃はフランスのジプシー・ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトをよく聴いていた。デ・プラタ氏はラインハルトが好んだジャズの曲を弾くことは滅多になかったが、時折フラメンコのリズムで即興演奏して、保守的な音楽愛好家を困惑させた。
    本来ソロのアーティストだが、ときどき家族のメンバーとも一緒に演奏した。息子や甥っ子たちがジプシー・キングスを結成し、1980年代からフラメンコ・クロスオーバー・バンドとして活躍したことはよく知られている。息子のうちの一人、トニーノ・バリアルドは現在グループのリード・ギターを務めている。
     1970年代、名声が頂点に達したころ、デ・プラタ氏は1年間に150以上のコンサートをおこなっていた。マセラティ、ランボルギーニ、ロールス・ロイス、メルセデス・ベンツを所有し、熱狂した著名人にはマーロン・ブランド、エリザベス・テイラー、ジョン・スタインベックらがいた。一時は80人もの大家族メンバーを支えていたというが、2011年のインタビューでは、「私はいつもその日暮らしだった。」と語っている。甥がAP通信に語ったところでは、デ・プラタ氏は「ルーレット、高級車、美女に大金を使い、最期はほとんど痛みを感じることがなかった」という。デ・プラタ氏は80歳を過ぎても演奏を続け、人生においてもっとも大事な二つのことは何かと言えば音楽と女だ、と言っている。そして、少なくとも20人の子供の父親だったとされている。1975年のワシントンポスト紙のインタビューでのこと。結婚はしているかと尋ねられ、デ・プラタ氏は答えている。「ああ、毎晩ね。」子供は、と訊かれると、「もちろんさ。フランス、スペイン、そこらじゅうにいるよ。」
    (市橋雄二/2014.11.24)
    *) 1968年に制作された映画"Special Bardot"(邦題「今宵バルドーとともに」)を指すものと思われる。バルドーが出演したテレビ番組を劇場用に再編集した作品で、デ・プラタ氏のほかにセルジュ・ゲンスブールらが出演している。
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    12年間という年月をかけて、6才の少年が18才になるまでの人生模様を描いた異色作。
    メイソン少年(エラー・コルトレーン)はもちろん母親オリヴィア(パトリシア・アークエット)、父親(イーサン・ホーク)、姉(ローレライ・リンクレーター)など4人の俳優たちは変わること無く同じ役柄を12年間演じ続けるという驚くべき映画手法を採用した。
    毎年、或る期間、撮影のために集まるという方法で撮影は続けられたという。
    12年の間に再婚を繰り返す母親、ミュージシャンへの夢を諦めきれないで、ヒューストンで暮らす父親もやがて夢破れ、再婚して子供を得る。週末ごとにメイソンと姉に会いにくる父親。再婚相手には恵まれなくとも己のキャリアアップに邁進し、教師の職を得る努力家でもある母、オリヴィア。
    2002年から2013年までの12年間の撮影の間、アメリカが体験したイラク戦争の影響やオバマ大統領の誕生、ゲーム機ブームなどが織り込まれているが、この映画の本筋は何気ない日常性への限りない憧憬であろう。日常の中にこそ人生の真実があり、何ものにも代え難い価値があることが、淡々とした日常の描写を重ねることでじんわりと浮かび上がってくる。地道ながら説得力がある演出に好感が持てる。
    父との週末のドライブやキャンプで交わされる親子の何気ない会話の数々のシーンが素晴らしい。監督の目配りは家族を囲む周囲の人物像にも届いており、アメリカ社会の実相を浮かび上がらせる。ここには等身大のアメリカの実像が存在している。保守から革新までの曼荼羅模様のアメリカの実像が声高に主張すること無く、ぽつりと吐くセリフのひとつひとつから垣間見える優れた演出だ。
    夫婦が離婚し、それぞれが再婚し、子供をもうけ、前の子供たちとの関係性が問われる社会における家族のあり方や親と子のつながりを考えさせる映画でもある。
    年月の経過とともに大人びて変貌していくメイソン、そして母親、父親たちの年輪を示す風貌や肉体の存在感が、実人生の重みとなってドラマを越えて迫ってくる。とくにメイソン少年の風貌が年月の経過とともに思慮深くなり、優しいまなざしを深くする様子には明日のアメリカの希望を感じさせる手応えがあった。 劇中、一貫して流れるカントリーをはじめとするポピュラー音楽が素晴らしい効果をあげている。監督リチャード・リンクレイターの代表作の一つになる傑作である。原題「boyhood」
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