2015年12月アーカイブ

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    刺激に満ちた柳田国男論である。著者は40年前に柳田国男論を雑誌に連載しながら、本にはしなかった。しかし、東日本大震災で多くの死者が出たことで、気持ちに変化が現れたという。
    遊動民(ノマド)には遊動的狩猟採集民と遊牧民に分けられ、2つは根本的に異なるという。柳田は「山人」(狩猟採集民的遊動民)を重視しつつも、遊牧民的、膨張主義的な遊牧性は否定した。
    初期の段階で山人(やまびと)、漂泊民、被差別民などを論じていた柳田国男が後期には、これらを論じることよりも「常民」と呼ぶものを対象とするようになったことが批判的に語られるようになった。
    柄谷行人はこうした見方を否定し、柳田国男が一貫した思想を抱き続けていたことを論証している。著者によれば、柳田が「遠野物語」を書いた頃は、歴史的に先住民が存在し、その末裔が今も山地にいるとと考えていたようだ。そしてその後も、山人が実在するという説を放棄したことはないという。
    柳田が「山人」に関心を抱くようになったのは九州の椎葉村での衝撃が契機だった。そこで見たのは、平地とは異なる「土地に対する思想」、つまり共同所有の観念であり、生産における「協同自助」だった。それらは彼らが焼畑と狩猟に従事するということ、つまり遊動的生活からくるものであった。この体験以後、柳田は山人について書き始めたようだ。
    柄谷行人は、柳田が椎葉村で見た人々は「山民」であって「山人」ではないといい、柳田自身も区別していたとし、彼は山人を先住異民族の末裔だと考えていたという。そして柳田は椎葉村に「異人種」である山人が先住し、そのあとに山民が来たとみている。
    先住民は追われて山人になった。そのあとに移住してきた人々が山民である。彼らは農業技術を持っており、狩猟採集もした。柳田の考えでは彼らは武士=農民であった。彼らは平地に水田稲作とそれを統治する国家ができたあとに、それから逃れたものであり、平地世界と対抗すると同時に交易していた。東国や西国の武士も起源においては山民であった。その中で、武士が平地ないし中央に去ったあとに残ったのが、現在の山民である。
    純粋に狩猟採集民であった山人は、このような山民とは異なるはずだが、実際に、山人を見出すことはできない。ただ、山民のあり方からそれを窺い知ることができるだけなのだ。 柳田が山人について書かなくなってからも、諦めていたのではなく、彼は「固有信仰」の研究にそれを求めていたという。
      「固有信仰」は稲作農民の社会では痕跡しか残っていない。それはむしろそれ以前の焼畑狩猟民の段階、遊動民社会に存在したものだという。柳田のいう「固有信仰」の背景には、富と権力の不平等や葛藤がないような社会があったと柄谷行人は推定する。
    遊動性については柄谷行人は歴史家網野善彦の仕事と対比しており興味深い。網野は中世における天皇支配権の基盤を非農業民に見た。南北朝時代に、後醍醐天皇は、非農業民や"悪党"と結託することによって、武家政権に対抗した、など。しかし山人、すなわち遊動的狩猟採集民と、職人・芸能人のような遊動民は類似性とともに決定的な違いもあるとする。それは権力との距離感などを意味するのか。
    「定住・定着」と「遊動・漂泊」という2つの概念から無限の問題が導き出されるが、 「遊動論 柳田国男と山人」からは原理的で多様性に富んだ示唆の補助線が巡らされており、スリリングな体験だった。 (文春文庫)
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    映画「さようなら」は様々な刺激と新鮮さに溢れた意欲作だ。テーマ性、映画手法、アンドロイド映画等々、関心を集める要素が散りばめられている。
    舞台は放射能に侵された近未来の日本。日本の国民の受け入れを表明した海外の国々へ次々と出国していく。避難優先順位下位とされた南アフリカ出身の難民、ターニャと幼いころから病弱な彼女をサポートするアンドロイドのレオナは廃墟のような土地で最後の時を過ごす。
    劇作家・平田オリザがロボット研究の第一人者である石黒浩( 大阪大学教授・ATR石黒浩特別研究所客員所長 )と共同して、人間とアンドロイドが舞台上で共演する「さようなら」を上演し話題を集めたが、深田晃司監督が映画化に挑戦した。
      映画の中心となるアンドロイド・レオナ役を演じるのは、石黒氏らが開発したアンドロイド、"ジェミノイドF"。バラエティー番組「マツコとマツコ」でもそのリアルな存在は広く知られるようになった。主人公・ターニャには同舞台でも同じ役を演じているブライアリー・ロング。
    放射能に汚染された死にゆく世界を、淡々と、静かなタッチで見詰め尽すような映画で、そこには告発も、メッセージ性もそぎ落とし、美しい荒涼さに溢れた画面を通して終末間際の輝きまでも垣間見える。自然光と影のコントラストが秀逸で、控えめな音楽が好ましい。
    ターニャにアンドロイドのレオナが谷川俊太郎、アルチュール・ランボオ、カール・ブッセ、若山牧水などの詩を無機質に読み続けるシーンは、レオナの無感情な表情故の味わいを生んでおり、この映画全体の主要テーマの通奏低音になっている。
    地球の運命を静かに暗示するこの映画が時代を撃つ力となりうるのかを見ていきたい。
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