2016年6月アーカイブ

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    本ブログでは開沼 博の著書は「フクシマ論 原子力村はなぜ生まれたのか」「はじめての福島学」の2冊を取り上げてきた。前者は原発のある地域の人々の心の中の本音やひだを丁寧に探りだした画期的なフィールドワークの労作で、後者はそれらの知見を積み上げ、一切の予断や常識的な判断を排し、過度の楽観主義や悲観主義からも解き放たれたフクシマ論だった。
    本著「福島第一原発 廃炉図鑑」は開沼が繰り返し主張してきたように、原発にまつわる固定化したイメージを見つめ直すことのきっかけを模索する好著である。何よりの特徴は図鑑形式であることで、長々とした大論文は載せていない。そしてどこから読み出したり、写真からはいってもよし、漫画からはいってもよしの面白図鑑風な造りが出色だ。編集工学的にも優れた編集だ。
    執筆陣は社会学者の開沼博、廃炉現場で働いた体験を漫画「いちえふ~福島第一原子力発電所労働記」にした竜田一人、元東電社員で復興支援に取り組むAWF代表の吉川彰治の3名。
    序文に開沼がこの著の基本的精神を「批評の本」と定めており、社会の健全なダイナミズムは批評の言葉や批評的な態度から生まれ、それらがなくなるのではないかという危機感が開沼の問題意識だ。ステレオタイプなものの見方から脱する作業は「周縁にあるとされているものを中心に位置づけ直す作業」だとも換言する。一段下のものと思われていたりするようなものにこそ価値があることを示し、新たな、創造的な側面を提示する。この指摘は鋭い。
    以下の各論は4章に分かれ、
     第1章・福島第一原発、最大の問題は何か
    「結局、トラブル続きでALPSは動いていない」と思っている人は一定数存在するが、実際は汚染水の浄化処理は計画的に進められてきて、現状では大きな山を越え、一段落しているというのが「廃炉の現場」の現実だという。「汚染水は増え続け、海に大量の放射能物質が流出し続けている」などの「固定化したイメージ」と「事実」は必ずしも一致しまいという。メディアが何か異常なことが起きた時、センセーショナルな論調で報じるが、その後の後追い報道は殆どない。こうした点を事例、グラフなどで説明している。
     第2章・廃炉とは何か
    ここでもグラフ・イラスト・漫画などを駆使しながら廃炉作業の段取り、問題点などをわかりやすく説明する。特に汚染水対策とその方法などはイラストによる説明で素人にもわかりやすい。また、燃料デブリについても様々な角度から分析する。問題のデブリ取り出しは「冠水工法」「気中工法」のどちらかでという問題が進行中とのこと。
    以下、第3章は1F周辺地域はどうなっているのか、第4章は廃炉をどう語るのか?となり、周辺の宿事情から福島浜通りのサーフィン事情まで触れている。また糸井重里と小泉進次郎へのインタビューなどもある。
    とにかく、メディアが断片的に報道していることの誤謬の連鎖は深刻な問題で、いかに事実を知らされていないかを実感するのみだ。現在進んでいる状況を客観的に、科学的に、冷静に知ることから全て始まる。楽観主義、悲観主義を乗り越えて事実を見つめ直すことからしか未来は生まれない。原発に賛成する人も、反対する人も、迷っている人もこの図鑑をざっとでもいいから読んだり、見たり、眺めたりして、ある程度、同じ理解レベルを共有することから論争でも喧嘩でもすることである。 この図鑑を編纂する莫大な労力と柔軟な思考に敬意を表する。
    発行:株式会社太田出版
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    一見奇抜そうな設定やポップな描写に目を奪われるが、次第に人間共通に抱える普遍的なテーマに収斂していくファンタジー・コメディである。
    ブリュッセルのアパートで妻と娘と三人で暮らしている神様はパソコンを駆使しつつ世界を支配している。10年間、一歩も外に出ないで、邪悪な法則などを作って、人間の運命を弄んでいる。
    ある日、そんな父に反発する10歳の娘、エアは人間たちに、運命に縛られずに、自由に生きて欲しいと思い、人の余命を知らせるメールを全てに送ってしまう。突然、自分の余命を知らせるメールを受け取った人間たちはパニック状態に陥る。
    エナは家を出て、新たに六人の使徒に会って、「新・新約聖書」(原題)を作ることにする。現代社会に急激に蔓延したIT社会だからこそ設定できた奇想天外な舞台設定だ。
    余命を知らせるメールを受け取った人間たちはいかに行動し、自分に向き合うかという基本的で、本質的なテーマが浮き上がってくる。
    エアが会う市井の人々や六人の使徒との語らいや思いを軽妙洒脱に、時にはホロ苦く描きながら、ぬくもりを湛えた視線が優しい。
    監督は1957年ベルギー生まれのジャゴ・ヴァン・ドルマル。キャリアの長い割に寡作ながら独自の才能の持ち主と言われている異才だ。家にあるキリスト像の置物が動き出して喋り出したり、カトリーヌ・ドヌーブとゴリラとの絡みなど、意表をつく描写が楽しい。エナが使徒たちから感じ取る音楽が効果的に使われており、シューベルトの「死と乙女」シャルル・トレネの歌う「ラ・メール」などの流れるシーンが懐かしく、心情をくすぐる。
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    有川浩原作の恋愛小説の映画化であるが、原作など読んでいないものにも、ついつい引き込まれてしまい、映画的魔法ともいうべき世界に魅了される。
    勤め先の不動産屋では理不尽な上司にどやされ、帰宅後の食事はコンビニでのカップ麺という冴えない、ちょっと孤独な一人暮らしのヒロイン・さやか(高畑充希)。ある日、アパートの前で青年(岩田剛典)がうずくまっているのに遭遇し、家に泊めてやる。半年の期間の同居人という約束での共同生活が始まるが、青年の植物へのただならぬ深い知識や山菜などを駆使しながらの料理の腕前の見事さ、毎日作ってくれる多彩な弁当の彩りなどにさやかは強く惹かれていく。
    前半は快調に二人の生活ぶりを予定調和的に描くのだが、この辺り快調なカットの積み重ねが心地よい。二人で自転車で野草や、山菜取り、花畑などへ行き、収穫したふき、フキノトウ、ノビル、つくしなどで数々の家庭の味を作り上げていく一連のシーンには年配者などは懐かしさに、胸が詰まる思いだろう。この青年がどうしてこんな知識と腕を持つのかを推測もしないままに。
    そして半年が過ぎて、青年は姿を消す。必死になり、青年を探すさやか。ここからがこの映画の真骨頂で、あたかもさやかの心情のうねりに同化・共鳴するようにカメラは動き、演出は冴え、恋愛映画としての情感も漂わせながら堂々のラストへとなだれ込んでいく。
    ついつい、さやかの心情の一途さにほだされ、いつの間にかさやかに感情移入してしまうほどの映画的興奮がある。ちょっと大げさな比較だが、成瀬巳喜男の「浮雲」、「乱れる」で感じたものと同種のものだ。
    さやか役の高畑充希は目下、朝ドラの主役で人気者だが、単なるアイドル的な女優というより、類い稀な潜在力を秘めた逸材だと思わせる存在感がある。聡明さ、ひたむきさをたたえた眼差しが力強く、伸びやかだ。監督は「トリハダ」などのホラー作品を作ってきた三木康一郎。テレビで練り上げた感性を映画の世界でも生かして、今を体現した面白い作品を期待したい。     
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