2017年2月アーカイブ

  • トップページへ
     フラメンコを題材にした映画は数多いが、本作はロマ(ジプシー)の視点からその歴史が語られる点で興味深い作品である。
     歌い手の男性がインタビューの中で、自分はかご作り職人の父親と物売りの母親のもとに生まれたと語るシーンがある。2002年にアルメニアのジプシー、ロムの人びとを訪ねた際に首都エレバン郊外で出会ったかご作り職人のことを思い出した。
    かご作りはインドの世襲的職能集団(ジャーティ)の一つである。そしてアルメニアはインド北西部を出立したロマの先祖のうちのいくつかのグループがヨーロッパに到達する前に長期間留まった場所で、そうしたグループはかご作りを含むさまざまな職能集団によって構成されていたと言われている。
     映画は洞窟フラメンコを生んだグラナダのヒターノ(ジプシー)集住地区サクロモンテで育ったダンサー、歌い手、ギタリストの語りと実演によって進行するが、回想の背景に映し出されるモノクロームの古い写真の中に目を見張る一枚があった。その写真には、もみあげ部分に髪油をつけてカールさせた女性たちが写っていた。この髪型は、2001年にインド、ラージャスターンの砂漠の村で遭遇したジョーギーと呼ばれる門付けを行う職能集団の女性のものとそっくりだ。
     こんな記憶も蘇った。別の機会にインドを旅していた時のこと。たまたまホテルの部屋でつけたテレビで、フラメンコとカタックのダンサーが競演する番組をやっていた。番組からは両者の歴史的なつながりを視覚的に表現しようとする制作意図が感じられた。
    カタックとは北インドに伝承される民族舞踊で、弦楽器や打楽器の伴奏で踊る。踊り手は足首に小さな鈴をいくつも取り付けたアンクレットを巻いていて、ステップを踏むとシャンシャンと音が鳴る。回転しながら小刻みにステップし、最後に強く床を踏み叩いてキメを作る動作などフラメンコとよく似ている。フラメンコの手拍子パルマで刻むリズムも、北インドに見られるカルタールという2枚板の楽器が打ち鳴らすそれを彷彿とさせる。
     このような例を細かく挙げ出すとキリがない。とは言え、もちろんすべてをインドから来たロマが携えて来たわけではない。フラメンコの誕生に、イスラム王朝の支配下アフリカ北部マグレブ地方との文化混淆を経て醸成されたスペイン南部アンダルシア地方独特の音楽や舞踊との接触があったことは言うまでもない。ただ、そこには遠いロマの原郷の暮らしを思わせる要素もまた確かに見出すことができるということだ。
     映画は終盤に来て一人の女性ダンサーが見事なクライマックスを作り出す。アルバ・エレディアという名のそのダンサーの切れ味鋭くもしなやかな身のこなしと深みを湛えたその表情は一度見たら忘れることができないほどの衝撃だ。1995年生まれというからまだ二十歳そこそこである。この先の活躍が楽しみな逸材で是非ライブを見てみたいと思っていたら今年の秋に来日公演の予定があるという。これは見逃せない。
    (市橋雄二/2017.2.23)
  • トップページへ
     ついにと言うべきか、やっとと言うべきか、記念すべき労作が出た。常に我々日本人の精神的な土壌は何なのか、どこから来るのか、日本人の美意識・宗教観・倫理観・死生観などはどうして今のようなものになってきたのだろうか。
    俳句を嗜み、茶道に親しむ、花見は年々盛んになる。一方、日本人はどうして洗浄トイレのようなものを作ってしまうのか・どうして異常なまでの清潔志向なのか・新幹線や電車などのダイヤはあれほど秒単位までに正確に運営してしまうのか、それほどまでの正確さは必要なのか、このようなキチキチした社会はストレスを生むのではないか、などなど日頃、日本の不思議なまでの特殊さーはどこから来るのか。日本に似ている国は地球上にあまりない。日本だけが特殊だと言うことに、多くの日本人は気がつかない。
    これらの現象も突き詰めていけば、日本人のメンタリティーに起因するのだろう。これらの疑問を考えていくには日本人の精神がどのようにして形成されてきたかを、歴史的に丁寧に遡って考えるしか方法はないのはなんとなくわかっていたが、考えるだけ、気が遠くなる作業が待っている気がして、恐ろしくなって、思考停止してしまうのである。
    著者、長谷川宏はアカデミズムを離れ、学習塾を開くかたわらヘーゲル研究家として高く評価され在野の哲学者として活躍してきた。
    膨大な労力と知的集中力・持続力を要求される作業に構想20年、10数年の執筆期間を経て、完成したのが本著である。上下巻で千ページに及ぶ大著だ。
    日本の美術・思想・文学を列島に生きた人々の心の軌跡〜歴史として丹念に辿り、平明な文体で描き切ったことは驚くべき業績だ。三内丸山の縄文遺跡から始まり、江戸時代末期の「東海道四谷怪談」に至る数千年に及ぶ長大な思索の旅である。
    主な項目をあげると、上巻は土偶・銅鐸・古墳そして仏教の受容、「古事記」、「万葉集」、鑑真和上像、最澄と空海、「源氏物語」、運慶、法然と親鸞、などの本質をつかみ出し、下巻では「新古今和歌集」、「平家物語」、「一遍聖絵」、「徒然草」、能と狂言、茶の湯、宗達と光琳、伊藤仁斎と荻生徂徠、西鶴・芭蕉・近松、蕪村、浮世絵に及ぶ。
    そして特筆すべきは、これらの著述が極めて平明簡潔な日本語で記されており、学者用語、学術用語などがあまり使われていないこと。そして原文そのままの引用ではなく、ほとんどが著者の訳した現代文で書き起こされていることである。そのため、読み人は引用原文を読みこなす苦労なしに、すんなりとこなれた平明な文体に置き換えられた原典の世界に入り込めるのである。これは、すべての原典の本質的な理解がなければ、不可能な作業であり、この著の最大功績である。
    それぞれの項目について、著者は単なる分析だけではなく、己の心の奥底にどのように響いたかや著者の魂の揺らぎまで類推し、当時の著者や人物の心の襞まで掘り起こす作業をしている。そしてその記述は、冷たい分析的なものではなく、温もりに溢れている。
    個人的に引き込まれたのは、万葉集、空海への言及、親鸞への愛着、「平家物語」の抒情、西鶴、近松の記述などであったが、これは読む人々のこれまでの背景が影響するので、人それぞれが己の個人史を辿る旅でもあるのだ。
    「自分の相手としている精神の豊かさとは日本という一国や一地域の精神を超えた、普遍的な精神であるとの思いが育まれた」という著者のあとがきに記された思いが、全変にあふれているところが、この著を稀代の傑作足らしめるだろう。(講談社刊)
  • このアーカイブについて

    このページには、2017年2月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

    前のアーカイブは2016年12月です。

    次のアーカイブは2017年3月です。

    最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

    月別 アーカイブ

    ウェブページ

    Powered by Movable Type 4.261