2017年7月アーカイブ

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    鬼才〜9年ぶりの監督作。「アンダーグラウンド」(95)「黒猫・白猫」(98)などで圧倒的な評価を獲得したクストリッツァは「オン・ザ・ミルキー・ロード」でさらに広く深く、表現世界を深化させた。
    話は戦火の中で展開する愛の逃避行だが、戦乱が日常化している村で運命的な出会いを果たしたミルク運びの男、コスタ(エミール・クストリッツァ)と花嫁(モニカ・ベルッチ)の出会いと別れを重層的で、悲喜劇的で、寓話的な世界に昇華させた。
    主人公のコスタは右肩にハヤブサを乗せ、晴れた日でも傘を差し、砲弾の中、前線の兵士たちにミルクを配達する男だが、村の英雄に嫁ぐために現れた謎の美女(モニカ・ベルッチ)と出会い恋におちる。やがて彼女の謎の過去によって、村が襲われ、二人の逃避行が始まる。
    クストリッツァへのインタビューによれば、ユーゴスラビア、アフガニスタン、ボスニアでの印象的な寓話をヒントに企画されたという。
    頻繁に出てくるオンボロ古時計をスラップスティックの乱痴気騒ぎで描いたり、婚礼前夜の祝祭をノスタルジックなジプシー音楽・バルカンミュージックで歌い上げ、甘い陶酔と幻想性に満ち満ちた世界を現出させたかと思うと、村中が戦火にまみれ、村人が殺されるリアルな描写があり、 一方ではハヤブサ・蛇・ガチョウ・ロバ・熊・羊などと人間たちとのスーパーコミュニケーションが寓話的に語られる。
    寓話と現実世界との融合が民族調な色彩感の中で展開し、マジカルでリアルな両義性が強い説得力で迫ってくる。祝祭と破壊が同時進行する悲(劇)喜劇。人間が歴史的に、宿命的に内在してきた善と悪の両義性に対する冷徹な視線が垣間見える。
    印象的なシーンは、謎の美女が難民キャンプにいるときに、毎日同じ映画を観て涙を流していた。というシーンだが、この映画な日本では「戦争と貞操」(57)という邦題で公開されたソビエット映画で、原題は「鶴は飛んでゆく」だった。1958年のカンヌ映画祭のグランプリを獲得した注目作だった。
    モニカ・ベルッチがインタビューの中でエミール・クストリッツァのことを「スケールが大きくて、まるで人生を丸ごとガリガリと噛み砕いているような人」と述べているのが印象的だったが、確かにエミール・クストリッツァの世界には、セルバンテスの「ドン・キホーテ」的な匂いも感じられるし、フェリーニのサーカス見世物的な語り口も感じる。ただフェリーニとは決定的に違うのは、知性の含羞とは縁がないということだろう。
    彼、クストリッツァの作品の底流を流れる通奏低音は人間の両義性を超えて、人間と未来を信じたいと願うヒューマニズムへの希求があるような気がしてならない。アイロニカルな知性ではなく鋼の知性がエミール・クストリッツァのバックボーンであり、彼の流麗な語り口、テンポ感に身を委ねながら、クストリッツァのみが切り開いた地平に耽溺できるのは至福の時である。(9月15日TOHOシネマズ シャンテ他ロードショー )
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     インドのラージャスターン州で独特の踊りを伝承する芸能民カールベーリヤー。2001年の夏、ジプシー(ロマ)音楽のルーツを探るため同州のジャイサルメールという町で音楽調査をおこなっていたとき、巡礼のためウダイプルから来ていたその芸能一座に出会い、躍動的でアクロバティックな「生きた」芸に魅了された。

    黒地に赤、白、黄、緑など色鮮やかな飾りをつけたブラウスとロングスカートを身にまとった女性ダンサーが体をくねらせ旋回する踊りは、近年欧米諸国や日本でコンサートツアーをおこなうラージャスターンの音楽芸能グループのショーの一部に組み込まれ、世界的に知られるようになった。
    元来カールベーリヤーは、シヴァ神を信仰する門付け漂泊芸能民ジョーギーのサブグループで、かつては蛇遣いの芸を見せながら村々を回り、蛇に噛まれた人の治療を施したり、蛇退治の呪文を唱えて民家に入った蛇を捕まえたりするなどのサービスを提供し、各地の寺院の祭礼に赴いては地元の楽師と一緒になってさまざまな芸能を奉納芸として披露し人々を楽しませていた。時折現れては去っていく漂泊の芸能者は定住の農民や商人からは畏れられ、遠ざけられながらも、一方で特別な能力を持つ異形の祝い人として受け入れられていた。時代は変わり蛇遣いの部分が失われて芸能の部分だけが残された。
     先日、ラージャスターンが舞台だというのでたまたま見たヒンディー語映画に〈カールベーリヤーの女〉が出てきて思わず目を見張った。『Dhanak(ダナク/英題はRainbow)』(ナーゲーシュ・ククヌール監督)というタイトルの子供を主人公にしたヒューマンドラマで、2015年のベルリン国際映画祭でプレミア上映され、日本でも同年〈こども国際映画祭in Okinawa〉で上映されている。日本ではその後劇場公開されておらず、今回映像配信サービスを利用した。アメリカの会社が日本でおこなっている月額制の映像ストリーミング配信には世界各国の新旧映画作品が日本未公開作品を含めて豊富にラインナップされていてかなり利用価値が高い。今回の映画も『レインボー』という邦題で日本語字幕付きで観ることができる。
     映画はラージャスターンの田舎の村に暮らす目の不自由な8歳の男の子と二つ年上の姉が主人公で、ある日姉があこがれの映画スター(実在のシャー・ルク・カーン)が大写しになったポスターを見つけるところから物語が展開する。よく見るとそこには角膜移植のドナー登録を呼びかける言葉が書かれていた。このスターに頼めば弟の目を治せるかも知れない。その後スターが同じ州で映画のロケ中だという話を聞き、お金のかかる手術を諦めている親に内緒で、弟を連れてスターに会うため旅に出るのだが...。
    二人は途中道に迷ったり大人に騙されたりとトラブルに見舞われ、その都度誰かに助けられながら旅を続ける。その助っ人は旅芸人であったり、バックパッカーの旅行者であったり、家族を失くして精神を病んだ男であったりして、周縁を生きる人々が持つ超日常的とも言うべき力によって遂にスターのもとにたどり着く。
    女優が演じる〈カールベーリヤーの女〉もそんなマージナルな存在の一つとして、黒い衣装に身を包んで登場する。一難去ったところで人の良さそうな男の車に乗せてもらうと実は子供さらいで、睡眠薬入りのお菓子を食べてしまい万事休すという時に、道路工事を装って道を塞ぎ、銃で脅しながら男から金品を巻き上げ、子供達も無事助けるという役回りだ。その後、カールベーリヤーの一団がテントを張って宿営する場面で、魔法つかいの老婆が出てきて「占いでお前たちが来ることはわかっていたのだ」という話をするところなど、カールベーリヤーに対するステレオタイプなイメージがよく表れている。それはかつて蛇遣いとして村々を渡り歩いていた時に定住民の側が抱いていた固定観念と共通するものだ。映画ではカールベーリヤーの登場シーンは5分程度だが、マンガニヤールの楽師たちと楽しそうにラージャスターン民謡「ゴールバンド」を歌うシーンもあって総じて明るく描かれている。
     カールベーリヤーをそのまま描いた映画はトニー・ガトリフ監督の『ラッチョ・ドローム』をはじめいくつかのドキュメンタリー作品があるが、本作のように女優が演じる映画は初めて観た。筆者が知らないだけかもしれないが、冒頭に書いたように今や世界中に知られるようになったカールベーリヤーの存在感と無関係ではあるまい。アメリカの映画データベースサイトで本映画を調べると、〈カールベーリヤーの女〉を演じた女優の役名はGypsy Womanと出てくる。
    (市橋雄二/2017.7.18)
  • 真情溢れる恋愛小説〜又吉直樹「劇場」

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    日本芸能史をふりかえれば、その時代の花形芸能に才能が集結してくるというのは様々な事例が証明している。浪花節全盛時代には広沢虎造、天津羽衣などの人気が他を圧倒し、歌謡曲が主流になると美空ひばりを筆頭に多くの才能が開花した。お笑い、漫才がテレビの主流を締める現在はユニークな才能を持つ若者がここに集まってくる。
    又吉直樹の才能もこうした文脈で捉えると興味深く、その作品の底流に流れるのは芸能者としての表現行為への突き詰めた思いであろう。デビュー作の「火花」には漫才師として葛藤する姿がビビッドに描かれ、安定感ある文体と透徹した自己洞察力には、作家としての将来性を期待させるものがあった。
    「劇場」はさらに文体に硬質性・抒情性・静謐性を増し、全体に抑制が程よく効き、熟練度が上がったと思われる。主人公は演劇を志す若者で、複雑に屈折した心情に己も悩まされつつ、演劇には正面から立ち向かっている青年である。
    彼が目指す演劇とは、「・・・感情が様式をなぎ倒すような強靭なものを作りい。・・」「・・人間の根本的なものと向き合うものを書いてみよう。幾日か洗髪していない人間の頭皮の生々しい匂いや、かさぶたを剥がし血がにじんだ時の痛みを書こう。」
    というような方向性を持ちながら、創作する動機としては
    「表現者の自己救済だけではなく 、その根幹に遊戯として楽しもうとする大衆性が備わっていることが」理想だと思っているらしい。
    全編を通じて永田という男が己の才能に悩みつつ、周囲の演劇仲間たちとの間に交わされるそねみ・妬みから生じる感情的摩擦などを超えて演劇への真摯さを保持し続ける日常を丁寧に表現している。題材からすると、「火花」以前にある程度、書き進められていたもののようだ。
    とはいえこの小説は明快に恋愛小説であり、永田の少々いじけた風な心にヘキヘキしながらもなぜか引き込まれてしまうのは、永田の恋人である沙希の存在と二人の間に交わされる会話の絶妙な面白さに負うところが大きい。これは又吉の独壇場で、お笑い芸人として習熟し、獲得してきた才能という宝である。
    これらの魅力的な会話・対話から、沙希という女性の姿・声・匂いまで具体的に立ち上がり、実在感に溢れる女性・沙希が眼前に現れる。不器用で、屈折した永田にとっては救いを求めるマリアみたいなものだろう。
    印象的なシーンは多いが、例えば、散歩が趣味みたいな永田が商店街を何がなく歩いている時、酔っ払い中年男女にあった際、向こうから「夕焼けを背負った自転車を押す母親と、そのそばを歩く赤いほほが印象的な少年がやってきた。」この少年が空手の型をくりかえしながら、前に進むと酔っ払い中年男女も「お兄ちゃん、かっこいいね」道を譲りながら、声をかけた。この時、永田の目に入った、母親の恥ずかしそうな表情、夕暮れの光、複雑に交差する電線の隙間からのぞく空、かすかに聴こえる電車の音・・・これらの完成された風景を見て、永田はこんな風景を作りたいと思うシーンの描写は胸を打つ。日常的な風景が突然、とても貴重な存在として、突然再認識される美しい文章だ。
    そして永田(又吉)がこの世に価値あるものとする真情が好ましく、信頼感が湧くシーンでもあった。
    全体の流れは永田が演劇のあり方や、表現することへの尽きぬ思いや才能を持つものへ抱いてしまう妬みの感情に悩む己への嫌悪感など、繰り返し屈折した永田の感情の彷徨が語られるのであり、そうした意味では芸能者として誰もが持つに違いない鬱屈した感情が痛々しいほどである。さらに己の才能に対する絶え間ない問いかけが息苦しいほどだが、これらのすべての感情を一気に浄化してくれる存在が沙希という女性なのであろう。永田の沙希に対する気持ちだけは確固・不動なものとして信じられるものであるという点で純粋な恋愛小説として十分な成功を収めたといえよう。また、何気ない日常風景への描写が滋味深い洞察に満ちており、作品の奥行きを深くしている。
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