2017年11月アーカイブ

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     来たる12月1日は、インドにおけるロマ(ジプシー)研究の第一人者で、世界各地のロマの連帯に尽力したW.R.リシ博士(1917-2002)の命日にあたる。文字を持たず自らの歴史を書き記すことのなかったロマの人々の来歴に関する研究は久しく欧米の非ロマの研究者やジャーナリストらによって進められてきた。現在では米テキサス大学のイアン・ハンコック教授に代表されるロマ出身の研究者が積極的に発言するようになってきているが、ロマの故地とされるインドからの発信は意外に少ない。
    そのような状況の中、リシは早くからロマがインド人の同胞であることを訴え、その地位向上に努めた。今年(2017年)はリシの没後15年と同時に生誕100年の記念の年でもあり、この機に半生を振り返ってみたい。
     リシは1917年、かつてロマの祖先が出立したとされるインド北西部のパンジャーブ州に生まれ、苦学の末公務員の仕事に就いた。第二次大戦後のインド独立の激動の時代、語学の才能が認められてロシア語の通訳として外務省に登用され、モスクワ大使館勤務時にはネルー首相のソ連訪問に随行した。ソ連赴任中ロマと出会い、彼らの話す言葉に接して直感的に同胞であることを意識したという。ヒンディー語とロシア語の辞書を作る一方でロマ語の研究にも情熱を注ぎ辞書や著書を多数出版した。これらの言語研究により後年政府からパドマシュリー勲章が贈られている。
     その後、シンガポール、北京を経てロンドン大使館に勤務していた1971年、各国でのロマ連帯の動きの高まりを受けて、同地で第1回世界ロマ会議が開催されることになった。そしてこの会議に50がらみのインド人紳士が現れた時、集まったロマたちはこの人物が何者か知る由もなかった。やがてインディラ・ガンディー、ニキータ・フルシチョフ、フィデル・カストロなど世界の政治指導者の通訳を務めたインド大使館の外交官だと知らされた。しかしなぜインドの外交官がそこにいるのか。この人物が、当時まだ広く認知されていなかったロマとインドとのつながりを熱心に語る姿に、参加者たちはようやくその理由を理解したという。リシにとってロマの人々はパンジャーブからヨーロッパに渡った同郷の移民にすぎなかったのである。
     同会議では「ロマ」を正式な民族呼称とすることや国歌や国旗に相当する歌や旗などが定められた。その際リシは国際的なロマの連帯の動きはインド国旗に使われているチャクラ(法輪)によって象徴されるべきだと訴えた。参加者によっては、長く忘れ去られていた民族の起源を声高に唱える外部の人間が自分たちの新たな象徴を決めることに反対する者もいたというが、結局チャクラのデザインが採用された。ロマの民族旗は青と緑の二本のストライプの中心に赤のチャクラが組み合わされたものだが、青は天、緑は自然との共生を表し、赤のチャクラはロマがたどった移動の歴史とそのルーツがインドにあることを象徴しているという。
     1973年、外交官を引退し、パンジャーブのチャンディーガルにロマ研究所(Institute of Romani Studies)を設立。ロマの文化、言語、生活の研究をおこない、その成果を自らが発行する機関誌「ROMA」に発表した。1990年代には私設のロマ博物館を作るなどする一方、創設メンバーとして関わった国際ロマ連盟(International Romani Union)や世界ロマ会議(World Roma Congress)においても長くロマの国際的連帯に重要な役割を果たした。近年、海外同胞支援を含む国際交流事業を担うインドの政府機関(インド国際協力協議会(Indian Council for International Cooperation))がロマに対する関心を強め、毎年4月8日の<世界ロマの日>にニューデリーで祝賀行事を開催するなどの活動をおこなっているが、インド政府がまだロマの問題に関心を示していなかった2002年の<世界ロマの日>の式典で、ロマのインド出立1000年を祝う開会の挨拶を行なったのはリシであった。
     今後インド国内でロマに関する関心がどのように高まっていくのか、そしてそれが世界に向かってどのように発信されていくのか注目していきたい。ロマが千年の時を超えて独自の言語や文化習俗すなわちアイデンティティーを保ち続け、それが故に国は持たずとも一つの民族集団たりえているのはなぜなのか。ロマのインド起源説につきまとうこの疑問に答えを与えられるのはインド人自身なのかも知れない。
    (市橋雄二/2017.11.21)
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    中国をテーマにしたルポルタージュはおびただしい数が刊行されているが、多くは先入観やバイアスのかかった偏見が垣間見られ、あまり読む気が起こらなかったが、この「3億人の中国農民工 食いつめもののブルース」には今までにない、新鮮な切り口・視点を予感させるものがあり、一気に読み通す結果となった。
    2008年の北京五輪や2010年の上海万博をテコに国作りを進めていた中国で、国家の描いたグランドデザインを、肉体を酷使して上海や中国の街に体現してきた功労者はほとんどが中国内陸の農村部で生まれた「民工」「農民工」と呼ばれる中国人である。彼らの存在無くして上海の近未来的な摩天楼の数々は存在しなかったろうし、家政婦として炊事洗濯や、子供の送迎、年老いた親の看護など家事全般を引き受けなければ、上海人たちの生活は維持できないものだった。立ち遅れた農村に育ち、十分な教育を受ける機会に恵まれなかった農村出身者は北京・上海などの大都市周辺に住む人々と圧倒的な格差に晒されている。
    著者は1980年台後半から中国山西大学・北京大学留学後、香港での記者を経て2001年上海に拠点を移し雑誌編集者などを経てフリーになり、以後、日経ビジネスオンラインに「中国生活『モノ』がたり連載しているライター。
    この経歴からも明らかなように長年の中国での生活感覚に裏付けられた取材の蓄積が何よりの説得力となっている。上海の街角の一角や馴染みの食堂で知り合い、お互いに食事に招き合うほど親しくなり、彼らの故郷の安徽省にも何度となく足を運び、10年にも及ぶ交流を経て、彼らの生活と考えを探り出した内容は胸に迫る彼らの過酷な人生を偲ばせる歴史そのもので、現代中国が抱える途方も無い闇と無尽蔵のエネルギーがどのような実態を持つものなのかを突きつけてくる。
    本著には約10人の農民工のそれぞれの苦難、謎に満ちた寛容さや並外れたたくましさに寄り添いながら、建前ではない本音を聞き出した中国版聞き書きでもある。それは年月とともに育まれた仲間意識に支えられ、血の通った交流記録でもある。著者の文体にもインテリ臭さがなく、視線の低さが好ましい。日本人が同じ境遇に陥入れば、耐えられる自信のないほどの困難に遭遇する農民工の一人一人の姿が愛おしくなってくるような読後感が残る。
    日本の特派員(新聞・テレビ等)の伝える中国報道では見えてこない中国の底辺に生きる農村出身者の実像に肉薄すると同時に、中国という国がこれからどうなるのかを暗示する示唆に満ちた好著である。
    中国国家統計局が2017年に公表した統計によると、農民工の数は2016年、2億8千万余。中国の人口の5人にひとりが農民工である。また学歴は4人に3人は中卒以下。年齢層は16−20歳:3・3%、21−30歳:28・6%、31−40歳:22・0%、41−50歳:27・0%、51歳以上:19・2%という構成。平均月収は3275元(5万3千円)。 (日経BP社)
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