2018年11月アーカイブ

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     浪曲家の玉川奈々福さんが企画した小沢昭一さんの追善公演が12月6日、淺草・木馬亭で開催される。切符は売り切れ状態らしいが、補助席がでるかもしれないので、一応のご案内。チラシからの引用 「小沢昭一を尊敬し、善男善女のココロを翻弄することを旨とする三人組 天国の小沢さんに届けの、ココロだあー」  と銘打ち 玉川奈々福(浪曲 曲師 沢村豊子)松元ヒロ(スタンダップコメディ)桂吉坊(上方落語 お囃子 恩田えり、桂華紋)が出演し、矢野誠一さんもゲスト出演する。2018年12月6日(木)18:30 開場19:00開演 全席自由 前売 3000円 当日 3500円。
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     クイーンについては熱心なファンでは無かったというより、関心の外にあったバンドであった。当時の己れの環境が主たる訳だが。だが、この度、「ボヘミアン・ラプソディー 」を観てから様々な事を考えるキッカケを与えられたのは正直意外だった。
    この映画は音楽映画としてはよく出来ており、特にラスト20分のカタルシスすら覚えるシーンの連続は、この20分の為に、前半からのすべてが準備され進んで来ていると思えるほど、劇的興奮を喚起させるラストであった。
    これほどのカタルシス的な感銘を感じたのは、同じ音楽ドキュメンタリーのジャンルでは1958年に開催されたニューポート・ジャズ・フェスティバルを記録したフィルムで、日本では1960年に公開された「真夏の夜のジャズ」以来のことだ。サッチモ、チコ・ハミルトン、チャック・ベリー、セロニアス・モンク、ジェリー・マリガン、アート・ファーマー、 ダイナ・ワシントン 等々が登場した後,ラストを飾ったのがゴスペルの女王マハリア・ジャクソン。彼女の讃美歌「主の祈り」の魂を揺さぶる名唱は今でも忘れられない。
    クイーンのライブエイドのシーンはそれ以来の経験で、巧みな映像音響処理により、稀に見る映像的達成となった。フレディ・マーキュリーの歌唱の絶妙なニュアンスと場内の空気を自在に操る身体性。存在の歌謡性とでもいうのか。もちろんメンバーのギターやベース、ドラムなどの渾然一体なハーモニーも大きな要因だが。
    ここで、フレディ・マーキュリーの出自について考え得ざるを得ないのだ。10世紀頃にペルシアからインド北西部グジャラート州に移り住んだパールシーと呼ばれるゾロアスター教徒の家庭の出身で、本名はファルーク・バルサラという。これらは今回初めて知ったことである。両親の描写が重要な要素として出てくるが、現在のタンザニア(ザンジバル島)出身のペルシャ系インド人であり、敬虔な信者のようだ。フレディは幼少期の大半をインドで過ごし、7、8歳の頃には様々な音楽に触れているようだ。彼の体験についてはしるよしもないが、気になることがある。
    彼のメロディラインと発声の仕方がインド、パキスタンで盛んな宗教歌謡カッワーリqawwali を思い起こさせるのだ。このことは、映画を観ながら、ずっと頭から離れない謎めいたテーマだった。
    以前、何回かのインド取材の際に、カッワーリを撮影したが、その時、周囲に満ちあふれた集団催眠にも似た陶酔感は不思議な体験だった。それは、歌い手のこぶしの回し方、浪花節的な節回し、同じ節、手の拍手の繰り返し等々の相乗作用から生じるのではないかと解釈していた。
    この時に味わった感覚と似たようなものがフレディ・マーキュリーの歌唱、節回しから偲ばれるのだった。
    カッワーリはインド亜大陸のイスラム教徒独特の宗教歌謡であり、古典的音楽と民俗音楽的要素を兼備する要素を持っている。かつて来日したヌスラットの熱唱が話題になったが、会場や野外の聴衆が陶酔的な雰囲気に染まる独特なコンサートだった。その歌唱はこぶしを聞かせ、思っ切りシャウトし聞き手の感情にグイグイと迫ってくる陶酔的な雰囲気に満ちたものだった。清濁併せ飲む宗教歌謡としか言いようがないものだった。
    ここで無理に理屈をつけるとDNA的にはフレディ・マーキュリーの声帯にはカッワーリの血が流れていると妄想するのも楽しい。さらに妄想を逞しくすると「ボヘミアン・ラプソディー」のボヘミアンの意味は
    1・ジプシーと呼ばれて来た少数民族ロマのこと。
    2・社会の慣習から離れて放浪する芸術家のような代名詞になり、のちに同様な知識人や放縦生活者まで含む呼称になった
    というような意味があり、ジプシー・ロマの起源はインド北部なのであることも楽しい妄想を掻き立てる。西アジアからインド亜大陸に暮らす人々の声帯が、フレディのヴォーカルにも活きているという妄想は果てし無く拡散していく。
    フレディは己の出自について語るのを好まなかったようだ。また、敬虔なゾロアスター教との両親への反発にも似た感情もあったろう。しかしながら、家族としての絆は愛憎半ばしても、己の音楽的才能は間違いなく両親、先祖から受け継がれて来たものだ。ラスト近くの、父親との抱擁、無言の母親の慈愛に満ちたまなざしが全てを語っていた。クイーンの フレディの音楽の持つ融通無碍な多様性こそ、家族、祖先たちからの遺産なのだろう。   
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    まずこの映画の魅力は探偵役を演じる遠藤憲一にある。一度見たら忘れられない強面の表情とかれが発する殺気にも近いたたずまい、雰囲気が素晴らしい。映画の面白さと不思議は突っ込みどころだらけの映画文法上の説明不足や欠点があろうとも、一人の稀有な個性の俳優という魔術的存在が全てを消し去り、観る者の記憶に鮮明な記憶を残す映画となりうるところにある。
    それほどこの映画の遠藤憲一ははまり役で圧倒的な存在感を出している。一時期の三船敏郎を思わせる圧倒的なオーラがある。彼が出たことによりこの映画の成功の9割は達成された。俳優の榮光とで言おうか。
     探偵の矢能政男(遠藤憲一)は元、暴力団幹部。謎めいた小学2年の栞(白鳥玉季)を預かっており、彼女はお茶出しなどをする不思議な存在でだが、物語の重要な役割を暗示する。矢能は依頼される案件にも無愛想に対応し、横柄極まりない。やむなく引き受けた殺人事件に巻き込まれ、思わぬ方向へ展開する。殺された男は与党議員(要潤)か絡んだカンボジアの美談に絡んでいる。ここからの展開には説明不足や請求な展開が見られ、もたつき感がある。
    しかしながら遠藤憲一の無計算のような一本調子の個性と雰囲気に引きずられるように見てしまう。この映画の不可思議な魅力であり、侮れないダイナミックなボルテージ感が最近の日本映画では出色である。
     やがて栞が事件に巻き込まれると、矢能と栞の間に流れる控えめな情愛が画面に不思議な安らぎと安堵感をもたらし、それまでの殺伐な話から解放されるような気がする。監督がこの映画の重要な要素と考えているらしいテーマが浮かび上がってくる。
    脇を固める俳優陣の存在感の多彩さも味わい深い。男優たちが人間臭く、いい味を出している。
    監督はきうちかずひろ。マンガ「BE-BOP-HIGHSCHOOL」の作者であり、自作小説を自ら監督した。
    ハードボイルド映画が最近あまり見られなくなったのを、残念に思っているひとりとして、矢能政男(遠藤憲一)と栞(白鳥玉季)の物語は第2作、第3作へとつなげていく価値がある鉱脈だろう。
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     ある日、不思議な夢を見て自らの死期を悟った父親が、聖地バナーラス(バラナシ)に行って死んで解脱をしたいと言い出したことから、その旅路に同伴することになった50がらみの息子ラジーブ。職場では営業ノルマに追われ、家庭では年頃の一人娘の結婚話が進んでいて、それどころではないのだが、とにかく年老いた親を一人で行かせるわけにはいかない。最初は乗り気ではなかったラジーブは、ガンジス河岸の宿(バナーラスには死を待つ人が滞在する独特の宿泊所があり河沿いの細い路地に軒を連ねている。
    本作のヒンディー語の原題"Mukti Bhavan(ムクティ・バヴァン)"は直訳すると「解脱の館」となり、このような宿のことを指す。)で世話をするうちに次第に父親に寄り添うことの意味を感じ始める...。息子の心の変化が平凡な日常の会話や無言の表情のなかに巧みに描かれるところが出色であり、鑑賞後に長く余韻の残る映画である。
     大河ガンジスを擁する町バナーラスは、その大河の水につかれば(あるいは口をゆすげば)罪を浄め、その町で死ねば解脱できると信じられていて、生老病死を繰り返す輪廻からの解脱を究極の理想とするヒンドゥー教徒にとっての一大聖地である。ややもすると宗教色の濃い映画になってしまいがちだが、本作のブティアニ監督は弱冠27歳ながら、小津作品に影響を受けたともいう映画的センスで本作を普遍的な人間のドラマに仕上げている。
     監督はインド人ではあるがアメリカで映画を学び、本作を制作するに当たっても入念な現地調査をおこなったと語っている。そのような観察者の視点でバナーラスの町が捉えられていることも映画に入っていきやすい要因だろう。特にガンジス河沿いのガートと呼ばれる沐浴場の様子や神への献身を歌う敬虔な信徒の姿などバナーラスの空気をよく伝えている。
    筆者も30数年前になるが、学生時代の貧乏旅行でバナーラスを訪れている。地元の大学生と知り合いになり、数日間学生寮に泊めてもらった。ガンジスにボート浮かべて拝んだ日の出、オールナイトコンサートで見たシタール奏者ラヴィ・シャンカル(ジョージ・ハリソンとの交流をはじめ世界を舞台に活躍したシャンカル氏は当地バナーラスの出身)のライブのことなどが思い出されるが、何と言っても薪のやぐらに炎が燃え盛る火葬場の情景が強烈な印象として残っている。その時味わったのは異文化としてのインド的世界にほだされたとでもいうべき体験だったかも知れない。
     あらゆるものを飲み込んで流れ続ける大河ガンジスは宇宙にも似て大きなエネルギーを持つ存在である。そして人はそこに吸い寄せられるように還っていく。本作の主人公と同じような年代になった今、映画を通して見たバナーラスは少しだけ違って見えた。
    (2018.11.13/市橋雄二)
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