2019年2月アーカイブ

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     「現代のインドで"生理用品"の普及に人生を捧げた男の感動の実話」とうたった惹句を見たときは、もしや単に奇をてらった映画なのでは、と半信半疑になったが、それはまったくの杞憂だった。それどころか、極上のエンタテインメント映画と言っていい作品だった。そこには"ボリウッド"映画などと揶揄されてエキゾチックでカラフルな歌と踊りばかりが強調されていた一昔前のインドの娯楽映画と一線を画する新しい世界があった。
     映画は溶接工事や修理などを請け負う小さな町工場を経営する男ラクシュミの日常を描くところから始まる。もともと腕の良い職人で、自転車の荷台に横座りして乗る妻のためにわざわざ横向きの腰掛をあり合わせの材料で作ってしまったりするアイデアマンでもある。ある日、いつものことながら月の障りのために家族と寝食を共にすることが許されずベランダで過ごす妻が、使い古しの薄汚れた布を使っているのを見てショックを受ける。薬局で生理用ナプキンを買ってみるが、あまりに高価なために妻は使おうとしない。ここからこの男の闘いが始まる。何とかもっと安く衛生的なナプキンができないか、と。こうして発奮したラクシュミの波乱万丈の物語が展開していくのだが、ここではこの映画を極上のエンタテインメント作品たらしめているいくつかの要素について触れてみたい。
     まず一つには、女性の月の障りを「穢れ」として遠ざけるインド社会に残るタブーを丁寧に描いている点だ。われわれ日本人でも葬儀から帰って家に入る前に塩を振って清めたりするが、これは死を穢れとするインド伝来のタブー意識から来ている。本家のインドではさらに日常生活の隅々にこの意識が働いている。ラクシュミは、穢れのタブーを犯したために妻や家族はおろか近隣の住民からも疎まれ、ついには町から追放されてしまう。この間の過酷なまでの仕打ちがこれでもかこれでもかと描かれる。 しかし、これはラクシュミが最終的に成し遂げたこととのギャップの伏線として効いていて、結果的に映画に大きなカタルシスを与えている。
     もう一つは今日もインドが抱える農村の貧困問題を、社会矛盾そのものよりも主人公ラクシュミの行動と心の動きを前景化して奥行きをもって描いたことだ。ラクシュミが自作したナプキン製造マシンはついに国の主催する発明コンテストでトップ賞を受賞することになる。一躍有名人となったラクシュミは、特許権を大企業に売って大金を手にすることもできたが、農民が自らこの機械で安価なナプキンを作って販売するという事業を始めて、農村に現金収入の機会を生み出して衛生問題をも解決するという一石二鳥を成し遂げる。このラクシュミの活動を一緒に支える若き才媛が登場するが、別居状態の妻との三人の関係と心理的な駆け引きが映画に緊張感を与え、観客を引きつける。本作のバールキ監督がインタビューで「メッセージ映画ではなくラブストーリーを作りたかった」と述べているが、それも十分頷ける。
     そして、何と言ってもこの主人公ラクシュミ役のインドの大スター、アクシャイ・クマールの安定感抜群の演技が光る。終盤のニューヨークの国連本部での演説シーンは圧巻だ。そこにインド映画界のレジェンドにして政治家に転身したことでも有名な国民的ヒーロー、アミターブ・バッチャンがカメオ出演するというスパイスが効いていて隙がない。
     さらに、主人公のラクシュミが暮らす田舎町が古の藩王国時代のインドにタイムスリップしたような佇まいで印象的だ。映画の中のせりふからインドール周辺の町だと知れたが、地図で調べてみるとインド中部を流れるナルマダという大河に面したマヘーシュワルという町だと見当がついた。劇中、街で出くわした幼なじみがラクシュミに「ノータンキーを見に行くところだ」と言葉を交わすシーンがある。ノータンキーとは昔からあるインドの大衆演劇で、日本で言えばさしずめ梅沢富美男劇団といったところだが、そのような下町文化を残した町という設定なのであろう。バールキ監督の次回作が楽しみな一方で、このマヘーシュワルという町の風景が頭から離れない。
    (2019.2.11/市橋雄二)
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