ジプシー(ロマ)事情の最近のブログ記事

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     インドの海外同胞を支援するインド国際協力協議会(Indian Council for International Cooperation)は、<世界ロマの日>にあわせて世界のロマ同胞に向けて<バロー・ターン(「大きな土地」の意。ロマ語でインドを指す言葉)>からお祝いの言葉を贈る、とのプレスリリースを発表した。
     「4月8日はロマの文化と伝統を祝う日であり、また、ロマの人々が社会の中で正当な居場所を得んがために奮闘していることを広く知らしめるための日でもある。われわれは世界中のロマの決意と忍耐に敬意を表する。インド国際協力協議会は<世界ロマの日>のイブに当たる4月7日、ニューデリーでいくつかの行事を開催した。学術的な会議では政府と非政府団体がインドとロマ社会の間の文化的な絆を強める方法を議論し、ロマの先祖がラージャスターンから移動を始めて1千年が経つことを記念して、2017年同州チットールガルにおいて<世界ロマ文化フェスティバル>を開催することを決めた。
    この会議にはインド文化関係協議会(ICCR)とインド国際協力協議会のメンバー、ロマの研究者、外交官、知識人などが参加した。
     また、夕方には<世界ロマの日>を祝う一般向けのプログラムが行われ、著名なロマ研究者らがロマのインドからの移民の歴史と各国での現状、そして未来について講演を行った。インド国際協力協議会は毎年ニューデリーで<世界ロマの日>を祝ってきているが、今年は2月にニューデリー、ジャイプル、メーラトの3か所で<国際ロマ会議と文化フェスティバル>をICCRと共催し、15の国から45名のロマ研究者が集まった。
    ニューデリーの会議では元外務大臣スシュマ・スワラージ女史が開会の辞を述べ、ロマの人々への惜しみない支援を表明した。会議の終了後も、協議会のメンバーによる各国のロマ・コミュニティー訪問、スロベニアとブルガリアでの国際ロマ会議への参加と活動を継続している。
     今年の4月8日はヒンドゥー暦2073年の元旦にあたるといううれしい巡り合わせもあった。この日は様々な呼び名でインド各地で祝われ、幸先の良い日とされる。すべてのひとびとにとって平和で恵み多き一年になりますよう。」
     以上がプレスの概要である。背景にはヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党のモディ政権の意向を反映した政治的な動機が垣間見えるので注意が必要だが、ロマ社会とインドの関係が近づくことで、これまでヨーロッパの視点で語られてきたロマ(ジプシー)像に新たな視点がもたらされるとするならば歓迎すべきことである。
    (市橋雄二/2016.4.30)
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     ロマの社会は、かつて「パトリン(葉っぱの意)」と呼ばれる独特な情報伝達のしくみを持っていた。旅をする一族は、葉っぱや羽、棒切れのような身の回りのものを使って、同じ道を通ってあとからやって来る他の一族に情報を伝えたのだ。ラジオ・パトリンは、ロマ間、あるいはロマと非ロマの間の現代の新しいコミュニケーション手段である。
     ラジオ・パトリンの中心的な事業は将来に向けた汎欧州向けのロマのラジオ・テレビ放送の開発である。元来オランダの非営利団体NEVIPEの一部門としてロマ語と英語の二ヶ国語の機関紙<パトリン>を発行し、1991年から96年までヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアに配布していた。NEVIPEではまたオランダのアムステルダムとスロバキアのプレショフにある拠点が中心となって社会活動や教育事業、ロマの状況の調査などを行ってきた。1992年<パトリン>はラジオ番組としてスタートした。
      2009年以降<パトリン>はアムステルダムの公共テレビ局SALTOによって運営され、独立したロマ語放送としてロマ語、英語ほかの言語で放送されている。ラジオ・パトリンの番組はローカルニュースと国際ニュースの両方をカバーしており、ヨーロッパ、インターナショナル向けの一般放送とロマのジャーナリストや地域の通信社が制作した特定の地域向け放送の二つの系統に分けられる。
      2013年4月からラジオ・パトリンはEBU(欧州放送連合)とEBUロマ・タスクフォースに加盟しており、ロマ語メディアやロマ・ジャーナリスト研修、ロマ文化の保存に関する様々な行事や会合に参加するなど活発に活動している。ロマ社会の代弁者として、ラジオ・パトリンは非ロマの聴衆とも連携し、ヨーロッパの言論機関からの支援をうけながら、EUやアメリカ議会、ヨーロッパ、ロシア、アメリカ、ラテン・アメリカ、オーストアリアのNGOなど世界各地の諸団体と協力関係を築いている。
     ラジオ・パトリンと提携したインターネットラジオに、ウクライナの<ラジオ・チリクロ>(チリクロはロマの言葉で「鳥」の意)があり、ウクライナ(あるいはヨーロッパ)のロマと地元住民の相互理解を促進することを目的にインターネット放送を行なっている。
    (市橋雄二/2016.1.16)
    *各インターネットラジオのURLは
    http://radiopatrin.com  
    http://radiochiriklo.com
    画面上の再生ボタンをクリックするだけで簡単に番組を聴くことができる。いずれのラジオ放送でもコンテンポラリーなロマの音楽を楽しめる。
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     2015年11月15日、モイラ・オルフェイが亡くなった。イタリアンジプシー(スィンティ)が生んだスターの一人で、大サーカス団のオーナーであり、映画女優としても活躍した。
    サーカス団<オルフェイ・サーカス>の家に生まれ、イタリアにおけるサーカスのシンボルとなって世界的な名声を得た。モイラ自身のサーカス団<モイラ・オルフェイ・サーカス>は1960年に設立された。
    モイラはバイク乗り、ブランコ曲芸師、アクロバット、象つかい、ハトの調教などさまざまな役をこなす。モイラの派手なイメージは自身の快活な性格を反映している。名前をミランダからモイラに変えるよう勧めたのはイタリアの映画プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスだった。それ以来、太いアイラインを引いた目を特徴とするメイク、明るい色の口紅、唇の上のほくろ、ターバンに巻かれた髪というモイラのイメージが固まった。サーカスが行く町では必ずこの絵が宣伝用の看板に描かれ、モイラはイタリアで最も知られる顔になった。
     ほとんど偶然だったが、モイラは映画女優にもなった。コメディーからソード&サンダル映画(1960年代に製作されていた古代の剣闘士を題材にしたイタリアの低予算娯楽映画)まで40以上の映画に出演し、もしモイラが演技を学んでいたら、ソフィア・ローレンと同じような名優になっていただろうと言われた。モイラの両親はリッカルド・オルフェイとヴィオレッタ・アラータという名で、ウォルター・ノネスと結婚し、二人の子供ステファノとララをもうけた。モイラ・オルフェイは2006年イタリア南部の町ジョイオーザ・イオーニカでの興行中に虚血性発作に倒れ、治療を続けていたが、2015年11月15日北部の町ブレシアで亡くなった。享年83。
    (市橋雄二/2015.11.22)
    ※モイラ・オルフェイ・サーカス団の公式ホームページ: http://moiraorfei.it
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     今まさに欧州諸国を揺るがしている中東などからの難民・移民大量流入問題、あるいはスロヴァキア主流派住民のロマに対する態度が、一つのアート・プロジェクトによって試されようとしている。
    プロジェクトは、「共感」をテーマとする<ニトラ国際演劇フェスティバル2015>(スロヴァキア・ニトラ市にて9月24〜29日開催)の一環としておこなわれる。
     「われわれはどの程度まで自分たちと異なる民族を受け入れることができるのか」これは、視覚芸術のアーティスト、イロナ・ネーメトによって提示された疑問の一つである。フェスティバルの開催期間をはさむ9月15日から10月15日まで、四つの言語で書かれたテキストを印刷した看板がニトラの街の通りに掲げられる。これは一部の住民を刺激することになるかもしれない。
    たとえば、スロヴァキアの国境のすぐ向こう側で冷凍車に乗せられた71名の移民たちを死に追いやったような人々、あるいはパブやレストランでロマの入店を断るような人々である。
    今回のインスタレーション芸術は、いわゆる<ボガーダス尺度>理論でいう公共空間への挑戦でもある。ボガーダス尺度とは、1926年アメリカの社会学者エモリー・ボガーダスが人種差別や異民族への偏見を分析、記述するために考案した社会的距離を測定するための尺度をいう。
     イロナ・ネーメトは、交通標識に似た看板を信号柱に取り付けることによってインスタレーションをおこなうことにした。フェスティバルの実行委員が地元紙に語ったところによると、看板には社会学的な調査によく用いられる質問が四つの言語、すなわちスロヴァキア語、ハンガリー語、ロマ語、そしてベトナム語で書かれるという。これらの言語はいずれもニトラに住む少数派住民の言語と主流派の言語で、それぞれの質問がそれぞれの言語で表示される。
     質問はどれも、通行者にそれぞれの少数派住民を受け入れるか否か、受け入れるとしたらどの程度までか(配偶者、親族、友人、隣人、共同居住者、同僚、同じ市民、旅行者など)を考えさせるように作られている。
    このプロジェクトは以前スロヴァキアの他の二つの都市とハンガリーのブダペストでもおこなわれたことがあるが、ブダペストでは24時間以内に中止された。また、このプロジェクトは開催地の市当局(主に建設局)との間で問題を起こしてきたが、いずれも技術的な事柄で中身に関することではないという。ネーメトのもとにはインスタレーションで取り上げた少数派住民からさまざまな反応が寄せられた。中には反対するロマ住民もいたが、話し合いの結果、全ての関与者にとって有意義な成果が得られたという。
    ※演劇フェスティバルの詳細は公式サイト(スロヴァキア語/英語、http://nitrafest.sk)で見ることができる。
    (市橋雄二/2015.9.23)
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      「欧州連合(EU)へのロマ移民の数が他と比べて多いという証拠はない。」欧州評議会の人権担当委員ニルス・ムイズニクス氏は、最近発表になった人権に関する談話の中で、「ヨーロッパにおけるロマ移民に関する偏見と先入観を覆すときである。」と述べた。
     ロマに関する政治やメディアにおける議論はヨーロッパ諸国で盛んになっている。2004年と2007年のEUの東欧への拡大、そして2014年多くの加盟国がルーマニア人とブルガリア人の就労制限を強化したことなどが原因で、ロマ移民の脅威というムイズニクス氏が言う「根拠がなく煽動的な」言説が飛び交っている。英国、ドイツ、スイス、イタリアなどの国々のメディアは、しばしばロマ移民の実数について根拠のない数字を掲げている。」
    しかし、ブルガリアやルーマニアからのロマ移民の「侵入」は就労制限以降発生していないという。 
    「たとえば、フランスではロマ移民の数は2000年代初め以降1万5千から2万人と言われているが、去年私がストラスブール(フランス)のロマ居住区を訪れた際、そこでのロマの数はここ数年400人前後から変わっていないと教えられた。」とムイズニクス氏は言う。
     「政治家そしてメディアはそろそろ移民増を煽ってロマに汚名を着せることをやめ、客観的な人口統計あるいは経済に関するデータを使うべきで、人種差別的なレトリックは厳しく戒め、道義的なジャーナリズムを推し進めるべきだ。もうひとつ、ロマ移民は社会保障制度を乱用し、主流社会に溶け込むことを拒んでいるという誤った先入観があるが、こうした見方は事実に基づくものではない。」 
      2013年の調査から、欧州委員会は、EU内の移民(ロマを含む)が受け取る手当以上の納税によって移民受け入れ国に実質的な貢献をしているとの認識を明らかにしている。また、移民たちは母国にいたときよりも失業手当や扶養手当に頼ることが少なくなっている。
    「大事なことは、一口にロマ移民といっても多様な存在であり、多くは就労し、新しい受け入れ国に溶け込んでいるということだ。」 
    以上の記事は、中国の「上海日報」WEB版に掲載された英文ニュースをもとにしている。内容もさることながら、中国メディアが人道的な観点からヨーロッパにおけるロマの問題を取り上げているところが興味深い。これを中国メディアの成熟と見るか、プロパガンダと見るか。和諧社会の実現を標榜し、階層対立の解消に躍起になっている中国としては、少数民族や大量に都市部に流れ込む農村部人口もうまく主流社会と調和して生存しうることの事例として解釈し、自らの国家のあるべき姿とだぶらせたイメージを国際社会にアピールしようということか。そうであれば、やはりこれはプロパガンダということになるのだろう。
    (市橋雄二/2015.7.18)
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     ニューヨークの一角に例えられるハンガリー、ブダペストのエスニックタウンが、その歴史や独特の文化混淆をテーマにしたツアーを組み、観光客の誘致に努めている。
     ヨージェフヴァロシュの名で知られるブダペストの中央部に位置する8区は普通ガイドブックで取り上げられることはない。この地区の一部はブダペストのブロンクスあるいはハーレムと呼ばれ、ロマ(ジプシー)を中心に、トルコ人、中国人、アラブ人、アフリカ人などが入り混じって暮らす。
     偏見や固定観念を少しでも取り除こうと、ロマの市民団体(Uccu Foundation)のボランティアたちが、外国人のみならずハンガリー人、特に市内のこの地域を知らない学生に向けたツアーをおこなっている。ツアーガイドのアンドレア・イグナツさんによれば「ロマの人々がここでどのように暮らしているかを紹介したかっただけ」とのことで、「多くのハンガリー人はここに来るのを怖がって、避けている。」と中央ヨーロッパ大学の学生であるイグナツさんは言う。
     90分のツアーはまずネプスィンハズ通りから始まり、ジプシーバイオリンの演奏家、商店、アートギャラリーや最近修復されたマーチャース広場などを訪ねる。ホロコーストの犠牲となったユダヤ系住民の記念館は、第二次世界大戦時のロマの虐殺や最近欧州議会が8月2日を<ヨーロッパのロマのホロコースト記念日>とすることに賛成したことなどについて話し合う場にもなる。
     ツアーにはドレヘール・ビールの倉庫跡地や今は集合住宅になっているが、かつてのビール祭りの様子が入口ホールの上部に素晴らしいモザイク画で描かれた建物なども含まれる。
    「このツアーがいいのは、ロマの人々が非ロマの人々に対しておこなっていることです。」アメリカ・バージニア州リッチモンドから来た学生は言う。
    「自分たちのアイデンティティー、自分たちのストーリーを持ち、それを自ら語ることが大切なことで、歴史や文化背景を共有しない他人に語ってもらうことではないと思います。」
    (市橋雄二/2015.5.24)
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     この4月3日から5日まで今年2年目のジョードプル・フラメンコ・ジプシー・フェスティバルが開かれ、地元ラージャスターンとフラメンコの音楽と踊りを演じる35組のアーティストが集まった。
     フェスティバルの主催はメヘラーンガル博物館基金、在インド・スペイン大使館とカンテ・デ・ラス・ミナス(フラメンコ・フェスティバル)。
    初日、ガムシャイ・カーン率いるラージャスターンのマンガニヤール楽団が500年の歴史を誇るメヘラーンガル城のモーティー・マハル(真珠の間)に登場し、オープニングを飾った。楽団はカマイチャー(弓奏楽器)、モールチャング(口琴)、カルタール(カスタネット)の音で古の空間を満たして、聴衆を魅了した。最後に「マスト・カランダル」が演奏されると、人々は待ってましたとばかりに大いに喜んだ。メイン・ステージは、ジャイプルを拠点とするフォーク・フュージョンバンド<ラージャスターン・ルーツ>を皮切りに、フラメンコ・ダンサーのカレン・ルーゴ、フラメンコ歌手ナイケ・ポンセ、バイオリン奏者ビクトル・グアディアナ、ドラムのイスラエル・バレラが出演した。メキシコ生まれのカレンは、「ジプシーの家系に生まれたが、ジプシーとは生き方そのものであり、自分のライフスタイルもジプシーに近い」と自分自身を語った。ステージ上のカレンはその美しさがどの表現においても際立ち、官能的でありながら筋肉美と女性美の絶妙なバランスを見せた。
    夜の最後の公演は、フラメンコ・ピアニストのチャノ・ドミンゲス、フラメンコ・ダンサーのダニエル・ナバーロ、ベース奏者ハビエル・コリーナらが登場した。終演後、チャノ・ドミンゲス氏が感想を述べた。「ラージャスターンのジプシー・ミュージシャンと共演しているという事実がうれしい。今年はさらに近く感じました。毎年進歩しているので、このままフェスティバルを続けていけば、何か面白いことが作り出せそうな気がしています。」ドミンゲス氏は55才、去年の2月に亡くなったフラメンコ・ギターの巨匠パコ・デ・ルシアとも共演した経験を持つ。「彼は長年多くのミュージシャンに影響を与えてきました。ジャズとフラメンコを融合させて新しい音楽を作ろうとしました。それによって、私のようなミュージシャンに可能性を与えてくれたのです。」
     初日はトルコからやってきたベルク・グルマンとグルカン・オズカンの楽団、シャクール・カーン率いる地元のランガ楽団をのぞいてほぼすべてのアーティストがステージにあがった。フェスティバルの実行委員長ロベルト・ニエッドゥ氏はイタリアの出身でここ20年ジョードプルに暮らす。「今年はフラメンコ色の強かった去年と違ってジャズ色が強い内容となりました。来年はラテン・アメリカの音楽に焦点を当ててみたいと思っています。」
     フェスティバルは異なる文化やアイデア、様式が溶け合う場。しかし一方で、ランガの歌手がこんな不満を口にした。「ここには自由がないんです。私たちは外国のミュージシャンに合わせて演奏することが求められます。時には聴衆におもねることにもなります。聴衆は知らない歌よりも有名な歌が聴きたいですからね。」
     フェスティバルの公式サイトは、http://jfgfestival.com。 (市橋雄二/2015.4.27)
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     著名な人類学者であり詩人にしてインド国民栄誉賞(パドマシュリー勲章)受賞者でもあるS.S.シャーシー博士は、このほど2015年1月10日に開催されたHuman Rights Defense International主催のニューデリーでの第5回国際会議に主賓として招かれ、「ロマ:インドの迷子たち」と題する基調演説をおこない、次のように述べた。
    インドでは知識人たちですらインド系市民であるロマについて詳しく知らない。ロマはインド政府(在外インド人担当省)が毎年おこなっている<在外インド人の日>顕彰行事にも招待されていない。かつてバジパイ元首相らが提起したように、ロマにもインド系市民としての地位が与えられるべきである。
    シャーシー博士は2001年にロマの代表者が当時バジパイ首相と面会したことに触れ、その際の元首相の談話を引用した。「ロマの人々がかつてインドの大地に暮らし、その風俗習慣においてインドおよびインド人の文化遺産とのさまざまな類似性を保ち続けているとする説は、人類の発展と移民の研究にとても興味深い可能性を提供するものだ。」
     シャーシー博士はまた、現在国際的な研究基金と国際ロマ文化大学(ベオグラートにある研究基金)によってロマの言語と文学に関する研究が進められていることを明らかにした。
    議長のゴーパル・アグラーワル氏、事務局長のラジェーシュ・ゴーグナー弁護士はあらゆる面からロマの人々を支援することを宣言した。その他出席者の中では、プニタ・スィンハ博士が写真とともに演説をおこない、ラヴィ博士がインド文化に関する自説を述べた。
    (市橋雄二/2015.1.12)
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    世界で最も名を馳せたフラメンコ・ギタリストの一人、マニタス・デ・プラタが、11月5日フランス、モンペリエの老人ホームで亡くなった。93歳だった。1億枚に及ぶレコード・CDセールスを誇り、その超絶技巧とステージ上でのカリスマ的な存在感からチャールズ・チャップリンやブリジット・バルドーら著名人の間でも信奉者が多かった。甥のリカオ・ビシエール氏がAP通信社に訃報を伝えたが、死因は明らかにされていない。
     デ・プラタ氏は、本名をリカルド・バリアルドといい、南フランスとスペインの伝統をひくロマ(ジプシー)の名高い音楽一家に生まれた。長らく同胞の聴衆の前だけで演奏していたが、世の中の脚光を浴びるようになると<銀の手>を意味するマニタス・デ・プラタの芸名を名乗るようになった。
    1960年代初頭には、フランス映画界のスター女優バルドーや作家ジャン・コクトー、画家パブロ・ピカソらが絶賛し、<リヴィエラ(南仏)発の大旋風>と呼ばれた。ピカソはマタドール(闘牛士)と闘牛の姿をデ・プラタのギターに描き、こう宣言したことがあった。 「あの男は私よりも偉大だ。」
    1967年には、デ・プラタ氏はシュールレアリズム画家のサルバドール・ダリとともにステージに立ち、ダリがデ・プラタ氏の音楽に合わせて絵を描くというパフォーマンスをおこなった。同じ頃、スクリーン*でデ・プラタと共演を果たしたバルドーはたいそう喜んだ。バルドーはコメントの中で述べている。「マニタスはいつも生きる喜びを湛え、私の青春時代の頃のような気楽な生き方だった。」
     デ・プラタ氏はまだ駆け出しの頃、なかなかレコードを出そうとしなかった。騙されることを恐れていたのだ。通算80枚以上になるアルバムの最初のリリースは1963年のことだった。早弾きのスタイルはたちまち注目の的となり、複雑なフラメンコの曲を時に伝統的な型にはまらない独特のオリジナル奏法で演奏した。最初のアメリカでのコンサートは1965年のニューヨーク、カーネギーホールでのことだった。
     「音は厚く、感情移入は激しく、テクニックは並外れていて、多彩なフラメンコの奏法を熟知していることは誰も目にも明らかだった。」と音楽評論家ロバート・シェルトンはニューヨークタイムズに寄せている。
    ピカソが感じていたようにデ・プラタ氏にはマタドールを思わせるものがあった。引き締まった体、ハンサムで彫りの深い顔立ち、長い髪といういでたちで、右足を椅子に乗せ、一言も発することなく、愛用のスペイン製のラミレス・ギターを奏で始める。手を除けば、体は一切揺れることはなかった。
    早いアルペジオの合間にギターのボディーをドラムのように打ち鳴らす。右手をさっと宙に上げたかと思うと、左手だけで完璧にメロディーを弾いていた。またある時には、ギターを置いて踊り始め、ヒールをタップし、手を打ち鳴らして優美な正確さでフラメンコのリズムを刻んだ。演奏が終わるとギターを前に持って、沸き起こる拍手をギターに捧げようとしているかのようだった。
     リカルド・バリアルド(本名)は1921年4月7日、フランス南部の町セットの移動生活を送るジプシーの家に生まれた。子供の頃、おじに勧められてギターを始め、9歳の頃には天才と呼ばれた。
    デ・プラタ氏は1975年、ワシントンポスト紙に語っている。「先生は自分自身だった。」読み書きを習うことはなく、何年もフランスとスペインのロマの集まりの時だけ人前で演奏していた。子供の頃はフランスのジプシー・ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトをよく聴いていた。デ・プラタ氏はラインハルトが好んだジャズの曲を弾くことは滅多になかったが、時折フラメンコのリズムで即興演奏して、保守的な音楽愛好家を困惑させた。
    本来ソロのアーティストだが、ときどき家族のメンバーとも一緒に演奏した。息子や甥っ子たちがジプシー・キングスを結成し、1980年代からフラメンコ・クロスオーバー・バンドとして活躍したことはよく知られている。息子のうちの一人、トニーノ・バリアルドは現在グループのリード・ギターを務めている。
     1970年代、名声が頂点に達したころ、デ・プラタ氏は1年間に150以上のコンサートをおこなっていた。マセラティ、ランボルギーニ、ロールス・ロイス、メルセデス・ベンツを所有し、熱狂した著名人にはマーロン・ブランド、エリザベス・テイラー、ジョン・スタインベックらがいた。一時は80人もの大家族メンバーを支えていたというが、2011年のインタビューでは、「私はいつもその日暮らしだった。」と語っている。甥がAP通信に語ったところでは、デ・プラタ氏は「ルーレット、高級車、美女に大金を使い、最期はほとんど痛みを感じることがなかった」という。デ・プラタ氏は80歳を過ぎても演奏を続け、人生においてもっとも大事な二つのことは何かと言えば音楽と女だ、と言っている。そして、少なくとも20人の子供の父親だったとされている。1975年のワシントンポスト紙のインタビューでのこと。結婚はしているかと尋ねられ、デ・プラタ氏は答えている。「ああ、毎晩ね。」子供は、と訊かれると、「もちろんさ。フランス、スペイン、そこらじゅうにいるよ。」
    (市橋雄二/2014.11.24)
    *) 1968年に制作された映画"Special Bardot"(邦題「今宵バルドーとともに」)を指すものと思われる。バルドーが出演したテレビ番組を劇場用に再編集した作品で、デ・プラタ氏のほかにセルジュ・ゲンスブールらが出演している。
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     ジプシー学会(The Gypsy Lore Society)の発表によると、来年度の年次大会と国際シンポジウムは、2015年9月10日から12日までモルドバ共和国の首都キシナウ(キシニョフ)にあるモルドバ科学アカデミー文化遺産研究所で開催される。大会は同国のロマの教育推進NPO<Porojan>の協力のもと同研究所のロマ民族学研究グループによって運営されることになっており、ジプシー・ロマ研究の様々な分野からの発表論文を募集している。
     ジプシー学会はロマ研究に関心のある人々の国際的な集まりで、1888年に英国で設立された世界でもっとも歴史のあるジプシー研究の学術団体である。1989年からは米国に事務局を置き、ロマ研究の発展のほかロマの生活、歴史、言語、文化そして多様性の理解を促進するための適切な情報の発信、研究者間の緊密な連携の確立を目的として活動している。年次大会は毎年世界各地の著名な学者や研究機関の協力によりおこなわれている。
    レスター(英国、1991)、ケンブリッジ(米国、1992)、ワシントンD.C.(米国、1993)、ロサンゼルス(米国、1994)、ライデン(オランダ、1995)、ニューヨーク(米国、1996)、ボストン(米国、1997)、アーリントン(米国、1998)、フィレンツェ(イタリア、1999)、ワシントンD.C.(米国、2000)、ニューヨーク(米国、2001)ブダペスト(ハンガリー、2002)、アナーバー(米国、2003)、ニューカッスル・アポン・タイン(英国、2004)、グラナダ(スペイン、2005)、ツーソン(米国、2006)、マンチェスター(英国、2007)、ワシントンD.C.(米国、2008)、ヘルシンキ(フィンランド、2009)、リスボン(ポルトガル、2010)、グラーツ(オーストリア、2011)、イスタンブール(トルコ、2012)、グラスゴー(英国、2013)、ブラチスラヴァ(スロバキア、2014)。
    現在の会長はブルガリア科学アカデミー博物館民族誌研究所のエレナ・マルシアコヴァ博士が務めている。
    学会の公式サイトに、1888年から1999年までの学会誌("Journal of the Gypsy Lore Society")の全文がデジタルライブラリー上で閲覧可能になったとの最近のニュースが掲載されていた。実際に見てみると日本の国立国会図書館がおこなっているデジタルコレクションと同じく現物の各ページを画像データとしてデジタル化したもので、ジプシー研究の100年以上にわたる歴史にいとも簡単に触れることができる。いながらにして知の集積にアクセスできるデジタル時代の恩恵に浴しながらそれをどう活用するかが問われる。
    (市橋雄二/2014.10.28)
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    1968年8月、旧ソ連の戦車がプラハの町を蹂躙した1年後、ジョセフ・クーデルカ(チェコ語ではヨセフ・コウデルカ)はロンドンに亡命した。旧ソ連の侵攻を記録したクーデルカの写真は世界中に配信されたが、あまりの衝撃だったために報復の恐れがあり故国に戻ることは危険だった。そこで、クーデルカは世界を代表する写真家集団マグナムに入り、ヨーロッパ各地を放浪しジプシーを撮り続けた。夏になるとほとんどお金を持たずに野宿をしながら旅をし、冬になるとロンドンに戻りフイルムを現像した。こうして1975年に最初の写真集「ジプシーズ」が出版された。
     1938年チェコ東部の町ボスコヴィツェに生まれたクーデルカは、小さい頃から写真に興味を持ち、いちごを収穫してはそれを売って最初のカメラを買った。その後プラハに出て工科大学に進み、写真クラブに入った。
     実はクーデルカは侵攻事件の前から漂泊の民にレンズを向けていた。航空技師として働いていた頃、1967年に写真展を開きジプシーの写真を22枚展示した。2011年のインタビューの中で、孤独を好み今はパリに住むクーデルカは、旅をしながらロマの人々と過ごした日々を懐かしんでこう語っている。
    「ジプシーの連中は私のことを哀れんでさえいたよ。自分たちより貧しいやつだと思ってね。夜になると彼らは幌馬車の中に入り、私は夜空の下で野宿さ。」
    (市橋雄二 / 2014.9.10)
    ※新作、未発表作品を含む最新写真集"Koudelka: Nationality Doubtful"が2014年7月、Art Institute of Chicagoより刊行された。今日世界で最も注目される写真家の一人クーデルカについては、近年日本でも次の写真展が開催されている。「ジョセフ・クーデルカ展」東京国立近代美術館(2013.11.6〜2014.1.13)、「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」東京都写真美術館(2011.5.14〜7.18)。
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    トニー・ガトリフ監督が自身の最新作『ジェロニモ〜愛と灼熱のリズム(原題:GERONIMO)』を携えて、この6月東京で開催された<フランス映画祭2014>のために団長として来日した。
    一部の映画関連のニュースサイトでティーチ・インの模様などが伝えられているが、ここではガトリフ監督がヨーロッパのメディアに対して語ったロマの現状を紹介する。
    まず、ロマの人々はなぜ今日においても厳しい現実に直面しているのか。
    貧困もあるが、ヨーロッパのロマの中でも特に旧ユーゴスラビアから移動して来た人々とルーマニアの現体制から逃れてきた人々の取り扱われ方が問題だ。今日ヨーロッパのロマは二つの脅威に直面している。ひとつはブリバシャ(Bulibasha)と呼ばれるマフィア組織のリーダーたちだ。ロマの貧困を利用して、もちろんすべてではないが、一部の人々を悪事に駆り立てている。犯罪を犯すこうした少数の者が多くの善良なロマの人々のイメージを傷つけている。一方、ヨーロッパ人もこの問題を解決できないでいる。マフィアを撲滅し偏見を取り除くことはできるはずである。1980年代、私たちは映画やコンサートを通じてこの偏見に闘いを挑んだ。ジプシーが私たちの社会に受け入れられることを願ったからだ。
    ヨーロッパ諸国はロマの社会統合のための政策に毎年多額の予算を投じているが、十分だと思うか。
      どのくらいの人たちがこの援助の恩恵にあずかっているかということだろう。それがまだ限られた家庭なのであれば、やるべきことは多い。私は欧州連合(EU)の政治家ではない。ただ、現実の状況をつぶさに観察しているに過ぎない。トランシルヴァニア(ハンガリー)の村に行けば、貧困は今も現実だ。この地域では人々は井戸から直接水を飲んでいて、それが理由で子供たちが病気になっている。また、マフィアが暗躍することで攻撃の対象とされることを恐れている。たとえば、携帯電話が盗まれたとなれば、これは明らかにロマのせいにされる。しかし、たとえば私がロマの居住地域で撮影をしていた時、盗みを働く者など誰もいなかった。貧困の中で必死に生きていたが、決して犯罪者集団などではなかった。
    ヨーロッパにおける極右政党の躍進を心配しているか。
    極右勢力の拡大をとても憂慮している。それはロマだけでなく、すべての人に関わる問題だ。多くの場合、これはフランスでは目に見えないが貧困の結果と言えます。フランスは自国民の世話ができない国だ。特に恵まれない境遇で周辺部に生きる人々に対して。このような状況が結果としてファシストの時代のような憎しみの連鎖を生んでいる。私はヨーロッパの緊縮財政にも反対だ。境界を設けて分断するのではなく、ともに分かち合うことのできる社会を望んでいる。極右政党は社会全体に多くの問題をもたらす分断を押し進めようとしている。
    最新作『ジェロニモ』にはトルコ系移民の18才の少年が登場する。少年は妹が古い習慣に則って結婚式をしなかったために恐ろしい決断をする。ヨーロッパはこのような因習に縛られた女性に対して何ができるか。
    ヨーロッパはまずこうした家族の名誉を理由にした犯罪にもっと注意を払うべきだ。ドイツ、スカンジナビア、フランスでは毎年多くのトルコ系の少女らが殺されている。しかし、行動するのは難しい。なぜならそれは家族の問題だからだ。私の映画の主人公は、将来に夢はなくそれが間違っているとしてもただひたすら家族のために尽くそうとする。社会や経済の厳しい状況がなければそのような恐ろしい道を選ばなかったかも知れない。
    なお、本作は今年のカンヌ国際映画祭で特別招待作品としてプレミア上映され、フランス本国では今年10月に劇場公開される予定となっている。日本での公開はまだ情報がないが、劇場で見られることを期待したい。
    (市橋雄二/2014.7.8)
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    2週間毎にひとつ言語が消滅する。2100年までには今日話されている6,000の言語の半分近くがなくなると言われている。国境を越えた、あるいは地方から都市への移住がひとつの理由だ。移住してきた人たちは普通母語にこだわるもので、少なくとも家庭内では母語を話そうとするが、その子供たちはそうではない。もうひとつの理由として英語の優勢がある。このような流れに対してふんばっているのが、世界におよそ1100万いるロマ(ジプシー)のうち4百万人によって話されているロマ語である。言語の健全さがアイデンティティを形作る上で重要であることは言うまでもない。
     多くの言語とは異なりロマ語には故郷と呼ぶべき国がない。ロマ語の起源はインドにあるが、10世紀以降その話者たちは拡散し移動を続けた。その結果彼らはどこへ行っても言語的少数派となり、また150もの異なる方言が使用されることになった。イギリスでは<アングロ・ロマ語>が話され、フランス、ブルガリアそしてラトビアでは方言間の差異が大きい。ニュージーランドのあるロマはかつてウェールズ地方でのみ聞かれた方言を話す。
     フィンランドに住む29万人のスウェーデン語話者が自分たちの言語を使わなくなる兆候はない。しかし、それはスウェーデン語がフィンランドの2番目の公用語になっていて、すべての学校で必修とされ、隣国の950万のスウェーデン人によって話されているという事情による。アイルランド語が何とか持ちこたえているのは、政府が道路標識や公文書における二言語表記や放送、教育に予算を使っているためで、学校の試験でアイルランド語を選んだ勇敢な生徒には点数が加算される措置がとられている。
     しかし、それを保護する政府もなく、ロマ語はおもに家庭で話されている。研究者や言語学者がロマ語を記述し、標準化しようとしてきたが、ロマ語話者の多くは読み書きができない。アメリカは2000年に行われた国勢調査の記入要領をロマ語でも印刷したが、これはまれなことであって、公的な文書に用いられることは皆無といってよい。書かれたものがないということはそれを教えることが難しいということだ。
    スウェーデンにあるロマ語の学校Roma Kulturklassは世界でも珍しい存在で、35人の生徒がスウェーデン語と英語を除く教科をロマ語とスウェーデン語の両方で学んでいる。しかし、教科書もほとんどなく教師たちが自ら翻訳したものを使わなければならない。
     このように言うとロマ語は死にかけているかのように思われるかも知れないが、少数派としての地位や散らばって話者が存在するという弱点が今やロマの言語を維持する力になっている。理由のひとつは、差別された民族にとってのプライベートなコミュニケーションの手段としての有用性である。イギリス系ロマで作家のダミアン・ル・バスは、警官が来てロマを居住地から追い出そうとする時などにロマ語が真価を発揮するという。慈善団体Human Rights Leagueによると、およそ2万人のロマが去年フランスのキャンプから追放されている。
     多くの方言があるといいながら、一方でロマ語は異なる国にいるロマ同士のコミュニケーションの役にもたっている。抑圧の激しかったところでは、移民することが言語滅亡の危機から逃れることにもなった。スペインでロマ語を話すのは75万人のロマの1%にも満たないが、これは18世紀にロマ語の使用が禁止されたことが影響している。しかし、東欧のロマ語話者はロマ語の再興を先導している。
     ロマ語の使用はインターネットによっても増大している。若者たちはメールやコメントをロマ語で書く方法を様々に編み出している、とマンチェスター大学のヤロン・マトラス氏は言う。ロマの間で福音派キリスト教徒が増えていることも言語使用の機会を増やすことにつながっている。イギリス・ブラックプールのイギリス系ロマとアイルランド系トラベラーのショーンとシェリーは、2001年に東欧からの移民が教会にやってきたときにロマ語を習い始めた。ロマ語は「福音書とともに戻ってきたのさ」とシェリーはいう。宗教的な情熱によってもロマ語は生きながらえることになるだろう。
    (市橋雄二/2014.2.17)
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    「世界ロマ語の日」はクロアチア共和国のロマ人教育協会<カリ・サラ>の発案で、2009年11月5日にザグレブで初めて祝われた。11月5日という日は、2008年にヴェリコ・カイタジ編纂による最初のロマ語・クロアチア語辞書が刊行された日を記念して選ばれた。
    2009年11月5日の「世界ロマ語の日」創設にあたって、ロマ語に関する宣言が第一回ロマ語に関する国際シンポジウム(現在は毎年ザグレブで開催)に参加したすべての国の議会に向けての勧告として発布された。ロマ語に関する宣言と11月5日の「世界ロマ語の日」の制定は2008年にザグレブで行われた国際ロマ連盟(IRU)の第7回大会で承認され、連盟はこの日を世界中のロマの人々にとって重要な一日として祝うことを決めた。
     「世界ロマ語の日」には毎年ザグレブでロマ語に関する国際シンポジウムなどの文化的な催しが行われる。シンポジウムにはおよそ20カ国からロマ語研究者、言語学者、作家、ジャーナリストらが参加する。国際シンポジウムの目的はロマ語の標準化の基礎を築くことにある。これまでに取り上げられた議題にはロマ語の標準化と体系化、ITにおけるロマ語の使用、家庭内のロマ語の役割などがあるが、今年の中心テーマは教育機関におけるロマ語の導入である。
     ロマ語は未だ標準化されておらずおよそ60の方言に分かれているため、標準化と言語保全に関する更なる研究が待たれている。ロマ語の標準化は母語による教育面だけでなく、民族意識の維持という少数民族としての権利の実現のためにも重要である。さらにロマ語の使用は公的には認められておらず、日常生活のコミュニケーションに限られていることから、メディアや文化活動などの場面での使用もさらに促進されるべきである。こうしたことも「世界ロマ語の日」を祝うことの目的のひとつとなっている。
     クロアチア議会は「世界ロマ語の日」を支持する世界初の国会となった。推進役はヴェリコ・カイタジ議員で、すべての国会議員が支援したことにより、2012年5月25日、11月5日を「世界ロマ語の日」とする国際的な提案を支持する議決がなされた。
    「世界ロマ語の日」には毎年ザグレブでフェレンツ・シトイカとシャイプ・ユスフの業績を記念した賞が功労者に贈られる。フェレンツ・シトイカは19世紀の終わりに1万3千のロマ語の語彙を集めた最初の辞典を出版したロマ人の辞書編集者であり、マケドニア出身のシャイプ・ユスフはロマ語の最初の文法書の一つをまとめた同時代の人である。
     ロマ語はインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属する言語で、ロマ語の単語にはインド起源が認められる。これによりロマがインドを故地とすることが確認されている。1971年4月にロンドンで開かれた第一回世界ロマ会議の席上romani chibと呼ばれる言語が公式のロマ語であると宣言された。ロマ語で書かれた最古の文献は1537年ロンドンで発行された。クロアチア語の隠語にはお金を意味するlovaなどいくつかのロマ語起源の語がある。
    (市橋雄二/2013.11.4)
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     ニューヨークのアンネ・フランクセンターUSAは2014年1月3日から、「ジプシーと共に暮らす:ヤン・ヨールスによる戦前の写真展」を同センターにて開催する。この写真展ではヤン・ヨールスの体験と戦前のロマ(ジプシー)の歴史、文化、習俗の記録が展示される。ヨールスがロマの家族との生活の中で撮影した写真は、ロマの人々のありのままの暮らしを伝えている。今回の展覧会は34枚の白黒写真により、失われた世界の映像記録を広く公開するものである。
     ヤン・ヨールス(1922−77)はベルギーに生まれた。12歳のときにアントワープの郊外で出会ったロマの一団に入るため、中流階級の家庭を飛び出した。一団はヤンを迎え入れ、6年にわたって暮らしを共にした。冬場は自分の家族のもとに帰り、春になるとロマの家族との旅に戻るという具合だった。第二次世界大戦が勃発すると、ヨールスは英国軍に参加するためイギリスに向かった。占領下のパリでのこと。女子修道院で通行証の発行を待っていると英国の情報部員が接触してきて、連合国を支援するためロマを雇ってほしいと持ちかけられた。ヨールスはこれに同意し、ロマの仲間とともに隠密裏にレジスタンスに武器を届けるなどした。1943年、ゲシュタポにより逮捕され、パリのサンテ刑務所の独房に収容された。死刑を宣告されたが、6ヶ月間断続的に拷問を受けたあと1年間の拘置に減刑された。
    アンネ・フランクセンターUSAの名誉理事でオランダの駐ニューヨーク総領事ロブ・デ・ヴォス氏によると、ヨールスの釈放後、連合国は連合国捕虜の列車による移送の許可証を持つナチス親衛隊員になりすますよう手助けしてヨールスを逃がしたのだという。墜落したパイロットや情報部員、敵から逃れてきた兵士たちの面倒を見ながら移動していたところ、20歳になったヨールスは再び捕らえられた。1945年、悪名高きフランコのミランダ強制収容所から釈放されたときには、ヨールスが共に過ごしたロマの家族はほぼすべてアウシュヴィッツで亡くなっていた。戦後、ヨールスは世界を旅しながら出会ったロマの写真を撮り続けた。
     1977年11月、ヤン・ヨールスは55歳で心臓病のため亡くなった。ヨールスは主に東欧のジプシーに関する文章と映像による記録とともに多くの芸術作品を残した。
    この展覧会はニューヨーク市文化課の主催、アンネ・フランクセンターの公式エアラインであるKLMオランダ航空の協力により開催される。
    アンネ・フランクセンターはどの宗教にも属さない非営利の教育機関で、1977年アンネの父親オットー・フランクにより設立された。
    参考URL:アンネ・フランクセンターUSA:http://annefrank.com、ヤン・ヨールス:http://www.janyoors.com
    (市橋雄二/2013.9.16)
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    第48回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭*(2013.6.28-7.6)のコンペティション部門に正式出品された映画『パプーシャ(原題:Papusza)』**の監督とのインタビューから。
     パプーシャ(「人形」の意)の名で知られるブロニスワヴァ・ヴァイス***は、ポーランドのジプシー(ロマ)社会で詩人として名をなした最初の女性である。しかし、外部者に秘密を漏らさないことを掟とするロマ社会において、パプーシャの名声はさまざまな波紋を呼んだ。クシシュトフ・クラウゼとその妻ヨアンナ・コス=クラウゼの共同監督によるポーランド映画「パプーシャ」はこの詩人の生涯を描きながら第二次世界大戦の前後にロマ社会が直面した迫害の様子も伝えている。
     「高校時代とてもいい先生がいて、それで私はパプーシャという詩人のことを知ることができたのです。」とコス=クラウゼは語った。「ポーランドではパプーシャのことを知る人はほとんどおらず、その生涯は神話や伝説に包まれています。それで、この10年映画を作ろうにも、鍵となるものが見つけられませんでした。いかに詩を見せるかということです。6年前友人に訊かれたことがありました。パプーシャのハープというオペラがあるのを知っているかと。その後、パプーシャの詩をロマの言葉でオペラにした作曲家を見つけることができました。これでようやく鍵が見つかって、どのように物語を見せるかのインスピレーションを得たのです。」
     「映画は長くゆっくりしていて、大勢のキャストを使って白黒で撮られていますが、これは単に詩人の生涯だけでなく敢えてロマ社会全体を描こうとしたためですか。」
     「制作過程自体が映画になりそうです。」コス=クラウゼは苦笑した。「とにかく大きなチャレレンジでした。すべてを作る必要がありましたから。たとえば、ロマの幌馬車は博物館に2台しかありませんでした。それから、年老いていくパプーシャのメイクにも苦労しました。結局ハリウッドのメイクアップスタッフを使うことにしました。白黒で撮ったのは主に経済的な理由からです。コンピューターグラフィックスもたくさん使いました。多くの場面で予算が不足したので、ポストプロダクション(撮影後の編集)で加工せざるを得なかったのです。」
     「ロマの方言にも気を配りました。」コス=クラウゼは続けた。「すばらしい役者さんたちでしたが、難題はポーランドのロマ語方言を覚えることでした。ポーランド語とは全く異なります。プロの俳優は二人だけでしたが、彼らはロマの言葉を覚えるためだけに一年を費やしました。私たちがこだわったのは、ただ台詞を覚えるのではなく、言葉として話すということでした。最初はそこまでこだわっていなかったのですが、友人が言ったのです。いや、ロマの言葉で作るべきだと。そうでないと意味がない。アウシュビッツやゲットーで皆英語を話しているという映画は山ほどあるが、今回はそれではダメだと。」
     この映画では時間軸が一定ではありません。「最初に決めたことは時間の経過通りには物語を描かないということでした。最初から長編叙事詩になることがわかっていました。なにしろパプーシャと80年のロマの生活を描くわけですから。それを情感豊かに描きたかったのです。そうするに値する内容だったからです。ポーランドでのジプシーや現在ロマの置かれている状況を多くの人に知ってもらえることを願っています。ポーランドでの公開に合わせて詩集が出版されることになっています。」
     コス=クラウゼと夫のクシシュトフにとって、この映画はカルロヴィ・ヴァリ映画祭との長い関係の新しい一章となるものだ。2005年夫妻は『ニキフォル 知られざる天才画家の肖像』でグランプリを受賞している。「9年前映画祭は私たちの映画を選んでくれました。それによって大きく生活が変わりました。」とコス=クラウゼは言う。「私たちの映画作家としての生活。そして、私生活も。この映画祭は『パプーシャ』にとっていい場所だと思います。カンヌでもなく、ヴェネチアでもない。ヨーロッパのこの地域のための最も重要な映画祭です。」
     次の作品は。「11月に撮影を始めます。ポーランドのある鳥類学者の物語です。1994年のルワンダで友人の娘を助けヨーロッパに連れて帰る、という話です。」
    (市橋雄二/2013.8.4)
    *) チェコ共和国西部の都市カルロヴィ・ヴァリで毎年行われ、国際的にも権威のある映画祭。
    **) 結果はスペシャル・メンション賞を受賞。日本での公開は未定。
    ***) パプーシャ(本名:ブロニスワヴァ・ヴァイスBronislawa Wajs (1908-1987)については、イザベル・フォンセーカ『立ったまま埋めてくれ』(青土社、1998年)のプロローグの中で詳しく取り上げられている。
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    バルカン半島のロマの間では、この時期、それまで屋内で過ごしてきた寒い季節が終わり、野外に出ることのできる暖かい季節の訪れを祝う風習がある。冬を乗り越え、新しい季節の始まりを祝うこの祭りはバルカン諸国やトルコをはじめ世界の各地でヘルデリェズ(Herdeljez)と呼ばれ、老若男女歌や踊りに興じ、食事を楽しむ。
    ブルガリア、マケドニア、セルビアにおいては聖ゲオルギウスの日として祝われるこの祭りは、ロマの間ではエデルレズィ(Ederlezi)と呼ばれ、5月6日(春分の日からおよそ40日後)に行われる。ヘルデリェズやエデルレズィという呼び名は、同じ日に祝うトルコの春祭りフドゥレッレズ(Hidrellez/トルコ語での綴りはiの点がつかない文字)に由来する。
     このニュースに関連して、この5月4日(土)にはアメリカ・カリフォルニア州オークランドで、カリフォルニア・ヘルデリェズ祭りが行われた。非営利団体Voice of Romaが主催するもので、今年で17回目となる。マケドニアのブラスバンド、コチャニ・オーケスターをはじめ、サンフランシスコで活動するガルベノ・バンド、インスペクター・ガジェがライブを行ったほか、オレゴン大学の文化人類学教授キャロル・シルバーマンが参加しての「ロマ音楽のグローバリゼーション」と題したパネルディスカッションやダンス・ワークショップ、コソボ・ロマをテーマにした写真展も開催され、ハンガリー生まれのロマで、サンフランシスコでレストランを経営していた女性がロマの伝統料理を振る舞った。
     (訳者コメント)ロマの間で伝承されていた「エデルレズィ」という歌があり、エミール・クストリッツァ監督の映画「ジプシーのとき」(1989年/日本公開は1991年)で音楽監督のゴラン・ブレゴヴィッチのアレンジによりテーマ音楽に採用されていることを、今回のニュースの背景を調べていて初めて知った。岩波ホールで映画を観たときには、まったく気に留めることはなかったのだが、当時の映画パンフレットを改めて見てみると、サラエヴォ出身で日本で活躍する歌手ヤドランカさんが「ジプシーの祭りエデレジ」という題で、映画との関わりや思いを綴っている。この祭りや歌とロマの人々との深いつながりが伝わってくる。
    (市橋雄二/2013.5.26)
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    2013年4月8日、<世界ロマの日(International Roma Day)>を祝う式典がクロアチア政府系のロマ組織<ロマ全国会議>の主催によりザグレブのミマラ博物館で開かれた。
    式典にはベスナ・プシッチ第一副首相兼外務・欧州問題大臣、クロアチア国会議長の特別代理で副議長を務めるドラギッツァ・ズグレベッツ、クロアチア大統領の特別代理ダニツァ・ジュリチッチ・スパソビッツ、国会議員、各国大使、政府機関代表、国際団体代表、そして地方のロマ全国少数民族評議会代表および議員、ロマ市民協会やその他のロマ組織のメンバーなど多数のロマも参加した。
     ロマ全国会議のベリコ・カイタジ代表は、今年はクロアチアのロマ社会にとって重要な出来事があったと述べ、ザグレブ大学の人文社会科学部に二つの新設講座が設けられ、ロマニ語と文化が教えられることになったことを明らかにした。また、クティナとダルダの二つの都市に地方政府の協力によりロマ文化センターが設立された。
    カイタジ氏はスピーチの中で、第二次世界大戦中にロマが被った苦難に関する学術的な調査と、それらの情報がカリキュラムの中に取り入れられ、メディアに取り上げられることが必要だと訴えた。ロマ全国会議は、かつてのウスタシャ(訳注:第二次世界大戦中ドイツと同盟を結び大量虐殺を行った民族主義団体)のヤセノヴァッツ収容所内のロマ墓地において8月2日に追悼式を行い、犠牲者の追悼記念日にするとのことだ。
     また、カイタジ氏は、「クロアチアのロマの多くにとっての最大の関心事は住居の合法化であろう。この問題の大きさに鑑み、社会的に恵まれないロマの住居の合法化のために1200〜1500万クーナ(クロアチアの通貨単位)の予算を計上するようクロアチア政府に発議した」と語った。
     ベスナ・プシッチ第一副首相兼外務・欧州問題大臣は、クロアチアが2013年7月1日をもってEU(欧州連合)の正式加盟国になることに触れ、「われわれはロマ社会の持つ経験を活かせるだろう、なぜならば彼らは国家を超えた広い環境の中で長く暮らしてきたからだ」と発言した。大臣はまたロマ全国会議がクロアチア政府にとって重要で対等なパートナーであるとの認識を示した。
     クロアチア共和国の少数民族評議会の代表であるアレクサンダル・トルノイアー氏は、「ロマの人々が真に理解されるために公共の場や政治に取り込まれるべきだ」と言い、  保健大臣のライコ・オストジッチ氏は、「ロマの社会にとって三つのキーワードがある。それは教育と教育と、そして教育である」と力説した。さらに、ロマの人々とその言語、習慣、文化がクロアチア社会を豊かなものにしていると指摘した。その他、クロアチア議会の副議長らの挨拶のあと、ロマの音楽楽団「トリオ・ミュリッツ」がロマの伝統歌謡を披露し、式典は閉幕した。
    訳者コメント:この記事はクロアチアの多くのメディアが配信しているのだが、二つの点を指摘しておきたい。
    ひとつは4月8日の記念日について。これは1971年に世界中のロマの代表がロンドンに集まって開催された第1回世界ロマ会議で定められた記念日であり、今日においてもインドを含め世界各地で祝われており、ロマにとっての重要な記念日として定着しているということが本記事からもうかがえること。
    もうひとつは、クロアチアのEU加盟と本記事との関連について。式典に政府関係者が多く参列していることからもわかるように、本式典の開催と関連記事の配信はEU加盟を控えてクロアチアという国がいかに人権に配慮した政策をおこなっているかを国際的にアピールしようとする意図が読み取れる。もちろん、加盟がきっかけとなってロマを取り巻く環境が少なくとも制度上改善されるのであれば、それは悪いことではないのだが。
    (市橋雄二/2013.4.20)
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    ウズベキスタンで社会から疎外されている独特な民族集団<ムガート>は、現代生活が浸透するこの地域において、いまなお移動生活をおくっている。タジキスタンやカザフスタンにもまたがって生活し、「ジプシー」と呼ばれている。
    町や村を転々とし、占いや季節労働、空き瓶回収、物乞いなどによって糊口をしのぎ、周囲からは汚らしく、不吉な存在だと思われている。
    その生活様式はいくつかの点でヨーロッパのロマに似ている。しかし、何世紀も前にインドをから移り住んだ可能性を共有する以外両者のあいだに直接のつながりはない。
    文化人類学者たちによると、ムガートはカースト制度を維持するなどインド起源の確かな証拠があるという。しかし、部外者にはムガートの日々の暮らしはほとんど知られていない。<リュリ>の名でも知られる彼らはかたくなな閉鎖社会を保ち続けているのである。
    このことは多くのウズベク人にとっては好都合でもある。人々は通りでムガートだとわかると避けるように歩き、その存在を口にすること自体がタブーとされる。
    ウズベキスタンの首都タシケントの写真家アレクサンドル・バルコフスキーも長年この同国人たちを恐れてきたが、やがてそれが好奇心に変化した。ムガートの人々のことを知り、その世界を理解したいと思うようになった。
    <バルコフスキーはムガートの信頼を得て写真を撮るために2年を費やした。その成果をムガートの母親と子供たちを描いたリトグラフ集<ジプシーのマドンナたち>にまとめた。バルコフスキーは現在この集団に関する初のドキュメンタリー映画を製作中である。
    (市橋雄二/2013.2.25)
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    ジプシーとも呼ばれるヨーロッパのロマ民族がこれまでインド起源と考えられてきたのは主に両者の言語の近似性からだった。しかし、それを裏づける歴史的文献はない。 近年おこなわれた広範な遺伝子の研究により、ロマがおよそ1500年前に北インドを出発した単一の集団を起源とすることが明らかにされた。
    「これまでにも遺伝子研究によるインド起源説はありましたが、インドのどの地域かは明確ではありませんでした。」今回の研究の企画者であるポムペウ・ファブラ大学(スペイン・バルセロナ)の進化生物学者デヴィッド・コマス博士は言う。コマス博士はオランダ・ロッテルダムのエラスムス大学のマンフレッド・カイザー氏とともにこの研究を主導した。研究者らは今回の研究成果を学術雑誌「カレントバイオロジー」("Current Biology", Volume 22, Issue 24, 18 December 2012)に発表した。
    研究者らはロマの13の異なる集団の150人以上について80万の遺伝子マーカーを調べ、他の民族集団と比較した。その結果、他のヨーロッパの諸民族との遺伝子的類似点も発見された。「1500年前ロマの人々はバルカン地方に入り、そこからヨーロッパ各地に拡散しました。」コマス博士は言う。「その後時代を下る間にヨーロッパ人との混血が進んだのです。」
    ロマはおよそ1100万人を擁するヨーロッパ最大の少数民族で、欧州連合においてたびたび政治的な争点となっている。一部の集団は今日でも移動生活を続け、違法なキャンプ生活を営んでいる。「これまで遺伝子研究の上で無視されてきた少数民族のひとつについてようやくその遺伝子構造と起源がわかったのです。」とコマス博士は述べている。
    (市橋雄二/2013.1.13)
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    プラハのルドルフィヌム・コンサート・ホールはヨーロッパにおけるクラシック音楽の殿堂のひとつで、毎年開催される<プラハの春音楽祭>で有名だ。この権威あるホールは誰にでも開かれているわけではない。このたびロマ(ジプシー)の音楽家で構成されるオーケストラがステージに上がったことは画期的な出来事だった。
    国際ロマ・スィンティ・フィルハーモニー・オーケストラは、ルドルフィヌム内にあるドヴォルザーク・ホールで最後のリハーサルをおこなっていた。チェコ出身のチェロ奏者の隣にハンガリーのハープ奏者が座るという具合で、ほぼすべてのメンバーが少数民族ロマである。チャールダーシュやジャンゴ・ラインハルトのジプシー・ジャズではなく、クラシック音楽をジプシーのセンスで演奏する。記者はリハーサルの合間にコソボのプリシュティナ出身のヴァイオリン奏者デヴィッド・ブバニ氏に聞いた。この夜、ロマ・スィンティ・オーケストラは『アウシュヴィッツに捧げるレクイエム』という曲を演奏することになっている。
    「多くの人が知っているタイプのジプシー音楽を演奏するのではありません。私たちはクラシック音楽の演奏家でもあって、バッハやモーツァルト、ドビュッシーも演奏するのです。もちろんジプシー音楽も演奏しますが、今回の目的はロマやスィンティ、ジプシーの人々も戦争の犠牲になったということを伝えることです。」
    『アウシュヴィッツに捧げるレクイエム』はスイス生まれでオランダ在住のロマの作曲家ロジャー・モレノによって書かれた。1998年に初めて訪れたアウシュヴィッツで精神的にショックを受け、作曲のスランプに陥ったという。
    モレノ氏は言う。「この曲はユダヤ人、ロマ、ポーランド人などアウシュヴィッツの門をくぐったすべての犠牲者に捧げるものです。この地で亡くなった人々はユダヤ人であろうがなかろうか、ジプシーであろうがなかろうが皆同じ舟に乗せられていたのです。そこにはなんの違いもありません。彼らは皆同じように死んでいったのです。すべての人々のために記念碑を作ろうではありませんか。この曲にできることは限られていますが、この世界に平和と、宗教や国家の間の争いには寛容をもたらしてくれることを願っています。」
    今年初めのアムステルダムでの初演以来、『アウュヴィッツに捧げるレクイエム』はオランダのティルブルフのあと今回プラハとブダペストで演奏され、さらにフランクフルト、ブカレスト、クラクフでも演奏会が予定されている。どの土地でもロマ・オーケストラは地元の合唱団と共演しているが、これはロマと非ロマの人々を隔てている目に見えない障壁に対する象徴的な挑戦でもある。
    今回のコンサートは欧州連合(EU)とドイツの<記憶、責任と未来>基金が支援するプロジェクトに含まれる他のイベントとも連携している。プラハでの運営を担当するチェコのNGO団体<スロヴォ21>のイエトゥカ・ユルコヴァさんは言う。「私たちはロマの人々は、普段メディアを通して目にする姿とは違うということを示したいと思っています。チェコ国内では最も貧しく、最も問題の多い住民であるというように言われることが普通ですが、ほんとうは技芸に優れた偉大な人々であるということも伝えていきたいのです。チェコのクラシック音楽界は保守的だといわれます。ですから、国で最も権威のある演奏会場にロマの音楽家が出るのは極めて珍しいことです。そういうこともあって、1200枚のチケットはすべて無料になりました。主催者がジプシー・オーケストラのコンサートでチケットが売れ残ることを心配したのです。」
    このことはロマに対する根深い偏見を克服しようとする人々が直面している試練の大きさを物語っている。
    (市橋雄二/2012.11.27)
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    最近まで、ロマの男であれば前日の食べ残しは口にしなかった。男性は食べ残しには触れることはなく、もしそのようなものを食卓に出そうものなら女性は怒鳴られた。男性だけでなく女性や子供も古くなった食べ物を嫌う。これはロマが依然として守っているインド古来の習慣のひとつである。
    ロマは毎日その都度調理をし、昼食に作ったものを夕食に出すことはしない。そうしたものは腐敗しているので食べてはいけないと信じているためだ。ロマの中には厳格にこの習慣を守っているものもいる。そのために女性は掃除をしたり子供の面倒をみたりする以外に一日に何度も料理しなければならないのだが。
     しかし、ロマの若者、たとえばチェコに出稼ぎに来ているものの中にはこの習慣を手放しているものがいる。経済的理由と自由になる時間がないためにそうせざるを得ないのだ。
    また、ムラダー・ボレスラフ(シュコダ自動車の本社がある町)で家庭をもった私たちのようなカップルの場合、夫またはパートナーが三交替シフトで勤務しているので、妻あるいは女性は親族の手伝いなしに家事や育児をこなす時間ができるが、食事時間がまちまちになるため、二日分の食事を作り冷蔵庫に入れざるを得ない。私のパートナーが私のことを気遣って、このやり方を提案したときにはショックだったが、しかし受け入れざるを得なかった。彼もロマだが、もう何年も作りたての食事なしでやってきている。自由になる時間が少なく、食べ物を無駄にしないと決めたのだった。
    私自身は前日のスープは決して翌日に出さない、そんなことをしたら父親が鍋をひっくり返すという家庭で育った。チェコに来たときもこの習慣は身についていたが、前日の夕飯の残り物を捨てようとしたときにボーイフレンドを驚かせて以来、それが大きく変わったのだ。私の母は毎日2、3回食事を作った。もちろんお金はかかるが、「古くなった食事は食べるものではない」と言って、この習慣をただただ守ってきた。
     しかし、私はこの習慣を緩めるしかなかった。そして、今では翌日の分まで食事を作り、自分のために時間を使う方が都合がよいと思うようになった。そのようにしても、今もちゃんと生きているのだし。ロマでない人は、腐ったものを食べなければならないときに「おえっ」と言うロマのことをあざ笑うが、ロマは3日前のスープを飲むなんて何てケチなんだと言う。
     私は先月スロバキアにいる親族を訪ねた。毎日たくさんの食べ物が捨てられるのを見て悲しくなった。義理の妹がポテトケーキを作った。あくる日、バーベキューをすることになり、誰もこのケーキに手を出さなかった。私のボーイフレンドと私はまだ食べられると言い、喜んで食べた。冷蔵庫に入れてあったんだから大丈夫よ、と言うと周囲の人たちは私たちを奇異の目で見ながら顔を歪めた。私たちはまるで別世界から来たような気分を味わった。
     もう一つロマがまだインドにいた時代にさかのぼる奇妙な習慣がある。女性が子供を産むと、不浄だからという理由で6週間料理することを許されないのだ。同じコミュニティの別の女性が、その家族のために料理をすることになっている。しかし、今ではこの習慣はもう残っておらず、他の家族のために料理をする女性もいない。誰かが産後に食べ物を届けるということはあるが、古い習慣に囚われない夫であれば、自分で妻を手伝うだろう。そうでなければ、自分で料理するしかない。
    現代の速いペースは、古い習慣を脱ぎ捨て、新しい環境に適応していくことを私たちに強いる。どの国でもやがて博物館の展示になるような古い習慣を失っているときに、それは避けられないことだ。どのように伝統を保持してきたのか、その伝統は何を表しているのかについて長老たちに尋ねるしかない。残念ながら、いくつかの伝統は文字として記録されるのみだが、次世代の人々はそれによってはじめて自分たちの歴史やルーツを知ることができるのだ。
    (市橋雄二/2012.10.21)
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    ハンガリー国立映画基金は次回アカデミー賞にロマのアマチュア俳優が出演する"Just the Wind"(原題:Csak a szél)を代表出品することを決め、9月7日発表した。
     ベネデク(ベンス)・フリーガウフ監督によるハンガリー・ドイツ・フランス合作の本作は今年のベルリン映画祭で銀熊賞(審査員特別賞)を受賞したほか、パリ映画祭やチェコのカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭などヨーロッパの映画祭にも出品された注目作で、先週9月6日から開催中のトロント国際映画祭でも、コンテンポラリー・ワールド・シネマ部門で上映されている。
     この映画は人種差別主義者による無差別連続殺人の恐怖におののきながら暮らすロマ居住地区のある家族の一日を描いている。2008年から2009年にかけて9つのハンガリーの村でロマの家族が襲撃された。その後、4人の男が逮捕され、現在公判中という実際に起きた事件を題材にしている。
    この一連の事件では、6人のロマが撃ち殺された。その中には5歳の子供も含まれ、ほかにも多くの負傷者を出した。すでに4つの家族が犠牲になり、犯人は捕まっていない。次は誰が狙われるかわかならいという恐怖の中で送る不安な日常。映画ではそうした迫り来る恐怖とロマに対する根強い差別を描いたシーンが交錯する。
    フリーガウフ監督は自ら脚本、共同プロデュース、音楽を担当し、映画にリアリズムを吹き込むためにハンガリーのロマ・コミュニティーから素人の役者を何人か起用した。
       以上がニュース記事の内容である。筆者は実際に観たわけではないので推測になるが、この映画は社会問題を背景に描きながらサスペンス映画に通じる心理劇として成功しているのであろう。スピルバーグ監督の『激突』という映画がシンプルな設定ながら追い詰められる人間の恐怖感を見事に描いていたことを思い出す。また、ハンガリーのロマといえば、都会でジプシー楽団として活躍し地位を成した成功者のイメージが強く、農村部に暮らすロマの実体はなかなか窺い知ることができない。そういう点でも是非観てみたい映画であるが、日本で公開されるかどうかはまだわからない。
    なお、日本ではアカデミー賞への出品は日本映画製作者連盟が選考することになっていて、今回はヤン・ヨンヒ監督の『かぞくのくに』が選出された。
    (2012.9.9/市橋雄二)
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    (編集部)黒人の日(11月20日。黒人奴隷制度の抵抗運動のリーダー、ズンビの命日にちなんで制定されたブラジルの祝日)を祝う上院の特別集会でロマ・コミュニティ代表のM.ケイロス女史がブラジルには800のロマの居住区があり、そこでは出生証明書すらもらえないことから、<隠れブラジル人>となっている現状を声高に訴えました。様々な民族集団や人種の人々が人権を求めて闘っている現状からすると、原住民、黒人、あるいは他の民族運動と連携することはないのですか。
    (ゲルパ)私はいつもブラジルには60万人のロマがいると言っていますが、推測の域を出ません。ブラジル政府はわたしたちがどういう民族でどのくらいの人口があり、どこに住んでいるかを把握していないのが現状です。ケイロス女史は確かにいくつかの居住地を訪れていますが、全体像を詳しく語れるほどではありません。実際政府がソウザの町を訪れたとき、その周辺にロマが住む場所がたくさんあることを誰も言わなかったため、そこまで足を伸ばさずに終わりました。マリスポリス、オレベ、サン・ジョアン・ド・リオ・ド・ペイシェ、パトス、パウ・デ・フェホなどです。先ほど言った通り、政府はわたしたちがどこに住んでいるかを知らないばかりか、さらに悪いことに、知らないふりをしています。
    もっと言えば、ブラジルのロマたちの所在が特定されることは今後もないと断言できます。それは多くのロマが自分たちの素性を明かしていないためです。ロマの文化は何世紀もの間排斥、不寛容、不公平、偏見にさらされてきました。ブラジルにおいても同様です。ブラジルのロマは身分証明書が手に入れられないほか、健康保険、義務教育、成人教育も受けられず、都市部でのキャンプ用スペースなど社会的・文化的に受け入れられることもありません。そして何よりも、伝統文化の継承に対する保障がありません。1562年(1574年という説も)以来ブラジルに住む人々の習慣と文化遺産であるにも関わらずです。
    ということで、他のコミュニティと連携できるのはそこで論じられるテーマが共通する場合です。しかし、実際にはそうはいきません。みな独自の習慣を持っているからです。それぞれが直面している問題は無数にありますが、それらすべてを取り上げるわけにはいきません。理想ではありますが...。
    (ラマヌーシュ)さきほどお話した通り、<ブラジル・ジプシー大使館>の活動はその90%が文化的なものです。政治的に活動する場合もこの文脈においておこないます。確かなことはブラジルにはロマの人口の規模に関する信頼できる統計がないことです。あるロマの活動家は自分のコミュニティの人口を質問されると、数を増やして答えます。(そこには注意を喚起し、<隠れた>存在であることに対抗するための戦略があるのですが。)一方、政府の方は、ブラジル国家統計局による技術的に正確な国勢調査ができていない。さらに悪いことに、ロマを統合するための政策を俎上にあげなくて済むように、その数を少なく発表する傾向があります。ロマの権利に関して言えば、ロマと呼ばれる人々も他の人々と同じくブラジル国民であることを忘れてはなりません。
    ブラジルのロマ、特にカロン・コミュニティに属する人々は、下層市民として扱われています。近年、ロマは人種平等政治評議会(CNPIR)や伝統的民族およびコミュニティの持続的発展に関する国家委員会(CNPCT)といった機関に代表者を送り込んでいます。しかし、これら二つの機関は諮問機関に過ぎません。直面する問題のひとつは、教育機会の損失です。
    (ゲルパ)ジプシー文化支援研究センターは2007年2月に設立されました。私はCNPIRやCNPCTがロマの教育のためにおこなってきたことは知りませんが、ロマの教育について語る前にまずブラジルそのものの教育問題を議論すべきだと思っています。ロマの女性は手相から将来を読み取りますが、ロマの人々の将来は行政機関の手に委ねられています。そこでは認められることを待っている人々の社会参加を促し、基本的権利を行使できるよう努力をすべきです。いずれにしても時間がかかります。
    (ラマヌーシュ)<ブラジル・ジプシー大使館>は29年間活動を続けていますが、そのうち26年間は非公式に、残る3年間は政府系の人権団体と共に活動しています。これまでのところ成果としては次のようなものです。
    ・ この13年間、サンパウロのいくつかの大学でロマ文化の歴史に関する公開講座と修士課程の講義をおこなっています。これはラテンアメリカにおいても先進的なプロジェクトです。
    ・ ラテンアメリカで初めて自分たちの言語で本を出版しました。2009年にロマ単語集(ロマニ・スィンティ語の語彙と文法)、2011年にはスペインの国際ロマセミナーに参加した際にカロの言葉の演習本を出しました。
    ・ スィンティ、カルデラシュ、カロンなどさまざまなメンバーを抱えているので、これらコミュニティ間の相違点について講演しています。
    ・ 差別や偏見を少なくするために文化の分野で展開してきたプロジェクトについて国際的な認知を得ました。アフリカ、スロヴァキア、フランス、スペインでおこなったロマニ・ロタ(「ロマの来た道」)という音楽と踊りのパフォーマンスプロジェクトでは、政府の支援がなくわたしたちの財源に頼るのみでしたので国の数はこれ以上を増えませんでした。
    ・ 2011年にはサンパウロ州の公認を得て、SESCという文化芸術機関の活動の一環としてロマニ・ロタの公演を行いました。これは2012年も続ける予定です。
    (市橋雄二/2012.5.18)
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    移民問題を専門とするドイツのオンライン雑誌が、ブラジルのロマ社会を代表する二人にインタビューをおこなった。一人はジプシー文化支援研究センターの代表マルシア・ヤスカラ・ゲルパ氏、もう一人はNPO団体ブラジル・ジプシー大使館<フラリペン・ロマニ>の代表ニコラス・ラマヌーシュである。
    (編集部)ブラジルにあるロマの三つのコミュニティ、すなわちロム(旧ユーゴスラビア、セルビア及び東欧諸国出身)、カロン(スペイン、ポルトガル出身)、スィンティ(ドイツ、イタリア、フランス出身)について、共通点、相違点は何ですか。
    (ゲルパ)ロマ社会の構成員は同質ではなく、言語、生業、文化、社会の面で違いがあります。インターネット上にはロマに関する情報が数え切れないほど上がっていますが、すべてが真実ではありません。多くは様々に説明しようと試みているのですが、根拠に乏しく、ロマに関するイメージは15世紀以降ステレオタイプや民間伝承の形で定着しました。あるときは情緒的な、あるときは注意を喚起するような語り口で、現実と空想が入り混じっています。
    (ラマヌーシュ)ロム、カロン、スンティは一様に<ロマ>を自称します。一方で、これらのコミュニティに属する個人は、それぞれ自分たちこそが本当のロマだと言います。他のコミュニティがロマであることを認めないのです。このことはロムであっても、カロンであっても、スィンティであっても、個人レベルではコミュニティの中でロマとしての意識を持っていることを物語っています。違いは様々で、ロマニ語の方言の違い、インドを出たあとに住みついた場所で後から身につけた文化的価値観の違い、インドを出る以前から有していたそれぞれのコミュニティの文化的特性の違いなどです。それではこれらの違いをひとつずつ見てみましょう。
    ・ 方言の違いが大きくロマニ語はいまだ標準化されていません。(ただし、1978年の国際会議でその必要性が議決されて以来、標準化の作業が続けられています。)
    ・ 定住地で獲得された文化的価値観は大きな違いを生みました。宗教を例にとれば、トルコのロマは多くがイスラム教に改宗しました。ギリシアに住みついた人々はカトリックやギリシア正教に、そしてアメリカ大陸に到達した人々はプロテスタントに、という具合です。ユダヤ人ならユダヤ教を信仰するというのとは異なり、コミュニティ毎に信仰する宗教が決まっているわけではありません。
    ・ インド時代に元来有していたコミュニティ独自の文化要素は、インド社会を身分階層に分けるカースト制から発しています。たとえば、結婚や葬送、寡婦の儀礼があります。主にカロンのコミュニティでは千年前のインドのカースト内でおこなわれていたものとほぼ同じ習慣がみられます。結婚は相互の両親の間で契約として取り交わされる、葬儀では故人の持ち物はすべて燃やされる、寡婦は生涯喪に服さなければならない、などです。
    (編集部)ブラジルに住むようになって以来、ロマの人々は彼らのコミュニティ間においてさえ差別されてきました。言葉も差別の要素のひとつです。ロマとスィンティはロマニ語を話す一方で、カロンはシブ・カレというロマニ語にスペイン語とポルトガル語が混ざった言葉を話しているといわれますが。
    (ゲルパ)ロマニ語はロマのオリジナルな言語ですが、インド起源の言語であると同時にペルシア語、トルコ語、ギリシア語、アルメニア語、クルド語などロマが通過した国の語彙がたくさんロマニ語に加えられていることを知る必要があります。その証拠に、ヨーロッパだけでもおよそ60の方言が話されていると言われています。私は、ブラジルでは、ロム・コミュニティのロマだけがいわゆるロマニ語を話しているとみています。その他のコミュニティの多くはカロを話しています。イベリア半島で話されている方言です。しかし、北部や北東部のカロは、ブラジルの南部や東南部で話されているものとは大きく異なります。ブラジルではロマニ語の語彙は保たれているが、会話ベースでは様々な変化が見られるということです。言語が失われつつあるということは残念なことです。
    (ラマヌーシュ)言語に違いがあり偏見が生まれるということは自然なことで、人間が本来持っているものと言っていいでしょう。たとえば、その人口が2億に達するブラジルのような国では、方言の違い(北東方言と南部方言)が偏見を生み出します。南部で話されるポルトガル語は北東部で話されているより正確なポルトガル語である、というような言い方がそれです。実際の会話は文法で評価することはできないのですが、その事実を知らないことが人々を偏見へと向かわせるのです。
    私の父親はフランス南部のサント・マリー・ド・ラ・メールで生まれました。父は第一次世界大戦の際の難民としてブラジルにやってきました。教養のある人でしたが、読み書きができませんでした。実際は四つの言語を話すことができたのですが、自分の名前のサインの仕方だけしか知りませんでした。しかし、私は父のことを教養のある人だと思っています。なぜなら、読み書きはできませんでしたが、自分の属するヴァルシュティケというスィンティの習慣や価値観を私に伝える術を知っていたからです。父にとっては伝統を伝えることこそが大事なことでした。
    ゆりかごのなかで身につけた伝統が、<ジプシー大使館>を設立する動機となりました。団体の定款で最大の目的はわれわれの伝統的価値観の支援、維持、普及であることを謳っています。そして、ブラジル政府のサポートがなくとも、社会の底辺に生き、なかなか差別から抜け出せないカロンのコミュニティに対する社会福祉サービスを提供してきました。※次号へつづく。
    (市橋雄二/2012.4.22)
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    スウェーデン・ロマの作家カタリナ・<カティツィ>・タイコンの作品は時を経てもなおヨーロッパの多くの人々の心に残っている。タイコンの最も有名な作品である半自伝的な『カティツィ』は1940年代のスウェーデンを生きたロマの少女の物語を描いたもので、もともと子供向けに書かれ1979年にはテレビドラマ化されたが、偏見の現実を描いて大人にとっても示唆に富んだ著作である。
    主人公<カティツィ>は9歳のときに養護施設から家に連れ戻されるのだが、施設での彼女はその無邪気さによって当時のスウェーデンでロマが直面していた偏見をさらに際立たせている。この本は異なる文化の理解を助けたばかりでなく、スウェーデンやその周辺国が抱える政治や社会の問題を大人の読者に気付かせることになった。彼女の著作は他の言語にも翻訳出版されており、その影響はさらに広がっている。
    カタリナは1932年スウェーデンのエレブルーという町で生まれた。正規の教育を受けずに育ったが、女優としての才能を見出され、1948年には10代の少女の役で映画デビューした。カタリナはロマが平等に扱われることを信念とし、文学の領域のみならずその大義のために闘った。勇敢にも、新聞社や政府、議会、政党に働きかけロマの声を聞くように訴えた。また、スウェーデンのロマに関して大学で講義をおこなったりもした。スウェーデンにおけるロマの歴史は長いが、カタリナはロマについて公に発言する数少ない人間の一人だった。
    今日スウェーデンに暮らすロマの人口は4万から5万と推定され、いくつかのサブグループに分かれる。最大のグループはトラベラーズと呼ばれるグループで、14世紀にはこの国に住み始めたとされる。ほかに、フィンランドから移ってきたカーレや1990年代に内戦下のユーゴスラビア、特にボスニア・ヘルツェゴビナから来たおよそ5千人のロマ難民などがいる。
    2006年、スウェーデン政府はロマの問題に関する特別委員会を立ち上げ、異なるロマのサブグループから専門家を招聘した。同委員会にはロマの生活水準の改善について提言をまとめることが求められた。
    しかし、4年後に50人のEU市民であるロマが突然国外退去にされると、スウェーデン当局は厳しい批判にさらされた。欧州評議会の人権委員を務めるスウェーデン出身のトマス・ハマーベリ氏は、自分の国の人間はロマの差別に力を貸しているとして次のように述べている。「ロマの人々は政治家にとっては社会に対する脅威だと映っているのです。逮捕や集団退去の危険にさらされています。」
    そういう意味では、カタリナの妹のローサがユネスコの刊行物に、大人の心から偏見をなくすことは難しいと書いた1980年代から、事態はあまり変わっていないのかも知れない。カタリナはそれをわかっていて、カティツィの物語を書いて子供たちに少数民族のことをもっと知ってほしいと願ったのだ。
     ローサは20世紀を生きたロマとしてその経験を語り続けている。そして、何よりもロマの教育には特に関心を寄せている。彼女は言う。「私はスウェーデンで生まれたスウェーデン国民でありながら、33歳になるまで学校に行ったことがなかったのです。」1982年カタリナは心臓病を患い寝たきりになった。それ以来起き上がることなく、1995年63歳で亡くなった。しかし、スウェーデンにおけるロマの子供の教育に対する思いはヨーロッパのすべての年代のロマの間に響き渡っている。(市橋雄二/2012.3.18)
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    ボクシングについては意見が分かれることが少なくない。すなわち、それを力と技の発揮による一種のスポーツ芸術だとする見方と単なる残忍な見世物だとする見方である。どのような見方をするにせよ、ヨハン・トロルマンの人生は悲劇としか言いようがない。
    トロルマンは1907年、北ドイツのハノーファーに生まれ、旧市街に住むスィンティ(広義のロマのうち中世後期から中欧に住む民族集団)の家の11人兄弟の一人として育てられた。8歳のときにリング上での才能を開花させ、ハノーファーのボクシングクラブに入って練習をするようになった10代のころには評判はますます上がっていった。スピード、軽快さと驚くべき破壊力が持ち味のトロルマンは、ロマの言葉で「木」を意味する<ルク>からとった<ルケリ>の名で知られるようになった。
    アマチュア時代のルケリは無敵で、4度の地区大会と北ドイツ大会で優勝した。1928年、トロルマンはストックホルム・オリンピックのドイツ代表に選ばれるものと思われていたが、選考委員たちは「黄色人種でボクシングスタイルもドイツ式ではない」としてその参加を拒否した。これが人種差別に晒された最初の体験だったが、決してこれで終わりではなかった。
    不屈の精神を持つトロルマンは2年後ベルリンでボクシング協会の承認を得てプロに転向する。するとその卓越した技でたちまち多くのファンを獲得した。その多くは女性だった。1932年には年間32試合を戦うものの、観客動員が増えるに従いファシスト政権寄りのメディアから「リングの上のジプシー」というレッテルを貼られるようになる。ユダヤ人がスポーツの世界から排除されるようになると、それまでユダヤ人ボクサーのエリック・ゼーリッヒが占めていたライトヘビー級チャンピオンの座が空席となった。悲しむべき状況ではあったが、こうしてトロルマンは1933年6月9日チャンピオンベルトを賭けてアドルフ・ヴィットと対戦した。
    その試合は政治的に利用されていた。ヴィットは、「スィンティ出身の対戦相手を簡単に打ち負かすアーリア人」という役割を負っていたのだ。しかし、ルケリは簡単にはダウンしなかった。それどころか、ボクシング協会の会長の前でおこなわれた6ラウンドは、トロルマンが優勢だった。そのときだった。ヒトラーの党の一員が審判に判定を無効にするよう命じたのだ。ボクシングのことをわかっているファンによって埋め尽くされた観客席は大騒ぎとなり、協会は命令を退けトロルマンの勝利を宣言せざるを得なかった。
    この劇的な勝利にトロルマンはリングの上で歓喜と悲しみの涙を流した。勝利を喜んだ一方でその年のはじめ重い病気で父親のウィリアムを亡くしていたのだ。
    ヒトラーは熱心なボクシングファンだったことで知られている。支配人種が他のすべての人種、特にユダヤ人、ロマそしてスィンティの人々に優るという自らの理論を示そうとするときに、トロルマンの成功はこのドイツのリーダーを動揺させた。大方の予想通り、トロルマンの王座は長くは続かなかった。一週間後、ボクシング協会が「風変わりな動き」で「ボクシングらしくない」と主張したことが理由でチャンピオンベルトを剥奪されると告げられたのだ。
    翌月、異彩を放つボクシングスタイルを変えるよう忠告され、ジプシーのように踊ることを禁じられたトロルマンは、髪をブロンドに染め、小麦粉で体を白く塗ってリングに上がった。そしてグスタフ・エダーの前に敗れた。それはトロルマンにとって最後のプロボクシングの試合となるだろうという覚悟で望んだナチ政権に対する勇気ある抵抗だった。
    ナチ政権がさらに権勢をふるうようになるとスィンティの人々はユダヤ人と同じ扱いを受けるようになり、1938年には断種手術が強制収容所行きを免れる唯一の手段となった。命の危険を感じたトロルマンは断種手術を選び、スィンティの出身ではない妻と離婚することによって妻と娘を守った。
    労働キャンプにいた1939年ドイツ国防軍に召集され、1942年人種を理由に除隊になるまで各国で従軍した。その年の夏、トロルマンは故郷のハノーファーで逮捕され、ハンブルクにあるノイエンガンメ強制収容所に送られた。
    ここではすぐにナチ親衛隊のボクシングレフリーの目に留まり、一日の重労働のあとに兵士に対してトレーニングするよう命じられた。死んだことにして助けようという同志の企てが発覚すると、トロルマンは1943年ヴィッテンベルゲに移送された。ここでもボクサーとしての名声が災いをもたらすことになる。
    今度は収容所の監督官エミル・コーネリアスと試合するよう命じられた。ナチスの下、長期間の残忍な扱いを受けていたにもかかわらずトロルマンが勝利した。ボクシング選手としてルケリの最後の舞台になるはずだったが、トロルマンは卑劣な復讐を企てたコーネリアスによって強制労働中に収監者たちの目の前で殺されてしまう。ヨハン<ルケリ>トロルマンは1944年3月9日、わずか36歳でこの世を去った。
    弟のひとりヘンリーもその4ヶ月前にアウシュビッツで虐殺されている。悲しみに暮れた母親はその後1946年ハノーファーで亡くなった。やはり熱心なボクサーとなりヨハンから多くを学んだ弟のアルバート<ベニー>トロルマンは、ハノーファーで78歳まで生き、1991年病死した。
    試合に勝ってから70年後、娘のリタとヨハンが大叔父にあたるマニュエル・トロルマンら遺族に対してチャンピオンベルトが贈られ、ライトヘビー級のドイツ人チャンピオンとして公式に記録されることになった。
    2011年の夏、ハノーファーとベルリンにボクシングリングをモチーフにした仮設のモニュメントが建てられ、ノイエンガンメ収容所での収監者番号にちなんで<9841>と名付けられた。制作した芸術家二人によれば、リングを斜めに傾けたのは、偉大なボクサーが選手人生を通じて堂々と向き合った試合という戦いと晩年に被った差別そしてナチス時代の恐怖との戦いを表しているのだという。
    (市橋雄二2012/2/12)
    参考URL: http://www.johann-trollmann.de
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    ドイツ出身の映画音楽の巨匠ハンス・ジマーがガイ・リッチー監督の『シャーロック・ホームズ』(2009)の続編の音楽を引き受けることになったときは、100本以上の映画音楽を手がけてきたキャリアにまた新たな一本が加わるだけかのように思われた。
    しかし、仕事を進めるうちに、もともと政治的関心の高かったこのアカデミー賞作曲家は新しい音楽の方向性とひとつの志を見出した。ロマ(しばしばジプシーと呼ばれる)への関心がそこへ導いたのだ。
    ヨーロッパの各地で今も差別を受けるマイノリティーは、移動を続ける生活と風変わりな言葉や文化を理由に侮蔑の対象となり、かつてユダヤ人とともにナチスの犠牲となった。この夏ジマーはいつもの音楽メンバーに加えて民主活動団体のNational Democratic Instituteのメンバーらとともにヨーロッパの7か所のロマ居住区を訪れ、さまざまなミュージシャンの音楽を聴いた。
    「中欧の国に行ったのですが、このような貧困は見たことがありません。」ジマー(54才)は言う。「あってはならないことです。」
    ロマの音楽に感銘を受けたジマーは、正当な2セッション分のギャラを約束して、出会ったミュージシャンの中から13人をレコーディングに呼んだ。彼らはバイオリンとアコーディオンを携えてウイーンにある録音スタジオに出向いた。彼らの演奏は12月16日全米公開の『シャーロック・ホームズ』の続編"A Game of Shadow"*の映画音楽として収録された。サウンドトラックの収益の一部はロマの人々に寄付され水、暖房、学校へ行くためのバス代など生活費の一部に充てられることになっている。
    ジマーの娘でファッション写真家のゾーイ・ジマーも旅に同行し、ロマの人々をカメラに収めた。"Deserve Dignity"(「誇りをもって生きる人々」筆者試訳)と題する写真展がこの1月からウエスト・ハリウッド図書館で開催される。
    「私は政治家ではないので問題を解決することはできない。」と父ジマーは言う。「とても音楽的なジプシーの世界といういい意味でのステレオタイプを後押ししているわけですが、それが今の私にできる唯一のことです。少しでも彼らに仕事の場を提供すること、それによって彼らの生活が少しでも良くなることを願っています。」
    (市橋雄二/2012.1.9)
    *日本では『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』の邦題で、今年の3月12日全国ロードショー公開(配給:ワーナーブラザーズ映画)の予定。出演はロバート・ダウニー・Jr.、ジュード・ロウほか。12月16日に公開されたアメリカでは1月1日までの累計興行収入が100億円に達し、1位のトム・クルーズ主演『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』と僅差で2位につけ、大ヒットとなっている。
    (市橋雄二)
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    "Lost Music of Rajasthan"と題する65分のドキュメンタリー番組が、この12月6日にイギリスのBBC ONE(日本のNHK総合テレビに相当する)というチャンネルで放映された。この番組では、撮影隊がラージャスターンの沙漠地帯を旅しながら、インド独立以降その存続が危機に瀕している楽師たちを探訪する。
    ボーパと呼ばれる絵解き芸人が大きな布に描かれた絵巻を前に三日三晩物語を吟じる。そこにはサフラン色の衣装を身にまとい水キセルを吸う姉妹や女装の男たちが集まり、カルベリア・ジプシーの踊り子たちが後ろ向きに反り返ってルピー紙幣を口で銜える曲芸を見せたりしている。
     生きていながらにして既に伝説化したバンワリー・デーヴィーがラージャスターンの田舎の村の実家でクリシュナ神への賛歌を歌っている。彼女の巧みな歌声がガラスのない窓と素朴なつくりの家の戸口から漏れ聞こえる。彼女はそこで7人の自分の子供を含む22人の扶養家族と暮らしている。9歳か10歳のころに結婚し、今は未亡人となっている。12歳のときに長男を出産した。この長男が弟とともにハルモニヤム(手こぎオルガン)と太鼓で伴奏をしている。音楽はあたりの畑や沙漠に響き渡る。歌いながら思い余って涙するデーヴィーを、伝統音楽を支援する基金(JVF)のディヴャ・バティアが慰めている...。
     残念ながら番組自体を観ることはできないが、BBCのホームページにアップされたスチール写真とそこに添えられた上記の紹介文からおおよその内容を知ることができる。撮影地については詳しく書かれていないが、ジョードプルとジャイサルメールの周辺部ではないかと思われる。上記のJVFという団体は、調べてみるとラージャスターン州の州都ジャイプルにあるJaipur Virasat Foundation(ジャイプル文化遺産基金)であることがわかった。
     この番組で紹介される楽師たちはかつて各地の藩王や貴族たちがパトロンとなり、代々芸能を生業としてきたのだが、第二次大戦後の共和国政府成立と共にそうした制度が解体され、その存続が危ぶまれるようになった。このことを指して「消え行く」音楽と題していると思われるが、実際に現地を訪ねてみると観光客をパトロンにしぶとく生き延びている楽師たちの姿を見ることができる。(この模様は本HPのビデオアーカイブギャラリーに収められている。)そのエキゾティックな音楽や踊りを携えて欧米諸国や日本に公演に行き稼ぐものもいる。また、今回の番組で取り上げられているような支援団体による援助もあるだろう。この番組がそうした彼らの今と未来をどう描いているか、チャンスがあれば是非観てみたいものだ。(市橋雄二/2011.12.11)
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    ピッツバーグ大学の音楽学部ロシア東欧研究センターと海外研修課は、来夏<チェコ、ポーランド、スロヴァキアにおけるロマの音楽、文化、人権>というテーマで海外研修プログラムを実施すると発表した。民族音楽を専攻する学部学生が対象で、3単位が与えられる。
    この海外研修は、ピッツバーグ大学の音楽学準教授アドリアーナ・ヘルビク博士とプラハのチャールズ大学人文学部の民族音楽学講座主任をつとめる準教授ズザーナ・ユルコーヴァ博士によって企画運営される。
    ロマの音楽と文化に特化したプログラムは、この種の海外研修としては初めてである。学生はロマのミュージシャンや活動家、住民との交流、調査、インタビューなどを実地におこなう。プラハでおこなわれる<カモロ世界ロマフェスティバル>に参加するほか、スロヴァキアのロマ居住地を訪ね日常生活の中のロマ文化に触れる。ポーランドではクラクフ周辺地域でロマのホロコースト(大虐殺)の歴史を学ぶ。学生はまた、チェコ、スロヴァキア、ポーランドの研究者や一般の人々との交流を通じて、欧州連合(EU)やその周辺で起こっているロマ問題の理解を深めることも求められる。
    ロマ(ジプシー)の音楽はここ20年の間にワールドミュージック分野の人気ジャンルの一つとして認知されるようになった。その背景には活動する政治団体が増え、ロマ差別への国際的な非難も高まったこと、また教育機会の増大やメディアの好意的な紹介などによってロマの少数民族としての地位向上の動きが強化されてきたことが密接に関連している。ヨーロッパで最も差別される少数民族にとっては社会経済状態の改善にまだまだ多くの余地が残されていることは言うまでもない。しかし、生来の音楽家である<ジプシー>という古くからのステレオタイプを作り出してきた音楽は同時にロマの権利保障を引き出すのに重要な役割を果たすものでもある。
    研修は2012年5月19日から6月5日までの期間おこなわれる。参加費用は、ペンシルバニア州内からの参加者が$3,850、州外からの参加者の場合$4,804で、航空券代、教材代は含まれない。別途手続き費用$300がかかる。学生は奨学金を申請することができる。
    以上がピッツバーグ大学が発表している研修の概要であるが、決して安くはない研修費を出して参加する学生がどのくらいいるのだろうか。見当もつかないが、これまでにない新しい試みであろうから、長い目で見る必要もあるだろう。経済格差や失業への不満を爆発させたニューヨーク市民によるデモの報道では、内向きになってしまった大国アメリカの姿ばかりが強調されるが、この国には今回の記事のようにマイノリティーの文化を認めて地道な交流を試みるグローバルな市民感覚が地下水脈のごとく流れていることも忘れてはならない。
    (市橋雄二/2011.11.5)
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     六つのロマの部族がダラスに集まっておこなわれた祭礼時の騒動の様子が、1951年にすでにダラス・モーニング・ニュース紙に報じられている。グリーン一族に属する15歳の少年がエバンス一族のメンバーによって銃撃されたとする事件がもとでグループ間抗争に発展するのではないかとの記事だ。
    東欧の共産主義国家の崩壊以来多発する民族ナショナリズムや人種問題にからむ暴力事件のせいで、多くのロマがアメリカに移り住んできたが、依然としてネイティブ・アメリカンと並んで差別の多い民族集団である。
    「役所での手続きを見ればわかりますよ。不条理な書類上の人種差別です。」カリフォルニアに拠点を置く非営利団体<ヴォイス・オブ・ロマ>の代表であるサニ・リファティ氏は言う。この団体は、ロマの文化芸術や伝統を広く世界に広め、ロマとしてのアイデンティティと文化の保護と啓蒙に寄与すべく設立された。「自由民主主義者は寛容を説きますが、それは言葉の上のことに過ぎません。ヨーロッパでは人種差別が公然と語られています。」
    ハンコック氏によれば、ロマと他のアメリカ人がお互いに交わらない原因は両方にあるという。ロマは生活のためにはガジェ(ロマでない人)と関わろうとするが、ロマでない人との接触がロマ社会の伝統的な価値観である<穢れ>にあたることを恐れて自身を社会の周辺に置こうとする。今もおこなわれている文化的伝統はほかにも、ヴラフの人々によってフォートワースやヒューストンで年に数回開かれている<クリス>と呼ばれるロマ社会独自の裁判システムがある。
    リファティ氏は言う。「ロマがロマでない人々と距離を置こうとするのにはそれなりの理由があります。つまり、一種の自己防衛なのです。世界中のロマ以外の社会では、ロマに対して好意的ではありません。アーミッシュのように近代的価値観によらずに暮らす人々もいますが、これも他の集団から自己を守る手段の一形態でしょう。正統派ユダヤ教徒にも同じことが言えます。」
    一方でハンコック氏は、自分たちの生活様式やアイデンティティが多数派の人々に受け入れられるようロマ系アメリカ人の側も努力することが重要だという。さもなければやがて民族性を失い、独自文化も長続きしないだろうと心配する。
     アメリカ国内に住むロマは<the hidden Americans/まぎれて暮らすアメリカ人>とも呼ばれる。他の民族集団と見分けのつきにくい存在であるためだ。黒髪に浅黒い肌はよくヒスパニックや南ヨーロッパ系あるいはアメリカ・インディアンと間違われる。
     周辺部に暮らすことを好む多くのロマ系アメリカ人の生活様式と民族差別が、「ハリウッド映画が描く<ジプシー>のステレオタイプにとらわれて実際のロマを理解しないことによって」(ハンコック氏)ますます助長される。同様の意見を持つヴォイス・オブ・ロマもキャラバン、精霊、王、女王といったおとぎ話的なイメージの払拭に努めている。
     コソヴォ出身のサニ・リファティ氏は1993年にアメリカに来て気付いたという。この国は個人の上に成り立っていてコミュニティの関与が薄い、と。「本当はアメリカ人はロマについて無知なだけなのです。」  「アメリカでは誰でもジプシーの専門家になれますよ。」と氏は続ける。「私の代わりに発言することは自由ですが、最初は私にやらせてください。ダンスをする前に対話をしましょう。それがアメリカでもう一つやらなければならないことです。ジプシーの芸術が単にサーカスとしてではなく正しく認められるように闘っていきます。」
     ロマを避けようとする風潮は教育の世界にまで及んでいる。テキサスを含むアメリカ各地のロマの一部は子供たちが思春期に達すると学校から引き上げてしまう。アメリカ系ロマの若い世代の多くはロマ語ではなく英語を話す。テキサスやカリフォルニアなどの州ではスペイン語を話す者もいる。
     「偏見があるために、ロマは既存の教育制度になじまないのです。」とリファティ氏は言う。「アメリカのネイティブ・アメリカンの状況とよく似ています。」若年の、教育を受けていないロマ系アメリカ人は外側の世界との関係をもたず自殺率が高い。
    「私はかつて教室にジプシーを受け入れることを嫌がったセルビアの支配層と闘わなければなりませんでした。」とリファティと振り返る。「私自身良い成績を取るために他のセルビア人の生徒より5倍も努力をする必要がありました。」
     ロマ出身の活動家、世界的なスポークスマン、そして学者としての顔を持つイアン・ハンコック氏は世界中の1500万人のロマを代表する国連とUNICEFの大使でもある。ロンドンの伝統的なロマの家庭に育ち、差別を受けたこともある。疎外感を味わったことも、同じコミュニティのおきてに苦しめられたこともあるが、当時のハロルド・ウィルソン首相による差別撤廃措置により、ロンドン大学の博士課程で勉強する機会を得ることができた。ハンコック氏は、テキサス大学オースティン校に初めてロマ研究講座を開設した。同校はのちにロマの歴史、言語、文化の研究におけるアメリカにおける拠点となった。ハンコック氏はさらに<ロマ・アーカイブおよび記録センター(RADOC)>を設立。今や世界のロマに関する資料の最大のコレクションを誇り、1万を超える書籍、論文、印刷物、写真、書類を所蔵する。
    ヨーロッパのロマは学歴がないと思われているが、サニ・リファティ氏は教育上の優遇措置が認められていた旧ユーゴスラビア時代に育ち、化学の修士号を持つ。しかし、仕事を見つけることはやはり難しい。リファティ氏はアメリカに移ってきたとき、自分自身の文化についてまるで無知だった。しかし、ハンコック氏との出会いによって自分の文化を今まで以上に理解するようになっただけでなく愛着を感じるまでになった。ヴォイス・オブ・ロマは2011年を旧ユーゴスラビアからのロマ難民の保護のための基金を集めるためのフェスティバル開催の年と決めている。リファティ氏は言う。「フランス、ドイツ、イタリアの国外追放政策に反対するため意見表明も出したところです。われわれはロマの文化を保護する以外にも多くの活動に取り組んでいるのです。」(市橋雄二/2011.7.17)
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    テキサス州フォートワース市街の東、州道180号線沿いに位置するシャノン・ローズ・ヒル墓地は、この地の冬に特有の乾いた黄色い草地に区画された墓石群が広がるどこにでもある墓地だ。墓の多くはありふれた形をしているが、その中にひときわ目立つ背の高い墓石があり、そこには故人の写真が嵌め込まれている。
    一張羅に身を包み、たばこをくわえて笑みを浮かべ、両側に家族が写っている。燭台の代わりに真紅に染まったポインセチアの鉢とコーラやドクターペッパーの缶が供えられている。これらの贅沢な墓石にはエヴァンスの名が刻まれている。100年以上も前からここフォートワースを住処としてきたロマの一族である。
    なだらかな丘を登るとシャノン・ローズ・ヒル葬儀場の近くで、また新たなエヴァンス家の墓が建てられているところだった。一家(血統や婚姻により結ばれた20~200人の構成員からなる社会共同体。ファミリアと呼ばれる)のメンバーが別の墓の石のベンチで休んでいる。二人の老人と若い女性が一人。そして中年男性が一人。名前はトム・エヴァンス。休暇中のビジネスマンのように見える。炭酸飲料の缶をすすりながら、亡くなった親族の弔い話をしている。故人がそれを聞き入っているのだという。お互いに話を続け、英語にロマ語が混ざる。ロマ語はアメリカで今も生き続ける移民言語のひとつだ。テキサス大学の言語学教授でロマの活動家でもあるイアン・ハンコック氏によれば、何世代にもわたって瀕死の危機に晒されることなく伝えられてきたという。
    フォートワースにロマは何人住んでいるかと尋ねると、女性のお年寄りがスカーフから顔を出してきっぱりと答えた。「わたしたちはジプシーよ。」そしてコーラをすすった。「ヨーロッパにいるジプシーと同じ仲間さ。何も違いやしない。」と男性の老人が締めくくった。また別の親族がアウトドア車に乗ってやってきて墓地の真ん中でピクニックの道具を下ろし始めると、「これは家族の習慣なんだ。」とトムが説明する。男はポテトチップスの袋、サンドイッチの材料、デザートそして炭酸飲料を取り出した。トムによれば休日にはよく死者の傍らでソフトドリンクを飲んで、空き缶を残していくのだという。
    もう何十年もエヴァンス一族はダラスの新聞に取り上げられている。地元の病院で1954年、75才になるローズィー・エバンスが負傷したこと、また1970年には別の親族が癌の手術を受けたことなど何人もの報告が残されている。エヴァンス一族は読み書きができて仲間内のリーダー的存在だった。1976年ロマの子供の教育に熱心だったサム・エヴァンス<大尉>がダラス・モーニング・ニュース紙に語っている。「アメリカの人々はとても正当にわたしたちを取り扱ってくれる。(中略)アメリカ人でいられる限りアメリカ人でいるさ。」
    テキサス・ロマ
     墓地からそう遠くないところにホワイト・セトゥルメントの住宅街がある。やたらとガソリンスタンドが多く雑貨屋と住宅が並ぶ平凡な街並みのこのあたりは、高速道路の高架の向こう側の大型ショッピングモールを中心に開発が進むエリアとは無縁のようにみえる。トレーラーハウス(キャンピングカー)の駐車場もこのあたりでよく見かける光景だ。その多くはロマの家庭が所有する。ホワイト・セトゥルメントはアイルランド系トラベラーの一群であるグリーンホーンが集まって住む場所でもある。移動生活をする一族でロマと似て家の修理や雑多な仕事で国中を回っている人々である。
    フォートワースはヒューストンと並んでテキサス州でロマ人口の多い地域で、アメリカ全土で100万人と言われるロマ系アメリカ人のうちのおよそ2万人が暮らす。その多くはロマニチャルとヴラフと呼ばれるグループだ。ヴラフは正教会派のキリスト教徒でクリスマスとイースターを両方祝うのに対して、ロマニチャルはたいていプロテスタントである。両グループとも改宗してキリスト教徒になったロマがほとんどだ。この新しい信仰は占いやお見合い結婚などロマの文化習慣に合わないと考える人々もいる。アメリカにはほかにも様々なグループのロマが暮らしているが、ハンコック氏は方言の違いが集団間の交流を妨げていると語っている。
    (市橋雄二/2011.6.18)※次号につづく。
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    ドイツにもかつて都市の周辺部にバルカン諸国にみられる<マハラ>のようなジプシー居留地があった。これを記憶している人は今やほとんどいないが、ワイマール共和国(1919~33)時代の表現主義画家オットー・パンコックが版画と木炭画の技法で描いたデュッセルドルフ郊外のスィンティの野営地とそこに住む人々の絵が当時の様子を伝える貴重な記録となっている。
    パンコックというファミリーネームはドイツでは珍しい。同じようにドイツのスィンティを題材にしていたドイツ表現主義画家にオットー・ミュラーがいるが、ミュラーほど知られているわけではなく、オークションで同じ値段がつくこともないが、パンコックの名はヨーロッパに住むスィンティの間ではよく知られている。
    パンコックの兄弟の孫にあたるモーリッツ・パンコックは自身も画家で、十代の頃からこの大叔父の作品に関心を寄せてきた。最近ではロマとスィンティの現代絵画専門の新しいギャラリーをベルリンに開設すべく活動している。モーリッツは、ドイツで催されたパンコックの作品展でスィンティの老人が目に涙を浮かべて木炭で描かれた肖像画に見入っているのを目にしたことがある。それはアウシュヴィッツで死んだ親族の遺言ともいうべきものだった。ドイツ・スィンティの生活を描いたことで彼らの間では有名なオットー・パンコックの親類かと言ってドイツやその他の国のスィンティがモーリッツのもとを訪ねてくることも稀ではない。
    パンコックは1893年ミュルハイム・アン・デア・ルール(ルール地方デュッセルドルフ近郊の小都市)で生まれた。最初にスィンティやロマの文化に触れるようになったのは、束縛の多い現代生活が嫌になったからだった。1930年、南フランスのサント・マリー・ド・ラ・メールを訪れたとき、ヨーロッパ中からやってきたロマの巡礼に偶然出くわした。彼らは<黒いサラ>の聖像を礼拝するために来ていた。「ゴーギャンと同じように文明に嫌気が差し、ゴーギャンが南太平洋の人々の中に見つけたものをパンコックはロマの人々の中に見たのだろう。」とモーリッツは言う。
    ナチスが勢力を増し、ドイツがかたくなな保守主義のとりこになっていたころ、ロマとスィンティはパンコックの心を解き放つ存在だった。やがて彼はデュッセルドルフ郊外のスィンティの居留地<ハイネフェルト>に引き寄せられていった。この時期、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制下ルール地方が占領されたことによりハイネフェルトは事実上フランス領となり、ドイツの支配権は及ばずドイツの建築条例の対象にならなかった。このため、デュッセルドルフのスィンティは幌馬車を停留させて小屋を立てることができたのである。ハイネフェルトは無法状態で貧しいが自由にあふれた場所だった。モーリッツ・パンコックは言う。「居留地は小さな庭を備えた掘っ立て小屋の群れからできていました。にわとりともちろん馬もいました。デュッセルドルフの市街地とは大きな対照をなしていました。なにしろデュッセルドルフは整然とした豊かな都市でしたから。だからこそ彼はそこが気に入ったのです。そこには独自の文化を持ち、飾り気のない、ひとなつっこい人々がいたのです。」
    パンコックは住人たちの世話をするようになり、ハイネフェルトとスィンティの版画と木炭画を描き始めた。その地に溶け込み、言葉を覚え、絵を描かせてもらった子供には自分の絵かき道具を差し出した。スィンティの人が書いた彼自身の肖像画は感謝して受け取った。最後にはパンコックはハイネフェルトに住むスィンティの人々の顔を"Passion of Christ"と題する大きな一枚絵にまとめ、これが彼の最高傑作となった。
    「彼は今なら当然と思われることをしたまでです。」とモーリッツ・パンコックは言う。「彼は近代主義者ではありませんでしたが、彼がおこなったことは当時としては前衛的でした。境界を越えて貧しい地域に入り、そこの人々と触れ合ったのです。」
    1933年ナチスが政権に就きルール地方を奪還すると、ハイネフェルトに住むスィンティは徴集され捕虜収容所に放り込まれた。そしてそのうちの多くがのちに強制収容所へと送られた。パンコックは身を隠し、親戚が所有するデュッセルドルフの新聞社で仕事を始め、偽名を使って記事を書いた。1937年、パンコックはナチスから<退廃芸術家>とのレッテルを貼られ、作品は公共の場から取り払われて、燃やすか破棄された。パンコックはデュッセルドルフから逃げるしかなかった。そして、田舎の隠れ家で第二次世界大戦を生き延びた。
    モーリッツ・パンコックは現在ベルリンでヨーロッパのロマとスィンティの現代絵画ギャラリーの設立に携わっている。そして、近い将来ベルリンの展覧会で先祖の作品を飾るつもりだ。それはヨーロッパのスィンティの歴史にとって不可欠だとの思いからだ。「大叔父の絵はハインフェルトの人々の記録であり、ハインフェルトの人々を描いた唯一の現存する絵画なのです。展覧会をやると当時のスィンティの親類や生き残った人々が大叔父の絵のことを聞き付けてやってきてくれます。ワルシャワで展覧会を開いたときは私の名前のことを尋ねる人たちがいました。彼らはうれしそうに言うのです。あなたはパンコックという名のドイツ人画家の親類なのですか。そんな方がいらっしゃるとは思ってもみませんでしたと。」(市橋雄二/2011.5.8)
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    人権、民主主義、少数派の社会統合を推進するスウェーデンの政府機関The Living History Forumが、国内外の研究者や専門家を動員し、自国内のロマとスィンティの文化と言語の社会的認知をいかに高めるかについて提言をまとめるべく研究をおこなっている。最終報告は2011年11月に政府に提出されることになっている。
    スウェーデンの少数民族政策は、少数民族の保護、権利の拡充、言語の維持を目的としている。1999年の少数民族保護に関する国会決議とヨーロッパ地方言語・少数言語憲章により、ロマはスウェーデンの5つの少数民族のひとつとして認定されている。
    北欧におけるロマの歴史はあまり知られていないが、スウェーデンには16世紀以降ロマの人々が住むようになった。ストックホルム瞑想録には、オーライ・ペトリという名の聖職者により1512年ロマの一団が町を訪れたときの様子が描かれている。
    スウェーデンに到着した大勢のロマが何世紀にもわたってフィンランドへ強制移住させられた。フィンランドは当時スウェーデン王国の一部だった。スウェーデンでは、他国でもみられたことだが17世紀には世俗の権力と教会権力がロマの国外追放を定めた布告を何回も出している。
    18世紀、19世紀になると多くのロマとスィンティが軍隊に召集され、それ以外の者は強制労働や強制収容所に送られた。スウェーデンのロマ入国禁止令は1914年に施行され1954年まで続いた。
    世界大戦間には、ジプシー問題は人種差別的な論調の中で大きな議論の的となり、しばしば人種生物学の観点から取り上げられた。ロマとスィンティの共通言語であるロマ語はサンスクリット語と系統が同じで60の方言から成るが、この地域の主要な方言はヴラフ方言である。ヴラフ方言は14世紀から19世紀にかけてヴラフ、モルドヴァ地方に留まったロマの間で形成された。一方、非ヴラフ方言は15世紀かそれ以前にヨーロッパの他の地域への移動を開始したグループの間で形成された。
    16世紀以降今日にいたる移住の結果、スウェーデンには言語的、宗教的、文化的に背景の異なる様々なロマの集団が居住する。しかし、このように異なる集団でありながら、ロマは一つの民族集団あるいは国土を持たない(国境を越えた)一つの国であるという意識を持っている。
    ロマの人々は言語、同一起源の自覚、類似した価値観や伝統、文化、経験そしてロマ人としてのアイデンティティを共有している。このことによって迫害や同化政策に屈することなく自らの文化を維持することができた。ロマの間にはカトリック、プロテスタント、ギリシア正教、イスラム教ほかの信仰が見られる。
    スウェーデンのロマとスィンティには1960年代以降定住化が進められてきた。ほとんどのロマの集団がストックホルム、ゲーテボルグ、マルメなどの都市あるいはその郊外に住んでいる。ロマはスウェーデン社会の中では依然としてとても弱い立場にあり、法律で禁じられているにもかかわらず差別にさらされ続けている。多くのロマが事実上社会のすべての領域で大きな困難に直面している。すなわち教育、雇用、住宅、健康管理であり、多数派の国民と同じ条件でコミュニティに参画する機会である。
    (市橋雄二/2011.4.3)
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    EU(欧州連合)が、ロマの人々の社会参画を促し差別解消に向けた取り組みを行っていることは折に触れ取り上げてきたが、その活動の一環としてロマに関する知識を社会で共有する試みがなされている。
    +RESPECTというプロジェクトがネット上で公開している展示はその一例である。展示されている絵の中にはルノワールやピカソ、モディリニアーニら巨匠らの作品が含まれているが、ジプシーはヨーロッパ中世、近代の画家たちが好んで取り上げたテーマ(対象)だった。
    今回集められている23点の絵は書かれた年代も場所も異なるが、エキゾチシズム、エロチシズムそして写真がない時代の記録性といったものが創作のモチベーションであったことが窺える。また、人物とともに描かれた楽器や衣装、背景がロマの文化や当時の社会の様子をよく伝えている。
    以下のリンクから、洗練されたページデザインと音楽とともに絵を鑑賞することができる。再生時間は約4分。(再生画面右下のフルスクリーンボタンをクリックして大きな画面にしてご覧になることをお勧めします。)
    (リンク)http://www.morespect.eu/en2/2011/01/watch-the-respect-video-roma-people-in-the-history-of-painting-a-journey-across-cultures-and-style/
    (作品リスト)
    「ジプシーの少女」モザイク トルコ、ガジアンテップ出土
    (Gypsy girl mosaic/from Zeugma, Turkey)
    「ジプシーの少女」ルノワール、1879年
    (Gypsy girl/Pierre Auguste Renoir, 1879)
    「ジプシーの少女」(別名「夏」)ルノワール、1868年
    (The Gypsy girl aka Summer/Pierre Auguste Renoir, 1868)
    「ジプシーの女」フランス・ハルス、1628年
    (Zigeuner/Frans Hals, 1628)
    「ジプシーの聖母」ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1510年
    (Madonna degli zingari/Tiziano Vecellio, 1510)
    「ジプシーのキャンプ」アントニオ・コラッツァ、1961年
    (Accampmento di Zingari/Antonio Corazza, 1961)
    「ジプシーの少女」ジョージ・エルガー・ヒックス(イギリス)、1850年
    (A Gypsy girl/George Elger Hicks, 1850)
    「ジプシーの群れ」ヤン・ブリューゲル(父)、1602年
    (Gathering of Gypsies/Jan Brueghel the Elder, 1602)
    「スペインのロマ人」イェグラフ・セメノヴィッチ・ソローキン、1853年
    (Spanish roman people/Yevgraf Semenovic Sorokin, 1853)
    「ジプシー」アンダース・ゾーン(スウェーデン)、1918年
    (Zigeuner/Anders Zorn, 1918)
    「ジプシーの少女」ボッカチオ・ボッカチーノ、1516年
    (Giovane Zingara/Boccaccio Boccaccino, 1516)
    「バスクの太鼓を持つジプシーの少女」ウィリアム・アドルフ・ブグロー、1867年
    (Gypsy Girl with a Basque Drum/William Adolphe Bouguereau, 1867)
    「マンドリンを持つジプシーの少女」ジャン・バプティスト・カミーユ・コロー、1874年
    (Gypsy Girl with a Mandolim/Jean Baptiste Camille Corot, 1874)
    「セビリアのジプシー姉妹」ジョン・フィリップ、1854年
    (Gypsy Sisters of Seville/John Phillip, 1854)
    「ジプシーの少女」ウィリアム・A・ブレイクスピア、1903年
    (The Gypsy girl/William A. Breakspeare, 1903)
    「タバコを吸うジプシー」エドゥアール・マネ、1862年
    (Gypsy with Cigarette/Edouard Manet, 1862)
    「ミュスカのジプシー」パブロ・ピカソ、1900年
    (Gipsy on Musca/Pablo Picaso, 1900)
    「子供を抱くジプシー娘」アメデオ・モディリアーニ、1919年
    (Donna zingara con bambino/Amedeo Modigliani, 1919)
    「ベルン郊外に到着したジプシー」ディーボルト・シリング(従兄)、1485年
    (Arrival of Gypsies outside the city of Bern/Diebold Schilling der Altere, 1485)
    「懇願するジプシーのスペイン追放」エドウィン・ロングスデン・ロング、1872年
    (Expulsion from Spain Gypsy supplicants/Edwin Longsden Long, 1872)
    「ジプシーの占い師」ジョン・スミス、1732年
    (The Gypsy Fortune Teller/John Smith, 1732)
    「ジプシー」トーマス・クチュール、1867年
    (Gypsy/Thomas Couture, 1867)
    「キャラバン隊、アルル近郊のジプシーキャンプ」ゴッホ、1888年
    (Caravans, Gypsy Camp near Arles/Vincent Van Gogh, 1888)
    (市橋雄二 2011.2.12)
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      イスタンブールのタルラバシュ地区では、ロマ人、クルド人、トルコ人、ラズ人(トルコ東部の黒海沿岸、グルジアとの国境をまたぐ地域に住み、グルジア語と同系統の言語を話す少数民族で、イスラム教徒が多い。この記事にあるようにイスタンブールなど大都市に出て暮らすラズ人もいる:訳注)、そしてアフリカ人のコミュニティが隣り合って暮らしている。
    住民たちは市の中心部(イスタンブールの銀座とも言うべき繁華街イスティクラール通り:訳注)に隣接した地域に住んでいながら貧困状態におかれている。  この地区の豊かさはその民族文化の多様性にある。ここでは様々な文化背景をもった人々が共に暮らしているが、共通しているのは貧困の中にあってもたくましく生きようと前向きであることだ。
     2006年、イスタンブール・ビルギ大学の関連機関である移民センターが、タルラバシュ・コミュニティ・センターを開設した。センターは異なる民族文化を持った子供とその親たちを一体感のあるコミュニティにまとめていくという難しい課題に取り組んでいる。タルラバシュ子供オーケストラはそうした活動の成功例である。
     オーケストラのメンバーの一人、ラマザン・ギュミュシュ(16才)は、このオーケストラのおかげで生活が一変したという。「僕たちが演奏すると、人々が興味をもって見てくれる。そして演奏に訪れた大学で見た光景が僕を変えたんだ。そこにいた学生たちのように僕も勉強したいと思うようになったんだ。」
     ギターとダルブカ(砂時計型の片面太鼓:訳注)を演奏するのが好きなエレン・クシュ(9才)は週のうち三日はセンターで過ごすという。「学校が終わるとすぐにここへ来るんだ。ギターが大好き。将来はギタリストになりたい。」
     8才のヘリン・スコルクートは家に帰って着替える時間を惜しんでセンターに急ぐ。オーケストラの最年少メンバーは6ヶ月前にセンターに通い始めたばかりだ。
     センターの活動は貧しい子供や女性のほか、地域に移ってきたばかりで社会に溶け込めない人々を対象にしている。センターの社会福祉専門家セレン・スンテキンは、それまでお互いに敬遠し合っていた子供たちが今では一緒にバイオリンやギターのレッスンを受けていると話す。スンテキンさんは、<タルラバシュのギターの響き>と名付けられた子供オーケストラ・プロジェクトに参加している子供たちへの好ましい効果を強調した。この活動はイスタンブール2010ヨーロッパ文化基金によってサポートされている。また、ストリートは子供が安全に時間を過ごせる所ではないことから家庭の協力も欠かせない。当初市の役人たちはわれわれのことを批判し、多くの人々が同じ目的でやってきたがうまくいった試しがないと言った。それがのちに警察官さえもがこのように言うようになったという。「もし彼らがあなたがたのことを好きでないとしたら、とっくに建物や窓に石を投げていますよ。」スンテキンさんはそう説明した。(2011年1月2日付、トルコの英字紙Today's Zamanの記事より)(市橋雄二 2011.1.4)
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    インドの元首相インディラ・ガンディーの生まれた11月19日に、コソボのロマ出身のジャーナリストで詩人としても評価の高いバイラム・ハリティ氏がインド国民会議総裁ソニア・ガンディーに宛てた公開書簡を発表した。
    ソニア・ガンディーは、インディラ・ガンディーの息子ラジーブ・ガンディーの妻であり、夫の死後1997年政界入りした。イタリア人でイギリス留学時代にラジーブと知り合い結婚。数奇な運命をたどった人物として知られ、その美貌もあってか、今もインドでの人気は高い。なお、名前が同じなので混乱しがちだが、インディラ・ガンディーはインド独立の父マハトマ・ガンディーとは血縁はなく、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーの娘である。
    『ロマ報道情報局の代表として、哀悼の意とともに今は亡きインディラ・ガンディー女史の誕生日のお祝いを申し上げます。私には、ヨーロッパにいる1200万人とも1500万人とも言われるロマ・コミュニティー出身のロマとして、インドの元首相インディラ・ガンディー女史の誕生日を祝う理由があります。そしてこの機にあなた様に是非思い出していただきたいことがあります。女史は1978年にチャンディガルで開催された第一回ロマ・フェスティバルでこうおっしゃいました。
    「 あなたがたを母国にお迎えすることができたことを、そしてあなたがたが世界でもっとも偉大なインドのディアスポラ(離散民)であることをうれしく思います。」
    1983年に開かれた二回目のロマ・フェスティバルでも、女史はロマを言語的、歴史的、文化的、民族的に見てインドの少数民族であることを正式に認定する用意がある、と述べたのです。しかしながら、女史の死によってインド離散民に対するこの重大な責務の実現は不可能になってしまいました。さらに不運にもあなたの夫であるラジーブ・ガンディー氏の死によって、ロマ民族がヨーロッパや世界各地に離散したインドのディアスポラであるとして認定される機会を逸してしまいました。
    是非ともお知らせしたいことは、インディラとラジーブの亡き後、ロマ・コミュニティーが世界に離散したインド人であると認定する事案を取り上げる政治家がいないということです。
    インディラ・ガンディーは今も多くのロマの心の中に生き続けています。この先もずっとそうです。女史に栄光あれ。 バイラム・ハリティ』
      ロマのインド起源については、特にヨーロッパにおいて、地元での排斥を恐れて声高に主張するロマは少ないという説もあるが、このような記事からはインドとの絆を胸に抱いているロマが多いことがうかがえる。(市橋雄二 2010.11.27)
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    トニー・ガトリフは使命感の人である。アルジェリア人とジプシーの混血に生まれたガトリフは、ヨーロッパにおけるロマに関する映画を35年にわたって監督、制作してきた。ガトリフ氏曰く、ロマの人々は誤解されることが多く、差別の対象となっている。今年公開されたガトリフの最新作「自由(Liberte)*」は第二次世界大戦中に抑留、退去を強いられたおよそ3万人のフランスのロマ(ジプシー)を描いている。ガトリフはサルコジ大統領による追放政策とロマの不法キャンプ解体に怒りをあらわにするが、ただし今日起こっていることは第二次大戦時の国外追放と同じではないと言う。しかし、ロマ民族全体が対象とされれば、そうは言えなくなると警告する。ユーロニュースのヴァレリー・ザブリスキー記者がリヨン(フランス)で監督に話を聞いた。(euronews 2010.10.14付)
    サブリスキー:ガトリフさん、あなたはロマ・キャンプの解体に強く反対されていますが、世論調査によるとフランス国民の60%がこの<解体>政策を支持しています。このことは驚きですか。
    ガトリフ:それについては私にはなす術がありません。私にできる唯一のことは、移動生活者(travelling people)に関するこの問題について理解していない人たちに説明をすることです。移動生活者とは行政上の用語で、ロマの人々、つまりジプシーのことですが、とても長い間、フランソワ1世(在位1515-1547年)の頃からフランスに住む人々で、現在フランスの南部とスペインにいます。ただそれだけのことです。しかも、中世の時代からヨーロッパに住んできたこれらの人々はヨーロッパの文化やあらゆるヨーロッパ的なるものに貢献してきました。そして、今、私たちはこうした人々にいなくなって欲しいと言っているのです。しかし、一千万人の人々が突然存在をやめることなどできるでしょうか。ヨーロッパ各国の首脳が反ロマの法律を可決することを決めたために、ロマたちはもはや移動生活をすることができません。移動して欲しくないときには監禁するという意味です。これは戦時中におこなわれたことです。
    サブリスキー:しかし、ルーマニアもブルガリアも今や欧州連合(EU)の加盟国で、移動を規制することはできません。誰でも他のヨーロッパ各国へ移動する権利があるわけですが、しかし3ヶ月後に仕事に就かず社会の重荷といわれる状況になると追い出されてしまいます。
    ガトリフ:この法律は今おっしゃったような人々のために作られたのですが、すべての人が対象ということではありません。たとえば、パリの私の家のそばにドイツ人のホームレスがいます。そのホームレスは3年間もそこにいるのですが、この人物にドイツに帰らなければならないと注意した人は誰もいません。彼はホームレスです。ドイツ人だと私に言いました。つまり、この一連の法律はある特定の人々を対象に作られているのです。いわゆる「2級」市民と呼ばれるような人々です。そして、「本当の」市民に向けてはまた別の法律があるというわけです。私に言わせればこれらの法律はジプシーのためだけに作られたようなもので、法律を作った人たちはこう言いたのです。「気をつけろ。ヨーロッパの国境を開けば移動したがっているジプシーをすべて受け入れることになるぞ。」と。ジプシーの行動様式はわかっています。だから、3ヶ月後には彼らを締め出し、もといた場所へ送り返すと言っているのです。
    サブリスキー:しかし、先月のEUサミットでのサルコジ大統領と欧州委員会委員長とのやりとりなどを見ていますと、欧州委員会がいわゆるロマ問題に注意を払うようになってきたといえるとはお思いになりませんか。
    ガトリフ:欧州委員会はショックを受けたと思います。スペインもそんなことはやっていないし、他のEU各国もやっていない。ギリシアももちろんやっていない。ギリシアはむしろジプシーに好意的です。フランスが突然法律を整備して追放に乗り出したのです。どのくらいの期間かは知りませんが、多分3年か4年フランスに滞在しているロマの人々をです。そういう人たちを捕まえて、彼らの住む小屋から、板張りの家から、森から、橋の下から、高速道路の脇から追い払い、大勢まとめて運び出したのです。ショックなことに、母親の腕に抱かれた半裸の赤ん坊もいました。あちこちでパニックになりました。身の回りのものをまとめる時間すらないのです。もうパニックです。もちろん、第二次大戦中1940年の排斥、一斉検挙と同じとは言いませんが、のちに禍根を残すことは間違いありません。
    サブリスキー:美しく装飾された幌馬車で移動するジプシー、ロマの人たちがいる一方で、同時に被害者の役を演じ、女性が子供を連れて通りで物乞いをしているなどと言って不満をもらす人もいますが・・・。
    ガトリフ:リヨンの駅に着いたとき、私を呼び止めた女性がいました。その女性は青い目をしていて、外国人には見えませんでした。彼女はフランス人で、子供のためにと言って私にお金をねだりました。彼女は私の前でいかに困窮しているかをさらけ出しました。私は目を覆うことはしませんでした。しかし、ジプシーが物乞いをしたら、誰もが嫌な顔をするでしょう。どうしてそうなのでしょうか。身の危険を感じて不安になるからでしょうか。おそらく嫌な感じを受けるからでしょう。しかし、私はホームレスに対しても同じように嫌な感じを受けます。それは自然なことでしょう。何も言わずに目の前で死んでしまうかも知れないのです。しかし、これが今日新しい世界が直面している現実です。これが現代の世界なのです。
    サブリスキー:しかし、この夏の追放関連のマスコミ報道が、ガトリフさんはそんなに楽観的ではないかも知れませんが、ヨーロッパの各国の首脳たちにこのヨーロッパ特有の問題について何か発言をしなければならないというプレッシャーを与えたということにはなりませんか。
    ガトリフ:私はヨーロッパ各国の首脳のことは怖れていません。ヨーロッパを統治している人々のことも怖れていません。私が怖れているのはヨーロッパの普通の人々です。かつては人権の国としてヨーロッパのすべての国が尊敬していたフランスのような国が、弱い立場の人間をターゲットにし始めたのです。私が心配しているのは、これが連鎖反応の引き金になるのではないかということです。私は、他の国の人々が自分たちも同じことをやってもいいのだ、なぜならばロマはよくないからだ、と言いだすのではないかと心配です。それはまさにフランス政府が言っていることであり、フランスの大統領が言っていることです。いや実際大統領はよくない人々とは言いませんでした。問題がある人々という言い方をしました。そういう意味では、ルーマニアやブルガリア、ハンガリーといった国々でも、「確かにロマの人々との問題を抱えている」と言えるからです。
    サブリスキー:今月(2010年10月)、ブカレストでヨーロッパにおけるロマの人々の統合に関するサミットが開かれます。このような形のサミットからどのような成果を期待されますか。
    ガトリフ:問題は当事者を差し置いていることです。ロマの人々は何も要求しませんでした。彼らはこれまで戦争をしかけたこともなければ、武装したこともありません。爆弾を使ったこともありません。彼らはただただ生きたいだけなのです。だから、ただ生かしてあげればいいのです。そうするための援助方法を見つけようではありませんか。ヨーロッパのほかの人々に対してと同じように。そして、彼らの背中にレッテルを貼るのを止めることです。彼らの生き方に反するような法律を作ることを止めることです。(市橋雄二)
    *映画「自由」についてはジェレム・ジェレム便り(12)2010年7月12日付に詳しい紹介があります。

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