映画の最近のブログ記事

仏映画「パリ20区、僕たちのクラス」

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第61回カンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞した話題の作品。舞台は、パリ20区にある中学校のひとつのクラスで、主な登場人物は、出身国も生い立ちも、人種・民族も異なる24人の生徒(14~5才くらいか)たちと、フランソワという国語(フランス語)教師である。
ほとんどのシーンは教室と職員室に限られ、一見、ドキュメンタリーではないかと思うくらい、真実味、緊迫感がみなぎる話が展開してゆく。それはなんといっても教師・フランソワと24人の生徒たちとのあいだで交わされるコミュニケーションから生ずる生々しい臨場感・真実味に由来する。
人が人を教える(教育)とはどういうことなのか、人類は人種・民族のあいだの貧困、差異や偏見を乗り越えて共生できるのか、ことばで自分を表現し相手を説得することにより、生きていくことの苛酷さ、これらはいずれも現代世界が抱える解決困難な社会矛盾であるが、このクラスは世界の矛盾をそのまま鏡のように写し出す縮図である。 
教師と生徒そして生徒同士の対話からさまざまなことを次から次へと想起させられる。 まず、子供たちの存在が素晴らしく、この映画の価値を高めている。既成のプロの俳優たちが顔色を失うほどの自然な振る舞い(演技)は、綿密に組み立てられた撮影前のワークショップにあるようだ。リハーサルは子供たちの個性を巧みに引き出す意図の元に綿密に重ねられ、構成も緻密でカメラワークなども適確である。アフリカや中国から移住してきた子供たちはクラスでも多くの割合を占めながらも、フランス語には悪戦苦闘している。だが、自分のことばを必死でさぐりながらフランソワ教師と繰り広げるスリルに満ちたことばのバトルがこの作品の価値だ。  
この映画のふところの深いところは、希望の乏しい未来に生きる子供たちにたいして、予定調和的な結末を用意せずに、違いを超えて共存していく社会の苦い現実を突きつけているところだ。 そして教育への希望を抱かせるシーンは重要なメッセージをはらんでいる。1年間学ぶことを拒否してきた少女がプラトンを読むことによって、ソクラテスの対話法に感動したと語るシーンである。そこから、われわれはある希望を感じ取り、彼女の覚醒する魂を感じ、なんらかの教育にたいする希望を感じずにはいられない。こころを打つシーンだ。 
虚実皮膜とは事実と虚構の中間に芸術の真実があるという近松門左衛門のことばだが、この作品もそのことばの意味を思い起こさせる。
ドキュメンタリー映画をみる要諦は、映像に移っていない裏側の部分をいかにイメージできるかである。すぐれたドキュメンタリー映画ほど、カメラに写し出せない部分、氷山の海面下の部分にこそ巨大な真実が存在することを教えてくれる。 そしてすぐれた虚構の積み重ねであるドラマは真実らしさを徹底的に追求していく中で、突然訪れてくる現実を止揚する映画空間を我々に見せてくれる。 ローラン・カンテ(監督・脚本) フランソワ・ベゴドー(原作・出演) 2010年6月12日から 岩波ホール。 

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「さらば、わが愛/覇王別姫」

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久しぶりに「さらば、わが愛/覇王別記」を見る機会があった。10数年前に見たときには中国の古典芸能の奥深さや京劇の世界に圧倒されたのを覚えている。
日中戦争、文化大革命の激動期に生きた京劇俳優の程蝶衣(張国栄―レスリー・チャン)と段小楼(張豊毅―チャン・フォンイー)の物語である。女形の程蝶衣は段小楼に同性愛的な愛情を抱き、そのふたりの関係を主軸に物語りが進行する。 2人は「覇王別姫」の役者として成功するが、彼らの人生も互いの愛憎を交えつつ日中戦争、文化大革命などの巨大な波に覆われる。
歴史と人間の運命という大きなテーマにまともに向かい合う中国映画の底力に改めて感服するが3時間に及ぶ長さを全く感じさせない演出力(監督:陳凱歌)も尋常ではない。 子供時代の訓練風景が興味深い。徹底的で不条理な体罰訓練で芸を体にしみこませる過程がかなり念入りに描かれる。芸能の肉体化とでもいうのか。これが中国雑技団にまでも伝わる伝統かと思わせるほどだ。 そして京劇俳優、なかでも女形に焦点を当てたところが新鮮だ。女形役者が性差のはざまを行き来しながら、実像と虚像の落差に翻弄される様をレスリー・チャンがもののみごとに演じている。
現実世界では2003年に自死したレスリー・チャンの人生が重なるようだ。彼なくしてはありえなかった映画だろう。
 この映画のもうひとつの見所は全編に漂う脂粉の香りだ。普通の人間が入れない役者の楽屋に漂う隠微で、酔わせる香りがなんとも悩ましく魅力的だ。女形役者が発する気配は現実世界がいかに厳しくとも観客を一時至福の世界(ハレの世界)へと誘ってくれる媚薬なのだろう。中国現代史の一面が醜悪で苛酷であればあるほど、そこに咲いた花は美しいのだ。 
今回改めて興味深かったことは中国社会においても芸能の血筋にたいしてひとびとが抱く畏敬と蔑視の2重性がよく分かったことだった。古典芸能としての京劇が、日本の歌舞伎と同様、大道芸から育ってきたことをよく実感させてくれた。 「さらば、わが愛/覇王別記」は張芸謀の「紅いコーリャン」と並んで私の中では中国映画の古典である。

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昇華された悲劇―韓国映画「母なる証明」

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韓国映画が発する独特な激情のエネルギーが時には胸につかえたり、胃にこたえたりすることもある。しかしながら、韓国映画からしばらく遠ざかり、日本映画やヨーロッパ映画を見続けると、抑制され洗練された映画的表現に感心しながらも、全体としては枠にはまった思考やそこで物思う悩める群像が抱える袋小路を感じてやがて、物足りなり、八方破れのエネルギーが恋しくなり韓国映画をみたくなるのである。 こうしたエネルギーと振幅の巾の大きい感情表現は日本映画には特に近年見られない種類のものだ。
久しぶりに見た韓国映画「母なる証明」(ボン・ジュノ監督)にはやはり感服した。 強い愛情で結ばれた母親と1人息子をキム・ヘジャとウォンビンが演じる。 
1人息子が少女惨殺事件の容疑者として逮捕される。母親は彼の無実を証明すべく、立ち上がり、過剰な愛情をエネルギーにするかのように、必死に息子を助けようとする。そこには強烈すぎる行動、常軌を逸した行動が起こる。 
「母親」の強さ、愛情の深さを描きながらも、人間存在の根源への疑義までをうかがわせる奥深いテーマが見えてくるのである。 サスペンスを湛えながら、物語は意外な展開をみせながら、衝撃的なラストへとなだれ込んでいく。 
私が特に注目し、感じ入ったのは導入シーンの母の踊りとエンディングのバス中での踊りのシーンの相関関係だった。 太鼓の音をきっかけに母が踊りだす導入部のシーンには物語全体を暗示するような意味あいが強く示唆され、思わず引き込まれたが映像表現としてもすばらしい。韓国の伝統的芸能で民族の基層文化ともいうべきパンソリを思わせる母親の踊りからは、すべての情念を越えて解放されていく人間の運命に思いを託す監督の明白な意図を感じたのである。 そしてラストシーンも絶望の極地にも救いを見出す意味で、ファースト・シーンに呼応している。 これらの踊りのシーンの存在が、人間の業、宿命を描いた救いのない物語を悲劇として昇華できたのだろう。 画面の隅々からマグマがふつふつと噴出するように感じる韓国映画が世界の映画界で独自の位置をしめる所以だろう。 

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アメリカ産の音楽ドキュメンタリーの傑作としては「真夏の夜のジャズ」、「エルビス・オン・ステージ」そして近年の「ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム」などがすぐ浮かぶが、「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」はアメリカンポップカルチャーの到達点として記録されるべき作品だろう。
なによりもMJの豊かな才能に驚く。私はMJに特別の関心をもつものではないが、このドキュメンタリーで彼の卓越した才能が非常に分かりやすい形で提供され、虚飾に彩られてきたMJのアーチストとしての実像があきらかになったことは喜ばしい。不幸な最期がなければ、おそらくオープンにならなかったリハーサル映像であるがゆえに、明かされたMJの真実は胸を打つ。
ロンドン公演に向けて、練り上げられていくステージ。何日にもわたり撮影されたひとつの楽曲がMJの適確で詳細な指示・修正を加えられて完成していく。そうした細かい描写の積み重ねがMJの湧き出すかのような豊かな感性を実感させる。醒めた冷静さから瞬時に熱狂へと転換するギヤ・チェンジの鮮やかさがカタルシスを生みだす。
もちろんそこには、迫真性と革新性にあふれたダンスの身体運動が中心となり、分厚いダンサーたちの力量とステージシンガー、バックミュージシャンたちが一体感を醸成する。
アメリカのポップカルチャーを支える層のとてつもない厚さを納得させられるドキュメンタリーである。

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この映画はジャームッシュを知らないものにとっては茫然自失、入場料返して・・という類の映画かもしれない。それほど徹底的な説明不足、劇的クライマックス皆無等々およそ普通の映画つくりの常識的文法を無視した映画つくりである。
ところが、ジャームッシュの過去の映画に慣れ親しんできたものにとっては、ジャームッシュ健在なりを確信させた作品だろう。
"孤独な男"というコードネームの殺し屋が、ある任務を遂行するためにスペイン中をさまよう。その任務とは「自分こそ偉大だと思う男を葬れ」というもの。そんな彼の前にさまざまな仲間たちが現れて、一様に謎めいた言葉を残していく。そして任務は実行される。その間、登場人物や背景への一切の説明はなく、奇妙な静けさを伴った緊迫感が漂う。こうした味わいがジャームッシュの独自性だろう。
通常の批評をしてもあまり意味がないと思われるので、以下、箇条書き風に気がついたことを連ねよう。
① 小津安二郎の映画にある反復性と非ドラマ性(とにかく盛り上がらない)。ジャームッシュは小津映画に親しんできたらしいから、画面から受けるリズミックな反復性は興味深い。起床後の太極拳風なもの、眠りに入る行為、カフェで注文する2杯のコーヒー等々反復の日常。
② 小津映画にはない暗示性・イメージの飛躍がある。
③ 映画全体が寓話とも解釈可能。
④ 質感たっぷりな自然描写―スペイン独特の乾いた風土・薄汚れた街並みが素晴らしい ⑤ この映画のもうひとつの見せ場とも言える撮影監督クリストファー・ドイルの起用。ウォン・カーウァイ監督の「欲望の翼」「恋する惑星」「花様年華」などでドイルの映像に接してきたものにとってはジャームッシュとのコラボは最高の贈り物だろう。結果はドイルの融通無碍な才能を証明するものだ。
⑥ フラメンコを上手く使っている。全編、無表情の主人公が一瞬、表情がゆるむのがこのシーンだけというのがおもしろい。画面に湿気が漂う唯一のシーン。
⑦ そして日本の異色ロックバンド BORISが参加していることも注目。
「リミッツ・オブ・コントロール」の 公式サイト

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 ■2009.7.31  自伝的回想風ドキュメンタリー「アニエスの浜辺」

 

 

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●フランスの女流監督アニエス・ヴァルダ。1954年デビュー以来55年間にわたり作品を作り続けてきたヴァルダの新作ドキュメンタリー「アニエスの浜辺」は、自伝的回想風ドキュメンタリーであり、私「映画」とでもいうべき個人的感懐に満ち満ちた彼女の人生論でもある。
まもなく81歳になるヴァルダの映画人生にかかわった人物群は多彩だ。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手たちのジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネ、ジャック・ドゥミたちとの公私にわたる交流そして俳優のジェラール・フィリップ、ミシェル・ピコリ、カトリーネ・ドヌーブなどとの若かりしころの姿がつぎつぎと現れ、なつかしさと時間の経過への感懐を抱かせる。
ヴァルダ自身の出演とナレーションとともに、再現ドラマ、「5時から7時までのクレオ」など数々の自作、思い出の地への再訪、なつかしい人物との再会などのシーンがめまぐるしいほどのテンポでつぎつぎに展開していく。
1960年代ヌーベル・ヴァーグは日本でも映画の枠を超えて文明・文化論の重要なテーマだったし、フランス思潮はサルトル、ボーヴォワール、カミュなどを通して圧倒的な影響力を若者に与えていた。その当時のフランス映画やフランス思想家にたいする関心の高さは今では想像できないほどだった。そのころの空気を知る世代のものにとっては、なんとも懐かしい名前や作品が並ぶのだが、今の若い人にとってはどのように写るのだろう。
次々と展開するシーンはどれもヴァルダにとっては、忘れられぬ人生の場面なのだろうが、いずれのカットも思いを振り切るかのように極めて短く処理される。それは抒情に流されるのを良しとしないヴァルダの硬質な精神がなせる編集の技なのか。思うようにならない人生を嘆きながらも軽やかに生きるヴァルダの骨頂だろう。
全編にわたり夫であるジャック・ドゥミ監督へのヴァルダの深い追慕の思いが基調に流れている。「シェルブールの雨傘」の監督ジャック・ドゥミはエイズで1990年に還らぬ人となったが、彼のことを話すヴァルダの表情は夢見るようであり、時には苦痛にゆがむが、これら一連のシーンが印象的で、このシーンがあるだけでこの映画の存在価値があると思ったほどだった。09年10月10日(土)から岩波ホールでロードショー。"http://www.zaziefilms.com/beaches/"

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■2009.6.12  痛快な快作!「ウルトラミラクルラブストーリー」
●この映画が実質的なメジャー映画のデビュー作である横浜聡子監督は今後注目すべき才能の持ち主である。デビュー作というものは作家がかかえている問題意識・テーマを半ば無意識的に、包括的に提示している場合が多いのだが、「ウルトラミラクルラブストーリー」は典型的な場合だろう。
舞台は青森県の海に近い町。やることなすことがすべて常識はずれのヘンテコ農業青年(松山ケンイチ)と訳あって東京からやってきた幼稚園の先生(麻生久美子)、青年のおばあちゃん(渡辺美佐子)、青年を診る医師(原田芳雄)、呪術師の女(藤田弓子)、女が勤める保育園の園児たち、そしてノゾエ征爾、ARATAなど。ストーリー性は特に起伏に富んでいるわけではなく、女に恋をした青年のトリックスター的な言動を中心に進んでいく。彼の振る舞いに奇妙なリアリティーがあるのは俳優、松山ケンイチの功績だろう。
まず、全編が青森弁で通されていること、そして農作業をする青年と幼稚園の臨時先生の女性を中心にすえたこと、これらが作品全体の基調としながら、中央ではない周縁性、地方性、正統ではない異端性、土俗性、呪術性、神話性などに軸足を置いた目線が画面のすみずみに行き届いている。
話の展開は荒唐無稽で強引である。農薬を浴びると脳が活性化するという脳、心臓が止まっても生き返る体、首がない人間との会話などの破天荒なエピソードが画面に異常な活性を与え、日常から飛躍した奔放なイメージが次々と展開する。それでいながら何故かおばあちゃんや青年の野菜つくり農作業を繰り返し描写する。
通常のドラマの進行を予想する観客の思いを軽々と裏切っていく痛快な演出は世の中にはびこる常識性を一つ一つひっくり返す作業でもある。奇跡的、不思議な出来事を重ねながら美しい森のなかで迎える結末も破天荒なものであった。
一見無鉄砲にみえる演出ながら現代社会が抱える中心的諸課題のいずれにも適確な視点をすえているところが並みの監督ではない。閉塞感を切り開く破れかぶれのエネルギーに満ちた才能に期待したい。

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■2009.1.24  圧倒的な存在感はどこから:「チェチェンへ・アレクサンドラの旅」(ソクーロフ監督)
●入社後最初に配属されたのがロシア音楽を扱うクラシック・レコードの編成の仕事だった。モダンジャズが好きだった私にはチンプンカンプンの世界だったが、屈指の音楽家のなかにロストロポーヴィチ、ヴィシネフスカヤがいたのがなつかしい。
●ソクーロフの「ロストロポーヴィチ人生の祭典」はカザルスと並び称される稀代のチェリスト、ロストロポーヴィチのドキュメンタリーである。ソルジェニーツィンへの熱烈な支持の故、政権から弾圧を受け、20年に及ぶアメリカ亡命生活をした後、体制変革後ロシアに帰り、音楽、政治への積極的発言を続けたことは有名だが、そうしたエピソードを織り込みながら、饒舌ともいえるほどに喋り捲るロストロポーヴィチのインタビューを中心に構成されたものだった。そのなかで、印象に残ったことがあった。
彼の妻でこれまた最高のソプラノ歌手のヴィシネフスカヤについての出自にふれるくだりで、彼女はスラブ系とロマ(ジプシー)系の混血であるとナレーションが述べていたのである。彼女はその後、オペラ歌手を目指していくが、エリートの子弟が集まる歌手志望者のなかでも異色の才能を発揮して上り詰めていったことは想像できる。
また、アメリカへの亡命を決めてから、夫ロストロポーヴィチがロシアの大地を離れるつらさ、悲しさに毎日のようにめそめそ泣いていたのに、彼女は昂然としていたという。このエピソードをどこかで読んで、私はふと、彼女の強さは民族・祖国を相対化するロマ的な能力と無関係ではないのではないかと思った。
一方ソクーロフもものごとを把握したり理解するときには対象をみごとに相対化する。昭和天皇ヒロヒトの終戦にまつわる数日間をドラマ化した「太陽」は昭和天皇を鮮やかに相対化し、日本人がやらなければならなかったけれど、タブーに縛られできなかったことを実現してしまったのである。
そしてソクーロフ最新作「チェチェンへ・アレクサンドラの旅」である。
●主人公アレクサンドラはロシアの占領地チェチェンの駐屯地に勤務する孫の大尉デニスに会いにやってくる。兵士たちと同じテントに泊まりながら数日を過ごす。イスラム信仰に生きるチェチェンの最前線で占領者ロシア兵士の祖母という居心地の悪い立場にいながら、体制の枠組みを相対化して自然な振る舞いを繰り返し、チェチェンの街中に繰り出していく。カメラはロシアに空爆されて瓦礫の山と化した街並みと生活物資のマーケットに生きる女たちを静かに捕らえる。占領者と非占領者という図式にはまらずに視線を低くし人間としてのつながりに未来を見つめようとするソコーロフの思いか。
●この映画はヴィシネフスカヤ抜きではありえないほど、彼女の存在が決定的な役割を果たしている。あらゆるこの世の矛盾・相克を飲み込み、なにかを湛えるような彼女のまなざしがあってはじめて可能になった映画であろう。オペラ歌手としての豊穣な表現力や生きてきた人生のもろもろにくわえて彼女のロマの血が根底にあるような気がしてならない。非定住の生活をしてきたロマは訪れる先々の宗教や民族的対立を相対化しながら、時には生きるためなら改宗もしながら、自由な生活を守ろうとしてきた。ヴィシネフスカヤの体を流れるロマの血はロシア・チェチェン紛争における人間の真実の瞬間を垣間見せてくれたのである。

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■2008.12.19  今年の映画ベスト・ワン「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」
○マーティン・スコセッシ監督はとても好きな監督である。昨年、彼が「デイパーテッド」で初めてアカデミー賞を取ったときには、アカデミー賞嫌いの私の「かれはアカデミーを取らないほど優れた監督だ」という評価がゆらいで残念だと思ったほどだ。
「デイパーテッド」は香港映画「インファナル・アフェア」(2002年監督アンドリュー・ラウ)のリメイクであり、それでアカデミー賞というのはスコセッシほどの監督に失礼である。(「インファナル・アフェア」は暗黒映画の匂いが充満する名作であった。)
彼はロックの最盛期に青春時代をおくったこともあり、音楽関係を扱った作品も多いし、過去の作品にもストーンやディランなどの楽曲が使われている。
ボブ・ディランのドキュメンタリー「ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム」も刺激的なドキュメンタリーだった。これは過去のディランの記録映像をモンタージュして要所に現在のディランのインタビューを挿入するオーソドックスな手法ながら、編集技術の冴えで見ごたえがあった。
「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」は2006年ニューヨークでの2回にわたるライブを熟練の撮影チームがコンサートの全体像と楽屋裏を縦横に撮影したドキュメントで、音楽映画の枠を超えた普遍性を持ちえた傑作になった。
なかでも特筆すべきはミック・ジャガーとキース・リチャーズに焦点をあて、かれらの肉体のヒダまで掘り起こすかのような画面である。ミック・ジャガーの俊敏・敏捷は彼の当時63歳という年齢を考えればビックリするし、キース・リチャーズの顔に深々と刻まれた皺をみていると人生を感じ、何故か感動してしまうのである。
 音と映像の方法論を熟知した名人スコセッシが達した映像の冴えはローリング・ストーンズに距離を置いてきた人(私も・・)にも彼らのキャリアがただならぬものであることを有無を言わせずに納得させる。
 遥か昔にみた1958年ニューポート・ジャズ・フェスティバルのドキュメンタリー「真夏の夜のジャズ」( バード・スターン監督)で味わった心躍る体験以来のものだった。
とにかくスコセッシの映画には人間観察のしたたかさと、柔軟な視点が散りばめられている。そこにはシチリア系イタリア移民の家系に生まれ、人間の矛盾や不条理が引き起こす暗黒を見つめながら、人間救済の手がかりを追求してきたスコセッシ独特の複眼的視野がある。
ローリングストーンズの音楽にはある種の無頼性と混沌があるが、そこからある種のカタルシスを見出すような輝きがあり、そうした輝きがスコセッシの体質に強く共振・共鳴したのだろう。
よって音楽的感動の強烈さ、映画的興奮を再認識させた意味もあり、独断と偏見に満ちた私の今年のベスト・ワンである。

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■2008.12.01  映画「シリアの花嫁」:ローカルであればこその普遍性
○1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領し、シリアとその領有を巡り係争中のゴラン高原。そうした分断状況に生きるイスラム教ドゥルーズ派一家の娘の結婚とその家族の再会の1日を描いた映画「シリアの花嫁」は苛酷な現実世界を描きながら人生への希望をにじませる佳作である。
 結婚式の日は花嫁モナにとり最高に幸福な日になるはずだが、彼女も姉のアマルも悲しげだ。一度"境界線"(現在の軍事境界線)を越えて花婿のいるシリアに行くと、2度と家族のもとへ帰れないからだ。この地域の住人たちは望めばイスラエルの国籍を取得できるのだが、ほとんどの住民はシリア人としての帰属意識が強く、イスラエルがシリアを国家として承認いないために結果的に「無国籍者」になる。モナの父親は熱烈なシリア・ナショナリストである。
 父とロシアから帰国した弁護士の長兄との溝、アマルと夫との間のトラブルなどが家族の間に次々と起こるなかで進行する結婚式の準備。挿入される民族色多彩な歌が効果的だが、惜しむらくは歌詞がない。多分アラビア語、ヘブライ語などの古謡の意味が分かる人が翻訳者にいなかったのだろう。
国家・民族間の解きがたい難問と家族が抱える諸問題がダイレクトにつながる様相のなか、花嫁は無事境界線を越えられるか、というスリルを含みつつラストに向かって進んでいくが、重いテーマをかかえながらも、話の展開は軽快なテンポで、時にはユーモラスである。
 登場人物に真の悪人がいないのが、救いである。国家・組織をバックにする役人・軍人なども人間くささを見せ、どこか憎めないところを俳優たちが上手く表現している。シナリオの人物像の彫りが深い故だろう。 ラストは未解決な問題が横たわるなか、境界上を歩いてシリアへ進むモナを見守る姉アマルの顔のアップで終わる。それは映画の冒頭のアマルのアップ表情に回帰するようである。笑みを浮かべたかのような表情が意味するものは決意だろうか、可能性だろうか。謎めいた余韻である。
俳優たちがすばらしい。特にアマル役のヒアム・アッバスは激情を内面にためこむ張り詰めた表情が秀逸で、画面全体に緊張感を生んでいる。
中東地域の複雑な歴史・民族・宗教的背景を抱えた人物群像に対して中東以外の人々が普遍的な共感を寄せることは容易ではないが、アラブ世界やドゥルーズ派に深い知識を有しながら、なおかつ現代的で複眼的な視点を併せ持つこの映画の視点には中東問題解決への希望を感じさせるものがある。
監督はイスラエル人のエラン・リクルスで2004年モントリオール世界映画祭グランプリ作品。2009年2月21日より岩波ホールでロードショー。

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グルジア映画「懺悔」から連想する

■2008.10.20  グルジア映画「懺悔」から連想する
○グルジア映画「懺悔」(監督 テンギス・アブラゼ)をみた。正確にはソビエト連邦時代のグルジア共和国で1984年に製作されたソ連映画である。ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)をある意味で象徴・予見した作品として半ば伝説化していた映画だが、日本では公開されず、今回、24年ぶりに年末から公開されることになった。
 旧ソ連邦時代、架空の地方都市の独裁者の生死をめぐる話はスターリン時代の粛清を想起させる。密告・逮捕・強制収容所行きが横行した暗黒時代に己の信条に生きた画家一家の悲劇的運命と流転を生き残った娘の回想で運ばれるストーリーは暗く、重い。1984年の製作ということで、まだ公開される展望が見えないままの映画の完成だったのだろう。
  1985年、ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、翌86年からのペレストロイカ政策の展開していくある種の熱気のなかでモスクワで1987年に公開され、大ヒットした。メディアがグラースノスチ(自由言論)の風潮のなかでそれまで封印されてきたスターリン時代の負の歴史の事実を明らかに語り始めたなかでの公開だった。
その後のソ連崩壊、冷戦終焉、9・11以来のイスラム圏の登場、イラク戦争と激動を経てきた現在の我々からの視点でこの映画を見れば、さすがに歴史の波を越えられない時代的限界を感じないわけではない。が、最近のロシアのグルジアへの露骨な締め付けを見れば、映画制作時のグルジアと今のグルジアの状況は大して変わっていないようにも思える。
私も1983年以降、ソ連時代のモスクワを数度訪れたがコーカサス3国のグルジア、アゼルバイジャン、アルメニアなどに関する情報は少なかった。モスクワではグルジアワインがとびきり上手く、市内のグルジア調理店アラグヴィには頻繁にロシア・ジプシー一家の流しが現れた。後年、2002年インドからのジプシーの末裔が存在するという情報を得てアルメニアに行ったのがコーカサスへのはじめての旅だった。
とにかくこの地域の複雑に絡んだ歴史的、民族的な流れを把握することは容易ではない。日本に住むひとにロシアとグルジアとの歴史的・民族的確執を分かりやすく説明することは非常に困難である。そのむずかしさはヨーロッパやロシアそしてコーカサスの非アジア系の人々に日本列島と朝鮮半島との歴史的・民族的確執などを説明することのむずかしさに通じるものがある。
映画「懺悔」はそうした限界を超えて尚、人間の意志の強固さがどこから来るのかを訴える作品であり、豊かな人間の感情のほとばしりにあふれる作品である。
公開2008年12月20日より岩波ホール

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貧困への切り込みとしての神話

■2008.6.05  貧困への切り込みとしての神話:ポルトガルの異才ペドロ・コスタの最新作「コロッサル・ユース」
○平日の夕刻の映画館には10名ほどの観客。あまり予備知識もなく、単にポルトガルの映画監督作品というだけで入った。カンヌ映画祭で退場者続出だったという話を後で知り、なかば納得したくらい果敢な挑戦に満ち、刺激的な映画だ。
しかし、少なくとも私にとっては画期的な作風をもった映画作家ペドロ・コスタの登場である。(前作「ヴァンダの部屋」も話題を呼んだらしいが、未見)ポルトガル、リスボン郊外のスラム街が取り壊され、こぎれいな団地に移住させられる話が、筋といえば存在する程度である。ドキュメンタリーとかなんとかいう議論はほとんど意味がないほど、映画そのものだ。
この映画の功績は主人公にヴェントゥーラという現地の素人を発見したことに尽きる。それくらい「隠者にして破格のオウトロー」(ペドロ・コスタ)で荘厳な雰囲気をまとった初老の男が主人公だ。ヴェントゥーラは北アフリカからの移民で身よりもなく長い間リスボンなどでつらい日々を刻んできたというようなことがなんとなく分かってくる。映画は、立ち退きの苦労と妻からの離別という現実に打ちひしがれながら、数人の"子供たち"を訪ねるシーンがつらなる構成。寡黙な女もいれば、麻薬治療中のヴァンダのように出産時の痛みを延々と話し続けるものもいる。乞食を生業にする息子が戻る等々。
ヴェントゥーラとの実際の関係が決して明らかにされない数人の"子供たち"の話を聞きながら、古い家と新しい住まいを行き来し、家から小屋へ、部屋から部屋へと渡り歩く。
饒舌に話す"子供たち"の話は現代の祭文語りのように響き、それをただ聞くだけのヴェントゥーラの徹底した寡黙が何かを象徴しているかのようであり、身のこなしひとつひとつが何故か優雅であり、ゆったりした彼の動作が心地よい。
人間の関係もよく分からないままに、ヴェントゥーラの世界に引き込まれていく。
離れていった妻へ思いが、繰り返される詩の朗詠は21世紀の神話語りを聞いているかのような余韻がただよう。グルベンキアン美術館でルーベンスなどの名画に囲まれ豪華な椅子に座るヴェントゥーラのシーンのはっとするような美しさ。
「知性にあふれ優しく荒々しい」スラム街の住人たちを見つめ続けるペドロ・コスタの視野がゆるぎなく透明で、目線は低い。これらは少人数の撮影スタッフでスラム街にアプローチしていく手法とマッチして新鮮な映像表現を可能にしたといえよう。 4人という最小スタッフによる小型DVビデオ撮影の成果が効果を上げている。アップ気味のローアングルに徹し、徹底的な長廻しを基本に、カメラは静止し続けズームはない。ラスト近く外界風景に一度だけパン移動という法則性が貫かれる。照明は美術館以外のシーンはほとんど自然光だけで撮影したらしいが、光と影で感情の機微までを表現しようとする強い意志を感じる。
2年間にわたりスラム街に通いカメラへの違和感をなくし、ヴェントゥーラたち住民と接触を深く重ねた信頼感がしのばれ、つらい神話的叙事詩のような現実世界に情感が沁みだしてくる異色の傑作である。
詩の内容:
「お前に10万本の煙草を贈りたかったのに、両手で数えきれない流行りの服、車もひとつ、お前がずっと憧れていた溶岩のかわいい家に、はした金で買う花束も、でも、なによりもまず、うまいワインを1本空けて、僕のことを想ってくれ。素敵な言葉を身につけるよ、僕ら二人のためだけの、僕らにぴったりの言葉を、まるでやわらかい絹のパジャマのように。」
題名は「途方もない若さ」はヤング・マーブル・ジャイアンツの同名アルバムから連想されている。ポルトガル原題は「Juventude em marcha」。英語題「Colossal Youth」 映画のHP

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■2008.1.29  映画「ジプシー・キャラバン」と「クロッシング・ザ・ブリッジ」をみて
映画「ジプシー・キャラバン」はルーマニア、マケドニア、スペイン、インド、4カ国のジプシー音楽グループが6週間にわたり北米諸都市を巡るライブ・ツァーのドキュメンタリーである。
出演者は5グループ。ルーマニアのタラフ・ドゥ・ハイドゥークスはツィンバロムを中心に、バイオリン、ネイ(笛)、アコーディオン、ダブルベースなどが加わる弦楽器編成で、バンドの象徴的存在であった最長老ニコラエ・ネアクシュは映画編集中に死去した。ルーマニアからのもう一つのグループはブラスバンド、ファンファーラ・チョクルリーア。スペインからはフラメンコ・ダンサーのアントニオ・エル・ピパ。マケドニアからはジプシー・クィーンの異名をもつ大歌手エスマ。インドからは今やヨーロッパなどでの公演で活躍しているラージャスターン州出身のグループ、マハラジャ。ドーラク、ハルモニウム、サーランギそしてヴォーカルとダンサーという典型的編成だ。
いずれも国際的に活躍しているジプシー(ロマ)のミュージシャンである。タラフ・ドゥ・ハイドゥークスは何度も日本公演を行っているし、エスマも2001年に来日して、強烈な印象を残している。
この映画の面白さは彼らそれぞれのオリジナリティある音楽を楽しむことはもちろんだが、彼ら同士が互いに感じる違和感・異質性を描写する場面だ。特にツァーの初期のシーンは興味深い。同じジプシーという出自を持ちながら異なった風土に育まれた彼らはそれぞれの音楽の違いに戸惑い、違和感を実感する。せっかく、ビッグなグループが共演するのだから、ジョイントするシーンを演出したいプロデューサーが仕組んでも強烈過ぎる個性集団は一つに同化できないのである。エスマの歌にはスペインのグループは乗れないし、ルーマニアのグループはたちすくんでいるだけだ。こうした描写は監督の意図を越えて、ジプシーミュージックの多彩さ・豊富さを物語るものとして興味深い。
さらにツァーの描写の合間に、それぞれの出身地を訪ね、出演者の育った風土と人びとをとりあげている。ここはやや月並みな描写ではあるが、ジプシーミュージックが育った背景を語るには重要なシーンである。マケドニア、スコピエのジプシー集落シュト・オリザリにおけるエスマの社会的奉仕活動、スペイン、アンダルシア地方でのアントニオ・エル・ピパの教室風景、ニコラエ・ネアクシュが故郷の村でのびのびと話す様子は心地よいシーンである。
6週間の長いツァーを経るなかで、徐々に彼らがお互いの同質性と異質性を冷静に認識し始め、それぞれに敬意を払うようになってくる。人間的には皆、解放的でざっくばらんな彼らが、同じジプシー(ロマ)でもいろいろ存在するのだということを、改めて確認する。これらのことを暗示する数々のシーンが丹念に挿入されている。
ただ、彼らの音楽を楽しもうとする人にとっては、少々欲求不満が残るかもしれない。せめて各グループの1曲くらいはキチンと聞きたい。ほとんどの曲が中途半端でカット変わりして飛んでしまうのが、わずらわしいし、疲れる。監督の製作意図は音楽自体よりジプシー(ロマ)の内包する多くの問題を盛り込もうとしたのだろうが、意欲倒れの感がある。
だが、これだけ豪華な出演メンバーのツァーのドキュメンタリーを企画し、長期にわたり撮影したことには敬意あるのみ。彼らの音楽に接することができたことは至福の時間であった。監督はジャスミン・デラル。
「クロッシング・ザ・ブリッジ~サウンド・オブ・イスタンブール~」は題名の通り、東西文明の十字路イスタンブールに息づく多彩な音楽シーンのドキュメンタリーである。監督はファティ・アキン。「愛より強く」でベルリン国際映画祭・金熊賞を受賞し、今、油が乗っているドイツを代表する俊英監督で、自身もドイツ生まれのトルコ系2世。
「愛より強く」で音楽制作を担当したドイツの前衛バンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのギタリスト/ベーシスト、アレクサンダー・ハッケが自ら録音機材を携えてイスタンブールの実に多種多様な音楽家たちを訪ね、時には自らもセッションに参加しながら録音の旅を続けていく。出演するミュージシャンたちのジャンルには驚くべき多彩さ、広さがあり、東西文化が複雑に混在するイスタンブールの独特な魅力さをあらわしている。オルタナティヴロックからヒップポップ、スーフィー風、路上のミュージシャン、ハルク(民謡)、ジプシー音楽、クルド音楽、アラベスク(演歌)、ポップスなどなど驚きの世界だ。
どのミュージシャンも、個性的で魅力的だが、印象に残ったものは、1.エルキン・トライ:トルコ語のロックの先駆者、トルコ音楽を電子楽器で演奏した最初のミュージシャンの1人。異端者であり、新ジャンルの先駆者として、若者からも崇拝されている。2.セゼン・アクス:トルコポップスの女王。「イスタンブールの声」と呼ばれ、階層や世代を越えた国民的歌手。遥か昔のイスタンブールをテーマにした名曲「イスタンブールの思い出」を歌うが、言葉に込められた感情の深さが滲み出してくる絶唱である。3.オルハン・ゲンジュバイ:トルコ最高のスター、映画俳優でもあり、トルコの演歌であるアラベスクのビッグスター。また、サズというリュート属の弦楽器の名手。ライブをしない主義の彼が映画のためにサズを奏する。
その他10グループ(人)を越える個性的な音楽家が出てくる。その中にはクルド民族出身の歌手アイヌールも出てくる。この方面の音楽に関心のあるものには見逃せない貴重な情報がぎっしり詰まった内容だ。全体はアレクサンダー・ハッケの視点で統一されており、映画としての完成度も高い。

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■2007.12.19  トニー・レオン讃 ~映画「ラスト,コーション」
○名匠アン・リー監督の最新作「ラスト,コーション」は中国現代史のなかでも「政府が裏切り者とみなされていた、歴史の穴とも言える空っぽな時代」(アン・リー)を生きた二人の男女のものがたりである。
日中戦争の最中、重慶の蒋介石国民党政府の内部対立者、副主席汪精衛を日本が擁立して汪政権が成立し、重慶政府は汪精衛を裏切り者として、上海に秘密テロ工作機関を送り込んだ。トニー・レオンが傀儡政権特務機関の顔役イー。イーの暗殺を狙う女スパイ役ワン・チアチーに新人タン・ウェイが起用されている。
物語は当時の国際都市上海と香港を舞台に流麗な運びで進行する。2人の禁断の愛が映像表現上かなりリアルに表現されるが、時代背景の切迫感・焦燥感が丁寧に描かれているので、より説得力、迫真性が強い。
私は158分のやや長い物語をオペラに身を委ねる如く堪能したが、なんといってもトニー・レオンの俳優としての力量に魅了された。
今、世界中の映画界を見渡しても彼ほどの俳優はいないと思えるほどだ。ウォン・カーウァイの「欲望の翼」「恋する惑星」「ブエノスアイレス」「花様年華」、ホウ・シャオシェンの「悲城都市」、そして「インファナル・アフェアー」等々、まばゆいばかりの俳優経歴。
彼の場合は、演技のうまさなど俳優術もさることながら、彼がかもし出す甘美で憂愁な雰囲気、陰影ある人物造形などは天賦のものだろう。これほどの陰影感がありながら、花がある男優はアジア人のなかでは「雨月物語」(溝口健二)「乱れる」(成瀬巳喜男)などの森雅之以外に思い浮かばない。
アン・リー監督は2005年の「ブロークバック・マウンテン」に引き続き2007年にも「ラスト,コーション」で2度目のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したことからも彼の存在感の重さが伝わる。尚ラスト,コーションLust CautionのLustは仏教用語の"欲情"を、Cautionは"戒め"を意味するらしい。公開は2008年2月2日シャンテ・シネ、Bunkamuraル・シネマほか。なお原作はアイリーン・チャン短編集 ラスト、コーション 色|戒 集英社文庫


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■2007.11.09  人間の業を引受ける潔さ:映画「サラエボの花」から
○ボスニア・ヘルツェゴヴィナの映画「サラエボの花」は一見の映画である。1992年、旧ユーゴスラヴィアが解体していくなかで勃発したボスニア内戦は、死者20万人、難民など200万人の多大の犠牲の上に1995年に一応の決着をみた。この近年の最悪の紛争はバルカン半島の複雑に絡み合った民族と宗教が背景にあり、我々にはなかなか理解しにくい地域である。ちなみにボスニア・ヘルツェゴヴィナを構成する民族はムスリム人(イスラム教徒44%)セルビア人(セルビア正教徒31%)クロアチア人(カトリック教徒17%)。1992年に旧ユーゴからの独立を問う住民投票を契機に3民族の利害が対立して紛争が勃発した。
昨年夏に旧ユーゴの一つマケドニアでジプシー<ロマ>の集落、シュト・オリザリに滞在した。そこで私はまだこの紛争が現実に日常生活に影響を及ぼしていることを経験した。ボスニア内戦が収まってからもセルビアのコソボ地区からロマの難民がシュト・オリザリにも流入して様々な問題を起こしている。旧ユーゴ地域の状況を知るためにもこの映画は見たかったものである。
舞台はボスニアのサラエボの一地区グルバヴィッツァッであり、ここは戦争中はセルビア人勢力に制圧されていた地域である。映画のテーマはこの時期に起こった深刻な事実が12年経過した現在でも人びとの生活のヒダまでも影響していることを描いている。シングル・マザーのエスマとその娘サラが軸になりそれらを取り巻く人びと、こどもたちにも視点は及ぶ。未だ貧困から抜けだせない市民が必死に職を求め、生きる日常生活を丁寧に描きながらも、それらの表情は深く重い影を湛えている。俳優陣が実にいい。演技を越えた自然さがあり、それだけに説得力を増す。当時の苛酷な体験を一切描かずに、現在の日常生活を描きながら、過去の深刻な事実を想起させていく手法は見事なものだ。通常は、フラッシュ・バックなどで挿入するのだが、一切そうした気のきいたテクニックは使わず、さりげない伏線をちりばめてある。ボスニアの町の冬の寒々しい光景が身に沁みるほどだ。カメラマンの力量もただならぬものである。
また各シーンで重要な役割を担う音楽の使い方も効果的であり、画面にふくよかさを醸成する。
ラスト近くにはエスマが体験した苛酷な事実とこの母娘の背負った宿命が一挙に明らかになり、その重さにたじろぐ思いだが、この監督の視野は広く、深いのだ。人間の業を引受ける潔さがまぶしい。監督が女性だから生み出せた映画だろう。ヤスミラ・ジュバニッチ監督、33歳、長編第一作。2006年ベルリン映画祭金熊賞他多数の映画賞を受けたが、末恐ろしい才能の出現だ。12月1日から岩波ホールで公開。

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