伝承・事件・雑感の最近のブログ記事

竹原ピストル、そして映画「海炭市叙景」

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    たまたまテレビの音楽番組(「SONGS 魂の叫び 竹原ピストル遂に登場」2017・5・18 10時50分から30分)を見た。スタジオには竹原ピストルを初めて見る観客だけを入れてその反応も調べようとする演出が取られた。
    彼を初めて見た気になっていた私は徐々に何処かで見た顔だと感じていたが、彼の音楽が始まるとその力強く、絞り出し、吐き出すような歌いっぷりに惹きつけられながら、同時に、数十年前に新宿文化劇場で見た三上寛の「オートバイの失恋」を思い起こしていた。どちらもギター一本で己の思いを吐き出し、訴え、時には若者への共感を簡明ながら、諧謔に満ちた自分の言葉で歌い語っていた。それぞれの時代の閉塞状況を歌うという意味では同質のものがある。
    現実は厳しく、否定的な状況に満ちていても、いや、それだからこそ己だけのわずかな手がかりを見つけて、どこまでも前向きに生きようとする彼の音楽に今の若者たちが新鮮さと切ない衝撃を受け、勇気を得るのかもしれない。
    竹原ピストルの大写しの顔を見ているうちに彼の映画か何かを見た記憶が蘇りそうになり、調べたら、熊切和嘉監督の「海炭市叙景」に出演していたのだった。
    「海炭市叙景」は作家佐藤泰志の短編小説集にあり熊切和嘉監督により映画化された傑作であった。出演俳優も谷村美月、加瀬亮、南果歩、小林薫らの魅力的なラインアップだった。この映画については感ずるところが大いにあったので当HPの映画欄にも取り上げている。(2010・12・28付け)
    この映画に竹原ピストルは出ている。 オムニバス風の物語の最初のエピソードの中で、造船所で働く男、颯太役で出演している。リストラされた颯太は大晦日の夜、妹の帆波(谷村美月)と年越しそばを食べ、初日の出を見るために山に登る。ロープウェイに乗る金がなく、帰りは兄は歩いて山を降りる。というような喪失感が漂う話だった。
      彼は俳優としては熊切和嘉のものを中心に出演しているようだ。この辺りにも彼のこだわりというか歩んできた道のりが影響しているようだ。
    この映画も救いがない世界が淡々と描かれながらも、描かれた暗い情熱に惹かれてしまう不思議な訴求力を持っていた。気味悪いほど竹原ピストルの音楽世界に通じる味わいを持つ映画だった。
  • 追悼 永六輔さん

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     永六輔さんに初めてお会いしたのは、昭和40年台の半ば以降、1970年代前半だったと思う。小沢昭一さんと放浪芸探索の旅の最中の京都でのことだった。
    どこかのホールか、会館の楽屋で永さんを見かけた小沢さんが「永さん、今、僕のレコードを作ってくれている市川さん、、」と紹介されたのが最初の出会いだった。今改めて思い起こすと、小沢さんが人を紹介するようなことは、めったにないことで、永さんも少しかしこまっていたような記憶がある。
    当時の永六輔さんは30代の後半、放送界の寵児で、作詞家としても大ヒット連発で、まばゆいほどの存在だったが、そうしたところにいるのがどこか居心地悪く感じていたようだ。虚構の世界に生きることの虚しさ、手ごたえのなさを克服しようとしていたようだった。
    この頃1年間東京を離れて、大阪か京都で下宿生活のように過ごしたという。関西芸能の世界に沈殿して、市井の人々、職人の世界にも目配りする日々を過ごしたのも、今後の己の進む道を模索したのだろう。こうして体に入れた大阪関西の芸能の匂い、市井の人々の感性を終生、大事にした人だった。そして日本全国に足を伸ばし、芸人、普通の人、ちょっと面白い人などを発掘しながら、ラジオを通じて紹介し続けたのだった。それは、永さんが心から尊敬していた歩く民俗学者、宮本常一の姿に重なってくるほどの列島行脚ぶりだった。
    とにかく、東京を中央としての、上から目線を排して、つねに地方、辺境からの視線にこだわり続けた人だった。テレビ創世記の時代のメインストリームを驀進しながらも、テレビの欺瞞性を喝破して、ラジオの世界で己の魂の安息を得たのだった。
    小沢さんとの旅の途中で、宿の食事後などに、何回聞いてもお腹の皮がよじれるほど笑わされる永さんの話がある。
    ある晩、永さんが就寝中、疲れていたのか、大きなあくびをしたという。そしたら、あごが外れてしまった。面長な顔がさらに長くなった。こりゃー大変だというので起き上がり、医者に行くことにした。愛妻家の永さんは伸びきった顔を見せると、奥さんもびっくりすると思いやり、新聞紙にマジックで「あごがはずれた。医者へ行く」って書いて、それで顔を隠して、奥さんを起こした。さすが愛妻家。それで急いで近所のお医者さんを訪ねたが、それからが大変で、外れたあごをはめるのには、さらに強い力であごを引っ張り伸ばして、反動でえいっとはめるのだという。戻った顔を見たお医者さんは「ああ、永六輔さんだ」という話だが、これらを小沢さんは1時間かけて、丁寧に語り下すのだ。この話は小沢さんの裏ネタだが、旅先で天気待ちなどの時に、こちらからの注文に応じて、たまにやってくれるのだった。抱腹絶倒とはこのことで、宿の部屋の畳の上を腹を抱えて転げ回ったのだった。 この話は「随談 小沢昭一」(2005年)として新宿末広亭を満員札止めにした「奇跡の10日間」の第3夜で語られている。
    永六輔さんも小沢さんと同じく83歳で逝かれた。合掌。
  • 小沢昭一さんを偲ぶ

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    小沢昭一さんが12月10日に亡くなってから、14,15日の通夜、告別式に忙殺され心の余裕がないままここ数日が過ぎた。体調の深刻さを知るにつけ、覚悟はしていたが、亡くなってからの喪失感は日々増すばかりである。40年余前に、小沢さんの処女著作「私は河原乞食・考」を読み、衝撃を受け、思わず小沢さんに連絡を取りレコードにしたいと申し込んでからの疾風怒涛のような日本列島の旅の断片が次から次へと思い起こされる。いずれ落ち着いてから小沢さんについての文を記すだろうが、ここはレコード「ドキュメント日本の放浪芸」シリーズ22枚のCD化の際に書き記した拙文を再録したい。

    「日本の放浪芸」を制作して(パンフレットより)

    『俳優という芸能の実演者の立場と、それとは本来的に矛盾する芸能探索者という立場が奇跡的に統一された世界が「日本の放浪芸」であった。それは小沢昭一のやむにやまれぬ思いに駆られた個人的な営為であり、自分が属する芸能の社会の血筋をたどる長い旅だった。録音に残された、幾多の、今は亡き放浪諸芸の人々と小沢との会話を聞いていると、互いに深くつながった仲間同士として交わされた、その時々のまなざしの優しさ、柔らかさがよみがえる。日本の街や道でひそやかに、時には大胆に闊歩してきた彼らは小沢昭一に巡り合い、それぞれの思いを託したのだ。中世以来、営々と日本各地で続いていた放浪芸の殆どは二十世紀の中で滅びたが、その担い手たちの諸芸能と彼らが背負った哀切な個人史の一端がCD復刻によってよみがえり、二十一世紀に向けての手がかりを与えてくれるような予感がする。』(1999年)

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    2月26日夜のNHKETV特集「花を奉る 石牟礼道子の世界」はひとりの人間の持続する想念がいかに世の中の不条理を撃つ力があるかを証明するような番組だった。水俣育ちの石牟礼道子が水俣病を文明の病として、半世紀にわたり書き続けてきた「苦海浄土」を頂点とする一連の作品群は現代文学の世界において、その深さ、普遍性、訴求性において圧倒的に屹立する存在である。
    TVで特に胸にきたのは発せられる水俣の方言のたぐい稀な美しさだ。浄瑠璃を聞くときの陶酔感すら覚えたのだった。不知火の海の漁を食した人々はチッソ工場の垂れ流し続けてきた水銀に犯され水俣病を発症した。
    その人々を訪ね歩いた詳細な聞き書きからは水俣病患者のほとばしるような情念が立ち上がり、それは水俣病患者の思いが石牟礼道子の肉体を通じて語られるかのような文体である。
    ここから受ける感覚は、民俗学者宮本常一の聞き書き「忘れられた日本人」に収められている「土佐源氏」で味わった感銘にも通じるものがある。
    水俣という土地で育まれた言葉で語られる方言や言い伝え・伝承のいかに神話的な色彩を帯びていることか。そうした神話的な世界に生きてきた水俣の人々の苦界を声高に告発するのではなく、人々のこころの奥深くのヒダに分け入り、鋭く優しくその思いをおのれの筆に乗せる。そこには取材者としての姿勢はなく、水俣病を患う人々の思いをすべて己の体内にためこみ、ついにはとうとうとあふれ出してくるかのような語り口であり、語り部なのだ。
    当時,10代だった水俣病の患者は施設にはいり今は、50代半ば。風雪の残酷さが画面を覆う。彼を訪問し、「苦海浄土」に書きとめた亡き祖父の言葉を石牟礼道子が(孫である男に)読んで聞かせるシーンは美しく心を打つ。身内は逝き、言葉も発することができない車椅子の患者の表情が微妙に笑み、ゆがむ。石牟礼道子が「これを書くのに40年かかったよ」と男に語りかけるのだ。2人の間に流れる万感の思いが、痛いほど伝わってくるシーンだった。また、車椅子に乗る石牟礼道子を同じ施設の女性患者がやってきて「がんばって」と石牟礼道子を励ますのである。思いもしない励ましに泣くしかない石牟礼道子。 半世紀に及ぶ水俣の人々の「苦海浄土」がつむぎだした奇跡的な浄土か。
    3・11大震災の世界についての石牟礼道子の詩。
    花を奉る
    (略)
    現世はいよいよ地獄とや云わん
    虚無とや云わん
    ただ滅亡の世迫るを待つのみか
    こゝに於いて
    われらなお
    地上にひらく一輪の花の力を念じて合掌す
    2011年  大震災の翌月に
    番組中で3・11の震災の体験の意味を「全感覚で生まれ直す体験をした」と。
    さて、水俣には石牟礼道子という稀有な語り部が存在しているが、福島には存在するか。それは「放射能が降っています。静かな静かな夜です。」(『詩の礫』)と書いた詩人和合亮一なのだろうか。

    東日本大震災の実相-―藤原新也のブログ

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    夥しい発信がされているが、藤原新也のブログが大震災の実相を伝えている。大地震後、救援物資を積んで、飛び出していった行動力はカメラマンとしての性もあるだろうが、事に及んでの一瞬の逡巡を見せないところは、柔な知識人ではない。カメラを手にしながらの、日に数度の短いコメント、つぶやきがすさまじい現場の様子を想起させる。要、注目。藤原新也HP
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    相撲については2010.6.23のブログにて述べたことに付け加えるものはないのだが、現在進行中の見当はずれの相撲八百長報道を見ていると、テレビ界、マスコミ界の劣化は深刻だといわざるを得ない。
    少しでも日本の歴史をたどれば、相撲の本質は「芸能」そのものだということが分かるはずなのに、八百長はけしからん、「国技」を汚したなどと合唱している。この点では石原慎太郎東京都知事の醒めた見方「歌舞伎の大見えを堪能して見るみたいに、だまされて見て楽しんでればいいんじゃないか。そういうものだ、相撲ってものは」・・が一番的をえている。
    相撲は国技ではないし、神事でもない。相撲人(すまいびと)というものは賭博や呪師(のろんじ)などと並んでは由緒正しい職能民だったので、古代以来、天皇家に連なる貴族社会などの庇護のもとにその体制に奉仕する「芸能」であり、基本的な構造は天皇家で亀甲、双六などによる占いなどを司った博徒や巫女などと同じである。
    相撲界の体質の中に八百長相撲を必然とする構造が存在し、それは歴史的に賭博・博徒の系譜と密接に連なっているのである。相撲と賭博は不即不離の関係にあり、悪所がもつ暗黒をともに内臓する。そこには常識の通用しない裏社会が成立して、それなりの妖しい魅力を発しているからこそ存在価値があり、そこからの臭気に敏感な一般人が惹かれてくるのである。歌舞伎などもおなじ構造である。
    そこに民主主義的な制度やスポーツの明快さを求めるなら、アマチュア相撲を見ればいいのだ。相撲部屋制度、親方の存在、理不尽な幕下以下の身分制度、これらは皆、前時代的で、封建的なものである。だからこそ価値あるものなのである。これらをなくして相撲は成り立たない。
    「天皇家、貴族社会と一体化してきた相撲世界と博打・賭博世界は歴史的な土壌を一にするものであり、それらの因習と習俗を含めた全体が良し悪しを越えて存在してきたのである。相撲の魅力はそうした全体がかもし出す微妙なものなのである。一般社会からうかがい知れない暗いものがチラッと垣間見える社会なのである。」(2010.6.23のブログ)
    無菌思想、異常清潔志向が蔓延する日本列島の病弊を痛打する悪所としての日本相撲を賭博場併設の「国立ニホン大相撲」として無形文化遺産に申請したいほどだ。

    賭博場併設の「日本大相撲」を世界遺産に!

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    奈良、平安以来、相撲は宮廷,貴族社会に抱えられる存在だった。「相撲の節」として毎年7月,天皇が宮中で相撲を観覧する行事が行われていたのである。
    11世紀に藤原明衡によりあらわされた「新猿楽記」は当時の風俗・芸能に関する貴重な職能の種類を示している。呪師(のろんじ)・田楽・傀儡子(くぐつ)、博打・武者・田堵・巫女・鍛冶・鋳物師・学生・相撲人(すまいびと)・工匠・馬借・車借・薬師(くすし)・陰陽師・管弦・和歌・炭焼・遊女(あそび)・能書(のうじょ)・験者(げんざ)・細工・受領郎党(ずりょうろうどう)・学僧・絵師・仏師・商人(あきうど)・楽人などの職能があげられている。相撲人は古来より連綿と続いてきた由緒ある職能民である。
    昨今の相撲界の賭博「汚染」報道を見ていると、この日本列島の相変わらずの一点集中報道、異常なまでのキレイ、清潔、清廉指向の一環であると思わざるを得ない。
    相撲というものは古代以来、天皇家に連なる貴族社会などの庇護のもとにその体制に奉仕する「芸能」であり、基本的な構造は天皇家で亀甲、双六などによる占いなどを司った博徒や巫女などと同じである。京都の朝廷の官庁にも双六打、博徒打、巫女を統括する役所があったようだ。上皇の妃がお産をするときは、祈祷師(験者)のうしろに悪い「物の気」をつける巫女がおり、双六の盤で「博を打つ」、つまり、さいころをふることで神の意志がつたえられるのである。
    このように天皇家、貴族社会と一体化してきた相撲世界と博打・賭博世界は歴史的な土壌を一にするものであり、それらの因習と習俗を含めた全体が良し悪しを越えて存在してきたのである。相撲の魅力はそうした全体がかもし出す微妙なものなのである。一般社会からうかがい知れない暗いものがチラッと垣間見える社会なのである。
    相撲から暗いもの、不合理なもの、いかがわしいものを一掃して、清潔無比なものにしたら、そのときから相撲のもつほとんどの魅力はなくなるだろう。相撲取りの象徴であるちょんまげは清濁併せ持つ習俗・習慣の象徴である。
    中途半端な改革などはなんの意味もない。日本相撲協会はここで乾坤一滴、自らの内に宿る閉鎖性・封建制を逆手に取った反撃に出たらどうか。幼いときから相撲界という閉鎖された世界で常識を身につけてきた彼らに自己改革力・自浄能力など望むのは無理である。
    ここで公認賭博場併設の日本大相撲として公認して、世界遺産に申請してはどうか。江戸村みたいなものを作り、住民は全員、ちょんまげ、着物を着て、観光業に徹する。江戸村の中心的柱として相撲社会を置く。当然、法律上は治外法権でなければならない。相撲のあと、関取は賭場を開いて、観光客に公開する。巨大な歴史的遺物として自己存在を主張してほしいものだ。
    半ば本気で、なかばやけくそな提言だが、TVなどの洪水のようなピンボケ報道を見ていて、つい妄想がきわまった。

    かくして神話は生まれる?ー不条理な世界

    ■2008.6.17  かくして神話は生まれる?ー不条理な世界
    ○毎年、フライフィッシングという毛ばり釣りで東北の山々の奥地にでかける。ここ20数年来の習慣になっている。特に岩魚(イワナ)、山女(ヤマメ)釣りのベストシーズンは東北では6月から始まる。5月までは渓流のにごりや増水などを起こす雪代(ゆきしろ:山に残る雪の溶け出す冷水)が残り、釣果にむらがあるが、6月になると一気に岩魚,山女たちは活性化し、えさを貪欲に追いだすのである。釣り人は先行者がいないポイントまで入るため、源流部に近い奥地までも入渓するものだ。
    今回の岩手・宮城内陸地震で釣り人が数人含まれているのは、ある意味で当然であった。この地域は私も秋田北部への釣行の際に何度も通っているので、地形などは頭に入っているが、日本列島を東西に縦断する342号線、398号線などの沿線は人家が少なく山間の狭い平地に数軒の家々が点在する風景が連なる地域だ。磐井川の多くの支流沢にも釣人が入る。
    その地を開拓し、長年住み続けてきたものにとっては離れがたいほどの愛着の情を抱かせるのがシミジミと美しい山々と川のある風景なのだ。
    私も秋田北部の渓流の幾つかを釣り歩きながら、人里離れた奥地に入るとき、一番警戒するのは、熊との遭遇、ついで地震だった。しかしながらこの20年以上熊には遭遇したけれども、地震には一度もあっていなかった。今回の震源地も可能性は限りなくゼロに近い無警戒地域だったようだ。
    山が崩落し、道路が消滅したこの地域の復旧は困難を極めるだろう。人口の過疎地域だけに費用対効果を考える行政にとっても頭がいたいところだろう。一方、山を開き、田を耕し幾多の苦闘を重ねてきた庶民の個人史は無残にもこうした形で閉じられるのか。不条理というしかない。
    四川大地震からほぼ1ヶ月後の5月14日に起きた岩手・宮城内陸地震そしてミャンマーの大洪水被害も含めて甚大な地球規模の変動が起きている。地球が何らかの変動を起こしている。四川大地震で失われた人命には少数民族のチャン族の人々が少なくない。おそらく岩手・宮城内陸地震の何倍かの規模で崩落を起こした山間に埋まった人びとの正確な数は永久に分からないだろう。チャン族には民族創世の神話が残されているが、今回の大地震が後世、創世神話に新しいページに加えられるのか、生き残った人々が無念の思いをどのように語り伝えていくのか。
    岩手・宮城内陸地震で一瞬にして山が崩落・消滅し地形が激変した姿を目にした人々は、この不条理な現実をどう受け止めるのか。山を離れざるを得なくなる山の民それぞれのこころの奥には何が残るのか。
    人間の歴史は想像しえないほど巨大なエネルギーに満ちた自然による災害を目の当たりにしながら築かれてきた。かくして庶民には不条理な神話伝承・伝説が生まれるのか。個人個人の無念の思いの膨大な蓄積はどこに向かうのか。

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    ■2008.5.16  四川大地震・震源地、ブン川県チャン族の村の芸能の記録
    ○2008年5月12日に起きた四川省大地震の震源地・ブン川県を私は1996年7月に訪ねていた。?川県は、中国国内の報道では「ブン川地震」と称されているほど四川大地震の象徴的地域となっている。
    55の少数民族の芸能を記録する最終の旅はチャン族の村に入ることが目的だった。当時から?川県方面にアクセスすることは困難だった。チベット系の少数民族チャン族が多く住むこの地を襲った甚大な被害は未だに全貌がみえない。救助活動の筆舌にしがたいむずかしさがよく理解できる。当時、記録した写真、ビデオ映像から一部公開する。失われたであろうチャン族の美しい自然と豊かな芸能を伝えておきたい。情報によれば、訪ねた龍渓郷が震源地の中心地だった可能性があるという。参照:ギャラリー。なおこのHPのトップページ使用写真とブン川県のビデオ公開は期間を1週間程度に限定する。なお中国の55に及ぶ少数民族の詳細については 「中国55の少数民族を訪ねて」(共著 市橋雄二、白水社) を参照されたし。

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    ■2008.3.18  「暴動」ではない。チベット民族の抗議行動と漢民族との相容れない相克
    ○前々回のこの欄でビョークのコンサートでのチベット独立シュプレヒコールについて書いてから、ほどなくチベットで抗議行動が起こった。日本のマスコミ、新聞、テレビなどの多くがこのチベット抗議行動をチベット暴動、ラサ暴動と称していることはことの本質を伝えない恐れがある。テレビニュースなどに流されている映像などはほとんど国営の中央電視台CCTVが意図的な編集を施した海外向けの映像であり、治安軍などが発砲している映像はオミットされている。群衆が乱暴狼藉をしているかのような印象を助長する映像が多い。検閲された映像はイラク戦争でも垂れ流され、この戦争の実態が曖昧にされてきたのは今や明らかである。(戦闘場面のない奇妙な戦闘映像の連続!)同じ過ちを日本のマスコミはすべきではない。これらの映像の性格をきちんとコメントすべきである。
    暴動という言葉には無秩序の破壊・無法者の乱暴狼藉という意味合いが濃いが、今回のチベットを初めとする青海省、甘粛省、四川省など旧チベット地区でチベット族が多く居住する地域での抗議運動はあくまでチベット族が漢族に対して起こした抵抗運動としてとらえなくてはならないと思う。この点を早速指摘した藤原新也の着眼は的を射ている。ざっとみたところでは読売、毎日は暴動と称し、朝日、日経は騒乱、サンケイは両方使っているようだ。
    長年歴史的に蓄積されてきたチベット族の民族的鬱屈が噴出しているのである。ラサなどは実質的人口は漢族が過半数をこえるまでに増加して、経済的果実は多く漢族の人びとにもたらされている。遊牧・農耕の民、チベット族と定住型農耕民族にして現代中国の主流の経済を握る漢族の力関係は圧倒的に差があり、その差は定住の論理と非定住の論理の相克の結果であり、地球規模で定住型文化が非定住型文化を駆逐している一環であることを考えると、現代史はまたもや無慈悲な残酷なページを記しているのだろうか。今後の展開をみつめたい。

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    ■2008.3.06  ビョーク、上海コンサートで「チベット独立」を叫ぶ
    ○6日付けの朝日新聞の国際面囲みで、2日に上海で開いたコンサートで「ディクレア・インディペンデンス」の最後に「チベット独立!」と叫んだという記事が掲載されている。中国のアキレス腱ともいえるチベット問題を中心地・上海で突きつけたわけで、中国当局は苦虫をかみつぶしていることだろう。観客の反応は載ってないが、おそらく本音の部分では喝采をするものから、不快感をもったものまで様々だったと思われる。北京オリンピックなどという一時的なイベントを迎える中国の思惑をはるかにこえて、少数民族問題を提起したビョークの行為は中国のわかもののこころにどの程度届いたのか。そして、コソボを連呼された日本のわかものにはどのように届いたのか。ビョークはいろんな意味でおもしろく、気になる存在である。
    ○1990年代に中国の辺境地域を巡った経験からいえば、環境・人権・自由などのすべての中国的矛盾は領土が広大すぎ、人口が多い(13-4億!)ところから起きている。共産党独裁で指令を地方末端までいきわたらない不徹底。だからといって民主主義国家になったら、地方地方で勝手にやりだして、その時点で国家は空中分解するのは明白だ。ゆるくも、きつくも統治するには中国は規模が大きすぎるのだ。その有効な解決策の一つはチベットとウィグルを自治区として「解放」することだろうと思う。チベットに行ってみて、漢民族の支配・浸透が広く、深く進んでいるのに暗澹たる気持ちになり、チベットの人の心中を思った。インドに生まれた仏教が本家インドでは衰退したが、チベットと日本列島において踏みとどまり、それぞれ文化的独自性をはぐくんだという意味でも対岸視し得ない地域だ。

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    ■2008.3.01  ビョークからコソボとマケドニアのロマを思う>
    ○昨日の朝日新聞(夕)のステージ評にビョークのコンサートの批評が載っていた。見出しは「最後に異様な高揚感」。エンディングに歌われた「ディクレア・インディペンデンス」は強烈なパフォーマンスだったという。「独立を宣言せよ」とシュプレヒコールを繰り返し、「コソボ、コソボ」と連呼したという。評者の高橋健太郎氏は忘れ得ぬ体験だったと記している。
    ビョークの際立つ才能、特異な存在感は映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見てから肝に銘じていた。私には、変幻自在、万華鏡のような彼女の音楽を評する能力はないが、その強烈な訴求力からしてただならぬ音楽家・アーチストであることは分かる。「ディクレア・インディペンデンス」をメッセージソングとくくっていいのかはわからない。優れたメッセージソングとはなにも政治社会状況を取り上げて告発するだけでなく、花鳥風月をテーマにしても切り込み方や表現次第で十分物事の本質をつかみとる力をもつものだ。テーマではなく、何をどのように深く、表現し得たかということだろう。
    しかしながらビョークのうたにはそうした問いを無意味にしてしまうほどの切迫感・緊迫感が漂う。彼女の奥深い内部からほとばしり出てくる気配が濃厚だ。ビョークがコソボにそれほどの関心を示したことには関心はあるが、事情に疎い私には分からない。コンサートで圧倒的比率を構成した日本の若者がコソボのことをどれほど認識していたかは分からないが、おそらくは非常にあやふやなものだろう。それが今の日本の鏡そのものだから。
    1991年のユーゴスラビア解体からボスニア・ヘウツェゴビナやコソボなどに深刻な民族間の抗争が起きて現在にいたるまで火種は消えていない。セルビアの一部ながらも大多数のアルバニア人が住むコソボ自治州の独立をめぐり、紛争が続いていたが、2月18日に一方的に独立を宣言した。EUにとってはバルカン半島は無視しえぬ近隣地域であり、ロシアも含めて利害が複雑に絡み合う。コソボの人口の約9割はアルバニア人だが、セルビア人にとってコソボはセルビア王国の発祥の地であり、コソボの分離独立は許しがたい。背後のロシアもチェチェンやオセチアなどに自国の民族問題を抱えており、なにより影響・波及を恐れている。中国(ウィグル、チベット)、スペイン(バスク)然り。コソボの問題はイスラエルとパレスチナの関係を思わせるものがある。これは解けない難問だ。
    2006年夏にマケドニアのスコピエにある世界最大のロマ集落地シュト・オリザリを訪ねた際にも隣国セルビアの自治州コソボからの難民の流入は続いていた。2001年のコソボ紛争の際にはシュト・オリザリのロマもマケドニア軍に徴用されて、従軍している。この後、ようやくロマはマケドニアで正式に民族として認められたのである。
    コソボ危機を通じてコソボから1万人を越えるロマがシュト・オリザリに流入しているという。もちろんアルバニア人も流入している。ちなみにシュト・オリザリの人口4万2千人の80%がロマで、アルバニア人は12%程度だが、民族間の関係は微妙なバランスにたっている。シュト・オリザリのロマの人びとにとってはマケドニア人は行政上の支配民族であり、アルバニア人はマケドニアでは少数民族に属している。しかしシュト・オリザリのメインストリートの多くの商店の雇用主はアルバニア人であり、ロマは雇用される立場だ。どちらも支配的な立場にたつが、ロマはマケドニア人よりもアルバニア人に対して親和的だという。アルバニア人の経営者は保険や年金などの支払いがマケドニア人よりもきちんとしているというのだ。いずれにしてもロマはセルビア、マケドニアにおいて重層的に支配される側の存在である。
    民族紛争を見つめる視点の定め方に応じて様々な主張が起きる。その対立はいつ果てるとも尽きない。こうした民族が抱える宗教・歴史に絡むアイデンティティの対立は底なし沼に入りがちである。こうしたときにはロマの人びとの自由さを思うと気が楽になる。あえて定着する土地に固執せず、宗教にも固執せず、コーランや聖書のような歴史的大叙述などは編纂しない。せいぜい地域に伝わるささやかな伝承くらい。彼らの非定着・不定形な生き方から見えてくるもののなんと貴重なことか。
    ■2007.10.31  クルド民族問題とジプシー<ロマ>の存在から現実世界の冷厳な様相を垣間見る
    ○このところトルコとクルド人との関係がきな臭い。イラク北部のクルド系武装組織「クルド労働者党」(PKK)とトルコ軍とのあいだで戦闘状態にあるようだ。PKKの解体を目指すトルコが、イラク北部への本格的な越境攻撃の可能性をちらつかせ、国境地帯の緊張が高まっている。トルコは米国やイラクにPKK掃討を迫る外交圧力を強める一方、国境付近への軍部隊増強とPKK拠点への攻撃を続けている。
    国家を持たない最大の民族クルド人2~3千万人はトルコ、イラン、イラク、シリア、アルメニアなどにそれぞれ少数民族として分散している。イラクにもともと居住してきたクルド人たちは、イラク戦争でアメリカがフセインを倒したのを機会に、北部に自治区を樹立した。この地区の近くにはイラクで最大級のキルクーク油田もあり、各国にとっても重要な戦略的地域でもある。トルコ軍とPKKとの戦闘は中東地域と欧米,ロシアの思惑が複雑に絡み合い新たな火種になる危険性が強い。
    一方、トルコ国内に少数民族として苦難の生活を強いられている1000万を越えるクルド民族がPKKに共鳴し、イラク国内のクルド人と同じようにトルコ政府にも自治を求める動きが急進化し、またトルコとPKKとの戦闘に参加するようになってきた。(これらについての状況・情報は日々変化している)
    ○私がクルド民族のことを意識するようになった契機は1980年初頭にトルコ在住のクルド人監督ユルマズ・ギュネイの映画「路」そして「群れ」を見たことだった。「路」は衝撃的だった。ストーリーはトルコ(1980年当時)の数人のクルド人政治犯が仮釈放で故郷に数日間帰省する様をオムニバス風に綴ったものだったが、それぞれのストーリーが限りなく重く、不条理に満ちており、独特の風習などの映像表現加わり鮮烈な印象だった。そこにはクルド民族の歴史、男女の生き方、世界観の違い、因習と伝統が織り成す人間模様が叙事詩のように繰り広げられていた。
    この「路」は1982年のカンヌ映画祭でグランプリと国際批評家大賞同時受賞したのだが、ギュネイ自身が監獄から指揮したり、亡命先のフランスで編集をするなどの話題も重なりクルド問題の存在を日本人に認識させた意味でも意味ある作品だった。
    例えば、一つの話。入獄中に不義を働いた妻は実家に戻され8ヶ月鎖につながれている。民族の掟で、家名を汚した妻を自ら殺さなければならない男。なお妻を愛する男は不条理な思いを背負いながらも彼女を極寒の雪山越えに連れ出すが、衰弱している妻は凍死してしまう。別の話。兄を亡くしゲリラになることを決意した弟には、心を寄せる美しい娘がいるが、クルドの慣習では兄が死に独身の弟がいる場合は、弟は兄嫁と結婚しなければならない。ゲリラとなりクルドの自由の為に戦おうとする弟はそうした因習を拒否できない。等々。
    これらの不条理ながらも民族独自の伝統を強く意識せざるを得ない彼らの状況が痛いほど納得できた。国家を持つことを許されないクルド民族の存在理由・存在価値を追及してゆけば、必然的に民族固有で、苦難を経てきた先祖が保持してきた風習によりどころを求めてしまう不条理な世界に生きざるを得ないのだ。
    そして、2007年のクルド民族も状況は変わっていない。ようやくできたイラク北部のクルド自治区もトルコ軍が越境してくれば、つかの間の安寧は破られるのである。
    ○クルドの民族求心性とジプシー(ロマ)の無定形な拡散性・・・・民族という存在は己の歴史伝統に誇りをもたなければ生きていけない。クルド民族も同様で、自分たちの国家を要求して戦いをやめることは当分ない。この感情はどうしようもなく強く、抑圧されればされるだけ、強固になっていくものだ。しかしながら冷厳な既成の国家秩序を保持することが何よりも優先する欧米露・イスラム国家などはクルド民族の自決への動きが自国に跳ね返るのを警戒する。国際政治の現実の壁は厚い。私はため息とともに彼らの心情に寄り添うしかできないのでである。
    そんな袋小路に入ったように思われる地球上の諸課題に押しつぶされるような思いでいるとき、私の思いは一気にジプシー(ロマ)の人びとの生き方に向かうのである。各国に点在するように存在するジプシー(ロマ)の人々はせいぜい集落を形成する程度で、それ以上の共同体・組織ましてや国家などを樹立しようなどとは思わない。行く先々で複雑な蔑視を含んだ視線を受けながら、イスラム教徒にもキリスト教徒にもなり、土地伝来のうた・踊りに順応しながらも、それらを変容させていくしたたかさ。ノーテンキとも思える自由さ、束縛嫌い(賃金労働を嫌悪!)、独自の清濁感、歴史への無関心、文字を持たないそして何よりも表現世界に発揮する天分など・・。
    彼らは少なくとも戦争やジェノサイドには加担してこなかった稀有の存在である。これらの罪から逃れられる国家・民族のどれだけ少ないことよ。
    地球上の国家群は様々な地に定着して、そこに文明を発達させてきたのだが、その営々と積み重ねてきた文明の功罪、その行き着いた現在の何と問題多きことよ。我われは己の価値観を一度投げ捨て、まっさらな気分ですべてを問い直す必要があるのではないか。

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    土浦の花火大会を見ての感想・連想

    ■2007.10.11  土浦の花火大会を見ての感想・連想。    
    hanabi2007.jpg ○日本三大花火大会といえば、新潟県の長岡、秋田県の大曲そして茨城県の土浦というのが定説だ。たまたま土浦で生まれた私は小さいときから毎年のように見てきたが、それほど有名なものとは知らずにいた。大学に入って東京に移ってからは花火見物とは遠ざかっていたが、たまに電車から両国の花火などを見ても、身びいきもあり土浦の花火に比べると大分見劣りするななどと勝手に思っていたのである。
    最近、5-6年は友人などを案内しがてら土浦の花火を見る機会が多くなってきたが、やはり良いものは良い。
    開催日は毎年、10月の第1土曜日という設定で、日本国中で一番遅い時期に開催されるが、各地から屈指の花火煙火業者 が集い、技を競うプロフェッショナルの晴れの舞台でもある。土浦花火の花形・呼び物はスターマインという速射・連射の部門だ。大小の花火をいくつも組み合わせて一度に連射して、そのなかで一つのテーマを描きあげる。最近では音楽にのせて打ち上げるものがほとんどになった。スターマインはふた昔までは、裏打ちと呼ばれ広告仕掛け花火の添え物で打たれていたものだという。それが昭和34年、土浦全国花火大会競技大会が初めて速射・連射の部門を設けたのがスターマインが表舞台に登場した契機らしい。
    今年は10月6日に行われ、80万人を超す人出でにぎわった。スピード感、リズム感、豪華絢爛、変幻自在・・。色彩とドンという花火音そしてテーマ音楽の融合・炸裂の連鎖にしばし酔い堪能した。翌日の新聞によると、山梨の煙火業者が優勝だった。
    ○この花火大会は筑波山のほうから流れてきて霞ヶ浦に流れ込む桜川の畔で行われる。昔は川幅も狭く、戦前は水害に悩まされて、川幅を広げてからでも3-40年は経つだろう。まだ川幅も狭く、霞ヶ浦にもワカサギ漁の雄大な帆をかけた舟(帆引き舟)が何百艘も見られた。筑波山を背にした帆引き舟の光景は私の日常風景であり、桜川は泳いだり、フナを釣る遊び場だった。
    華やかな花火を眺めながら、過ぎ去った少年時代の桜川を思い返していると、なぜか当時、川辺にいた何艘もの水上生活者・船上生活者たちの姿、光景が陽炎のように浮かんできた。彼らの存在はずいぶん長い間私の脳裏から消えていたのだが、漂泊・放浪の芸能者そしてジプシー(ロマ)について考えるようになってから、様々な折に触れて、船上生活者の姿がよみがえってくることが多くなった。漂泊と人生についてこだわり続けてきたからか。この花火見物の夜も同様だった。
    彼らの中には長期間河岸に滞留するものもおり、こどもたちは土浦の小学校に通学していたものもいたくらいだ。彼らがどのように生計を立てていたのか、今では知る由もないが、船上に干されていた洗濯物、懸命に働く母親たちの姿は忘れられない。水上生活者・船上生活者を描いた映画などは多くはないが、何といっても小栗康平監督の「泥の河」(原作・宮本輝)が有名だろう。河辺に住む少年と水上生活の少年の交流、水上船の中で春を鬻ぐ母親(加賀まりこ)など、いろいろなシーンが浮かぶ。また、つげ義春の「義男の青春」にものっていた記憶がある。(雑誌が見つからず未確認だが)
    とにかく皆当時は貧しかったのだ。そのなかでも水上生活者・船上生活者を見つめる周囲の目は冷たかったように思う。流れ者、さすらいもの、油断のならないものとして蔑視の対象だったのはこども心にも伝わってきた。しかしながらいつの間にか彼らの姿も消えていき、ワカサギ漁の帆引き舟も消えていった。折りしも日本列島は高度成長への道を邁進し始める直前だった。

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    ■2007.9.15  ちょっといい話・・・ギター門付けとある作曲家
    ○先日、ある集まりがあり、久しぶりに先輩S氏に会った時のことである。以前、彼から聞き、それ以来、長年、気になっていたあるエピソードのことを再度確認した。その後S氏がご母堂に改めて確認して知らせてくれた内容は以下のようなものだった。
    昭和32年(1957年)の春。S氏が育った山形県藤島町(一昨年鶴岡市に併合)は人家の少ない田畑しかないところだったが、ある日、小さな女の子を連れた30代の男の門付け芸人が訪れてきた。彼らは門に立ち、ギターを巧みに弾いて歌ったという。何の曲だったかは憶えていないが、ギターも歌もそれまで聴いたことがないほど抜群の出来だった。彼はギターと歌の修行をしているようでオーラを感じるほどだったという。S氏の家も貧乏していたので多くは上げることは出来なかったので、ご母堂が取敢えず温かいおにぎりを与えると美味しいといって食べた。その後、その子にとS氏のお下がりのオーバーを勧めたが、それは辞退したという。
    その後、数年してからテレビを観ているある日、ご母堂が歌番組(NHKだと思われる)で作曲家の遠藤氏を見つけて、あの門付けに来た人だと言ったという。S氏の家は戦後農地解放で田畑を失って苦労したが、米作地帯なので、母方や父方の実家から米をもらって食べることが出来たとのこと。庄内では禅僧の寒修行の托鉢、羽黒山山伏の勧進、門付け芸人に対して鷹揚なところがあったように思うとS氏はいう。
    以上がS氏が再確認してくれた内容である。この話は芸能の本質を考える上で示唆に富んでいる。東北地方は、秋田万歳、会津万歳をはじめ多くの門付け芸能が盛んだった。江戸時代に東北地方をくまなく旅した菅江真澄の著作にも門付け芸人に遭遇した記述は多い。高橋竹山が津軽三味線修行時代には津軽などを門付けしていたことは有名である。
    芸能の原点・根本はお金に換える芸能であり、中世以来、日本列島に跋扈してきた幾多の門付け芸能者が現在のもろもろの芸能の先駆者であることは間違いない。生きるための生業としてのうたや踊りなどの芸能が人々の心に響くことはジプシーの芸能を考えるまでもなく、日本の唄の世界でも全く同様である。
    私は歌謡曲の中の演歌というものを、演歌だから特に好んで聞くということはない。美空ひばりやちあきなおみは歌手・表現者として稀代の存在だと思うが、うたにはジャンルに関係なく<いいうた>と<つまらないうた>があるだけだと思っている。S氏の話を聞いて、私が以前から気になっていたことが分かったような気がした。
    遠藤実の作品「星影のワルツ」や「北国の春」などのメロディラインには、通俗性を突きつめた普遍性を獲得しているような気がしていたが、その理由の一端が遠藤実の門付けにあったのだ。これらの曲には庶民の基層の感情を掬い取る力があり、そこが凡百の演歌を超えている。(「北国の春」は中国でも愛唱歌になっている。)過酷ながらも時には人情の機微に触れてきた門付け芸能者としての体験がそうした力を作曲家・遠藤実に付与したことは間違いない。

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