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    世界で最も名を馳せたフラメンコ・ギタリストの一人、マニタス・デ・プラタが、11月5日フランス、モンペリエの老人ホームで亡くなった。93歳だった。1億枚に及ぶレコード・CDセールスを誇り、その超絶技巧とステージ上でのカリスマ的な存在感からチャールズ・チャップリンやブリジット・バルドーら著名人の間でも信奉者が多かった。甥のリカオ・ビシエール氏がAP通信社に訃報を伝えたが、死因は明らかにされていない。
     デ・プラタ氏は、本名をリカルド・バリアルドといい、南フランスとスペインの伝統をひくロマ(ジプシー)の名高い音楽一家に生まれた。長らく同胞の聴衆の前だけで演奏していたが、世の中の脚光を浴びるようになると<銀の手>を意味するマニタス・デ・プラタの芸名を名乗るようになった。
    1960年代初頭には、フランス映画界のスター女優バルドーや作家ジャン・コクトー、画家パブロ・ピカソらが絶賛し、<リヴィエラ(南仏)発の大旋風>と呼ばれた。ピカソはマタドール(闘牛士)と闘牛の姿をデ・プラタのギターに描き、こう宣言したことがあった。 「あの男は私よりも偉大だ。」
    1967年には、デ・プラタ氏はシュールレアリズム画家のサルバドール・ダリとともにステージに立ち、ダリがデ・プラタ氏の音楽に合わせて絵を描くというパフォーマンスをおこなった。同じ頃、スクリーン*でデ・プラタと共演を果たしたバルドーはたいそう喜んだ。バルドーはコメントの中で述べている。「マニタスはいつも生きる喜びを湛え、私の青春時代の頃のような気楽な生き方だった。」
     デ・プラタ氏はまだ駆け出しの頃、なかなかレコードを出そうとしなかった。騙されることを恐れていたのだ。通算80枚以上になるアルバムの最初のリリースは1963年のことだった。早弾きのスタイルはたちまち注目の的となり、複雑なフラメンコの曲を時に伝統的な型にはまらない独特のオリジナル奏法で演奏した。最初のアメリカでのコンサートは1965年のニューヨーク、カーネギーホールでのことだった。
     「音は厚く、感情移入は激しく、テクニックは並外れていて、多彩なフラメンコの奏法を熟知していることは誰も目にも明らかだった。」と音楽評論家ロバート・シェルトンはニューヨークタイムズに寄せている。
    ピカソが感じていたようにデ・プラタ氏にはマタドールを思わせるものがあった。引き締まった体、ハンサムで彫りの深い顔立ち、長い髪といういでたちで、右足を椅子に乗せ、一言も発することなく、愛用のスペイン製のラミレス・ギターを奏で始める。手を除けば、体は一切揺れることはなかった。
    早いアルペジオの合間にギターのボディーをドラムのように打ち鳴らす。右手をさっと宙に上げたかと思うと、左手だけで完璧にメロディーを弾いていた。またある時には、ギターを置いて踊り始め、ヒールをタップし、手を打ち鳴らして優美な正確さでフラメンコのリズムを刻んだ。演奏が終わるとギターを前に持って、沸き起こる拍手をギターに捧げようとしているかのようだった。
     リカルド・バリアルド(本名)は1921年4月7日、フランス南部の町セットの移動生活を送るジプシーの家に生まれた。子供の頃、おじに勧められてギターを始め、9歳の頃には天才と呼ばれた。
    デ・プラタ氏は1975年、ワシントンポスト紙に語っている。「先生は自分自身だった。」読み書きを習うことはなく、何年もフランスとスペインのロマの集まりの時だけ人前で演奏していた。子供の頃はフランスのジプシー・ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトをよく聴いていた。デ・プラタ氏はラインハルトが好んだジャズの曲を弾くことは滅多になかったが、時折フラメンコのリズムで即興演奏して、保守的な音楽愛好家を困惑させた。
    本来ソロのアーティストだが、ときどき家族のメンバーとも一緒に演奏した。息子や甥っ子たちがジプシー・キングスを結成し、1980年代からフラメンコ・クロスオーバー・バンドとして活躍したことはよく知られている。息子のうちの一人、トニーノ・バリアルドは現在グループのリード・ギターを務めている。
     1970年代、名声が頂点に達したころ、デ・プラタ氏は1年間に150以上のコンサートをおこなっていた。マセラティ、ランボルギーニ、ロールス・ロイス、メルセデス・ベンツを所有し、熱狂した著名人にはマーロン・ブランド、エリザベス・テイラー、ジョン・スタインベックらがいた。一時は80人もの大家族メンバーを支えていたというが、2011年のインタビューでは、「私はいつもその日暮らしだった。」と語っている。甥がAP通信に語ったところでは、デ・プラタ氏は「ルーレット、高級車、美女に大金を使い、最期はほとんど痛みを感じることがなかった」という。デ・プラタ氏は80歳を過ぎても演奏を続け、人生においてもっとも大事な二つのことは何かと言えば音楽と女だ、と言っている。そして、少なくとも20人の子供の父親だったとされている。1975年のワシントンポスト紙のインタビューでのこと。結婚はしているかと尋ねられ、デ・プラタ氏は答えている。「ああ、毎晩ね。」子供は、と訊かれると、「もちろんさ。フランス、スペイン、そこらじゅうにいるよ。」
    (市橋雄二/2014.11.24)
    *) 1968年に制作された映画"Special Bardot"(邦題「今宵バルドーとともに」)を指すものと思われる。バルドーが出演したテレビ番組を劇場用に再編集した作品で、デ・プラタ氏のほかにセルジュ・ゲンスブールらが出演している。
  • 刺激的で、万華鏡のようなEthio-jazz

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    今までいろいろな音楽に接してきたが、エチオピアのミュージシャン、ムラトゥ・アスタトゥケ(Mulatu Astatke)の音楽には不意をつかれるような驚きと感動があった。普段、何気なく聞いているFMから流れていた或るメロディにざわざわしたものを感じて、番組表を調べて、Yekermo sew(賢者)という曲名だと分かった。この曲は素晴らしい。早速CD" ethiopiques~ethio jazz&musique instrumentale 1969-1974"を取り寄せた。
    懐かしく、猥雑で、エキゾチックで、チンドン屋風で、ちょっと色あせた万華鏡を覗いた風で、しかも音楽的な濃度満点な極上の世界だった。とにかく最近のしゃれた音世界からは隔絶した唯我独尊のエチオピアジャズとしか言いようのない音世界だった。
    多分この方面の詳しいファンからは、遅いよと言われそうだが、良いものは良いのだから仕方がない。ムラトゥ・アスタトゥケ(Mulatu Astatke)の履歴をみれば、ロンドンやアメリカでの音楽体験、なかでもジャズやラテンからの影響は深く、それらの体験とエチオピアへ戻ってからのエチオピアの音楽との融合がキーワードなのだろう。17歳からロンドンに暮らし、その後バークリーでの体験をへて、1970年代にアディスに戻り、彼の音楽が確立されたのだろう。
    ムラトゥ・アスタトゥケの音楽を映画に取り入れたのは、ジム・ジャームッシュ。2005年にカンヌ映画祭のグランプリを受賞した「ブロークン・フラワーズ」のなかでYekermo sewなど3曲を効果的に使っている。
    過去につきあって別れた女たちを訪ねて、身に覚えのない息子を捜すというロードムービーだが、ビル・マーレイが絶妙の脱力男ぶりを演じて相当面白い映画だった。この映画は見たのだが、そのときはビルが借りているレンタカーの中で流れていたというメロディを覚えていない。今となってはジャームッシュの感性に脱帽である。
    さて、今年のフジロックフェスティバル13にムラトゥ・アスタトゥケは初来日をしている。このことも帰国後に知った。
    聞いたCDの表紙にはデューク・エリントンと微笑み合ムラトゥ・アスタトゥケが写っているが、どこか共通するものを持っているような気がする。
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  • ちあきなおみとビリー・ホリデイ

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    以前から、歌手ちあきなみはうたの表現力において唯一、美空ひばりに比肩しうる歌手だと確信していたが、最近10枚組のCD全集を集中してきいてみて、あらためて、彼女の凄さを再確認した。1992年、夫との死別後、卒然と姿を消して17年。久しぶりに「紅い花」「紅とんぼ」などをきき、20年前の今や伝説のステージになっている「LADY DAY」を見たときの驚きに似た感動を思い出す。

    「LADY DAY」は不世出のジャズ・シンガー、ビリー・ホリデイの壮絶な生涯を演じた1人芝居ミュージカルで、1989年赤坂の小さな小屋で行われた。100人前後のキャパのミニシアターだったこともあり、ナマで見た人は少ない(はずである)。顔を黒く塗りビリー・ホリデイに扮したちあきなおみのうたと演技は、ややもすれば陥りがちな汗をかいての熱演型ではなく、栄光と恥辱にまみれた壮絶な人生をおくった歌姫の人物像を鮮やかに立ち上げたものだった。そこにはうたの上手さとか演技力を超えて伝わってくる何かがあった。それは芸能者としての花としかいえないものだった。

    ビリー・ホリデイは生涯を通して人種差別と麻薬・アルコール依存症に苦しんだ。それ故にビリー・ホリデイのうたには深い情感が漂い、聞くものの感情のひだにまでしみわたるものがあった。リンチされ木にぶら下がる黒人の死体の情景をうたった「奇妙な果実」をはじめ、魂に迫ってくる唱法が後世に与えた影響力は大きい。

    当時のちあきなおみは42才。44才で逝ったビリー・ホリデイに近い年齢だった。4才でタップダンスを踊り、5才からアメリカ軍キャンプでうたっていたというただならない経歴は芸能者のものとして誇るべきものだし、ちあきなおみがビリー・ホリディに特別な関心を抱いていたのは間違いあるまい。

     CD10枚を聞いて、最も印象に残ったうたは引退直前に入れた「紅い花」であった。(詞: 松原史明、曲: 杉本眞人)このうたの歌唱は絶唱というにふさわしい。うまいのは当然で、そういうレベルとは違う位相で、芸能とは何か、うたうとはどういうことかという原理的な問題について考察したくなるほどの歌唱である。時折、大衆芝居のすえた通俗的な匂いをうかがわせながら、人間の感情の振幅、人生の真実の瞬間をきっちり謳いあげる力量には感嘆する。「紅い花」とならび絶唱とされる「紅とんぼ」の作曲者,船村徹は「おたまじゃくしの裏側をうたえる人」と表現する。

     現在の歌謡界の貧困を思うとき、ちあきなおみの大きさがしみじみと伝わってくるのである。

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    歌手、山崎ハコのこと

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    ■2008.3.14  歌手、山崎ハコのこと
    ○何となく気になる存在の歌手に山崎ハコがいる。特に彼女の歌を集中的に聞いたことはなかったが、1970年代の半ばにデビューしたころには、はかなげで、弱弱しい風情と情感あふれる声質が印象的な歌手だった。中島みゆきなどがメジャーになっていく時代にひっそりと歌をうたう彼女のような存在も貴重だと思っていた。その後も五木寛之のラジオ番組などに出演してるのを偶然聞いたりして、ああ、それなりにやっているんだなと思っていた。よく言われるように暗い唄うたいの代表みたいにいわれたようだが、それはそれで個性だからいいのではないかと彼女を支持したい気持ちもどこかにあった。
    今年の2月に「大竹まことのゴールデンラジオ」(文化放送)を聞いていたら、山崎ハコがゲスト出演していた。大竹との対談もなかなか良かったが、そこで流れた新作シングル「BEETLE」はおっと思わせるものだった。彼女をまとめて聞いてみたくなり、3枚ほどベストものを取り寄せ、このところ聞いている。「望郷」「白い花」などハコ節とでもいうべき数々のうたから1970年代以降の日本の姿が浮かんでくる。それは晴れがましい世界ではなく、ごく狭い、些細な日常における人間の感情の表出だ。なによりも歌わずにはいられないという切迫感が鮮明だ。過剰な装飾もなく、派手な演出もない。見方によれば、不細工、不器用なほど生硬でいて、どこか清浄なものが聞こえてくる独自な世界をもっている。こうした一貫した姿勢で30年歌ってきた山崎ハコがとても貴重な存在に思えてきた。そういえば、浅川マキはどうしているだろう。気になってきた。

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