(写真、地図をクリックすると拡大)
地図説明と途中経路説明。ミャンマー国境沿いに怒(ヌー)江がチベット(地図:左上隅)から流れてくる。怒江は道路沿いに南に流れている。中国少数民族の中でも最少人口の数千人の独龍(トールン)族の開拓村(1993年の撮影地)は再訪した丙中洛区内にあるが、かなり高地の奥地にある。(詳細参照)貢山は独龍族怒族自治県の中心地。丙中洛は貢山から50kmくらいに位置している。ここが道路での行き止りである。15年前は昆明から大理まで17時間近く掛かったが、今回は高速道路ができたので4時間半だった。大理から六庫までは道路トラブルもあり6時間。(15年前は10時間)怒江下流に面した街、六庫に泊る。翌日は福貢県の老母登(ラムトゥン)村をめざす。以前は高地にある老母登村への道路はなく数時間の登山を強いられたが、今回は道路が貫通しており午後2時過ぎには村に到着。ここの教会で賛美歌を聴くのが目的だった。
とにかく15年ぶりに訪れた雲南省西北辺境の地においても大きな変動が起きていた。依然、中央と地方の格差はあるのは事実だが、国土の広大さを考えると、この変貌振りはただものではなかった。中国が抱える諸問題の困難さはとてつもなく重く、そして地球上の諸民族の未来に深くかかわっていると実感した旅だった。
2007年12月末。15年ぶりに訪れた省都昆明を早々に立ち、高速道路ができており隔世の感。六庫から一般道路に入るとまもなく風景は変わる。山並みの斜面にへばりつくような棚田が目に入りだす。
急速に道路事情は改善しているが、奥地へ向かう重機材を満載した大型車が急増したため、改修中の道路の路肩をはずしたり、対向車との摩擦など事故が絶えない。1回遭遇すれば1時間は最低ストップすることを覚悟しなければならない。とにかく、ここは中国だ。なにが起こっても驚かないタフな神経が要求される。それにしても最深部の村々がこれらの重機をどんどん必要としているほど、「大開発」待機中なのだ。環境問題は根が深い。
ようやく怒江の下流部が見え出した。六庫の街に入る。
怒江沿いに北上を続ける。途中、昼食に寄った店は、殺風景な入り口からは想像できないほど洒落ていた。2階にある屋上テラスは滔々と流れる怒江を眼下に見下ろす絶景ポイントにあり、野趣に富んだ食事を堪能した。怒江の風にさらされて乾燥する上物の腸詰めができる。なんとも贅沢な気分におおわれる豊かな時間だ。
テラスでの食卓。手前は豆腐、きのこ、カリフラワー、白菜のスープ。奥の右から:レバーを干したもの。干す前に肝臓に空気を吹き込んでいるため、気泡でスポンジのような食感。豚肉、煮豚かゆで豚?きゅうり炒めとなすの炒め物。いずれも素材が新鮮で、みごとな味わいだった。中国人の食への深いこだわりに脱帽。
典型的な怒江風景。怒江沿いには平地は殆ど無く、V字型の岩肌の渓谷が延々と続くが、少しでもなだらかな斜面があれば人家と畑が出現する。少数民族の人々はこうした苛酷な自然で生きて来ざるを得なかった。怒江沿いには怒族、リス族、独龍族などが中心に居住している。
老母登村に入る。怒江を見下ろす2200mの高地にある村。対岸の山並みのすぐ向こうはミャンマー(ビルマ)。中国とミャンマーが長い国境線で接する隣国同士であることを実感する。地政学的にも中国とミャンマーの関係の深さが分かる。
再会した教会。周囲は一変しているが、教会の姿はほぼ同じだった。紺碧の空にくっきり浮かぶ童話の世界のようだ。
民族衣装こそ少なくなっているが、賛美歌が始まると、地から湧き上がってくるようなポリフォニーに鳥肌が立つ思い。怒族の人びとのうたい方はベルカント唱法などの洗練とは対極にある野太い、ざらざらした麻布のような肌ざわりの地声発声だ。以前、聞いたときの驚きをさらに上回る感動があるのは何故か。宗教的な敬虔さに打たれたのではない。なにかほんものに出会った感動としか言いようが無い。確かなことは、プロフェッショナルな名演奏からは得ることができない種類の”うた”であること、そして人間が本当に感情を表出したい欲求があるときに現れる始原的な表現だということか。この「うた」が聞けたことで、今回の旅の目的の大部分は達成されたという思いだった。
この「うた」は撮影・録音している。アップ済。オーディオレポートへ。 ビデオレポートへ。
15年の年月を感じる服装の変化。
怒族は雲南省西北部怒江流域の海抜2-3000mの高地に居住し、人口、約2万7千人のチベット系少数民族。自然崇拝が多いが19世紀からキリスト教の布教が始まり、現在も信者が多い。長くリス族と雑居してきたため、怒族のほとんどはリス語を話す。
1993年訪問時の老母登村の人口は198戸946人、70%が怒族、キリスト教信仰者は700人余だったが、今回の取材では人口は218戸1100人と微増し、キリスト教徒は700人余で変わらずということだった。
今日は日曜日。なんとものんびりした空気が漂う。時間が止まったままのようだ。
今回の怒江への旅では流域に教会の姿が目立った。15年前よりは明らかに増えている。この問題は少数民族が受けついできた民族固有の文化・習俗習慣には深刻な影響がある。キリスト教を受け入れることは、従来の伝統文化との決別を意味しており、彼らがそうした選択をしたことは、宣教師などの献身的努力などとは別の絶対的貧困や苛酷な自然条件・生活環境等の問題が起因していたと思われる。宗教・信条の自由などとは異次元の内面上の安らぎを求める心情にキリスト教は反応したのだろう。怒族の古来の民族文化はキリスト教を信じるこの村では表面的・日常的には消滅したかに思えるが、教会での賛美歌のポリフォニーから滲み出していたのは西洋キリスト教の香りではなく、怒族の古層の民族性が噴出していたのは確かだった。宗教といえども民族の保持してきた心のひだを掘り返すことはできないのではないか。
水の色がこれほど美しい時期はそうないだろう。雨季などは茶色に濁るはず。写真では確認できないが、牛や人がアリよりも小さく見えた。
丙中洛の街並みを見下ろす小高い流域の平地に碑文とテント張りがある。そのなかで怒族のこども連れの女性が機織のデモをしていた。この地を観光地にすべくPRの意味があるのだろう。彼女は機織をしながら陽気にうたを歌っていた。名前は阿干多(アカタ)という。41歳というが、とてもそうは見えない。
怒族の民族衣装の典型的な模様。通りかかったナシ族のドライバーが二鼓の伴奏で、彼女と怒族の情歌を歌った。即興でのやり取りが楽しい歌垣対歌だった。これらも録画・録音した。アップ済。オーディオレポートへ。 ビデオレポートへ。
丙中洛の大パノラマ。これだけのなだらかな広い斜面は貴重だ。南から怒江沿いに延々と続いた1000キロ余の道路はここで行き止まりになるが、現在チベットと四川省へと連なる道路を建設中というから、将来はここ丙中洛がチベットへの1ルートになるかもしれない。
丙中洛で昼食。食堂のテーブルを野外に移動して野趣あふれる食事。冬でも日向は太陽がきついほど強烈だ。画面の左奥では広場の一角が自動車教習所になっていた。
昔はとうもろこし畑が多かったが、今は菜の花畑などが目につく。
貢山の裏通りの坂道を歩いていたら庭や屋根になにやら干している家。唐大堤さん独特の感が働いたらしく、訪ねて行き、主と話したら漢方薬の医者ということが分かった。
焚き火にあたりながら話を伺う。14歳から漢方薬の先生に弟子入りして修業をした。現在53歳。薬草の採集には1週間にわたり山中に入る。特に効能があるのはリューマチ、胆のうの病などであるという。かなり遠方から何日もかけてくる患者もいるらしい。話を聞いていても、漢方薬の効能を大げさに自慢することもなく、説得力がある内容だった。ガンなどは初期であれば効能があるという。奥さんは独龍族だという。独龍族の村に行くには貢山から200キロ深く入り、途中3700mの山越えをして行かねばならない。村への道路が通行可能な時期は、10-11月の2ヶ月間だけだという。12月から6月は積雪などで困難、夏は雨季で道が悪く無理とのことだ。貴重な話が聞けた。15年前に我々はこの村に入るべく雪解け後を狙い5月に来たが、まだ雪深く入れなかった。そこで一部の独龍族の人びとが厳しい自然にある故郷を離れて開拓した小査拉村に入ったのであった。
貢山の町は朝は霧が深い。濃霧のときは昼ころから必ず晴天になった。
貢山独龍族怒族自治県人民政府の建物。15年前は人民政府が運営する招待所に泊まった。今は立派なホテルができている。
中国が必死になって世界中の油を買いあさっているという日本での報道で、中国のエネルギー事情は推測していたが、こちらの辺境地域でも実際に日常的に起きているとは驚きだった。怒江流域の多くのガソリンスタンドには油の到着を待つ車列が延々と並んでいた。何時ガソリンが到着するのか適確な情報も無いまま待ち続ける大型トラックの長い車列。日本で同様な事態が起きれば、大ニュースとなり、今にも列島崩壊か?というような悲観的・扇情的報道が溢れることだろう。
我々は時間に追われる日程だったので、運転手さんのネットワークを駆使して、友人などから市価の2・5倍の値段で何とか数リットルづつこまめに集めて、給油する非常手段をとった。空きペットボトルの底を切り取り、即製ジョウロでの給油中。こうした緊急事態に対処する中国人に接していると彼らのサバイバル本能の偉大さに我ら日本人は真実、感動・感服してしまう。人の窮地をみて発揮される厚い人情味は中国ではこれまでもたびたび体験してきた。これは時の権力から見放され、歴史の奔流にもて遊ばれてきた中国人が長い歴史の中から肉体化するほど学んできた生きる力だろう。私は中国では何でもありうるということ、そして起こったことは受け入れて、そのことをあえて楽しむということを肝に銘じている。
昆明から西へ400キロの大理は怒江行きの往復に2度立ち寄っていたが、いずれも先を急ぐため昼食だけで寄っただけだった。昔の面影は一変していた・・。大観光地として脚光を浴びる。これからどうなるか。白(ペー)族の多く居住している村も多い。
麗江。大理からほぼ北に200キロ、雲貴高原の海抜2400mの高地にある。納西(ナシ)族が多く居住する古都。ここは大理よりもさらに大観光地化している。世界遺産でもある。玉龍雪山は麗江のシンボル。 張芸謀(チャン・イーモウ)監督、高倉健主演『単騎、千里を走る。』は麗江が舞台になった。
くつろぎの時間。納西族のおばあちゃん。納西族は四川、チベットにも分布。人口約27万。チベット系で、東巴(トンパ)教を信仰し、象形文字の東巴文字で多くの詩歌、宗教経典などを記録してきた。東巴経は民族学の資料としても価値が高い。
東巴文字。小学校の壁に書かれていた。東巴(トンパ)とは納西族が信仰する民間宗教のシャーマンを指す。東巴教には東巴文字で書かれた東巴経があり、創世神話が含まれている。チベット仏教や道教など外来宗教の影響を受けて成立したが、とくにチベット仏教の影響は顕著で、求めに応じて病気や災いを取り除くための儀式がある。前にこの儀式を撮影取材している。(詳細参照)
観光用に踊る納西族民族衣装の女性たち。紺を基調に、上着の上に紺かえんじ色のベストをつけ、プリーツのある青いエプロンをつける。背あてからのびた白いひもを胸の前で交差させる。輪舞が特徴。納西族民族文化の象徴のような麗江の観光地化、俗化を嘆く声も聞こえるが、観光地化で生きることは時代の趨勢だろう。問題は、観光地として、どれだけしぶとく己の文化の内実を生き生きと活性化できるか、行政から保護されるかび臭い文化財とならないかであろう。バリ島や沖縄諸島のようにしたたかに文明の波を飲み込み消化しつつ独特の文化をさらに魅力あるものにできるかが問われる。時代とともに芸能や文化は変貌していくものだから。
○西双版納(シーサンパンナ)篇
麗江から昆明に戻り、西双版納(シーサンパンナ)に車で移動することになった。これまで2500キロ位は移動してきたが、さらに800キロの移動である。南方的な響きのするシーサンパンナはシュロの木やハイビスカス、バナナ園などの熱帯植物が生い茂る東南アジアの世界である。15年前何回か取材拠点として訪ねたが、いずれも昆明から空路での移動だった。当時は道路事情は劣悪で、バスで1泊2日か2泊3日の山越え連続のハードな旅を強いられるほど遠方の地だった。景洪(チンホン)が中心の町だが、東南アジア文化圏独特の温暖でどこかなつかしい雰囲気にあふれた別天地だった。ここにいると北京などは遠い世界で、東南アジアにいる感覚だった。チベットから南下した瀾滄江(メコン川)が悠々と流れ、ミャンマー、ラオスと国境を接するこの地は少数民族の宝庫であり、タイ族をはじめ、ハニ族、プーラン族、ラフ族、ジノー族などの民族が住み分けている。
中国全土が果物ブーム。お兄さんの手にしているのは長いタバコ筒(煙管)。
チベット高原に源流を発し、中国雲南省を通り、ミャンマー・ラオス国境線、タイ・ラオス国境線、カンボジアを通じて、ベトナムに抜ける大河。典型的な国際河川の一つ。中国では瀾滄江、東南アジアではメコン川という。
15年前長い取材に疲労した日中スタッフの英気を養うためシーサンパンナ熱帯植物園内のバンガローホテルに数回宿泊した。今回も訪れたが前のままの姿にほっとした。熱帯植物が豊富に保護されている別天地であった。猿が遊んでいる。
■番外篇:雲南の料理アラカルト
昆明を8時に出発し、大理着は12時半。名所、?海の脇の店で昼食。魚、高菜、香菜の鍋料理。花山椒、唐辛子の辛味と高菜の塩気とうまみが効いている。
同じ店。炊き込みご飯。豚肉とネギが入り、ほんのり塩味がついていて、なんとも香ばしい味が印象的。手製の銅鍋が味わい深い。欲しくなった。
六庫のホテル。朝食は粥や麺などのヴァイキング形式。雲南名物の米からできた麺。3種類の麺から自分で好みのものを選ぶ。食べる分量だけどんぶりに入れて調理人へ渡すと、鍋でゆでてくれる。ひき肉が入った辛いたれ、醤油、黒酢で味つけ、香菜をのせる。雲南地方では広く愛されている米の麺は病み付きになる魅力がある。米の麺はベトナムなどのフォーにも通じる麺の食文化なのだろう。
同ホテル。デザートのテーブル。カステラや、小さなパン、饅頭が並ぶ。いずれも甘さ控えめで素朴な食感。
怒江沿いの店の野外テラスで昼食。手製ソーセージや豚肉が干してあった。
同じテラスの食卓。手前は豆腐、きのこ、カリフラワー、白菜のスープ。
豚のレバーを干したもの。干す前に肝臓に空気を吹き込んでいるため、気泡でスポンジのような食感。好き嫌いがはっきり分かれるかも。ワインとともに味わいたいという意見もあった。
丙中洛。 野外での食卓。各種香辛料を使った川魚の揚げ煮、紫のサトイモのスープ、そらまめの炒め物、金時豆の炒め煮、菜の花、空芯菜、インゲン豆、豚の干し肉炒め、牛肉の干し肉炒め。
12/31。 大晦日の年越し鍋。0時と同時に戸外で花火と爆竹が華々しく鳴り響いた。食卓はバドワイザー、赤ワイン、火鍋(とりの白湯スープ、薬膳)には鶏肉が骨のままぶつ切りで入っている。鶏冠がついた頭やトリの足も。ゴマ油をベースに、辛味噌、黒酢、香菜、ネギ等を各自好みでブレンドしてたれを作る。
帰路に再び大理。 昼食。奥の白い菓子は広場で買った蒸饅頭(米の粉を蒸した饅頭に黒砂糖がはさんである)。手前は鶏の骨付き肉の炒めもの。甘辛くて美味しい。
麗江での昼食。鶏肉のスープ、銅鍋の下に炭が入っていて、テーブル上でぐつぐつ煮込む。
ビール。とにかくビールは種類が多い。日本のビールに比較すると軽い感じ。
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