浪曲師 国本武春のライブ

■2007.7.08  浪花節について考える=浪曲師、国本武春のライブ「どかーん!武春劇場~日本浪曲史と気さくな黒船~With The Last Frontier」をみて=
○現在は漫才系のお笑いタレントがテレビを席巻しているが、明治・大正そして昭和の初期までは浪花節・浪曲が大衆芸能の王者だった。桃中軒雲右衛門、広沢虎造をはじめとする幾多のスーパースターが輩出したのである。浪花節は日本芸能史を考えても重要な位置にいる。江戸時代・明治時代まで綿々と続いてきた大衆芸能の講談、落語、歌舞伎、義太夫、長唄など様々な要素が交じり合って浪花節が誕生したのだが、その初期の形はでろれん祭文、あほだら(阿呆陀羅)経、浮かれ節、ちょんがれなど大道・門付けの芸能であった。一種の差別・蔑視の中にいた浪花節が大道の門付け芸からよしづ張り小屋を経て、舞台(板)に上り、ついには劇場公演で数千人の観客を集めるまでに至る過程は近代日本の大衆芸能史でもある。
国本武春のライブは、そうした日本浪曲史を5日連続でたどる日替わりメニューを第1部に、国春がテネシーに留学していた時代に結成された三味線ブルーグラスバンド(ザ・ラスト・フロンティアー)のライブが第2部という構成である。
初日は浪曲の誕生篇で、でろれん祭文のほら貝から幕があがる演出。国春がでろれん祭文を演じる(語る)が観客のほとんどはでろれん祭文がどのようなものか理解できなかったろうが、苦労して再現していた。細かく言えば、右手に持っていた錫杖の形状が違っていたりしたが、やる勇気を買うべきだろう。それからあほだら(阿呆陀羅)経などを経て、浮かれ節を語るが、これはなかなかのものであった。浮かれ節独特の揺れる廻しや軽妙洒脱さがよかった。ここまでが第1部。
第2部は雰囲気が一変して、ブルーグラスのライブ。国春の三味線にバンジョー、マンドリン、ギター、ベースの5人編成で、次々と歌いまくり、演奏しまくる構成が心地よい。通訳を入れないのも正解で、曲の余韻を盛り上げ、舞台の流れを滑らかにしていた。三味線と洋楽器のアンサンブルが絶妙で、アメリカ公演でも受けているのが納得できる。
現在、浪曲という芸能が一般的には滅びかかっていると思われているが、国春の舞台は伝統芸能のあり方に多くの示唆を含む点で注目すべきものだ。芸能というものを大きくとらえれば、<ひとの前で何かをやって喜ばせ、何がしかのお金をいただく>ということに尽きる。その時代の人々の気分、傾向、思いなどにじっと耳を澄ませ、そこに合うものを提供することが何よりも時代とともに生きていく芸能者ということだろう。その精神があれば、なにをしても芸<浪曲>の本質を保ちつつ、21世紀の浪曲・浪花節は残るのだ。国本武春を応援したい。
○小沢昭一さんと浪花節の源流を探索したころ=
国本武春のライブを見ながら、かつて小沢昭一さんと1970年代から80年代にかけて、ともに夢中になって日本国中から韓国・インドにまで大道芸・門付け芸を追い求めていた風景が走馬灯のようによぎっていた。当時すでにこうした芸能は日本列島から絶滅していく瀬戸際にあり、小沢さんとの旅は万歳・浪花節・人形つかい・ちょんがれ・女相撲などなど実に多彩だった大道・門付けの諸芸能の臨終に立会う旅となり、墓標をたてる旅になったのである。
浪曲・浪花節は万歳とともに小沢さんが特にこだわった芸能であり、その源流への探索行は執拗を極めたものだった。
でろれん祭文は山形に行き、計見八重山さんと計見楽翁さんからほら貝を使った祭文を聞き、独特の錫杖の形をはじめて確認できた。あほだら(阿呆陀羅)経も市川福治さんが大阪の芸人長屋で、不自由な身体ながらも精一杯演じてくれた。浮かれ節は当時の浪曲界の重鎮、梅中軒鶯童師が昔を思い出しながら、角座の楽屋で再現してくれた。94歳だった広沢虎吉老(西南戦役時の誕生!)から浪花節創成期の生き証人として、宝物のような話をたっぷり聞けた。浪花節の源流をたどり、四国徳島にでかけ、訪ねた目当ての老人がうなぎ採りに出かけていると聞いて、田んぼの畔の小川にまで押しかけ、分けがわからぬままの古老に源流のひとつとされる<ほめら>を唸ってもらったこともあった。当時、大学を卒業して間もない私にはなにもかもが驚き、新鮮で目眩く(めくるめく)日々だった。

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