「カラマーゾフの兄弟」の復活





■2008.3.25  「カラマーゾフの兄弟」の復活
○この世の中に身をおいていると虚偽、虚飾にあふれたことにふれたり、見たりしなければならないこともある。普通はそうしたものをやり過ごしたり、かわしたりしながら過ごしていくものである。しかしそうしているうちに身に付着した垢やおりの匂いが急に気になりやりきれない気持ちになる。
突然、なにかホンモノに触れてみたくなり、直接、利害に関係のない大きい世界に身を置きたくなる。つまりバイアスの掛かった気持ち、不均衡な気分をリセットしたくなるのである。
ドフトエフスキーを高校以来まったく久しぶりに読んだ。「地下室の手記」「貧しき人々」などには、強く心を揺さぶられたが、かれの底知れぬデモーニッシュな闇におそれを感じ、ツルゲーネフなど別の作家に移っていった。それ以来ドフトエフスキーはもう読むことはあるまいと思っていた。
評判の「カラマーゾフの兄弟」の新訳(文庫5巻)である。やはり亀山郁夫の訳がみごとである。亀山があとがきで述べているように「いま、息をしているリズム」の日本語がみごとにドフトエフスキーの広大で深遠な世界をつむぎだしていく。楽な呼吸のままに文章がすっと体に入っていき、流れていくかのごとき文体である。
19世紀の帝政ロシア時代のカラマーゾフ一族を描きながらも、抽出されるテーマは父殺しを軸にしながら、神の存在、信仰と教会、家族、男女の愛と嫉妬、友情などなどあらゆる根源的テーマを包含しつつ、壮大な物語が怒涛のように展開していく。
登場人物たちのなんと魅力的なことか。主役から脇役にいたるまで、血肉あふれんばかりの人間そのものだ。人物の造型・彫琢は大胆にして細密。
それぞれの性格は多様性に満ち溢れ、一面的な解釈をあざ笑うかのように、つぎつぎと読者の先入観・固定観念を打ち砕いていく。全体の構成から人物の造型すべてにポリフォニー(多声)性が貫徹して、複眼で微細を確かめつつ、俯瞰で全体を見透す目配りが行き届き人間存在の不可思議を徹底的に掘り下げつくす。
一人一人が自在に吐き出すことばが多様性に富み、それぞれが反応しあい、響きあい、全体のポリフォニ-(多声)性を形成していく大交響曲そのものだ。
思想・思弁小説にして、宗教小説、恋愛小説でもあり大ミステリ-小説でもある。固唾をのみながら読み進めるなかで味わう混沌とした気分はいつしか浄化されたものに変貌している。
進路を失って、迷走をはじめた21世紀現代社会の混迷を待っていたかのように、「カラマーゾフの兄弟」は復活した。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください

CAPTCHA