■2008.6.05 貧困への切り込みとしての神話:ポルトガルの異才ペドロ・コスタの最新作「コロッサル・ユース」
○平日の夕刻の映画館には10名ほどの観客。あまり予備知識もなく、単にポルトガルの映画監督作品というだけで入った。カンヌ映画祭で退場者続出だったという話を後で知り、なかば納得したくらい果敢な挑戦に満ち、刺激的な映画だ。
しかし、少なくとも私にとっては画期的な作風をもった映画作家ペドロ・コスタの登場である。(前作「ヴァンダの部屋」も話題を呼んだらしいが、未見)ポルトガル、リスボン郊外のスラム街が取り壊され、こぎれいな団地に移住させられる話が、筋といえば存在する程度である。ドキュメンタリーとかなんとかいう議論はほとんど意味がないほど、映画そのものだ。
この映画の功績は主人公にヴェントゥーラという現地の素人を発見したことに尽きる。それくらい「隠者にして破格のオウトロー」(ペドロ・コスタ)で荘厳な雰囲気をまとった初老の男が主人公だ。ヴェントゥーラは北アフリカからの移民で身よりもなく長い間リスボンなどでつらい日々を刻んできたというようなことがなんとなく分かってくる。映画は、立ち退きの苦労と妻からの離別という現実に打ちひしがれながら、数人の”子供たち”を訪ねるシーンがつらなる構成。寡黙な女もいれば、麻薬治療中のヴァンダのように出産時の痛みを延々と話し続けるものもいる。乞食を生業にする息子が戻る等々。
ヴェントゥーラとの実際の関係が決して明らかにされない数人の”子供たち”の話を聞きながら、古い家と新しい住まいを行き来し、家から小屋へ、部屋から部屋へと渡り歩く。
饒舌に話す”子供たち”の話は現代の祭文語りのように響き、それをただ聞くだけのヴェントゥーラの徹底した寡黙が何かを象徴しているかのようであり、身のこなしひとつひとつが何故か優雅であり、ゆったりした彼の動作が心地よい。
人間の関係もよく分からないままに、ヴェントゥーラの世界に引き込まれていく。
離れていった妻へ思いが、繰り返される詩の朗詠は21世紀の神話語りを聞いているかのような余韻がただよう。グルベンキアン美術館でルーベンスなどの名画に囲まれ豪華な椅子に座るヴェントゥーラのシーンのはっとするような美しさ。
「知性にあふれ優しく荒々しい」スラム街の住人たちを見つめ続けるペドロ・コスタの視野がゆるぎなく透明で、目線は低い。これらは少人数の撮影スタッフでスラム街にアプローチしていく手法とマッチして新鮮な映像表現を可能にしたといえよう。 4人という最小スタッフによる小型DVビデオ撮影の成果が効果を上げている。アップ気味のローアングルに徹し、徹底的な長廻しを基本に、カメラは静止し続けズームはない。ラスト近く外界風景に一度だけパン移動という法則性が貫かれる。照明は美術館以外のシーンはほとんど自然光だけで撮影したらしいが、光と影で感情の機微までを表現しようとする強い意志を感じる。
2年間にわたりスラム街に通いカメラへの違和感をなくし、ヴェントゥーラたち住民と接触を深く重ねた信頼感がしのばれ、つらい神話的叙事詩のような現実世界に情感が沁みだしてくる異色の傑作である。
詩の内容:
「お前に10万本の煙草を贈りたかったのに、両手で数えきれない流行りの服、車もひとつ、お前がずっと憧れていた溶岩のかわいい家に、はした金で買う花束も、でも、なによりもまず、うまいワインを1本空けて、僕のことを想ってくれ。素敵な言葉を身につけるよ、僕ら二人のためだけの、僕らにぴったりの言葉を、まるでやわらかい絹のパジャマのように。」
題名は「途方もない若さ」はヤング・マーブル・ジャイアンツの同名アルバムから連想されている。ポルトガル原題は「Juventude em marcha」。英語題「Colossal Youth」 映画のHP