■2008.12.01 映画「シリアの花嫁」:ローカルであればこその普遍性
○1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領し、シリアとその領有を巡り係争中のゴラン高原。そうした分断状況に生きるイスラム教ドゥルーズ派一家の娘の結婚とその家族の再会の1日を描いた映画「シリアの花嫁」は苛酷な現実世界を描きながら人生への希望をにじませる佳作である。
結婚式の日は花嫁モナにとり最高に幸福な日になるはずだが、彼女も姉のアマルも悲しげだ。一度”境界線”(現在の軍事境界線)を越えて花婿のいるシリアに行くと、2度と家族のもとへ帰れないからだ。この地域の住人たちは望めばイスラエルの国籍を取得できるのだが、ほとんどの住民はシリア人としての帰属意識が強く、イスラエルがシリアを国家として承認いないために結果的に「無国籍者」になる。モナの父親は熱烈なシリア・ナショナリストである。
父とロシアから帰国した弁護士の長兄との溝、アマルと夫との間のトラブルなどが家族の間に次々と起こるなかで進行する結婚式の準備。挿入される民族色多彩な歌が効果的だが、惜しむらくは歌詞がない。多分アラビア語、ヘブライ語などの古謡の意味が分かる人が翻訳者にいなかったのだろう。
国家・民族間の解きがたい難問と家族が抱える諸問題がダイレクトにつながる様相のなか、花嫁は無事境界線を越えられるか、というスリルを含みつつラストに向かって進んでいくが、重いテーマをかかえながらも、話の展開は軽快なテンポで、時にはユーモラスである。
登場人物に真の悪人がいないのが、救いである。国家・組織をバックにする役人・軍人なども人間くささを見せ、どこか憎めないところを俳優たちが上手く表現している。シナリオの人物像の彫りが深い故だろう。 ラストは未解決な問題が横たわるなか、境界上を歩いてシリアへ進むモナを見守る姉アマルの顔のアップで終わる。それは映画の冒頭のアマルのアップ表情に回帰するようである。笑みを浮かべたかのような表情が意味するものは決意だろうか、可能性だろうか。謎めいた余韻である。
俳優たちがすばらしい。特にアマル役のヒアム・アッバスは激情を内面にためこむ張り詰めた表情が秀逸で、画面全体に緊張感を生んでいる。
中東地域の複雑な歴史・民族・宗教的背景を抱えた人物群像に対して中東以外の人々が普遍的な共感を寄せることは容易ではないが、アラブ世界やドゥルーズ派に深い知識を有しながら、なおかつ現代的で複眼的な視点を併せ持つこの映画の視点には中東問題解決への希望を感じさせるものがある。
監督はイスラエル人のエラン・リクルスで2004年モントリオール世界映画祭グランプリ作品。2009年2月21日より岩波ホールでロードショー。