ポーランドの映画監督の巨匠アンジェイ・ワイダの「カチンの森」を見たのは昨年秋ころの試写だった。ワイダの「灰とダイヤモンド」(1958)に衝撃を受けた世代として、ワイダを黒澤明、ベルイマン、フェリーニらと並ぶ巨人として評価してきたものには「カチンの森」は映画的興奮に富んだものではなく、見るのがつらい映画だった。むしろ、史実としてカチンの虐殺の真相を知りたいという気持ちのほうが勝ってしまい、映画としての判断をしにくい内容だった。
第2次世界大戦中の1940年、数万人のポーランド将校ら2万人余の捕虜がソ連軍によって銃殺され埋められるという悲劇は長年、歴史の表面から埋もれてきたが、ゴルバチョフ時代になって、1990年にソ連が公式に認めた事件である。
ワイダ監督も父親がその犠牲者だったことを近年になって知り,映画化を目指したという。
映画「カチンの森」は抑制のきいた演出でありながら、この歴史的虐殺事件を検証するように展開するが、全体として陰鬱なトーンが支配し、見ていてつらくなる。ワイダ監督がこの映画を撮ろうとする使命感が感じられ、映画的な興奮や感動に浸るのではなく、ひたすら悲劇的な結末に向かっていくのを見届けるつらい作業を体験することになる。
「灰とダイヤモンド」に見られた、時代の波と苦闘する主人公のテロリスト、マーチェクをはじめとする登場人物の生生しい存在感が「カチンの森」からは消えている。何故か。将来に不安を抱えていたであろう、30歳そこそこのワイダのまなざしと80歳を越え、巨匠として功なり名を遂げたワイダのまなざしは確実に変貌した。このことはワイダの責任ではなく、芸術家の必然である。映画的(芸術)成熟は必ずしも映画的(芸術)感動とは連動しないパラドックスが存在するのである。
今回起きたポーランド大統領専用機墜落事件を聞いたとき、もしかしてワイダ監督が同乗してるのかと懸念した。以前の新聞で慰霊式に招待されているという記事を読んだ記憶があったからだ。しかし、ロシア主催での慰霊式がプーチン首相、ポーランド、トゥスク首相出席で4月7日に行われており、今回、カチンスキー大統領はポーランド主催の犠牲者追悼式が10日に行われる予定だったようだ。ワイダ監督は多分7日に出席しているのか。「カチンの森」はまたしてもポーランド国民に苛酷な記憶を刻みつけた。カチンの犠牲者の霊魂は歴史的事実の忘却を許さないというメッセージか。