賭博場併設の「日本大相撲」を世界遺産に!

奈良、平安以来、相撲は宮廷,貴族社会に抱えられる存在だった。「相撲の節」として毎年7月,天皇が宮中で相撲を観覧する行事が行われていたのである。
11世紀に藤原明衡によりあらわされた「新猿楽記」は当時の風俗・芸能に関する貴重な職能の種類を示している。呪師(のろんじ)・田楽・傀儡子(くぐつ)、博打・武者・田堵・巫女・鍛冶・鋳物師・学生・相撲人(すまいびと)・工匠・馬借・車借・薬師(くすし)・陰陽師・管弦・和歌・炭焼・遊女(あそび)・能書(のうじょ)・験者(げんざ)・細工・受領郎党(ずりょうろうどう)・学僧・絵師・仏師・商人(あきうど)・楽人などの職能があげられている。相撲人は古来より連綿と続いてきた由緒ある職能民である。
昨今の相撲界の賭博「汚染」報道を見ていると、この日本列島の相変わらずの一点集中報道、異常なまでのキレイ、清潔、清廉指向の一環であると思わざるを得ない。
相撲というものは古代以来、天皇家に連なる貴族社会などの庇護のもとにその体制に奉仕する「芸能」であり、基本的な構造は天皇家で亀甲、双六などによる占いなどを司った博徒や巫女などと同じである。京都の朝廷の官庁にも双六打、博徒打、巫女を統括する役所があったようだ。上皇の妃がお産をするときは、祈祷師(験者)のうしろに悪い「物の気」をつける巫女がおり、双六の盤で「博を打つ」、つまり、さいころをふることで神の意志がつたえられるのである。
このように天皇家、貴族社会と一体化してきた相撲世界と博打・賭博世界は歴史的な土壌を一にするものであり、それらの因習と習俗を含めた全体が良し悪しを越えて存在してきたのである。相撲の魅力はそうした全体がかもし出す微妙なものなのである。一般社会からうかがい知れない暗いものがチラッと垣間見える社会なのである。
相撲から暗いもの、不合理なもの、いかがわしいものを一掃して、清潔無比なものにしたら、そのときから相撲のもつほとんどの魅力はなくなるだろう。相撲取りの象徴であるちょんまげは清濁併せ持つ習俗・習慣の象徴である。
中途半端な改革などはなんの意味もない。日本相撲協会はここで乾坤一滴、自らの内に宿る閉鎖性・封建制を逆手に取った反撃に出たらどうか。幼いときから相撲界という閉鎖された世界で常識を身につけてきた彼らに自己改革力・自浄能力など望むのは無理である。
ここで公認賭博場併設の日本大相撲として公認して、世界遺産に申請してはどうか。江戸村みたいなものを作り、住民は全員、ちょんまげ、着物を着て、観光業に徹する。江戸村の中心的柱として相撲社会を置く。当然、法律上は治外法権でなければならない。相撲のあと、関取は賭場を開いて、観光客に公開する。巨大な歴史的遺物として自己存在を主張してほしいものだ。
半ば本気で、なかばやけくそな提言だが、TVなどの洪水のようなピンボケ報道を見ていて、つい妄想がきわまった。