若干27歳、恐るべき俊才の登場である。ほとんどが3.11以前に書き溜めた修士論文「戦後成長のエネルギー――原子力ムラの歴史社会学」であるが、日本人の精神構造の古層にまで思いを巡らせてくれる衝撃の書である。
2011年3月11日の大震災と原発事故で日本の様相は一変し、その終息の兆しは見えない。現在、マスコミ、ジャーナリズムが流している情報にたいする懐疑も増大している。
本当のことは見えてこない。どうしてこのようなことが起こってしまったのかと皆こころの底で考えているが、答えは見えてこない。
その震災後の事態の成り行きを見るにつけ、原子力ムラの成立過程とそこに暮らしてきたムラの住民たちの意識の流れというものはほとんど見えてこないのが現状である。
この著を手にしてはじめて原子力ムラというものがいかに形成されてきたのか、そしてそこには住民の不変の「服従」する意思が存在してきたことを知らしめられるのである。
福島県二葉町、大熊町、富岡町、楢葉町などムラのフツーの住民たちへの聞き取りという地味なフィールドワークを重ねることによって、なぜ原子力ムラが出来上がってきたのかを住民の視線から照射して鮮明に導き出した労作である。
その根底には、日本社会の様相を分析するため従来から試みられてきた様々な手法にたいする著者の不信がある。ともすれば従来の学問的手法は革新/保守、抑圧/被抑圧、支配/被支配、加害/被害などの二項対立の思考の枠にはまり、予定調和的な結論へと進みがちであった。原発を対象としてなされてきた学術的研究やジャーナリズムも「抑圧」「変革」に帰結する構図に陥りがちだったのである。
それを打破するために著者が取った方法がフィールドワークや地域調査という「虫」の目でアプローチする手法だった。それは中央からムラを見下ろす視線ではなく、ムラの側から地方や中央を見上げる姿勢に徹するアプローチであった。
そうして日本の戦後成長における地方の服従の様相を明らかにすることから、原子力ムラの成立過程を分析したのである。そして著者が導き出した苦い結論。
地方の住民たちの「自動的かつ自発的な服従」が歴史的に形成される過程こそが、原子力ムラの成立の過程そのものだという分析にいたるのである。
原発の誘致運動以後、ムラは原子力に吸い寄せられるように、住民たちは農業から離れていった。そこには原子力への「信心」とでも言うべきものが形成されていたという。
原子力ムラからの視点なくしては実相は見えてこない。3.11後、補章として、書かれた中に、
「・・・・私たちは原子力を抱えるムラを『国土開発政策のもとで無理やり土地を取り上げられ危険なものを押し付けられて可哀相』と、あるいは『国の成長のため、地域の発展のために仕方ないんだ』と象徴化するだろう。しかし、実際にその地に行って感じたのは、そのような二項対立的な言説が捉えきれない、ある種の宗教的とも言っていいような『幸福』なあり様だった・・・」。
この言葉がリアリティをもつことが、恐ろしい。福島を故郷とする著者の血の通った論考を経ずして今後の原子力ムラ、原発への発言はありえないものになるであろう。(青土社刊)