映画「ムサン日記~白い犬」~<生き続けること>とは

脱北者を描いた映画である。朝鮮半島事情に特段の関心があるわけではないが、民族の分断という日本にいては実感することのない特殊な歴史を背負う隣国の社会とはいかなるものか、同時代に生きるものとして無関心ではいられない。
ビル群が取り壊されて更地となったソウル郊外の広大な再開発地区の寒々しい風景の中で黙々とビラを貼って歩く男。訓練を終えたばかりの脱北者スンチョルは先にソウルにきた脱北者仲間に面倒を見てもらいながら何とか慣れない土地での生活をスタートさせる。都会の群集の中でまるで空気のように存在感を消し去って生きる脱北者たちの暮らしが抑制のきいたせりふとともにドキュメンタリータッチで描かれる。
彼らの生活はつつましいが悲愴というほどではない。それよりもスンチョルの言いようのない孤独さが際立っている。その理由が中盤で明かされる。祖国での食糧難のため犯してしまったある業を背負ったスンチョルは、脱北者としての厳しい生活との二重苦の中にいるのだった。ある日白い子犬を拾って自分の部屋で飼い始める。心を通わせ、愛情を注ぐことのできる唯一の相手ができる。
映画は中盤、教会でのあこがれの女性との出会いや、アルバイト先の風俗カラオケ店で正義感をむき出しに激昂するシーンなどを通してスンチョルの人物像を描き出していく。このまま脱北者の生活を見せられて終わってしまうのかと思いきや、同室の男が闇送金のトラブルをめぐって命を狙われるところから物語は急展開する。そしてこれまであらゆる仕打ちをありのまま受けて入れてきたスンチョルがついにまっとうな暮らしを手に入れるのだが・・・。
長回しのラストシーンが圧巻である。<生き続ける>とはどういうことか。エンディング・クレジットのバックに音楽はなく無音の中でハングルのロールテロップが流れていく間、観るものはスンチョルの気持ちをなぞると同時に自分の置かれた状況を振り返り、心を揺さ振られる。
この映画は監督パク・ジョンボム氏の友人で若くして病死したある脱北者に捧げられている。その意味でとても個人的な動機で作られている映画である。それは主演、脚本、監督とエグゼクティブ・プロデューサーをパク氏が一人でおこなっていることからも伺える。そしてその極私性は特殊な歴史を背負う人々の中で突き詰められた結果普遍性にまで到達し得たのである。
(2012/6/17市橋雄二)
<映画『ムサン日記~白い犬』は2010年プサン国際映画祭ニューカレント賞(グランプリ)、2011年東京フィルメックス審査員特別賞、2011年ロッテルダム国際映画祭タイガーアワード(グランプリ)、2011年サンフランシスコ映画祭新人監督賞ほか多数受賞。東京ではシアター・イメージフォーラム(渋谷)にて上映中(6月22日まで)>
●ジェレム・ジェレム便りでおなじみの同人 市橋雄二氏の映画評である。今後、折にふれて登場願いたいと思います。(市川)