ロシア的魂:P.クロポトキン「ある革命家の思い出」

クロポトキンといえばプルードン、バクーニンという名前に並んで、無政府主義といわれるアナーキズムを学問的に構築しようとした革命家として名高い。しかし、この自伝的著書をみれば、彼は単なる革命家ではなく、地理学をはじめとして、様々な学問にも深く通じた学者・研究者であり、すぐれた文学者でもあったことがわかる。
本著は全6部からなる大著だが、読み終わっての感慨は、大河小説を読んだ後の読後感に似ている。クロポトキンの名前を知らない者でも、一旦読み出せばその内容の起伏に富んだ展開にひかれて、いつのまにか、19世紀後半のロシアやヨーロッパのビビッドな人間群像や社会の有り様に強く引き込まれるに違いない。
どの部分も面白さに満ちているが、第1部「幼年時代」が好きだ。みずみずしくも自然描写のディテールにまで思いを寄せる筆者の記憶力に驚き、誰しも胸に抱いている幼い頃の些細な日常や、父母、兄弟などとの会話への限りない郷愁に満ちた描写には胸が熱くなる。
1842年モスクワの名門クロポトキン公爵の息子として生まれながら、クロポトキンは家父長的権威の象徴としての父親をはじめ肉親たちの姿を澄んだ視線で活写しながら、家に仕える多数の使用人・召使たち(農奴)への視線も曇りない視線を注ぐ。
農奴制が解体する過程の激動するロシアの社会を貴族の内側から物語った点も興味深い。当時の貴族の家がヨーロッパから招いた家庭教師に子弟を教育させる風習など、ロシアとヨーロッパとの関係性をうかがわせる。また、夏の季節に、一族郎党そろって田舎で生活する様子などは眼前に彷彿する。まるでニキータ・ミハルコフの数々の映画を想起するような豊穣なイメージが浮かぶ。
そして特権階級のみが許されるペテルブルグ近習学校での寮生活や個性豊かな教師たちの姿などから当時のロシア貴族階級の有り様がうかがわれ、ロシア近代の懐のふかさを知る。その生活の中から、クロポトキン少年がロシア社会の根源的矛盾に目覚めていく過程も説得力がある。彼の読書内容も自然科学を中心として幅広く驚くべき高度なものだった。
その後、最初の赴任地をシベリアを希望し、仲間たちや教師を呆気に取らせるが、地理学者としての彼なりの壮大な夢に裏付けられたものだった。シベリア時代の数次にわたる横断旅行や学術調査のいかに先駆的業績に満ちていることか。もちろん、シベリアの持つ負のイメージである、シベリア抑留や強制収容所や農奴制への言及も鋭い。兄アレクサンドルは弟をかばったために、シベリアに10年以上も流刑されて、自殺(?)している。
以後の、サンクト・ペテルブルグ時代、初めてのヨ-ロッパ旅行、逮捕され要塞監獄での生活、脱獄、イギリス亡命。スイス、フランスでの活動のあと1917年祖国に帰りモスクワ郊外に定住して執筆活動後、1921年死去。
めまぐるしく各地を転々としながら、苦難の中でも理性的で、明快に明日を信じて生きた奇跡がまぶしい。国際共産主義運動のなかのアナーキズムへの評価など様々な問題を越えて、彼が著した本著はすぐれた自叙伝文学として屹立している。そしてロシア的魂の最良の形がここに示されている。