日本の芸能史をたどれば、歌舞伎・能・狂言・文楽をはじめとする古典芸能そして浪曲・万歳などから派生した民間芸能のほとんどは差別される側の人々によって生み出され、生きていくために、金に換える芸能として演じられてきた歴史である。
本著は、こうした芸能者に関わる部分のみならず、河原ノ者、非人の発生・歴史的変遷や賎視される人々の職業にまで視野を拡大して、現近代においても存在する差別構造の実体を資料を読み取りつつ、中世にまで遡及するのである。
日本中世史の偉大な先駆者は多いが、近年では網野善彦の業績が圧倒的に印象に残っている。「無縁・公界・楽―-日本中世の自由と平和」や「異形の王権」(いずれも平凡社)を読んだときの衝撃は今でも鮮やかに蘇る。
農業民以外の非定住民として中世の職人や芸能者などの漂泊民に焦点をあてて、それまでの農耕民中心の均質的な日本列島のあり方に安住してきた日本歴史界に深刻な反省を迫る問題提起を行った。学者の文章をかくも興奮を感じながら読み終えたことはなかった。学術的な論文といえども、うちに宿るパッションは一般読者に届くことを証明した。
服部英雄の「河原ノ者・非人・秀吉」も問題意識の設定や魅力的な各項目などに期待を持たせる内容が満載である。まず、タイトルが刺激的で、河原ノ者・非人という文字と秀吉の名前を結びつけたところがうまい。内容は歴史学の専門家を相手にした資料の読み込みを中心にしたものが多く、一般のものには若干煩雑で、読みにくいのは仕方ないか。
しかしながら、第1章の「犬追物を演出した河原ノ者たち―――犬の馬場の背景」は興味深く、刺激的な内容に満ちている。中世武士の武芸、鍛錬のための犬追い競技には河原ノ者が参加し、欠かすことができない重要な存在だったという。犬の捕獲、操作、扱いに熟練した河原ノ者の存在なくしては犬追物はありえなかった。詳細に歴史的資料を探り、丹念に読み解いていく過程は説得力をもちながら、当時の河原ノ者のエネルギーと実力を伺わせる。
その他、救ライ施設である非田院や非人宿の実体にも迫り、当時の凄惨な状況と不条理な世界の有り様明らかにしていく。
またサンカという山の民の資料にも迫り、特に三角寛によるサンカ像の捏造批判など興味深い。三角が経営していた池袋人生座で働く人を被写体としてロケ地で撮影したサンカの写真記録は当時ほとんどの人々が真実だと思い込んだという驚きの記述もある。サンカだったひとびとを池袋人生座に雇っていたようだが、「再現写真」だったのだ。
代2部の豊臣秀吉は少年期の賎の環境に注目して資料を読み込み、推論も交えて秀吉像を立ち上げている、当時の乞食村の存在や秀吉の義兄が鷹匠の飼育係りや鷹場保全係りに従事していたことを示す。鷹匠は賎視されないが、その周辺には賎の環境があったという。
少年時代の生活ぶりから、路上生活者としてしか生きられなかった環境から猿まね芸で大道芸人として生きたことなど、史料からきわめて興味深い推論を展開する。
服部英雄は歴史的j事象の判断においては、自分の立場を明白にする態度で一貫するのは分かりやすくて好感が持てる。たとえば、中世の遊女である白拍子への差別が存在したのかどうかという問題については、網野善彦は14世紀以前には白拍子への差別、賎視感はなかったと主張しているが、服部は網野の見解に疑問符をつけている。
今尚、日本の社会構造の深層に宿る賎視感、差別意識は、一見、商業マスコミ、ジャーナリズムの世界からは隠されたものとして、見えにくいものになっているが、このような歴史家により執拗に検討が加えられていることは、なんとなくほっとしたものを感じずにはいられない。(山川出版社)