遊動民(ノマド)には遊動的狩猟採集民と遊牧民に分けられ、2つは根本的に異なるという。柳田は「山人」(狩猟採集民的遊動民)を重視しつつも、遊牧民的、膨張主義的な遊牧性は否定した。
初期の段階で山人(やまびと)、漂泊民、被差別民などを論じていた柳田国男が後期には、これらを論じることよりも「常民」と呼ぶものを対象とするようになったことが批判的に語られるようになった。
柄谷行人はこうした見方を否定し、柳田国男が一貫した思想を抱き続けていたことを論証している。著者によれば、柳田が「遠野物語」を書いた頃は、歴史的に先住民が存在し、その末裔が今も山地にいるとと考えていたようだ。そしてその後も、山人が実在するという説を放棄したことはないという。
柳田が「山人」に関心を抱くようになったのは九州の椎葉村での衝撃が契機だった。そこで見たのは、平地とは異なる「土地に対する思想」、つまり共同所有の観念であり、生産における「協同自助」だった。それらは彼らが焼畑と狩猟に従事するということ、つまり遊動的生活からくるものであった。この体験以後、柳田は山人について書き始めたようだ。
柄谷行人は、柳田が椎葉村で見た人々は「山民」であって「山人」ではないといい、柳田自身も区別していたとし、彼は山人を先住異民族の末裔だと考えていたという。そして柳田は椎葉村に「異人種」である山人が先住し、そのあとに山民が来たとみている。
先住民は追われて山人になった。そのあとに移住してきた人々が山民である。彼らは農業技術を持っており、狩猟採集もした。柳田の考えでは彼らは武士=農民であった。彼らは平地に水田稲作とそれを統治する国家ができたあとに、それから逃れたものであり、平地世界と対抗すると同時に交易していた。東国や西国の武士も起源においては山民であった。その中で、武士が平地ないし中央に去ったあとに残ったのが、現在の山民である。
純粋に狩猟採集民であった山人は、このような山民とは異なるはずだが、実際に、山人を見出すことはできない。ただ、山民のあり方からそれを窺い知ることができるだけなのだ。
柳田が山人について書かなくなってからも、諦めていたのではなく、彼は「固有信仰」の研究にそれを求めていたという。
「固有信仰」は稲作農民の社会では痕跡しか残っていない。それはむしろそれ以前の焼畑狩猟民の段階、遊動民社会に存在したものだという。柳田のいう「固有信仰」の背景には、富と権力の不平等や葛藤がないような社会があったと柄谷行人は推定する。
遊動性については柄谷行人は歴史家網野善彦の仕事と対比しており興味深い。網野は中世における天皇支配権の基盤を非農業民に見た。南北朝時代に、後醍醐天皇は、非農業民や”悪党”と結託することによって、武家政権に対抗した、など。しかし山人、すなわち遊動的狩猟採集民と、職人・芸能人のような遊動民は類似性とともに決定的な違いもあるとする。それは権力との距離感などを意味するのか。
「定住・定着」と「遊動・漂泊」という2つの概念から無限の問題が導き出されるが、
「遊動論 柳田国男と山人」からは原理的で多様性に富んだ示唆の補助線が巡らされており、スリリングな体験だった。 (文春文庫)