どこかのホールか、会館の楽屋で永さんを見かけた小沢さんが「永さん、今、僕のレコードを作ってくれている市川さん、、」と紹介されたのが最初の出会いだった。今改めて思い起こすと、小沢さんが人を紹介するようなことは、めったにないことで、永さんも少しかしこまっていたような記憶がある。
当時の永六輔さんは30代の後半、放送界の寵児で、作詞家としても大ヒット連発で、まばゆいほどの存在だったが、そうしたところにいるのがどこか居心地悪く感じていたようだ。虚構の世界に生きることの虚しさ、手ごたえのなさを克服しようとしていたようだった。
この頃1年間東京を離れて、大阪か京都で下宿生活のように過ごしたという。関西芸能の世界に沈殿して、市井の人々、職人の世界にも目配りする日々を過ごしたのも、今後の己の進む道を模索したのだろう。こうして体に入れた大阪関西の芸能の匂い、市井の人々の感性を終生、大事にした人だった。そして日本全国に足を伸ばし、芸人、普通の人、ちょっと面白い人などを発掘しながら、ラジオを通じて紹介し続けたのだった。それは、永さんが心から尊敬していた歩く民俗学者、宮本常一の姿に重なってくるほどの列島行脚ぶりだった。
とにかく、東京を中央としての、上から目線を排して、つねに地方、辺境からの視線にこだわり続けた人だった。テレビ創世記の時代のメインストリームを驀進しながらも、テレビの欺瞞性を喝破して、ラジオの世界で己の魂の安息を得たのだった。
小沢さんとの旅の途中で、宿の食事後などに、何回聞いてもお腹の皮がよじれるほど笑わされる永さんの話がある。
ある晩、永さんが就寝中、疲れていたのか、大きなあくびをしたという。そしたら、あごが外れてしまった。面長な顔がさらに長くなった。こりゃー大変だというので起き上がり、医者に行くことにした。愛妻家の永さんは伸びきった顔を見せると、奥さんもびっくりすると思いやり、新聞紙にマジックで「あごがはずれた。医者へ行く」って書いて、それで顔を隠して、奥さんを起こした。さすが愛妻家。それで急いで近所のお医者さんを訪ねたが、それからが大変で、外れたあごをはめるのには、さらに強い力であごを引っ張り伸ばして、反動でえいっとはめるのだという。戻った顔を見たお医者さんは「ああ、永六輔さんだ」という話だが、これらを小沢さんは1時間かけて、丁寧に語り下すのだ。この話は小沢さんの裏ネタだが、旅先で天気待ちなどの時に、こちらからの注文に応じて、たまにやってくれるのだった。抱腹絶倒とはこのことで、宿の部屋の畳の上を腹を抱えて転げ回ったのだった。
この話は「随談 小沢昭一」(2005年)として新宿末広亭を満員札止めにした「奇跡の10日間」の第3夜で語られている。
永六輔さんも小沢さんと同じく83歳で逝かれた。合掌。