俳句を嗜み、茶道に親しむ、花見は年々盛んになる。一方、日本人はどうして洗浄トイレのようなものを作ってしまうのか・どうして異常なまでの清潔志向なのか・新幹線や電車などのダイヤはあれほど秒単位までに正確に運営してしまうのか、それほどまでの正確さは必要なのか、このようなキチキチした社会はストレスを生むのではないか、などなど日頃、日本の不思議なまでの特殊さーはどこから来るのか。日本に似ている国は地球上にあまりない。日本だけが特殊だと言うことに、多くの日本人は気がつかない。
これらの現象も突き詰めていけば、日本人のメンタリティーに起因するのだろう。これらの疑問を考えていくには日本人の精神がどのようにして形成されてきたかを、歴史的に丁寧に遡って考えるしか方法はないのはなんとなくわかっていたが、考えるだけ、気が遠くなる作業が待っている気がして、恐ろしくなって、思考停止してしまうのである。
著者、長谷川宏はアカデミズムを離れ、学習塾を開くかたわらヘーゲル研究家として高く評価され在野の哲学者として活躍してきた。
膨大な労力と知的集中力・持続力を要求される作業に構想20年、10数年の執筆期間を経て、完成したのが本著である。上下巻で千ページに及ぶ大著だ。
日本の美術・思想・文学を列島に生きた人々の心の軌跡〜歴史として丹念に辿り、平明な文体で描き切ったことは驚くべき業績だ。三内丸山の縄文遺跡から始まり、江戸時代末期の「東海道四谷怪談」に至る数千年に及ぶ長大な思索の旅である。
主な項目をあげると、上巻は土偶・銅鐸・古墳そして仏教の受容、「古事記」、「万葉集」、鑑真和上像、最澄と空海、「源氏物語」、運慶、法然と親鸞、などの本質をつかみ出し、下巻では「新古今和歌集」、「平家物語」、「一遍聖絵」、「徒然草」、能と狂言、茶の湯、宗達と光琳、伊藤仁斎と荻生徂徠、西鶴・芭蕉・近松、蕪村、浮世絵に及ぶ。
そして特筆すべきは、これらの著述が極めて平明簡潔な日本語で記されており、学者用語、学術用語などがあまり使われていないこと。そして原文そのままの引用ではなく、ほとんどが著者の訳した現代文で書き起こされていることである。そのため、読み人は引用原文を読みこなす苦労なしに、すんなりとこなれた平明な文体に置き換えられた原典の世界に入り込めるのである。これは、すべての原典の本質的な理解がなければ、不可能な作業であり、この著の最大功績である。
それぞれの項目について、著者は単なる分析だけではなく、己の心の奥底にどのように響いたかや著者の魂の揺らぎまで類推し、当時の著者や人物の心の襞まで掘り起こす作業をしている。そしてその記述は、冷たい分析的なものではなく、温もりに溢れている。
個人的に引き込まれたのは、万葉集、空海への言及、親鸞への愛着、「平家物語」の抒情、西鶴、近松の記述などであったが、これは読む人々のこれまでの背景が影響するので、人それぞれが己の個人史を辿る旅でもあるのだ。
「自分の相手としている精神の豊かさとは日本という一国や一地域の精神を超えた、普遍的な精神であるとの思いが育まれた」という著者のあとがきに記された思いが、全変にあふれているところが、この著を稀代の傑作足らしめるだろう。(講談社刊)