映画「パターソン」〜人生の一片に人間の真実を見るジャームッシュの世界

  • 世界の映画作家の中でも特異な位置にいるジャームッシュの新作だが、彼独特の映画文法はさらに練達の度を増し、ある種の孤高の境地に達したかに思える傑作だ。
    世界中に溢れかえる、あざといまでの手練手管を駆使しまくり、見るものの感性には無頓着な感動の押し売り満載の「大作」「問題作」「異色作」が氾濫する映画界の中では、内から湧き出る心性が掴み取る人生の一片こそが、人間の真実だという永遠のテーマを訴えつづけてきたジャームッシュの作品は映画の世界の絶滅危惧種と言いたいほど貴重だ。
    その表現は控えめで、含羞漂う静謐な空気感、そこはかと滲み出るユーモア、洗練され尽くした音楽の効能、練りこまれた会話などはジャームッシュ映画の本質を形成する要素だ。
    ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手のパターソン(アダム・ドライバー)と妻のローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)の1週間の日常生活を描いたもので、特に大きな事件が起きるわけでもない淡々とした日常で、犬との夜の散歩、行きつけのバーでの一杯を繰り返す程度。
    日常性の繰り返しとその日常の中から紡ぎ出すように浮かび上がってくる日常の匂いみたいなものが曰く言い難いムードを醸し出す。それに上書きするように詩人でもあるパターソンの自作詩の文字と朗読の声が全編に通奏低音のごとく流れる。
    この映画の無調にも思える画面にかすかなさざ波を立てるのはバーで会う離婚話に悩む男と街の道で出会うシーンの会話と偶然出会う日本人の詩人(永瀬正敏)との会話である。この2つのシーンには人のふれあいによる魂の発熱のような暖かいものが伝わりジャームッシュの志向するものが垣間見える。
    誰でも感じることだろうが、全編に小津安二郎的なものが流れている。静かなカメラの動き、画面の構図、そして普通の日常に対する異常なこだわりなどが基調音として流れている。
    不思議なことだが、この映画をみて、日本の詩人、杉谷昭人の詩集「宮崎の地名」を思い出した。彼の言葉「私たちは自分たちの足元を毎日ゆっくりと耕しつづけていく以外に、自分の世界を手にする方法はないのだ。世界を我が物にしえたのは、毎日を平凡に、しかし誠実に生きている無名の人びとだった。・・」
    ジャームッシュの世界には、人間の日常性の中から掬い取るものの中にのみ、物事の本質を掴み、現実を我が物にする手がかりがあるのだというメッセージが力強く流れている。