芸能者の栄光の極みを見た〜映画「私は、マリア・カラス」

  • リヒテル、オイストラフ、ビルギット・二ルソンなどなど世界的なアーチストの生のステージに接したときに強く脳裏に刻まれたのは、観衆の熱狂の渦の中、ステージ上で拍手を浴びながら優雅な返礼を繰り返す姿に、芸術家の栄光の瞬間がここにあるということだった。この瞬間を迎えるために芸術家・芸能者は生きているのだ。
     「私は、マリア・カラス」は様々な映像資料とカラスの書簡をモンタージュして53年間のマリア・カラスの生涯を浮き彫りにしている。彼女へのインタビューも多く、それらからカラスの多彩、率直、聡明な個性が浮かび上がり、それはそれで魅力的ですらある。数々の浮名やバッシングを受けるカラスを見ても、彼女の至芸をもたらす由縁としてみなされる。平々凡々からは天才は生まれないと。その意味では監督の努力の末の新事実もあるが、それらはあまり意味を持たないのがカラスの真実である。
     この映画の要諦はあくまでカラスのオペラ歌手としての圧倒的な実力と類い稀な存在感だろう。彼女の歌唱はただ単に苛酷なトレーニングを重ねた末のものではなく、修練という次元・位相を無化する高みにあると思う。理屈を超えた存在。資料映像の彼女の歌唱映像は音響的には不十分でも、いやそれだからなお、凄まじい訴求力がある。彼女の血潮・肉体・内面が噴出せざるを得なくなって、歌唱となって表現されるが、抑制すべきところは抑制しながら、溢れる激情へと転換する驚異的な振幅の大きさ・深さがカラスの魅力だろう。
     そして際立つ目鼻立ち、立ち姿の美しさが放つ存在感は類を見ない。彼女の最初の出演映画はギリシャ悲劇「王女メディア」だが、歌うシーンはなく、セリフもほとんどないメディア役に彼女、マリア・カラスを起用したのは鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニだ。カラスの並外れた存在感に着目したのは慧眼だろう。
     マリア・カラスというオペラ歌手としての比類なき実力とオーラ溢れる存在感を明らかにしたこのドキュメンタリはそうした意味で成功作である。
    歌われる歌曲はプッチーニ、ヴェルディ、ベッリーニ、ビゼー、マスカーニ、ジョルダーノなどの名曲が豊富だ。ラスト近くで指揮者の映像が2回くらい出るが、彼はジョルジュ・プレートルである。プッチーニの「トスカ」全曲録音もプレートルとのコンビなのだから、字幕を入れて欲しかった。そして最後の世界コンサートツァーの映像の彼女の側にいたのは、テナーのステファノであることも字幕が欲しかった。