遠くから聞こえてくるエイサーの音色とともに島の英雄であり、戦果アギャーと呼ばれるオンちゃん、グスク、レイそしてヤマコの物語は始まる。
沖縄・コザにはアメリカ軍の施設から食料・衣類・薬などを盗み出す「戦果アギャー」と呼ばれる者がいた。中でも「オンちゃん」(20歳)は、凄腕の戦果アギャーとして盗んできたものを貧しい人々に与え、英雄として慕われていた。1952年の夏に彼らの計画は嘉手納空軍基地への侵入だったが、帰り道にアメリカ兵に見つかり容赦ない銃弾を浴びる。そこでオンちゃんは行方不明になり、恋人ヤマコたちのオンちゃん探しが始まる。
沖縄の言葉で語られる文章はときには意味不明であったり、戸惑ったりするが、徐々に物語の中に招き入れられ、同化されていく。話は荒唐無稽のようでいながら、戦後の沖縄で実際に起きた事件・史実を中心軸に据えて進行する。戦後沖縄の歴史を大筋では理解しているつもりのものでも、当時の沖縄の若者が己の頭と肉体で現実に体当たりしながら、味わってきた体験の重さには言葉を失う。
著者は沖縄の人ではなく、内地の人である。著者、真藤順丈は沖縄を知れば知るほど、そのテーマの手強さにたじろいだに違いないが、あえて沖縄の言葉で書き上げるというとてつもない試みを覚悟した時点で、思いは達成されていたように思えてならない。全体を流れるとてつもない良質な通俗性は、沖縄の歴史が抱える悲劇性をあっけらかんとした青春群像劇に織り込みつつ、血も涙も滴る軽やかな現代史を書き上げるという至難の技を成功させたのである。著者は本著の中で言っている。
「・・・・狭い島のなかで島民たちはさまよい、惑い、離散しあって故郷を逐われた亡命者のように魂の放浪をつづけている。だからグスクやレイやヤマコをとりまく逸話が、この世代の最たる悲劇というわけでもない。もっと悪らつな魔物(マムジン)にとらわれた島民はいるし、嘘のような奇聞や秘話を抱えた年寄りもまだまだ存命だ。だけどこの島のたくさんのとても重要なものと同様に、彼らが彼らの英雄を亡くして、それでもその面影(ウムカジ)を追いつづけた顛末は、島自体の運命と深く結びついたウチナーの叙事詩と信じられている(だからこそこうして語ってきたんだ、すべての語り部、ユンターたちは時間を往き来して、風の集積となってー現在を生きる島民たちに、先立った祖霊たちにも向けて、語りから出来事を再現する試みを続けているのさ)。(本文354ページより)
全編をとうしてウチナーの人々が育んできた神話性と魂のうちに宿る歌謡性が流れているのがなんとも言えない魅力だ。