「郷土中国」〜費孝通(フェイ・シャオトン) / 西澤治彦訳

費孝通(フェイ・シャオトン)(1910-2005)は中国の代表的な社会学者であり、人類学者である。その多くの研究業績は中国社会科学の貴重な学術的財産である。家族・男女・血縁・地縁への分析から国家・社会の本質を考察し、中国社会の近代化への過程を追求した。

「郷土中国」は費孝通が中華民国37年(1948)に、上海の観察社から「観察叢書」の一冊として出版した「郷土中国」の全訳であり、久しく翻訳が待たれていたが、2019年になって西澤治彦氏によって実現した。1948年に中国で出版された「郷土中国」が70年余後に日本で出版されたということが、日本の中国研究の現実あるいは偏りを示してるかもしれない。

本書の内容は、もともと雲南大学などで行った「郷村社会学」の講義がベースになっており、費孝通は38歳であった。その後、ある文書がもとで右派分子として批判され、研究教育活動の停止を余儀なくされた。1966年には文化大革命の勃発により、闘争にかけられ、69年から72年まで湖北省で労働に従事し72年に北京に戻れた。74年には、日本初の東大教授で、女性初の日本学士院である中根千枝の訪問を受けている。文革終了後中国社会学の再建・発展に尽力した。「郷土中国」が再刊されたのは1985年になってからだった。

本書の大きな特質は、中国の様々な社会現象が、個人の資質・品性といったことがらではなく、中国社会の構造に根ざすものであることを説得力をもって説明している点にある。古典「論語」「礼記」から雲南などの少数民族地域へのフィールドワークの成果・エピソードに至るまで多彩で、幅広い事例が織り込まれ、広大で奥深い中国社会の構造を分析している。

また、人類学者として、費孝通は中国国内の少数民族と中国多民族などの問題の研究に没頭した。そこから有名な「中華民族の多元一体構造」理論を提出した。これは中国の民族政策に多大な影響を与えただけでなく、国際的にも関心と論争を引き起こした。

 

「郷土中国」の重要性は日本においても思想史、政治史、社会学、人類学などの分野で注目されてきた。中でも第4章の「差序的な構造配置」(差序格局)のモデルは中国人社会の成り立ちを説明する上でのキーワードとされてきた。本著は14編から成立する。

第1章「郷土社会の本質」 第2章「文字を農村へ」 第3章 再び「文字を農村へ」

第4章「差序的な構造配置」 第5章「個人間を繋ぐ道徳」 第6章「家族」

第7章「男女に別あり」 第8章「礼治秩序」 第9章 「訴訟のない社会」

第10章「無為政治」 第11章「長老政治」 第12章「血縁と地縁」 第13章  「名と実の分離」14章「欲望から需要へ」

 

「差序」は費孝通の造語で、中国語にも彼の意味したいものを表す単語がなかったという。自己を中心とする同心円構造の波紋が広がる喩えのように、自己からの遠近によって人間関係に差が生じ、その差がそのまま、即ち、近い方から順番に上位の序列になって行く。このようにして社会の人間関係が構成され、秩序も保たれる。日本の学者の中には「グラデーション」という言葉で説明する例もある。

「格局」は本書では「構造配置」と訳している。文脈によっては「様式」とも訳している。

結局、日本の学会では「秩序構造」「社会秩序の構造」「差異秩序の社会構造」「差序的構造」「差異と序列の構造」などいくつかの訳が試みられた。

 

人類学者や社会学者が知る費孝通と中華民国史や思想史の研究者が知る費孝通との間には微妙なズレがあるという。それは中華民国期と中華人民共和国との間の断絶に対応する。中華民国期の費孝通は憲政による民主的な国家の建設を模索するリベラルな知識人だった。そうした時期の「郷土中国」は最も知的な冒険をした一冊だった。改革開放後の、名誉回復された以降の費孝通の研究しか知らない読者には本書によって全く異なる姿を、目にすることになる。

そして本著の底流、追求の核心には、中国の農村を中心とする人々に、より良い生活を送って欲しいという費孝通の願いが込められている。

北京や上海などの大都会でも、雲南などの少数民族が多く居住する地域でも、大きく共通する郷土中国の感性・行動様式・民族の匂いのようなものが、いかにして形成されてきたのかを探る上で、まず手に取られなければならない名著である。

個人的な思いとしては、中国で仕事をしたりした際に肌で感じていた中国人の行動や中国社会に対する数々の疑問がこの著を読み進めて行く中で徐々に氷解して行くのを実感していた。雲南などの村々の日常生活に深く織り込まれている歌垣などに見られる人々の記憶の底には血縁・地縁・家族の諸相が分厚く堆積しており、そこからひだをめくるように手がかりを掴み取る作業に期待したい。(風響社)

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