名も無き旅人を人々の胸に刻んだ沢木耕太郎の新作「天路の旅人」

戦前、アジア諸民族の政治的独立と文化復興による大東亜秩序建設を国策とする日本は満州国内の内蒙古に興亜義塾という名の学校を設立し、大陸方面の国策遂行を担う人材の養成に乗り出した。そこで学んだ若者の中に、ラマ教(チベット仏教)の蒙古人巡礼僧になりすまし密偵として中国大陸の奥深くに潜入、戦争の終結後もチベット、インドへと旅を続けた男、ロブサン・サンボー(日本名西川一三)がいた。

ロブサンが歩いた中国青海省からチベットのラサに向かう道。それはまさに27年前、中国少数民族の音楽の映像取材班の一員として筆者が辿ったルートだった。それがあって本書を手に取ったのだが、読んでみて筆者が学生時代に訪れたインドのカルカッタからブッダガヤ、バラナシ、サールナート、ラクナウ、アグラ、さらにヒンドゥー教の聖地マトゥラーとブリンダーバンに至る土地をロブサンが旅していたことを知り、さらに身近な存在に感じられるようになった。ラマ僧になりすましてお経や御詠歌を覚えるうちに仏教そのものに興味を抱き、インドの仏教遺跡のある町を訪ねようとしたロブサンの心情はわかるが、ヒンドゥー教の聖地にまで足を伸ばしたのはなぜか。西川の原著を見ても詳しくは書かれていなかった。

本書はその西川の著書「秘境西域八年の潜行」(上・下・別巻/1967, 68, 78/扶養社刊)をもとに、沢木が著者や関係者への取材と調査を行い、西川の人と旅の全貌を再構成したノンフィクションである。移動ルート、登場する人物や時間経過など西川の旅のディテールを克明に追い、原著ではカットされた部分をその後に発見された原稿をもとに補いながら、旅の全体像が過剰な形容を排し短文を連ねる沢木のシャープな文体によってまとめ上げられている。その細部の積み重ねの一つ一つを読み進み、最後の一文に達した時、読者は壮大な旅を自らが終えたような達成感と恍惚感に包まれることになる。

あることを調べようと西川の原著に当たってみると、そこには西川の個人的な思いや世の中への批判などが生々しく綴られていた。沢木はそうした西川個人の感情を原則として削ぎ落とし(沢木が代弁する箇所もある)、旅そのものに焦点を当てることでノンフィクションのノンフィクションという入れ子構造の「旅文学」を成立させたのだ。西川は戦後5年が経って日本に帰国したあと、膨大な枚数の原稿をしたため本を出版すると、その後は表に出ることなく岩手で美容室用品の販売業に徹して生涯を終えた。一度は忘れ去られた西川一三の名は本書によって再び人々の胸に刻まれることだろう。その証拠に西川の原著を求めていくつかの図書館を当たったがどこも貸出中で、しかも何件もその先の貸出予約が入っていた。

最後に、本書中一つだけ引っかかった語があった。「ヒンドゥー語」という言い方である。現地の発音を尊重する現在の日本の外国語カナ表記においては、宗教はヒンドゥー教、言語はヒンディー語と使い分けるのが通例だ。一瞬誤植かとも思ったが7回も使われていること、そしてインド経験の豊富な沢木やそのスタッフが間違いを犯すということは考えにくいことから、これは意図的に沢木がその表記を選んだものと推測した。西川の原著に当たろうと思ったのはこのことを確かめるためだった。そうしてわかったことは、沢木は西川の原著を再構成する際に、多くの表記の改訂を行っていたことだ。たとえば、西川は基本的に中国のことを「シナ」と書いているが、これらは文脈が許す限り「中国」に改められている。地名についてもカーレンポンをカリンポン、ブダガヤをブッダガヤ、クシナガルをクシナガラ、ビンダバンをブリンダーバンなど現在の通称表記に変えられている。また、用語についても、中共軍を共産党軍といった具合に今の出版物として妥当な表現に改められている。

そして、沢木が「ヒンドゥー語」とした部分を西川は「ヒンズー語(インド語)」と表記していた。また、インドに向かう前に言葉を独習するくだりで、ヒンズー語とならんでウルドゥ語(回教語)を勉強したとも書いている。第二次大戦終結後のインドは印パ分離独立の動きが高まっていた。西川からすれば、分離独立前の英領インドはヒンドゥー教徒とイスラム教徒が共存していた国であり、ヒンズー教徒の使うヒンズー語とイスラム教徒が使うウルドゥ語があるという認識であったであろう。公用語としてのヒンディー語という言い方が国家統合の観点から意識的に使われるのはインド共和国がパキスタンと分離独立したあとであることを考えると、西川の時代にヒンドゥー教徒が使った言葉をヒンズー語、すなわちヒンドゥー語と呼ぶことはあながち間違いではないとも言えるのである。ネパール人が使う言葉は現地ではネパーリーだが日本ではネパーリー語とは言わずに話者に焦点を当ててネパール語と呼び習わすのと似た現象という解釈も可能というわけだ。

沢木がどのような考えをもって「ヒンドゥー語」と書いたかはわからない。しかし、少なくとも上記のような西川が旅した時代の歴史的事情や西川自身の表現を踏まえてのことであろう。「テロルの決算」「一瞬の夏」「深夜特急」など初期の作品以来しばらく遠ざかっていた沢木に再び巡り合わせてくれたロブサン・サンボーに感謝の気持ちを捧げたい。

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