《ジェレム・ジェレム便り22》~ アメリカに住むロマたちの今(2)

 六つのロマの部族がダラスに集まっておこなわれた祭礼時の騒動の様子が、1951年にすでにダラス・モーニング・ニュース紙に報じられている。グリーン一族に属する15歳の少年がエバンス一族のメンバーによって銃撃されたとする事件がもとでグループ間抗争に発展するのではないかとの記事だ。
東欧の共産主義国家の崩壊以来多発する民族ナショナリズムや人種問題にからむ暴力事件のせいで、多くのロマがアメリカに移り住んできたが、依然としてネイティブ・アメリカンと並んで差別の多い民族集団である。
「役所での手続きを見ればわかりますよ。不条理な書類上の人種差別です。」カリフォルニアに拠点を置く非営利団体<ヴォイス・オブ・ロマ>の代表であるサニ・リファティ氏は言う。この団体は、ロマの文化芸術や伝統を広く世界に広め、ロマとしてのアイデンティティと文化の保護と啓蒙に寄与すべく設立された。「自由民主主義者は寛容を説きますが、それは言葉の上のことに過ぎません。ヨーロッパでは人種差別が公然と語られています。」
ハンコック氏によれば、ロマと他のアメリカ人がお互いに交わらない原因は両方にあるという。ロマは生活のためにはガジェ(ロマでない人)と関わろうとするが、ロマでない人との接触がロマ社会の伝統的な価値観である<穢れ>にあたることを恐れて自身を社会の周辺に置こうとする。今もおこなわれている文化的伝統はほかにも、ヴラフの人々によってフォートワースやヒューストンで年に数回開かれている<クリス>と呼ばれるロマ社会独自の裁判システムがある。
リファティ氏は言う。「ロマがロマでない人々と距離を置こうとするのにはそれなりの理由があります。つまり、一種の自己防衛なのです。世界中のロマ以外の社会では、ロマに対して好意的ではありません。アーミッシュのように近代的価値観によらずに暮らす人々もいますが、これも他の集団から自己を守る手段の一形態でしょう。正統派ユダヤ教徒にも同じことが言えます。」
一方でハンコック氏は、自分たちの生活様式やアイデンティティが多数派の人々に受け入れられるようロマ系アメリカ人の側も努力することが重要だという。さもなければやがて民族性を失い、独自文化も長続きしないだろうと心配する。
 アメリカ国内に住むロマは<the hidden Americans/まぎれて暮らすアメリカ人>とも呼ばれる。他の民族集団と見分けのつきにくい存在であるためだ。黒髪に浅黒い肌はよくヒスパニックや南ヨーロッパ系あるいはアメリカ・インディアンと間違われる。
 周辺部に暮らすことを好む多くのロマ系アメリカ人の生活様式と民族差別が、「ハリウッド映画が描く<ジプシー>のステレオタイプにとらわれて実際のロマを理解しないことによって」(ハンコック氏)ますます助長される。同様の意見を持つヴォイス・オブ・ロマもキャラバン、精霊、王、女王といったおとぎ話的なイメージの払拭に努めている。
 コソヴォ出身のサニ・リファティ氏は1993年にアメリカに来て気付いたという。この国は個人の上に成り立っていてコミュニティの関与が薄い、と。「本当はアメリカ人はロマについて無知なだけなのです。」
 「アメリカでは誰でもジプシーの専門家になれますよ。」と氏は続ける。「私の代わりに発言することは自由ですが、最初は私にやらせてください。ダンスをする前に対話をしましょう。それがアメリカでもう一つやらなければならないことです。ジプシーの芸術が単にサーカスとしてではなく正しく認められるように闘っていきます。」
 ロマを避けようとする風潮は教育の世界にまで及んでいる。テキサスを含むアメリカ各地のロマの一部は子供たちが思春期に達すると学校から引き上げてしまう。アメリカ系ロマの若い世代の多くはロマ語ではなく英語を話す。テキサスやカリフォルニアなどの州ではスペイン語を話す者もいる。
 「偏見があるために、ロマは既存の教育制度になじまないのです。」とリファティ氏は言う。「アメリカのネイティブ・アメリカンの状況とよく似ています。」若年の、教育を受けていないロマ系アメリカ人は外側の世界との関係をもたず自殺率が高い。
「私はかつて教室にジプシーを受け入れることを嫌がったセルビアの支配層と闘わなければなりませんでした。」とリファティと振り返る。「私自身良い成績を取るために他のセルビア人の生徒より5倍も努力をする必要がありました。」
 ロマ出身の活動家、世界的なスポークスマン、そして学者としての顔を持つイアン・ハンコック氏は世界中の1500万人のロマを代表する国連とUNICEFの大使でもある。ロンドンの伝統的なロマの家庭に育ち、差別を受けたこともある。疎外感を味わったことも、同じコミュニティのおきてに苦しめられたこともあるが、当時のハロルド・ウィルソン首相による差別撤廃措置により、ロンドン大学の博士課程で勉強する機会を得ることができた。ハンコック氏は、テキサス大学オースティン校に初めてロマ研究講座を開設した。同校はのちにロマの歴史、言語、文化の研究におけるアメリカにおける拠点となった。ハンコック氏はさらに<ロマ・アーカイブおよび記録センター(RADOC)>を設立。今や世界のロマに関する資料の最大のコレクションを誇り、1万を超える書籍、論文、印刷物、写真、書類を所蔵する。
ヨーロッパのロマは学歴がないと思われているが、サニ・リファティ氏は教育上の優遇措置が認められていた旧ユーゴスラビア時代に育ち、化学の修士号を持つ。しかし、仕事を見つけることはやはり難しい。リファティ氏はアメリカに移ってきたとき、自分自身の文化についてまるで無知だった。しかし、ハンコック氏との出会いによって自分の文化を今まで以上に理解するようになっただけでなく愛着を感じるまでになった。ヴォイス・オブ・ロマは2011年を旧ユーゴスラビアからのロマ難民の保護のための基金を集めるためのフェスティバル開催の年と決めている。リファティ氏は言う。「フランス、ドイツ、イタリアの国外追放政策に反対するため意見表明も出したところです。われわれはロマの文化を保護する以外にも多くの活動に取り組んでいるのです。」(市橋雄二/2011.7.17)