《ジェレム・ジェレム便りNo.28》ナチスと戦った悲劇のボクサー、ヨハン・トロルマン

ボクシングについては意見が分かれることが少なくない。すなわち、それを力と技の発揮による一種のスポーツ芸術だとする見方と単なる残忍な見世物だとする見方である。どのような見方をするにせよ、ヨハン・トロルマンの人生は悲劇としか言いようがない。
トロルマンは1907年、北ドイツのハノーファーに生まれ、旧市街に住むスィンティ(広義のロマのうち中世後期から中欧に住む民族集団)の家の11人兄弟の一人として育てられた。8歳のときにリング上での才能を開花させ、ハノーファーのボクシングクラブに入って練習をするようになった10代のころには評判はますます上がっていった。スピード、軽快さと驚くべき破壊力が持ち味のトロルマンは、ロマの言葉で「木」を意味する<ルク>からとった<ルケリ>の名で知られるようになった。
アマチュア時代のルケリは無敵で、4度の地区大会と北ドイツ大会で優勝した。1928年、トロルマンはストックホルム・オリンピックのドイツ代表に選ばれるものと思われていたが、選考委員たちは「黄色人種でボクシングスタイルもドイツ式ではない」としてその参加を拒否した。これが人種差別に晒された最初の体験だったが、決してこれで終わりではなかった。
不屈の精神を持つトロルマンは2年後ベルリンでボクシング協会の承認を得てプロに転向する。するとその卓越した技でたちまち多くのファンを獲得した。その多くは女性だった。1932年には年間32試合を戦うものの、観客動員が増えるに従いファシスト政権寄りのメディアから「リングの上のジプシー」というレッテルを貼られるようになる。ユダヤ人がスポーツの世界から排除されるようになると、それまでユダヤ人ボクサーのエリック・ゼーリッヒが占めていたライトヘビー級チャンピオンの座が空席となった。悲しむべき状況ではあったが、こうしてトロルマンは1933年6月9日チャンピオンベルトを賭けてアドルフ・ヴィットと対戦した。
その試合は政治的に利用されていた。ヴィットは、「スィンティ出身の対戦相手を簡単に打ち負かすアーリア人」という役割を負っていたのだ。しかし、ルケリは簡単にはダウンしなかった。それどころか、ボクシング協会の会長の前でおこなわれた6ラウンドは、トロルマンが優勢だった。そのときだった。ヒトラーの党の一員が審判に判定を無効にするよう命じたのだ。ボクシングのことをわかっているファンによって埋め尽くされた観客席は大騒ぎとなり、協会は命令を退けトロルマンの勝利を宣言せざるを得なかった。
この劇的な勝利にトロルマンはリングの上で歓喜と悲しみの涙を流した。勝利を喜んだ一方でその年のはじめ重い病気で父親のウィリアムを亡くしていたのだ。
ヒトラーは熱心なボクシングファンだったことで知られている。支配人種が他のすべての人種、特にユダヤ人、ロマそしてスィンティの人々に優るという自らの理論を示そうとするときに、トロルマンの成功はこのドイツのリーダーを動揺させた。大方の予想通り、トロルマンの王座は長くは続かなかった。一週間後、ボクシング協会が「風変わりな動き」で「ボクシングらしくない」と主張したことが理由でチャンピオンベルトを剥奪されると告げられたのだ。
翌月、異彩を放つボクシングスタイルを変えるよう忠告され、ジプシーのように踊ることを禁じられたトロルマンは、髪をブロンドに染め、小麦粉で体を白く塗ってリングに上がった。そしてグスタフ・エダーの前に敗れた。それはトロルマンにとって最後のプロボクシングの試合となるだろうという覚悟で望んだナチ政権に対する勇気ある抵抗だった。
ナチ政権がさらに権勢をふるうようになるとスィンティの人々はユダヤ人と同じ扱いを受けるようになり、1938年には断種手術が強制収容所行きを免れる唯一の手段となった。命の危険を感じたトロルマンは断種手術を選び、スィンティの出身ではない妻と離婚することによって妻と娘を守った。
労働キャンプにいた1939年ドイツ国防軍に召集され、1942年人種を理由に除隊になるまで各国で従軍した。その年の夏、トロルマンは故郷のハノーファーで逮捕され、ハンブルクにあるノイエンガンメ強制収容所に送られた。
ここではすぐにナチ親衛隊のボクシングレフリーの目に留まり、一日の重労働のあとに兵士に対してトレーニングするよう命じられた。死んだことにして助けようという同志の企てが発覚すると、トロルマンは1943年ヴィッテンベルゲに移送された。ここでもボクサーとしての名声が災いをもたらすことになる。
今度は収容所の監督官エミル・コーネリアスと試合するよう命じられた。ナチスの下、長期間の残忍な扱いを受けていたにもかかわらずトロルマンが勝利した。ボクシング選手としてルケリの最後の舞台になるはずだったが、トロルマンは卑劣な復讐を企てたコーネリアスによって強制労働中に収監者たちの目の前で殺されてしまう。ヨハン<ルケリ>トロルマンは1944年3月9日、わずか36歳でこの世を去った。
弟のひとりヘンリーもその4ヶ月前にアウシュビッツで虐殺されている。悲しみに暮れた母親はその後1946年ハノーファーで亡くなった。やはり熱心なボクサーとなりヨハンから多くを学んだ弟のアルバート<ベニー>トロルマンは、ハノーファーで78歳まで生き、1991年病死した。
試合に勝ってから70年後、娘のリタとヨハンが大叔父にあたるマニュエル・トロルマンら遺族に対してチャンピオンベルトが贈られ、ライトヘビー級のドイツ人チャンピオンとして公式に記録されることになった。
2011年の夏、ハノーファーとベルリンにボクシングリングをモチーフにした仮設のモニュメントが建てられ、ノイエンガンメ収容所での収監者番号にちなんで<9841>と名付けられた。制作した芸術家二人によれば、リングを斜めに傾けたのは、偉大なボクサーが選手人生を通じて堂々と向き合った試合という戦いと晩年に被った差別そしてナチス時代の恐怖との戦いを表しているのだという。
(市橋雄二2012/2/12)