沖縄と中国少数民族の魂:佐藤優『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読んで

 ■2007.11.23  沖縄と中国少数民族の魂:佐藤優『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読んで
○佐藤優の『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)の文庫本が出たので読んだ。彼の作品で最初に読んだものは『獄中記』(岩波書店)だが、すべての面で第1級の記録文学だと思った。512日間の独房生活での読書と思索の日々の丹念な記録であるが、その記録性、客観性、分析力、説得力、論理のダイナミズムそして筆力の確かさなどに引き付けられて一気に読み終えた。なによりも読み物として面白かった。
佐藤優は一審判決で執行猶予中の起訴休職外務事務官でもあるが、今や論壇の寵児の感がある。私はこの3年間、佐藤のものすごい表現エネルギーがどこからくるのか謎であったが、今回『国家の罠』を読んで、初めて分かったことがあった。
それは彼が文庫本の長いあとがきのなかで「人間の生命は一つであるが、魂は複数ある」と記述した部分であった。鈴木宗男バッシングの嵐のなかでの逮捕、獄中生活、その後の様々な場面で、かつての盟友たちが態度を豹変し、検察側に迎合し、佐藤の犯罪を立証する側に協力をしていった苛酷な体験を経る。しかし佐藤はこうした人々に対してまったく腹が立たなかったこと、バッシング報道を垂れ流す新聞、雑誌の記者に対してもそうだったことを述べている。看守や友人たちから、なぜそれほど冷静でいられるのかを問われて、怒りは判断力を狂わせるからという計算があったことを認めながらも、それだけではない「何か」を求めて自省する中から「人間の生命は一つであるが、魂は複数ある」という自己認識にいたるのである。周辺の人々の変節も彼らの内部の別の魂が働いた結果と考えるのだ。
彼はそれを自己のなかにある沖縄性が密接に関係しているという。沖縄には独特の人間観があり、一人の人間には魂が複数あり、それぞれの魂が個性をもっており、それぞれの生命を持つ。一人の人間は複数の魂に従って、いくつもの人生を送れる。複数の魂によって多元性が保障されているのだ。沖縄のユタ(霊媒師:在野の女性のシャーマン)は、人間の魂は六つあるといい、自分の実感にも合致するという。彼の母親は沖縄の久米島出身で戦時中の苛烈な体験を持つようだ。佐藤優の体の中にはウチナーンチュ(沖縄人/琉球人)の血が流れているのだ。
 そして佐藤は自らを省みて、己の魂をナショナリストとしての魂、知識人としての魂、キリスト教徒としての魂があるという。インテリジェンス(特殊情報活動)という国益上の仕事に従事するときはナショナリストとしての魂が活動し、モスクワや東京で大学の教鞭をとり、哲学書や神学書に向かうときは知識人としての魂が機能し、人生の岐路に立ったときはその選択をキリスト教徒としての魂を基準に行う。
これらの魂の複数性を認識した瞬間から佐藤優は「猛烈に書きたい」意欲が生まれたという。表現エネルギーの噴出だった。
○彼の中の沖縄性を考えると、私にも納得できることが多い。かつてほぼ5年間にわたり中国の少数民族の民間芸能を取材した際、多くの少数民族の信仰は、生物、無機物を問わず、すべてのものに霊魂が存在するというアニミズム(精霊信仰)であり、シャーマンが村落共同体の中で一定の力を保持していたという事実を確認している。これら少数民族の霊魂、魂が複数存在するという精霊信仰は沖縄のユタの信仰、人間観と近縁性があり、強く繋がっていると思えてならない。沖縄、中国少数民族の世界には、それぞれの土地や人びとの真理に根ざした魂を認める寛容さ、多元性がうかがわれ、現代社会に見られる息苦しさ、閉塞感がないという共通性がある。
雲南地方の北西部のヌー江沿いに奥深くさかのぼると、2000mを越える山岳斜面にへばりつくようにヌー族の村が点在する。1993年私が訪ねた村は戸数200弱、人口1000人足らずの村だったが、80パーセントがキリスト教を信仰していた。高地の村にも19世紀末に宣教師が入った結果だ。丸太で作った素朴な教会でヌー族の人々が、独特の伝統の地声発声で歌う賛美歌は民族固有の民間芸能を求めて訪ねた我々には複雑な感動を呼ぶものだった。キリスト文明と民族始原の音感覚との奇妙だが、魅力ある融合があった。そして、驚くべきことにはこの村にはシャーマンも存在したのである。シャーマンは実際に病気治療の儀式も行っていた。キリスト教とシャーマンの共生という不思議な現象に、私ははじめ戸惑いを感じたが、両者が小さな村に存在し、互いを侵食しないゆるやかな関係が働いていたように思う。正に人間に複数の魂を許容するおおらかさが存在していたということだろう。
世の中はあるゆるものを、あらゆることを一つに統一しようとするグローバライゼーチョンの波に巻き込まれようとしている。
佐藤優の厳密、俊敏な文章の運びのなかに息苦しさを感じることなく、安らぎさえ感じるのは人間の多元性、多様性を許容するおおらかさ、寛容さが全体に通底しているからだろう。
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 ○年末から2008年初頭にかけて15年ぶりに雲南省北西部のヌー江沿いの少数民族の村を訪ねるべく、準備中である。かつてはたどり着くまでに悪路、泥道の連続で悪戦苦闘をしたが、その後、この近辺はどのような変貌をとげているだろうか。あの教会はどうなっているのか。取材がうまくいけば、映像・音によるレポートができるかもしれない。
≪写真説明:(左)キリスト教会で賛美歌を歌うヌー族の人々 (中)山の中腹に立つ教会 (右)病気治療の儀式をするシャーマンの男性<左端>と病人の男性<青い服>、右は助手の男。いずれも雲南省ヌー江リス族自治州福貢県匹河郷・ラムトゥン村。1993.6.6 撮影 市川≫

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