みずみずしい感性と野生:「ゾリ」(コラム・マッキャン著)

■2009.1.13  みずみずしい感性と野生:ジプシー詩人、漂泊人生の物語――「ゾリ」(コラム・マッキャン著)
○本のページを繰るのももどかしく読み進めるという経験はそうそうあるものではないが、久しぶりにそうした思いに駆られた小説だ。
「狭い河床にそって車を走らせていくと、ガラクタの数がだんだんふえてくる。大曲りになった河原にバケツがいくつかひっくりかえり、こわれた乳母車が雑草に埋もれ、ドラム缶がひからびたサビの舌を垂らし、イバラのやぶの真ん中に壊れた冷蔵庫が見える。・・・」
この導入部はあるジャーナリストがゾリというジプシー(ロマ)の詩人の消息をたずねてジプシーの集落に入る際の記述だが、かつて私もロマの集落との境界を越えたときに感じた緊迫感を思い起こさせる適確な風景の表現だ。
主人公ゾリは1930年代ファシズムが台頭してナチスの影におおわれていたスロヴァキア生まれのジプシーの少女。幌馬車で移動しながら漂泊の生活を信条とする非定住のジプシーに属する。
6歳のときファシストの親衛隊に家族を皆殺しされ、ゾリと祖父だけが生き残り親戚たちと漂泊の旅を重ねる。それは街道筋の家々を物乞いの門付けをし、金品・食物を得る旅でもあった。ゾリはことばをつむぎだし、うたうことに関する特別な才能にめぐまれていた上、「資本論」が座右の書という型破りの祖父の影響もあり、ジプシーにとっては禁断の能力である文字を書き、読むという能力を身につける。
「しかし、自分の指の先から新しいことばが生まれるのを目のあたりにして、彼女(ゾリ)は仰天した。そして指先から真新しい歌が、次から次へと生まれ出てくるようになったとき、ゾリは、ずっと昔から存在している歌の群れがなにかのはずみで自分のところにやってきているに違いないと考えた。」
固有の文字を持たずに、口承伝承を旨とするロマニ語の世界に生きるものとしては、共同体の掟をやぶる存在であり、ジプシーとしてはきわめて異例な育ち方をしたのがゾリである。
 ゾリは14歳で老いたヴァイオリン弾きと結婚し、16歳のとき第二次世界大戦が終わり、ソヴィエトはスロヴァキアをナチスから解放した。戦後の共産党政権下、理想的なロマのプロレタリアートとしてまたたくまにその文学的才能に注目が集まり詩集を出版されるまでになる。しかしソヴィエト、スターリン政権の抑圧政策の影響下で、スロヴァキア政権の抑圧も強まる中、彼女の運命の歯車が回りだし、さらに「国民的ジプシー詩人」ゾリの文学的能力もジプシーの掟に反するとして、ロマ共同体から終生追放を宣告され、スロヴァキア、ハンガリー、イタリアへと苛酷な放浪・漂泊の一人旅がはじまる。そしてゾリの人生は大きく変転していく。
 この小説の最大の魅力は「ジプシー的なるもの」・・にたいする深い洞察力と豊富な取材に裏づけされた知見が鮮やかに語られている語り口のみごとさだろう。 ロマの生活の匂い・人間関係・家族・生きる信条・守られるべき掟・ケガレとはなにかなどなど、また河や山々、空,星、草木にたいする独特のとらえ方やこれらの自然と寄り添うロマの人生のありようが特有の警句・比喩・暗喩を交えて語られる。これらの語り口が実に心地よく胸に響くとともに、自然と寄り添う鋭敏な感覚をわれわれが喪失してしまったことを知らされる。
劇的な運命を生きたゾリの物語の中でも、祖父ジージとの旅で語られる郷愁にみちた数々のエピソードは忘れがたいほど感動的であり、主人公ゾリのジプシー(ロマ)であるが故のみずみずしい感性と野生と意志力をそなえた人間像は実に魅力的である。
「あたしたちは天井じゃなく空の下で暮らすようにできているんだ」という非定住の人生・生活への渇望・・・・これらのジプシー(ロマ)のひとびとの本質的な性向が通奏低音のように流れており、人間本来の自由な人生が困難になっている我々にあこがれとともに痛切な喪失感をもたらすのである。
○この本を読みながら、しきりにイザベラ・フォンセーカの「立ったまま埋めてくれ――ジプシーの旅と暮らし」という本を連想していたが、著者覚え書きにはっきりとこの著書に触発されたと明記してあるのを見て、納得した。(概説→アルメニア→インドとヨーロッパをつなぐキーワードへクリック)イザベラの著書は彼女がヨーロッパを縦断しながら、ジプシーの出自や旅の暮らしをヴィヴィッドに浮き彫りにしたルポルタージュの傑作である。
コラム・マッキャン(Colum McCann )はジプシー(ロマ)ではないが、外の世界の人間としてバランスと抑制の効いた文体が力量の並々ならぬことを示している。心情的にジプシー(ロマ)に過度に傾斜しがちなテーマながら、語り手を変えながら物語をすすめることで普遍性を獲得している。また、栩木伸明氏の訳文もすばらしい。1965年アイルランドのタブリン生まれ。小説家を志してアメリカに渡り、北米大陸を自転車で放浪、その後テキサス大学で英文学を学ぶ。93年に来日、京都、九州で英語教師として働くかたわらアジア各国を旅する。94年からニューヨークで本格的に文筆活動をはじめる。2003年には「エスクァイア」誌の Writer of the Yearに選出。Zoli(2006)は 20カ国で出版予定。(著書の著者略歴参照) 「ゾリ」(コラム・マッキャン 著 栩木伸明 訳 )みすず書房 定価(本体3200円+税)

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