昇華された悲劇―韓国映画「母なる証明」

韓国映画が発する独特な激情のエネルギーが時には胸につかえたり、胃にこたえたりすることもある。しかしながら、韓国映画からしばらく遠ざかり、日本映画やヨーロッパ映画を見続けると、抑制され洗練された映画的表現に感心しながらも、全体としては枠にはまった思考やそこで物思う悩める群像が抱える袋小路を感じてやがて、物足りなり、八方破れのエネルギーが恋しくなり韓国映画をみたくなるのである。 こうしたエネルギーと振幅の巾の大きい感情表現は日本映画には特に近年見られない種類のものだ。
久しぶりに見た韓国映画「母なる証明」(ボン・ジュノ監督)にはやはり感服した。 強い愛情で結ばれた母親と1人息子をキム・ヘジャとウォンビンが演じる。 
1人息子が少女惨殺事件の容疑者として逮捕される。母親は彼の無実を証明すべく、立ち上がり、過剰な愛情をエネルギーにするかのように、必死に息子を助けようとする。そこには強烈すぎる行動、常軌を逸した行動が起こる。 
「母親」の強さ、愛情の深さを描きながらも、人間存在の根源への疑義までをうかがわせる奥深いテーマが見えてくるのである。 サスペンスを湛えながら、物語は意外な展開をみせながら、衝撃的なラストへとなだれ込んでいく。 
私が特に注目し、感じ入ったのは導入シーンの母の踊りとエンディングのバス中での踊りのシーンの相関関係だった。 太鼓の音をきっかけに母が踊りだす導入部のシーンには物語全体を暗示するような意味あいが強く示唆され、思わず引き込まれたが映像表現としてもすばらしい。韓国の伝統的芸能で民族の基層文化ともいうべきパンソリを思わせる母親の踊りからは、すべての情念を越えて解放されていく人間の運命に思いを託す監督の明白な意図を感じたのである。 そしてラストシーンも絶望の極地にも救いを見出す意味で、ファースト・シーンに呼応している。 これらの踊りのシーンの存在が、人間の業、宿命を描いた救いのない物語を悲劇として昇華できたのだろう。 画面の隅々からマグマがふつふつと噴出するように感じる韓国映画が世界の映画界で独自の位置をしめる所以だろう。