■紀行コメント

 
 

北インドの漂泊・門付けの遊芸民(2001年)

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8月9日(木)
ジャイサルメールを目指して

成田に8時頃着いたが、コンピューター故障で混乱しており、4時間遅れで出発。デリー到着20時09分。Vasant Continental Hotelチェックイン。夜食はホテルのレストランでじゃがいもとカリフラワーのカレー(アール-・ゴービー)。美味かった。明日は早起きなので11時半就寝。

8月10日(金)

早朝4時起床。暗いなか空港へ。モンスーンの季節が終わりに近い。気温は30度位だが、湿度が高く、空気が体にまとわりつく。空港の警備厳しく、特に国内線がきつくボディーチェックが多い。6時過ぎの便でデリーからジャイプール経由でジョードプルまで。機内の乗務員(スチュワーデス)が身にまとっているサリーの鉄さび色というか濃いあずき色が、褐色の肌色とマッチしている。8時、ジョードプル着。ここからは車で目的地ジャイサルメールに向かう。モンスーンの影響だろうか、前夜降った雨で道が濡れている。脇を鉄道が通っているが、踏み切りは待ち時間が長く、スクーターなどはどんどん踏み切り棒を通り抜けていく。
10時ころ朝食をとるため小さな町オシアンで屋台のカレーを食う。トタン屋根仮設小屋のようなところだったので、食欲を満足させられればいいと期待しないで入ったが、相当にうまいので驚く。付け合せのたまねぎにレモン汁をふりかけ、カレーの合間に食べると風味がさらに増すのがなんとも野趣があっていいのだ。
途中出会うバスはほとんどTATAのロゴ。市橋君によれば、オーナーが拝火教(パールスィー)信者の金持ちだそうだ。しばらく単調なブッシュ地帯に飽きたので、ラームデーオ寺(Ramdev Temple:中世のラージャスターンの英雄を祀った寺)に寄り道。坂道の両側にみやげ物店が並び、日本の寺の境内の雰囲気に似ている。周辺の地域からの信者で徐々に混雑してきたので、車に戻り、ジャイサルメールを目指す。道すがら野生の孔雀を多数見かけたが、インドならではの光景だろう。
早朝からの北インドへの移動の連続に飽きてきたころ、突然、眼前に薄い黄金色ににじんだ城砦が現れてきた。やっとジャイサルメールに着いたのだ。まさに黄金の幻の城だ。永い年月の侵食でむきだしになった岩の丘陵に悠然と壮麗に横たわる城砦は現代の光景とは思えないほど中世の神秘的な風景だ。
14時半ころ、Narayan Niwas ホテルにチェックイン。石つくりの城砦風ホテル。荷解きなどしてから、市内のレストランで野菜カレー。

バラニさんに会う

それからとにかく情報を得るために市のツーリスト・レセプション・センターを訪ねる。一見怖そうな中年男が出てきて、とっつきにくそうな感じだったが、実は親切で我々が欲しい情報にきちんと答えてくれた。しかもかなり芸能にも詳しい人物であることが分かったのは収穫だった。
名前はバラニさんという。様々な門付け芸能、動物芸などについて参考になる話が聞けた。とにかく門付け芸は豊富にあるようだ。動物芸に関しては、蛇つかいはいるが、熊つかい,猿回しはいないという。蛇つかいはSnake Charmerといわれ、Sapera(ヒンドゥ語で蛇つかい)カースト、ジョーギーとして知られているという。熊つかいはMadariというがジャイサルメールにはいない。 1985年デリーで小沢昭一さんと取材したときは熊つかい、猿回しがいたが、彼らは皆ラージャスターン州から来ているといっていた。ラージャスターン州は広大だから、ここ以外にも候補地は沢山あるのだろう。
ボーパという絵解き芸人については、彼らはジョードプルからきて観光客相手にやっているという。人形つかいは豊富なようだ。1時間くらいいたが、すごいスコールで動けず。明日の約束する。ホテルの本屋で資料としての書籍購入。なかなか他では手に入りにくい写真集などがあり、荷物が重くなるのを覚悟して購入。一階受付につながるバーでビールとウィスキー。夜はホテルのレストランでトマトスープと焼きそば、味を整えるため、市橋君持参の醤油役立つ。11時疲れて、就寝。

8月11日(土>
芸能売り込み合戦

6時起床。このホテルはイギリスのアン王女が泊まったことでも有名とか。北インド様式でラージャスターンの王宮を模している建築だが、内装にはヨーロッパ風な設備、サービスは気配りもほどほどで快適だ。午前中は民俗博物館に行き、本など購入。展示物で特に目についたのはらくだの首飾りゴールドバンド、黒い女神「サエスラプナー」、ジョーギーの女の顔面像などであった。
その後再びツーリスト・レセプション・センターへ。バラニさんが移動のジープの手配など今後の段取りをしてくれた。ロケハン中心になりそうだ。しばらくバラニさんと打ち合わせをしていると、外が人々の話し声で騒がしくなった。入り口のほうを振り返ると、2-30人の人たちが集まっている。様々な楽器を抱えたマンガニヤールなどのミュージシャン、人形つかい、ボーパとみられる夫婦などが玄関前の車寄せに座り込んでいるではないか。バラニさんは、芸人楽士たちが住んでいるカラーカール・-コロニーから売り込みにきたのだよと当たり前の顔をしている。昨日我々の訪問後に芸人を招集してくれたのだった。驚くべき早業であった。いかなるネットワークがあるのか興味深々である。早速次々と、聞いてくれとばかりにデモ演奏を始めた。こうしたなりゆきはある程度予想していた。それほど芸能を生業にしている人が多いということだ。2時間にわたりたっぷり9組が演奏してくれたが、腕前は脱帽するほどの芸達者が多かった。午後3時から場所を変えて彼らの演奏を収録することにする。

収録作業

郊外の城跡で、収録開始。途中モンスーンに出鼻をくじかれるが、天気が回復してからは快調に9グループの収録が快調に進むが、猛烈に汗をかく。18時30分終了。モンスーンの合間をぬってうまくやれた。中でも印象的だったのは、事前の売り込みがなく、突然収録現場に現れたカルベリアグループの踊り子の女たちだった。彼女たちがもっている雰囲気は独特で、個性豊かな門付け芸人が揃ったなかでも人目をひきつける異彩を放っていた。
疲れたので、夕食は外出しないでホテルのレストランでとったが、偶然、昼間収録した少年がレストランショーの楽士グループのメンバーで出演していた。少年はクトレ・カーンという15歳のカルタール(拍子木)奏者である。その後4人の楽士が来たが、そのうち3人は昼間会った人だった。芸人が集中的に居住している、いわば芸人村がホテルから近いところに存在している。カラーカール・-コロニーと称される地区の楽士たちが現業芸能者としてこの地に生きていることを実感させられる。まさに生きた芸能、お金を稼ぐためにする芸能者たちである。性急に言えないが、直感ではインド、ラージャスターン州にはこうした芸能人を多く抱えてヴィヴィッドに生きている土地だ。
メモ追加
マンガニヤールについて
Mangaは 乞う、Beggarという意味。ムスリムでヒンドゥーの領主マハラジャのために乞われて奏する人々。Mirasiという集団(ファミリーより広い概念)に属する出自的な概念。他にもいろいろ集団がある中の1つ。
カラーカール・-コロニー
ラージャスターン州政府が、各地からジャイサルメールに集まってきた芸人たちに土地を供与した。約50世帯の芸人たちが住む(2001年現在)。最近は自分は別のところに住んで、土地の権利を売り払っているのもいるらしいとはバラニさんの話。15年くらい前から村が形成されてきた。住人には文字を書けない人が多い。(録音謝礼の領収書にサインを求めて判明)
市橋君がクトレ・カーンの家を訪ねたときに見た光景を話してくれたが、象徴的な話だった。それは、カーンが4歳から12歳の子供たちを集めてドーラック(両面太鼓)とカルタール(拍子木)4つ竹そして歌を仕込む情景を見たことだった。芸能が生き生きと伝わる現場なのだと実感したという。

8月12日(日)
楽士(マンガニヤール)たちの村を訪問

午前はジャイサルメールから車で小1時間のところにあるムールサガル村を目指した。このあたりは村といっても家が立ち並ぶのではなく、ぽつんぽつんと点在している程度。砂漠の中のブッシュ地帯に人間がかろうじて住んでいる。バラニさんは「砂漠は常に動いている」といった。地球上の砂漠化は深刻な問題だが、タール砂漠も同じ様相を呈しているという。ダブルフルート(アルゴザ)の名手タガー・ラーム・ビールさんの家は割合裕福そうな農家だった。一度に2本の笛を口にくわえ、メロディーと通奏低音を同時に吹く技の持ち主である。数曲ダブルフルート演奏とモールチャング(口琴)を1曲収録。
さらに小1時間パキスタン国境のほうに移動して、カノイ村にやってきた。この集落は芸能が盛んな村のようで、村の入り口を入ると広場があり、中央にはカラカル・マンチ(アーチストの舞台)と銘打った演奏場兼集会場があった。屋根を四隅の柱が支え、地面から数十センチの高さの板張りがあるだけの簡素な作りだ。
我々の訪問の意図を聞くと、年配の男性サダク・カーンさん(67歳)がサーランギという擦弦楽器を持ってきたが、見るからに相当古く、くたびれており音を発するのか心配になるほどだ。サーランギは複雑な楽器で、最近は演奏するものも少なくなっているそうで、カノイ村でもサダク・カーンさんが唯一の奏者だという。楽器にも詳しい市橋君も貴重な楽器ですと珍しそうだ。我々とカーンさんが話していたのは、村中から見通しのきく舞台上なので、何事が起きているのかと村びとたちの好奇心を呼んで集会場はたちまち村の人びとでいっぱいになってしまった。
この村は約20家族からなるマンガニヤールが中心の村であった。かつてはマハラジャなどパトロンの家などに仕えて、冠婚葬祭などに楽士をつとめ報酬を得ながら生活していたが、現在では普段は雑穀を中心にした農業・ヤギや牛などの牧畜をしており、求めに応じて演奏活動をしているという。
演奏を聞きたいという希望を述べると、今、村で一番のうたい手が畑仕事に出かけているので呼びに行ったと言いながらも、ハルモニヤム、ドーラク、カルタールなどを手にした演者たちが集まってきた。彼らの腕前がどの程度なのか、どのような傾向の音楽かを理解するためには、代表的な彼らのレパートリーを数曲は聞きたい。その上で録音させてもらおうと思った。最初に聞いたのは、ジャイサルメールのマハラジャを讃えるうただった。文句なしにうまかった。完璧にプロフェッショナルの技だった。サーランギ、ハルモニヤム、ドーラク、カルタールが自由自在に鳴りながら、一体化していた。カラーカール・コロニーのマンガニヤールとは一味違う傾向や味わいをもちながら、絶妙なアンサンブルの良さはこのカノイ村の豊かな芸能の土壌を感じさせるものがあった。

古代の響き―――漂泊の遊芸民ジョーギーの女たちか?

2曲目を聞き終ったとき,バラニさんが入り口のほうを指差して突然大きな声で誰かに呼びかけた。何事かと見ると、50メートルほど離れた民家の軒先に若い4人の女が立っている。どうも村のものではないようだ。バラニさんの声は何故か弾んでいる。呼ばれた女たちは、臆する風もなく、むしろ喜んで来るという感じで演奏場に近づいてきた。だが女たちは舞台の上にはあがろうとせず地面に腰を下ろして、舞台の縁に手を置いてバラニさんのほうを見つめている。その様子、姿勢はいかにもバラニさんの指示を仰いで待つ風だった。
バラニさんが何か言ったのが終わるか終わらないうちに女たちはうたい始めていた。1人が音頭をとりながら主旋律をうたい、他の3人がそれにからみながらポリフォニーになる。強烈な地声の発声。砂漠の黄砂にさらされた喉から発するうたは腹から絞り出すようだ。ざらざらした風合いが野太さを生み、高音は張りがあり、力に満ちている。単なる唄ではなく、古代的な響きをたたえた呪文のように聞こえたり、シャーマンの行(ぎょう)のようにも聞こえたりするのだ。
長年、日本列島の放浪芸人たちの唄や地球上のいろいろな民族の唄を聞いてきたが、はじめて経験する種類の衝撃だった。あらゆる声の表現の原型のことを想起した。私は「これは何なのか?」と心のなかでつぶやきながら、半ば茫然としていたが、彼女たちのうたは2曲だけで終わり、待機しているカノイ村の楽士たちの演奏に移っていった。カノイ村の楽士たちからは7曲ほど聞かせてもらったが、ここのマンガニヤールの人びとが持つ音楽的レヴェルの高さに感服して、午後改めて録音させてもらうことになった。

ジョーギーの集団に遭遇

今日は朝から滅多に聞くことができないような唄や演奏を聞き続けて気持ちは高揚していたが、余韻にひたる間もなく、バラニさんから耳よりな話があった。
「先ほどうたってくれた4人の女たちにいろいろ尋ねていたら、ひとりの女の夫は蛇だというのですよ。しかも夫はここから近くの仮のテントにいるらしい。会いに行きませんか」と言った。「ということは、彼女たちはジョーギーなのですか。つまり彼女たちはこの村に門付けに来ていたのですか。」と尋ねると、バラニさんはそうだとうなずき、これから出会う光景に何やら確信ありげだった。ジョーギーの女たちはカノイ村付近に滞在するときには、この村を門付けする常連で、残り物の食べ物や不要な着物などを貰っていくというのだ。
4人の女たちについて、しばらく歩いていく。カノイ村から、あまり離れていない砂漠のかなたから、ゆらゆらゆらめきながら蜃気楼のようにジョーギーの群れが見えてきた。荒涼とした灼熱の砂漠にも小さなブッシュ地帯はあるのだが、何故かジョーギーたちは小さなブッシュ以外何も生えてないまっさらな砂地で太陽をもろに浴びていた。4-50メートルの範囲に、木の枝を曲げて作ったかまぼこ状の仮設テントが数個点在している。屋根には布が無造作に掛けられている。テントの中には竹やパイプ製の簡易ベッド。大人2人でいっぱいになる狭さだ。40度は遥かに越えていると思われる昼のさなか、幼児や犬がベッドの上で寝ている。犬は我々を見ても吠えない。しつけがいい。鶏たちは太陽の日差しをさけるようにベッドの下に入り込んでいる。小枝や枯れ枝で風除けを作った簡単な竈(かまど)がつくられてあり、壷や深い鍋が無造作に並んでいる。いかにも漂泊生活の一時的停泊地の簡素さである。
私は猛烈な暑さに加えて砂地の地面から発する輻射熱と照り返しに頭がくらくらした。さすがのバラニさんもハンカチを頭にのせている。身の危険を感じる暑さを始めて体験した。先ほどカノイ村でうたってくれた女たちと蛇の男や子供たちがまわりに集まった。この小集団は5家族あわせて10数人だという。
「いつからここに逗留しているのですか」と聞くとルク・ナート・ジョーギーさん(25歳)というジョーギーの男は、「ここカノイ村の近くに来てからは3ヶ月ほどたっています」という。
「どうしてこのような猛暑のなかなのに、ブッシュや木立などの遮蔽物があるところに仮テントを張らないのですか、そのほうがいくらか陰ができて涼しいと思うのだが」と聞くと、
「昔から先祖の言い伝えでずっとこうしてきました。あえて周囲に何もない、陽の当たる地点を選んでテントを張ります。その方が体にいいと信じているし、物陰や木陰は蛇やさそりなどが潜んでいるのでかえって危険です。」とジョーギー独特の伝統のライフスタイルを話してくれ、さらに続けて「水なども冷たいままでは飲まずに水瓶を日なたにおいて、お湯になってから飲むようにしているのです。こうした生活が身体の抵抗力をつけてくれると信じています。」という。
「今までインドで見かける犬はなんとなくみすぼらしく痩せているという先入観にとらわれていましたが、ここの犬は精悍でからだにもつやがあるのがとても印象的です。何故ですか」と尋ねると
「移動するときは必ず犬とにわとりを連れていきます。私たちは犬をとても大切にしており、食物にも気を使っていますよ。犬は家畜を守ってくれるし、番犬でもあるので安心できるのです。」と答えた。とにかくここの犬は手足が長く、筋肉質の引き締まった体をしており、つやつやとした短い毛並みが優雅でさえある。テントのなかのベッドで幼児と並んで寝ているのを見ても、犬がいかに大切に扱われているのがわかる。
「これからの予定はあるのですか」との問いには、「今は暑すぎて、観光客はそれほど多くありません。でも10月になれば涼しくなり観光客もぐっと増えますから、それまでここに滞在する予定です。この先5キロのところにあるサム砂丘に来る旅行客を相手に稼ぎます。女たちはカノイ村などで商売(門付け)をして稼ぎます。次の予定地はダモダーラです。移動はらくだを借りて、荷車で動くのです。」と子供をあやしながら答えてくれた。「生まれたのはどこですか」との問いに、「出身はジャイサルメールですが、住まいはありません」とさらりと答えたのだった。

人類誕生時からの発声?

ルク・ナート・ジョーギーさんはやはり蛇つかいの男だった。25歳にしては老けて見える彼は答える間もプーンギーを離さない。彼はプーンギーをビーンと呼んでいたが、ひょうたんの胴体には2本の管がつけてあり、一本は演奏用、もう一本は通奏低音が鳴る仕掛けになっている吹奏楽器で、蛇つかいの笛として有名である。
早速ビーンから聞かせてもらうことにした。黄色いターバンを巻いた彼は座って胡坐をかいて吹きはじめた。ビーンの音は派手な音色で、独特のメロディーが、絶えず通奏低音に支えられながら、勢いよく鳴り続けた。このように演奏中にずっと通奏低音が鳴りっぱなしで途切れないのは、両頬を鞴(ふいご)のようにふくらませながら鼻で呼吸し、息継ぎなしで吹いているためだ。ビーンに蛇はつきものだが、最近は動物愛護とかで官憲の規制がうるさく蛇は持たないという。
次いで話を聞きながら、女たちのうたを録音させてもらった。女たちはアシ、マルワ、マンキ、デリーという名の20歳前の妻たちであったが、彼女たちも年齢にしては老けて見えるのは、自然条件の厳しさや過酷な生活状況などの影響からくるのだろうか。おそらく、こどもたちの年恰好からみても、10代前半で結婚したと思えるが、そのことも関係するのだろうか。右鼻の穴の脇に1センチほどの銀の飾りをつけているものもいる。4人の女たちは腰を下ろしてうたいはじめた。そのうち2人は幼子をひざの間に置きながらうたった。
最初の曲は「カムリー」という村の娘の名前をそのまま使ったコメディー・ソングだった。次いで、「モールー・バーイー」というこの地域では有名な曲で次ぎのような内容だ。
「私はラージャスターン州の南のほうから嫁いできた。そこは自然の豊かなところだったが、ここは砂があるばかりで、よい髪油もないところ。でも心配している故郷の両親に伝えてほしいのです。私は自然が豊かなとてもよい土地に住んでいて、幸せに暮らしているということを。」
砂漠の地に嫁いできた娘モールー・バーイーが親を心配させないように伝言を旅の者に託す形式でうたわれた内容だった。この曲にはビーン伴奏がついた。3曲目は「ククラー」というラブ・ソングで、ククラー(チキンの一種)であなたをもてなしますので、その前に帰らないでくださいといった内容だった。4曲目は「ジェーダル」という兄と妹との愛をテーマにしたもので古くから伝わる曲だった。
いずれの曲もメロディーラインが自然で、宗教的な伝統や呪縛から解放されており、洗練された音楽性といった文明の手垢とも無縁なものだった。素直に、彼女たちのうたは、人類が誕生時から保持している発声法を偲ばせてくれるものがあり、うたというものの基本的な輪郭を明確に浮かびあがらせるものだった。
うたが終わった後に2人の女性が踊りを舞った。オレンジ色とピンク色の衣装の2人がビーンに合わせて、両手を挙げてゆっくり回転を繰り返す。オレンジ色の女性はすっぽり頭に布をかぶせ、顔はまったく見えなかった。この踊りも回転が基本だった。
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唸る超絶技巧ーマンガニヤール

ジョーギーの宿営地から引き上げてくる途中でカノイ村の楽士たちに合流した。村の外に、演奏するのに適当な場所があるというのでやってきたのだった。その場所は砂漠の中の小さなオアシスで、繁茂した樹木の緑と池の水が褐色色の世界に馴れた目に染み入るようだった。ジョーギーの人たちから受けた強い衝撃がまだ生々しく残っている私に、さらにたたみかけるように、マンガニヤールの演奏が開始された。市橋さんもあまりの暑さに、汗がしたたる首にタオルをかけたままDATレコーダーの前に座り込んで、操作している。ここでは6曲を録音したが、いずれも天馬空を行くような名演だった。
最初は、遊行の聖者ラール・シャーバース・カランダルを讃える歌「ダマーダム・マスト・カランダル」という曲で、ヌスラット・ファテ・アリ・カーンなどのカッワーリ歌手がレパートリーにしたので日本でも有名になった曲だ。カッワーリとは北インドやパキスタンで盛んな宗教歌謡で、中世アラビア世界の説教師<カッワール>たちの神秘的メッセージが、伝道者たちによってインド亜大陸に伝えられ、土着の音楽と融合して、イスラム的要素とインドの要素を併せもつ<カッワーリ>となったものである。アリ・カーンは来日もしているカッワーリ歌手の代表的存在だったが、夭逝している。聖者の名にあるカランダルという言葉は、頭を剃髪して、ひげをたくわえたイスラム教の聖者を指すと同時に、北インドでは熊つかいや猿回しなどの動物を調教する職業集団の名前であるのが興味深い。この曲には向かって左からカルタール、2人のボーカルが並び、右の人はハルモニヤムも担当、サーランギはカーン爺さん、そして一番右端が太鼓のドーラクが入る編成だった。楽士たちのターバンの色は赤、モスグリーン、白、オレンジとそれぞれだが、衣装は白一色である。
曲はボーカルの祈りのような調子からゆったり始まり、まもなくハルモニヤムやカルタールが加わって、規則正しい拍子を刻んでいく。それに細かいこぶしで震えるような節回しがからむようにダブっていく。テンポは緩急を繰り返しながらやがて全体的に加速されていく。カルタール奏者は立てひざになり、いまにも立ち上がるかと思うと、体を地面に伏せるようにねじりその動きは激しさを増してくる。ボーカルも空に向かって両手を突き上げながらメンバーの動きに呼応する。合奏はいつの間にか唸りをあげるようなドライブ感あふれる超絶技巧へと変貌していき、熱狂と敬虔が変幻自在に交差し、私を眩惑し、翻弄した。やがて、たゆたうようなやすらかな世界が現出して終わりを迎えた。
カッワーリの本場といわれるパキスタンでは、神秘的なメッセージに加えて、強烈な音楽的感動によって、聴衆のなかにはトランス状態に陥るものが出るほどである。演奏中に、遠景に3人の男たちが池の中を胸まで入りながら、水をバケツで汲み出している姿が小さく見えていたが、その光景が幻影に思えたほどだった。
マンガニヤールの音楽が宗教的素材を扱いながら、宗教的な陶酔を超えて白熱のドライブ感、疾走感を生み出すのは、前にもふれたように古典的音楽技能と民俗芸能的要素が影響しあい、それに即興性が大胆に加わってきたインド音楽独特の歴史的変遷によるものとしか思えない。演奏の途中にスコールの到来を告げる雷が鳴ったが、そのまま録音続行した。彼らの音楽にはむしろこうした自然の音こそふさわしいと思えたからだった。
2曲目は北インドの原初的スタイルを残している「ダルバーリー・バワン」という曲であった。この意味は、宮廷あるいは王家という意味で、この曲もジャイサルメールのマハラジャの祖先を、名をあげながら讃える曲だった。マンガニヤールの職能をあらわす曲だ。途中、「ジャイサル・ラージャー(ジャイサルの王よ)」という言葉が聞こえるが、1156年に城砦を築きジャイサルメールを創建した初代の王のことを讃えているのだった。メンバー構成は同じだった。その他サーランギの独奏、ハルモニヤムを伴奏にしてドーラクとカルタールの掛け合いなどを録音して、カノイ村の訪問は終了した。カノイ村のマンガニヤールは、ジャイサルメールにきて最初に会ったマンガニヤールの楽士たちとは少し違った雰囲気があり、音楽的な傾向も微妙に違っているのは、彼らマンガニヤールたちの音楽の奥の深さを感じさせるものだった。とにかく古典的なものと、民俗的なものを併せて肉体化している音楽性やイスラム教を信奉しながら、ヒンドゥーのパトロンに仕えて彼らの歓心を買うという、したたかさ、柔軟性のある融通無碍な生き方はジプシーの生き方に通じるものを強く示唆するものだった。
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8月13日(月)
終日休業。昨晩から下痢続き寝る。マンゴ、バナナ、ヨーグルトなど食するがすぐ出てしまう。日本から持参した薬では効かないと思い、市橋君に街の薬屋から薬を買ってきてもらう。3時半にインドの薬を初めて飲む。効き始めた気がする。うとうとして過ごす。2回目薬を夜11時45分におかゆ、うめぼしをともに。

8月14日(火)

朝までぐっすり眠り下痢症状に悩まず。インドで下痢になると心細い、このほっとした気分は何ともいえない解放感。7時半食事。パン2枚マンゴージュース、ジャム、マサラチャイ  12時半昼食 スパゲッティ-トマトソース、オレンジジュース。午後に城砦を散策。顔知りの芸人たちが多く、声をかけてくれるのが嬉しい。 ジョーギーに関する情報をさらに調べて情報加わる。バラニさんと相談してその中から3箇所の地区を明日回ることにする。

8月15日(水)
定住したジョーギー

3箇所の場所が特定されていることから容易に想像されたことだが、訪ねたのは3つの村に定住しているジョーギーの人々だった。彼らはいずれも、かつては遍歴・漂泊の生活をしていたのだが、さまざまな理由で定住するようになったと想像される。最初に訪ねたのはキシャン・ガートという村だった。会ったのはダム・ナートさん(60歳)とその妻のダーカさん(58歳)夫妻だった。彼らはカルベリア・ジョーギーであると自称し、代々、石臼職人だったという。
ナートさんは「ほぼ15年前に放浪生活に終止符を打ったよ。それまではジャイサルメールの周辺を移動していたよ。息子たちが小作農として出稼ぎで稼いでいるので、今は石臼はやっていない。」という。家族構成を聞くと、「息子は30歳、24歳、20歳、8歳の4人、娘は40歳、38歳、36歳、33歳の計8人の子供がいるが、娘たちは好きな先へ嫁に行ったよ。息子4人のうち3人は結婚しており、2組の息子夫婦が小作農をしているのさ。昔、男と女は結婚する前に一緒に暮らす習慣があったが、今はなくなっているよ。定住はしても生活は苦しいので、村の女たちは門付けに出かけてうたや踊りをして,チャパティ(パン)や野菜や古着などをもらってくる。」などど話してくれた。周りに集まってきた数人の女性に2曲うたをうたってもらったが、そのうちの1曲は仮テントのジョーギーの女性たちがうたってくれた「モールー・バーイー」だった。だが、うたの訴求力が定住,非定住という生活スタイルに影響を受けるかどうかは分らないが、テント生活のジョーギーの圧倒的な迫力には遠く及ばなかった。
ナートさんが定着した一番の理由は戸籍上の特典やメリットを得たいがためであったという。政府もジョーギーたちに土地を与えて定住を促進しようとしている。1974-5年に定住化政策がとられたが、失敗に終わったケースが多いらしい。この村を見ても成功しているとは思えなかった。村全体としての活気が乏しく、人びとの顔に生気がないのが一番気になるところだった。羽をもがれた鳥のようだ。移動するテントのジョーギーたちの精悍で生気に満ちていた表情と何と対照的なことか。貧困には変わりはないが、定住生活をはじめたジョーギーの人たちには生きている実感のようなものが持てないのではないか。彼らが本来謳歌している自由が制限されることが大きな要因だろう。
放浪・遍歴の人びとを近代国家の論理で定住生活に強制することの困難さは、ヨーロッパのジプシーに対する各国の定住化政策が困難に面している問題に共通するものがある。財産・富としての土地を所有する観念を本来的に持たない非定住者の伝統からみれば、土地本位制から派生する定住民側のさまざまな論理や価値観・倫理観は理解できないものである。定住者の側からの視点で非定住者の世界を眺めている限り、そして放浪・遍歴の生活を文化として捉え、それを尊重する視点を持たない限り、問題解決の鍵はないのではないか。
次いで訪ねたのはダルバリという村だったが、長老が不在だったので空振りに終わった。ただ、典型的なジョーギーの髪型をした女性に会えたことは収穫だった。ジャイサルメールの民俗博物館で展示してあったジョーギーの人形そのもののスタイルだった。また、ここの犬も精悍で力強い感じで、普通、町中で見かけるみすぼらしさは微塵もなかった。
3つ目はブーという村で、長老はジェイ・ラム・ナートという白髪の老人だった。老人によると、「この村は12の家族で成り立っています。定住生活を始めたのは20年前からで、それまでは蛇つかいが稼業だったのです。今は畑などに移っています。定住してからは、出産のときなどは、政府の巡回医療が来てくれるようになったので、これは便利になったところです。蛇は政府がやかましいので今は持っていません。」などと語った。プーンギーのできる人は畑に行っているので、呼びに行ってくれることになった。その合間に、5-6人の女性たちにうたをうたってもらったが、やはり普通のうただった。やがて畑から連れてこられた男がきて、プーンギーを吹いて鳴らそうとするが、楽器が壊れていて音が出ない。普段、吹かれていない証左だった。

ヒッチハイクの蛇つかい

私たちが遭遇したテントのジョーギーは今や、このラージャスターンのタール砂漠でも遍歴・門付けの民として稀な存在だったということが、定住しているジョーギーの村々を訪ねる中で確認できたのだった。そうなると、もう一度ジョーギーのテントを訪ねてみたいという思いが強くなり、カノイ村の方向に向かって車を走らせた。途中、1人の男がヒッチハイクしているのか手をあげて私たちに合図を送ってきた。この暑さの中を歩くのは大変だろうと気の毒になり、男を乗せていくことにしたが、不思議というか、縁があるというのか、この男はジョーギーの蛇つかいのプーンギー吹きだったのだ。彼はこの先にあるサム砂丘で観光客相手に稼ぎに行く途中だったのだ。私はこの偶然の僥倖に喜び、当然、彼にはプーンギーの演奏を依頼したのであった。
彼、ミスリー・ナートさん(55歳)はカーバーという村の出身で、つい1ヶ月前まで蛇を持っていたという。彼は道から外れた樹木の木陰で、メヘンディーという蛇を踊らせる曲などの数曲と蛇の呪文(マントラ)をとなえてくれた。この呪文は蛇を捕獲する際、噛まれないように手なずけるための呪文で、「私の言うことを聞いてこちらへ来なさい。さもないとモハメダン・ビール(聖者)に噛まれるぞ」と蛇に向かってかけるのである。マントラができる蛇つかいも今や少ないのだと、市橋君はいう。

ジョーギー・テント再訪:漂泊生活の核心

ジャイサルメールに着いてまもなく偶然にジョーギーに遭遇したこともあり、放浪しているジョーギーに出会うことがいかに困難で、偶然性に頼らざるを得ないことか、しかも確率のとても低いことであるかは、彼らに出会ったときは理解できなかった。その後、他のジョーギーの所在を探して、やっと会えたにしても殆どが定住しており、本来もっていたであろうエネルギーを奪われ、精気のない表情を見ていると、彼らの定住生活が決してうまくはいっていないことが伺われるのだった。それに比べて、仮テントのジョーギーたちの精気ある表情や野性的なまなざしがとても貴重なものに思えてくるのだった。
再び訪れた私たちをジョーギーの人たちはこころよく迎えてくれた。相変わらずフライパンの上にのっているような酷い暑さだったが、彼らの笑顔と寄って来る子供たちに接すると、その間だけは暑さを忘れられたのだった。女たちのうたはこの際だから、できるだけ多く聞いておきたいと思い、最初のときとダブらないうたを3曲うたってもらった。最初の「ヒチキ」という曲はシャックリをテーマにしたもので、出稼ぎに行った夫を懐かしむうたである。
大意は夫が私を思い出すと,私はシャックリをする。私の愛しいひとが私を呼ぶと、私はシャックリをする。白い砂の美しい村。夫はまだ寝ているのだろうか。市場では近所のひとに会うだろうが、人形のように歩いていこう。という内容だった。
次の「ザドール」といううたは古い愛のうた、3曲目の「アワロー」といううたは思い出をテーマにしたものだった。それから後は、ルク・ナート・ジョーギーさんに、前に聞いた内容を確認しながら、さらに新たな質問を交えた。
信仰については、シヴァ神一派のドゥルガー(Durga)という女神を信奉しているという。蛇については、「蛇つかいの仕事をしていても、大体、今の男たちはマントラができないのが多いと思う。爺さんたちは皆できた。」というから、ジョーギーの内部でも時代の波が押し寄せていることが分かる。さらに
「蛇を捕まえるときは、蛇の毒はとらずに、牙を抜く方法をとっている。とにかく蛇つかいはすべてジョーギーですよ。」と明快だった。
「犬は、ここの男たちが留守をしているときの安全のためであり、犬を連れて移動することは昔からの決まりですから。前から犬とニワトリは連れていたが、最近は山羊を飼ってミルクをとっているし、ニワトリの卵を売ることもするようになりましたよ。移動するときはラクダと荷車を借ります。昔はロバだったけど。」
門付け芸能のスタイルについては、
「私たちはもともとダンスはしなかったのです。男はビーン(プーンギー)を持ち、女はうたというのが昔からのやりかただったのです。最近、カルベリアダンスとして踊っているのは、観光客のためです。新しいやりかたですが、観光客が喜びます。」と興味深い話をした。生活のため、必要に迫られ芸能の形は変遷していく例だろう。
遍歴、放浪生活については、
「ヨーロッパの国々が夏休みに入り、観光客が増える7月、8月はサム砂漠の近辺に出てくるようにしています。9月になると客がガクンと減るので、他所に移るが、10月になると気候的によくなるので観光客の数が盛り返すのす。その時又戻ってくるのです。最近は2月まではカノイ村周辺にいることが多いです。観光客相手の仕事の他はもっぱら門付けによる稼ぎが中心になります。門付けについては、訪れた村はすべての家々を一軒残らず回ることにしていますが、マンガニヤールの家には門付けはしないのが規則です。だって、彼らマンガニヤールも物貰い、物乞い(Beggar)だから、彼らから施しを受けるわけにはいかないのです。貰うものは2日前のチャパティの残りやその他の不用の残飯類です。少しぐらい悪くなっていても、身体の抵抗力があるので、私たちは耐えられる。昔は貰い物だけで、食事をすませていたが、最近では自炊もしていますよ。また臨時に入る石切り、石打の仕事は大事な仕事です。」と漂泊生活の核心部分について貴重な話をしてくれた。
定住しているジョーギーについて聞くと、
[彼らは小作農として雇われて農業をしていますよ。また石切りの仕事では、主に人夫役として雇われるのです。定住する場所は、村の中ではなく、外側でなければならないといわれます。」と私たちが会った定住するジョーギーたちの話を裏付けた内容だった。
最近、行政的なメリットを受ける手段として、彼、ルク・ナートさんも「ダモダーラという村に住民登録はしたが、家も土地もありません。移動する範囲としては一応目安があって、最近はダモダーラ村周辺60キロくらいです。」という。
長年、考えてきた疑問の一部が解けてきた貴重な再訪だった。

漂泊・遍歴・移動について考えた

門付けに訪れる家とある程度の親しい関係を保っていくこと、つまりなるべく多くの馴染み客をもつことは、ジョーギーにとっては生活に直接響いてくる大切な要件である。門付けを継続的なものにするためには、馴染み客の存在は、安定した稼ぎを保証してくれる大事な条件となってくる。
また、受け入れる家にとっても一定の間隔で周期的に訪れてくるジョーギーは神の代理、呪術的存在でもあり、畏敬の存在でもあるわけで、単なる賎視の対象だけではない、浄と穢れの2面性の境界を行き来する存在だったのだろう。村々を周期的に巡り、住民との関係を維持するには地理的な範囲を限定することが必要になる。一回だけの門付けでは、そうした関係が築けないので、稼ぎにも影響してくる。
ジョーギーの話からなんとなく彼らの移動のスタイルがどのようなものであるかが分ってきた。漂泊とか、遍歴とかいうと何故か、ひたすらさまよい続けるといった郷愁を呼び起こすイメージがただよい、どこか現代人に自由な束縛のない生き方を思い起こさせるが、実際には遍歴、漂泊の生活者が必要としていることは柔軟性に富んだ移動性のように思われる。ジョーギーの人びとも古来、不変の移動ルートをたどっているものではないということが分るのである。たとえば臨時に入る石切や石打の仕事は大事な糧であったろうし、夏の観光客の増減に応じた移動をしていることも彼らの移動生活が柔軟性に富んでいることをうかがわせる。さらに門付けによる稼ぎもおおまかな周期性を保つことによって保証される。
こうしてみると、ジョーギーの移動の実態は、政治経済的、イデオロギー的な要素がからみあった複雑な相互関係に支配されていることが推測されるのである。季節的な要素、観光政策による旅行者の変化、グループ内の歴史的な規則性、就業の機会、地域の住民とジョーギーとの関係といった様々な要素が働いているのである。

穢れと浄の境界――――芸人集落カラーカール・コロニー訪問

マンガニヤールを特徴づける楽器にカマーイチャーという丸い胴体の弓奏楽器があるが、まだ目にする機会がない。最近では、うたの伴奏にはハルモニヤムという手こぎ式のオルガンが使われることが多くなり、カマーイチャーにあまりお目にかかれなくなったのである。奏者も高齢者が多くなり、すたれていくようでさびしいが、カマーイチャー独特の余韻のある音は捨てがたい。奏者を探しにカラーカール・コロニーに出かけてみた。
せっかくコロニーに来たので、クトレ・カーンの顔を見たくなり、まず彼の家を訪れることにした。いかにも丘陵の斜面を切り開いてできたという感じのコロニーは、上り坂の周辺には石ころや掘り出した岩などが放置されており建設途上の工事現場のようである。クトレ・カーンは私たちの訪問を喜び家の中まで招き入れてくれた。泥を滑らかに固めた泥塀から一歩入った内側には塵ひとつ落ちてない磨き上げられた通路があり、正面にある家に入るとそこも気持ちいいほどきれいな空間だった。家具類はほとんどなく、簡易ベッドが置いてあるだけの簡素さだった。石つくりの前庭にもう一棟レンガを積んだ小さな平屋があり2つの棟に7人の家族で住んでいるという。昔は泥の家だけだったが、最近はレンガの家もぼつぼつ建つようになってきたらしい。家の中にはガスコンロがあるから、炊事場に使っているのだろう。ここもきれいに掃除されており、とにかく清潔さが印象的だ。
この感覚は私にはとても意外なものだった。もう少し、雑然として、ごみなども落ちている汚れたところを予想していたのである。窓から庭をのぞいて見ると、クトレの妹らしき女の子が水場で金物の鍋や食器類をきれいに磨き上げている。また、中年の女性が塀に牛糞を混ぜた泥を丁寧に上塗りして補修している。後で聞いたらクトレの母親だった。牛糞は「マヌ法典」にも、穢れをきよめる力のあるものについて水・灰・土と並んであげられているほどである。今では塀や垣をつくるのに粘土に牛糞を乾かしたものを混ぜ込むのは一般的な習慣である。塀の外はコンクリートのカケラや廃材そして種々雑多なごみなどで汚れているが、塀の中、家の中に一歩でも踏み入るとそこは境界を越えた浄の領域なのだ。
彼らの穢れや浄に対する意識のありようが垣間見えたような気がした。これと似た感覚を抱いたのは、ジャイサルメールの裏町の細い入り組んだ生活道路を歩いていたときだ。我がもの顔で、町のいたるところで牛が歩いたり、寝そべったりしており、牛糞もあちこちに落ちており、町を歩く際も踏まないよう気を使うし、スコールの後などは道端に広がる牛糞の臭いがあたりを覆う。インドの都市や町を歩くたびに牛に出会い、牛糞の臭いに囲まれると、そのために車は渋滞したりするが、牛糞は土地をきよめる力があると信じる精神的な価値観は経済合理性に勝るという確たる価値観が貫徹している社会がインドなのだと思い知らされる。
しかしそうした道端に軒を連ねている商店や職人の店先からは、実にきちんと整理され磨かれた室内がみえるのだ。また、朝早く広場に面した家の主婦たちが箒で地面を清掃している光景をよく目にしたが、はじめは、ごみを右から左へただ、掃き散らしているのではないかと思えたのだった。彼女たちには、ごみが多くお世辞にもきれいとは言えない広場と、己の家との境界が厳然としてあるのだろう。旅行者の私には始めはなにをしているのか理解できない行為だった。
一見、混沌としたインド社会の中にも、穢れ・浄を分ける境界、「内」と「外」を分ける境界がさまざまな日常風景に存在することを実感したカラーカール・-コロニー訪問だった。

カマーイチャー奏者を探す

やっと探したカマーイチャー奏者はバサヤ・カーンさん(55歳)という初老の男性だった。夕暮れが近い頃、彼の家を直接訪ねたのだが、快く迎えてくれた。早速、家の前庭でカマーイチャーを奏してくれたが、なかなか滋味深い演奏をする奏者で、唄のほうも鍛えられた声に迫力があった。オーラという村から出てきて、ジャイサルメール市内に娘夫婦とともに住んでいる。聞かせてもらったのは、「ムーマル」という曲だった。タール砂漠に伝承する「ムーマルとマヘンドラ」という悲恋物語をテーマにしたうたで、ムーマル王女の美しさを「瞳は雲間の太陽のよう、鼻筋は剣のよう」とうたい上げる。声は美声ではないが、風雪にさらされた野太い声は日本の浪花節語りの声にも似ている。カマーイチャーには演奏する弦の他に共鳴弦がついており、野性的で地を這うような音を出す。確かに現代的で歯切れの良い音ではないが、独特の曖昧さがある余韻が捨てがたい。バサヤさんの娘さんがはっとするような美人で脇から父親の演奏を笑みをたたえて眺めているのが印象的だった。訪問した時間が遅かったせいもあり、明日改めて場所と共演者を選んで数曲演奏してもらうことにした。
夕刻のジャイサルメールは日中の強烈な日差しも幾分和らぎ、今日の仕事を終えた人びとが夕涼みをしている光景があちこちで見られた。一日を無事過ごした安堵感みたいなものが人びとの表情にも感じられ、町の様子も昼とは明らかに変わって生気を取り戻していた。この町全体が呼吸をしているような風景は私の少年時代には故郷の町や道にあふれていたものだった。
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8月16日(木)
大道芸人、猿回し人形

明けて朝早くからカーンさん宅から近い湖を訪れた。その畔に立つ寺院が街中の喧騒が聞こえない静けさで録音・撮影には最適だった。カーンさんのカマーイチャーにクトレ・カーンのカルタールと彼の友人のドーラクを加えた編成で「ムーマル」など3曲を演奏してもらった。
大体、ジャイサルメールでの予定も終わり、その夜、遅い夜行列車でジョードプルへ向かうことになった。それまでの時間があったので、有名なハヴェーリー(Haveli )というかつての富裕商人の邸宅で、手の込んだ装飾を施した建築様式がみどころの地区などを歩くことにした。ハヴェーリーの地区はやはり観光客が多く、それを当てにしたマンガニヤールの楽士たちの姿も見受けられた。
大きなみやげ物店の前にはカマーイチャーを手にした2人の男が客待ち顔で座っている。一人は昨日、聞いたがあまり感心しなかった老人だが、もうひとりは30代と見られる男だ。その若い方の人に声を掛けて一曲聞かせてもらうことになった。2人は即興のコンビらしく老人が伴奏をつとめるという。老人のほうはディーヌ・カーンさん(70歳)といいカラーカール・コロニーの住人、若い方ダプジ・カーン・ミラシさん(38歳)はバダリという村からきたという。オレンジ色のターバンの若いカーンは膝を崩すような座り方でカマーイチャーを弾きながらうたいはじめた。老人のほうのカーンはカマーイチャーを太鼓代わりに膝のうえに横たえ、胴体をたたきながら、合いの手を入れた。曲はなんとカノイ村のマンガニヤールが演奏した「ダマーダム・マスト・カランダル」というカッワーリの名曲だった。市橋さんがリクエストしたのだ。この曲はパキスタンなどでは集団歌謡といわれるくらいの大人数で演奏される場合もある大曲なのだが、2人だけの演奏がどのようなものになるのか興味津津だった。
演奏は曲全体のスケール感を損なわない形で不思議な魅力を出していた。二人の呼吸も小気味よく合い、掛け合いの妙も楽しめた。こういう演奏が大道芸として道端で見られるというところがインドの奥深さで、宮廷内の古典音楽と大道の民俗音楽が融合したものが彼らの体に入っている一例だろう。大道芸の本質に徹して、時と場所と演者の数に合わせてどのような形式の曲でもこなして演じてしまう技はほんもののプロだった。
その後、みやげ物兼骨董の店の中をぶらぶらしていると、雑多な置物などにまじって2種類の猿回しの人形が目に留まった。1つは猿回しの男とその肩に1匹の猿、紐につながれた2匹の猿、もう1つはやはり肩に一匹、紐には猿と犀。いずれの男も左手にデンデン太鼓、むちを前に置いている。衣装などからみても古い時代の猿回しを表しているように思われた。猿回しや熊つかいなどの動物芸は1984年のデリーで小沢昭一さんとともに見ているが、ここジャイサルメールでは見ていない。デリーの猿回しは、市内の芸人集落で見たもので、老人と2匹の猿だった。
バラニさんはジャイサルメールには蛇つかい以外の動物芸はないと言っていたが、こうした人形を見ているとラージャスターン州にも猿回し、熊つかいが闊歩しているのではないかと思われるのだった。そして古来、彼らの中から西へ移動していったものたちが現在東欧などで見られる熊を引き連れたジプシーたち(ウルサリ)の祖先なのではないかと想像したくなるのだ。
ジプシーはアルメニアを離れて、ビザンツ帝国の西部に入りやがてバルカン半島全域とヨーロッパ全体に広がっていったが、ジプシーの出現に言及したビザンツの資料のなかに、熊つかいや蛇つかいについての記述がある。それは熊や蛇を使って見世物にしたり、占いをしたりして、民衆を惑わすことを禁止する内容であった。これらの記述はインドから出立した人びとのなかに動物芸を生業とするジャーティが存在したことを示している。
人形の1つに猿とともにつながれているのは店の主人に確認したが、犀だという。猿と大きさも同じで、黒豚のようにも、熊のようにも見えるが犀とは意外であった。東ヨーロッパ地域においては猿回しという芸能化したものではないが、猿を引き連れたジプシーたちについての記述は見られるが、むしろ東南アジアのタイ、インドネシア、中国などの各国そして日本列島のほうが猿回しの分布の広がりがあり、民間芸能としての存在感もあるようだ。おそらくこれらの猿回しもインド北西部が祖先であり、そこから東への移動ルートで伝わったということが考えられるのではないだろうか。インドを出発した人びとやそれに伴う文化の西への移動はイスラム文化圏との摩擦により、同化が妨げられた結果、よりアイデンティティを強固にしながら、さらなる西方、ヨーロッパへと移動していったが、インド北西部から東への移動、特に東南アジアへ移動することはイスラム世界で遭遇する摩擦がないため、アイデンティティを確立することもなく、そこでの同化が促進され、さらには吸収されていったのではないか。
つまり、インド北西部から移動した集団はすべて西へ向かったのではなく、東へも向かった集団もいたのであろう。ただ東へ移動していった集団はそこで同化し馴染んでいったため、ラージャスターン州の遍歴・漂泊民の習俗などは吸収されてしまったのではないか。猿回しの人形を眺めながら、さまざまな思いにとらわれてしまい、結局2つとも購入してしまったのであった。
午後11時発の夜行列車でジョードプルへ向かう。バラニさんも出張で同じ列車に乗って行く。とにかくバラニさんには世話になり、彼の存在なしには考えられないほどの成果を得られた。

8月17日(金)

朝5時まだ暗いジョードプルに到着。駅前のマサラチャイ屋で飲んだチャイが美味かった。マサラとは香辛料の意。Ajit Bhawan ホテルに入る。博物館、Folk Art Museumなど行くが、定休日または担当者不在で残念。今回は出足快調。途中下痢でダウンしたが、後半ジョーギーに遭遇する幸運があり、トータルには収穫多い旅だった。特に収録作業は予想をはるかに越えた充実した内容になった。バラニさんに初日に出会ったのも大きい。ジョーギーとの出会いは最も印象に残ったものの一つ。砂漠の中の道路から数百メートルのところにジョーギーの群れが蜃気楼のようにゆらゆら揺らぎながら見えたときのことを思い起こすと夢を見ているような気分になる。

8月18日(土)

朝食8時。国立博物館9:30―10:30その後本屋さん。昼食2:00ホテルへ。2時間昼寝。旅行代理店の人につれてきてもらう。オールドデリーのカシミア(地方)料理店。Chor bizarre indian restrant。ベジタブルカレーよし。カシミアンティー。

8月19日(日)

7時半起床。11時カシミールみやげ店、ホテルのブックストアーなどぶらぶら。昼ホテルのイタリアン。16:00ホテルチェックオフ。

。8月20日(月)

デリーから日本へ。日本の放浪芸の源流は、ジプシーの源流でもあるインドラージャスターン州の沙漠の芸能の民の中にある。日本の放浪芸の源はどこから来たかを考えていくと韓国のナムサダンなどの諸芸能、中国の猿回し、行者などの民間諸芸能にたどりつくが、さらに放浪芸の本質的な要素ともいうべき非定住、門付け芸の源流をたどるとインドに至るのだ。なかでも今回のインド西北部のラージャスターン州は放浪芸の濃密な色彩を今なお残す土地だ。しかもここ西北部から10世紀ころ漂泊の民ジプシーが西へと移動を繰り返したと考えると、沙漠の放浪の芸能は日本の放浪芸民とジプシーを地下水脈で結びつけるキーワードかもしれないという妄想に駆られる。

アルメニアのジプシー(ボーシャ)の歌と演奏(2002年)

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8月14日(水)
アルメニア、エレヴァンに向かうが、ビザは・・

夕刻モスクワ着。18時過ぎにホテル、チェックイン。晩飯は昔20年ほど前によく行ったグルジア料理店”アラグビ”。

8月15日(木)

アルメニアへ入るのは当然ビザが必要なのだが、日本には大使館はないので、モスクワに入ってから手続きをすればいいのかもという不確かな情報でやってきた。シェレメティボ空港に行き、ビザのことを聞いたら、アルメニアの首都エレヴァンに着いてからでよいとのこと。11時に出発して14時過ぎにエレヴァンのスバルトノッソ空港着。外国人は我々だけらしく、係りの男が手招きしてくれ、ここでビザの発給をするから一人30ドル払えということで数分で入国手続きが終了した。
ホテルにチェックイン後に、日本から予約しておいた通訳兼コーディネーターを依頼していたアルセン君と打ち合わせ。アルセン君はエレヴァン国立大学の学生でイスラム教の研究をしている。2001年にはシリアのダマスカスで8ヶ月留学した。アルメニアに存在するというボーシャというジプシー民族についてのリサーチの方法などを下打ち合わせ。彼はこちらの意図を適確に判断できるようだと一安心する。この作業は通訳、コーディネーターに人を得ないとうまくいかない。
この時期は日が暮れるのが遅く、21時頃になってようやく薄暗くなってきた。市内のレストランで夕食。牛肉、チーズ、ハム、きのこなどとビールで、ひとり1000円位だった。

8月16日(金)
籠つくりの集落ーボーシャの仕事

朝6時,起床。ホテルの周りを散歩。気温20度くらいで、乾燥気味の湿度、雲一片もない青空で快適な気分。市内の建物や設備はソビエト連邦に属していた時代に築かれた遺産が中心で、その後の発展は遅いようだ。道路は傷み、穴が多いし、アパートなどの住居も老朽化がひどい。経済的にインフラの補修などに手が回らぬ様子。走っている車もラダかボルガとかいうソ連製のものが結構多い。中心にある共和国広場に面しているホテル・アルメニアは壮麗なたたずまいで風格があったが、内部のインフラはどうなのだろう。
アルセン君やってくる。彼が強調したことは、ボーシャ取材には困難が予想されること。彼らは40年以上アルメニア人として生きてきたので、自分たちをボーシャだと認めようとしない。ジプシーというテーマから彼らにアプローチすると、警戒され反発される。だから、籠つくりの取材というテーマで入ったほうがいいという。唄や踊りの取材はむずかしそうだという。しかしながら、こうした反応はこれまでにも十分経験してきたので、注意深くねばり強く進めるしかない。
10時過ぎにボーシャが居住するカナケル地区に到着したが、地区に入る境にある旧家によって話を聞く。アルツルン・ゲヴォルギャンさん(63歳)は葡萄の木の下のテーブルでお茶を勧めながら以下の話をしてくれた。
カナケル地区は1世紀ころに起源をもつ。15-6世紀はコタイクという地区が中心として栄えたが、16世紀に起きた大地震により崩壊した。そのころエレヴァンは小さな村に過ぎなかった。1958年にカナケルはエレヴァンに組み込まれ、その1地区となった。
お宅を辞して、すぐ脇から細い道を進むと、古いアルメニア教会がカナケル地区に通じる広場に蒼然と建っていた。全体がくすんだ灰色で、くたびれた感じの教会だ。広場から放射状に繋がる一つの小道を入ると、ひっそりとした様子ながら、人の気配はあった。このあたりは籠つくりの集落だ。門が開いていた家に入った。樹木や葡萄の木、鉢植えの花などに埋もれるような庭から、2階に案内されると、そこには籠つくりの部屋があった。この近辺では籠つくりの名人といわれる主人はアラム・ゲヴォルギャンさん(64歳)という深いしわが印象的な初老の男性だった。
籠の取材に日本からきたというので、珍しそうな眼で我々を見つめる。趣旨を話すと、うなずいて自作の籠を持ってきて見せてくれたが、なかなかきちんとした出来栄えであった。籠の材料はウリ(uri)というつる科のもので、笹の1種ではないか。ついで篩(ふるい)を見せてくれた。小麦用のもので金網が張ってある。今や篩(ふるい)は日本ではあまり使用されなくなったが、アルメニアではまだ需要があるようだ。
籠つくりは、数あるジプシーの伝統的職業のなかでも古くからジプシーが携わってきた職種であり、インドにおいてもが籠づくり,篩つくりは石臼つくりなどとならんで、特定のグループの伝統的生業とされてきた代表的職種である。インドの籠つくりの先祖がアルメニアへと移動してきて、ある集団は定住し、別の集団はさらに西へ移動していった。おそらくボーシャはいつごろからかは分からないがアルメニアに滞在したグループだったのだろう。

ジェノサイドを逃れて・・・日本にもボーシャはいるか

ゲヴォルギャンさんの両親は1915年からのトルコのジェノサイド(集団虐殺)を避けるためトルコのエルズルムというところから、西アルメニア(現トルコ領)を経由してロシアのクラスノダルへ逃避した。エルズルムについては、19世紀の露土戦争(1828-29)の際、従軍したロシアの詩人プーシキンが「エルズルム紀行」を表し、アルメニア人に対する好意的な印象が描写されている。クラスノダルは黒海にほぼ面した位置にあり、ゲヴォルギャンさんの両親はそこでの生活の後、1950年頃にエレヴァンにたどり着いたという。トルコの東にあるエルズルムからクラスノダルまではカフカース山脈を越えて黒海沿いにいく1000キロに及ぶ行程だ。この頃の同じ境遇の仲間のなかには、グルジアやギュムリ(エレヴァンから120キロ北)に移動していったものもいる。アラムさんは続けて
「しばらくは籠つくりで生活していたよ。男たちが作り手で、女たちがエレヴァン郊外へ売りに行ったものだ。現在は自分も年をとったこともあるし、子供たちも後を継いでやろうとしないので、籠を売りには出なくなったよ。頼まれれば作る程度だな。」と少々さびしそうだった。家族構成を聞くと
「家族は妻、5人の息子、1人の娘、孫は15人いるよ。今は生活保護を受けているよ。それに加えて孫の1人がアゼルバイジャンとの紛争の国境警備で負傷したので、その補償金も恩給でもらっている。息子のうち、1人は道路づくりをしている。」とのことだった。話を一通り聞いて雰囲気も和んできたので、
「うたをうたうような時はありませんか。」と聞くと,「うたはうたわないが、楽器は作っていたよ」と言って、羊の皮で作ったバグパイプのようなものを取り出した。今は壊れて使えないが、アルメニアでパルカプツクというらしい。話も一段落した頃、アラムさんから、
「日本にも俺たちのような人びとがいるのか」という質問が飛び出してきた。「俺たちのような人びと」というからには自分がボーシャだと暗に認めているようなものだが、そのことには触れずに、私は、日本列島にはインドから来たジプシー民族はいないが、漂泊しながら芸能などで生活の糧を得た一群の人びとがいた。という程度の話をしたが、あまり良く分かってもらえなかったようだ。なにしろ日本のことはほとんど知らないだろうから、短い時間では要領よく説明するのは難しかった。しかし考えてみれば、地球上でジプシーがいない国は中国と日本だけだ、と言われるくらいだから、アラムさんの質問は当然のものだったのだ。
最後にアラムさんは、「俺たちはアルメニア人だ。今でも籠つくりをしているので、籠つくりで知られるボーシャと同一視され、ボーシャと呼ばれるんだよ。」と言うのだった。アラムさんの話してくれた内容は、ボーシャの人びとが歴史上遍歴を続けてきたことを強く示唆するものだったし、息子さんが道路づくりというジプシーの伝統的職種についていること、籠つくり、篩(ふるい)つくりをしながら羊の皮で楽器を製作する技術も有していることなど、ジプシーが携わってきた職種との強い関連も伺わせるものだった。

精悍で鋭い眼光ー印象的な中年夫婦

ジプシー民族は記録を残さない民族で、過去のこと、歴史的記録をたどることに興味を示さない民族だといわれる。このことは、ロマニ語には文字はなく、さらに「書く」「読む」に相当することばはないと言われることなどと密接に関わっていると思われる。おそらくボーシャに関するボーシャ自身による文字の記録類は存在しないであろうから、歴史をさかのぼって彼らの道筋を探るのは至難の業だろう。
アラムさんに別れを告げると、次に2階の隣接している部屋へ案内された。8畳ほどの部屋で2人の中年の男女が籠つくりの最中だった。ウリと彼らが呼ぶ白っぽく、太い部分が5-6ミリ、長さが1メートル余の葦を数十本束ねながら、籠を編んでいく。この葦の形・白い色などは写真で見たインドのラージャスターン地方の籠つくりと酷似していた。
この2人は今まで会っていたアラム・ゲヴォルギャンさんのいとこの夫婦だった。同じ敷地内に一族が住んでいるようだ。男のほうは精悍な浅黒い顔、鋭い眼光が、奥さんは美しい銀髪と柔らかな笑みをたたえた表情がともに印象的な夫婦だ。特に男の人は一言でいうと雰囲気のある人だ。2人が無言で籠を編んでいる姿をみていると、何故か見とれてしまい、声を掛けにくくなってしまったが、
「普通の大きさのものはどれくらいの時間で完成しますか。1個幾らくらいで売るのですか」と声をかけると、二人とも手を休めずに「1個作るのに2時間くらいかかるね。今作っているのがそのくらいだよ。値段は1個2000-3000ドラムで売っているよ。」答えてくれた。日本円で約450-650円といったところだ。私も記念に持ち帰りたくて小さいものを依頼したが、市橋さんも2個作ってくれるよう依頼した。値段は合計で1600ドラムということだった。私の心の内には、籠を注文しておけば、後で受け取りに、もう一度話を聞きに訪問する口実ができるという打算がなかったとはいえない。
とにかくゲヴォルギャンさん一族と親戚が一緒に住んでいる家は大家族で何人いるかも分からないほどだった。帰りがけに、出口付近で煮物をしていた鍋があった。冬のための保存食だといったが、瓜みたいなものが煮立っていた。帰りの車中で市橋さんが、「彼らの顔の骨格はインド人の容貌を想起させますね。もちろん皮膚の色は白くなってはいますが。」と話した。

羊の皮ひもで編んだ篩(ふるい)

昼食を取りに、エレヴァン市内に戻り、アルセン君推薦のバイキング専門店に入る。肉コースとヴェジタリアンコースがあり、値段は肉コースが若干高いが、室内の様子もシンプルでありながら、アルメニア風な飾りが控えめながら効果をあげている。野菜のサラダや煮物などが中心のメニューは疲れた胃には心地良くてありがたかった。
午後はエレヴァン市内のボーシャ居住区として情報があったサリタグ地区にでかけることにした。たまたまそこにアルセン君がシリア留学をしたときの友人でボーシャとも知り合いの家があるということなので訪ねることにした。アポイントなしに訪れたので、友人は不在だったが、気のよさそうな母親が私たちを歓迎してくれた。アルセンの用件を聞いてすぐに母親は裏に住んでいるというボーシャの女性を呼びにいってくれた。
まもなく腕に篩(ふるい)を抱えてあらわれた女性はヴァルドゥシュ・アヴァギャンさん(67歳)という快活そうな女性だった。旦那さんは今出かけているが、篩を専門につくっているという。早速、エレヴァンに来る前はどうしていたのか、家族構成などを質問すると
「両親は西アルメニアから来たと言っていましたが、私はエレヴァンで生まれました。夫はソ連時代には籠つくりを一時やめて、工場に勤めていました。ソ連が駄目になってから、工場もなくなったので、最近、また篩(ふるい)つくりを再開しました。昔は近郊へ行商に行くと、村の人たちからとても重宝がられたものです。どこの籠つくりの家でも夫がつくり、妻がそれを売りに出かけたものです。」と言った。彼女の年から判断すると、1930年ころにはエレヴァンに来たようだ。またソ連時代には、15の共和国にそれぞれ役割を分担させていたが、アルメニアは工業分野に優れた実績を示したから、夫が一時工場労働者に転職したのもうなずける。さらにアヴァギャンさんは続けて、
「家族は娘3人と息子が2人だけど、息子1人はロシアへ出稼ぎに行っています。どこでも今はそうらしいけど、子供たちは篩(ふるい)つくりに関心はないみたいなので私たちで終わりです。篩の値段は1個1500-2000ドラムです。このあたりのサリタグ地区では2-3軒の篩(ふるい)つくりが残っています。」と答えてくれた。
このサリタグ地区は1946年シリアなど世界各地から離散家族がアルメニアに戻ってきたとき、政府から与えられたのが始まりで、その際、ボーシャの人も移り住んだという。仕事場を見せてもらおうと、裏につづく細い通路を入っていくと、ちょうどご主人ヴァハン・マテヴォシャンさん(65歳)も戻ってきていた。
ここで見た篩はアラムさんのところで見た金網のものではなく、網目を羊の皮を細くなめしたひもで交互に編んだ見事な篩だった。網の張り具合も強く、手でバンバンたたいてもびくともしない強い張り具合であった。私などには金網の篩よりも、羊の皮でつくった篩のほうが、職人芸が生んだ工芸品としても優れたものだと思えた。話の最後に、「唄などをうたうことはありますか」と尋ねたが、「みんな忘れてしまったよ」と、私の誘いには乗ってこなかった。

重要な手がかり、ロムという言葉!

サリタグを離れてエレヴァン市から1時間ほど車に乗って、ジュラベルという村にやってきた。途中、道路に沿ってモノレールの線路を支える巨大なコンクリートの塊が数キロにわたり続いている。アルセン君によると、ソ連時代の負の遺物で、モノレール工事がソ連崩壊のため途中で中止されて巨大なごみとなっているのだという。
シュラベル村は放牧や農業などを細々やっているのんびりした村だ。到着したのは午後4時半、道路の傍らの人たちもけだるい雰囲気で何をするふうもなく佇んでいる。夕刻も近いので、今日は村の様子を見て、何か収穫がありそうだったら後日改めて来ることになりそうだ。私たちは道端の年配の男たちに挨拶をして世間話などをしているとぞろぞろ村人が集まってきた。見慣れぬ人間が来たというわけで、私たちは村びとたちの退屈しのぎの見世物になってしまったようだ。集まってきたのは皆、中年の男衆だ。
まもなく痩せぎすで長身の男が通りかかり足を止めて寄ってきた。色が浅黒く、はっきりした顔立ちで、どうみてもインド人にしか見えないその男は積極的に話しの輪に入ってきた。周囲はいつしか10人程度のミニ集会みたいになった。くだけて、なごやかな空気のなかで、話は自然にボーシャについての話に移っていった。<インド人>は
「私の両親はトルコのエルズルムからギュムリを通ってエレヴァンに来たといっているよ。」というと別の男が、
「ボーシャはインドにもいると聞いたことがあるけど、日本にもいるのかい」と質問してきた。やはり同じ疑問を持っている人が多いのだ。前と同じ答えをしたが、日本にもジプシーがいると言いたい気持ちがどこかにあった。そのほうが日本列島はさらに豊かな文化を生んでいただろうと考えると不思議な気分になる。
彼らに、自称つまり自分たちのことを何と言うのかを聞くが、答えがなかなか出てこない。そこで
「ロムというのですか」と聞くと、多くの男たちがうれしそうに、「そうだ、そうだ」とうなずいたのだ。
この答えには驚いた。やっぱりそうなのだと納得するとともに大きな手掛かりを掴んだ手ごたえを感じた。とにかくこの答えは重要だ。自分たち自身を指す、広く行き渡っている言葉は、言語による民族の類推を可能にするからである。
ジプシーたちが広く自分たちを指すときに使う語(本来は、人間あるいは夫)はヨーロッパ・ジプシーのロマニ語では「ロム rom」、アルメニア系のロマニ語では「ロム lom」、ペルシアやシリアの方言では「ドム dom」という。
「ロム rom」「ロム lom」そして「ドム dom」はすべてサンスクリット語の「ドンバ domba」との音韻的な類似が見られ、現代インド語の「ドム dom」あるいは「ドゥム dum」といえばある特定のグループを指す。
サンスクリット語で「ドンバ」というのは「うたをうたったり音楽を演奏する低カーストの人間」を意味し、この「ドム」は現代のインドでも生きている言葉である。彼らは下層のカーストに属し、籠つくり、鍛冶、金属細工、汚物処理、楽師、皮、道化、軽業、蛇つかい、踊り、パントマイム、人形つかい、占い、予言といった、実に多様な職種に従事する無定形ともいうべきグループである。
村人が自分たちをロムということは、彼らがジプシーのアルメニア系ロマニ語による自称の言葉を伝えているということだ。
私たちがボーシャの人たちを訪ねて、カナケル、サリタグの両地区に行ってきたというと、誰に会ったかと質問され、名前を挙げていったら、サリタグの籠つくり職人ヴァハン・マテヴォシャンは親戚だという村人もいたのだった。改めてボーシャの人たちの大家族主義・血族意識の強さを感じたのだった。この村のボーシャは籠つくりをしていないようなので、
「私たちは地球上のいろいろな民族のうたやおどりを見て歩いているのですが、この村にそのような芸達者はいませんか。」と質問した。最初は、うたの上手いのはいないとか、自分は下手だとか言っていたのだが、
、「ボーシャの言葉、ロマニ語でうたわなくてもかまいません。アルメニアの言葉でもいいから是非伝えられているうたを聞きたいのです。」とねばった。もちろんボーシャの言葉でうたってくれれば最高だが、アルメニア語でもいいからうたを聞きたかった。うたは時には、言葉(歌詞)の意味を遥かに越えて、人間のもつさまざまな感情や情感そしてうたう人の歴史まで伝えてしまう力があることを私は信じているので、それを感じてみたかったのだ。そこからはるか昔にインドを旅たったジプシー先祖の心性に少しでも近づいてみたかった。私たちの余りの執拗さに同情したのか、「30分前にエレヴァンに行ってしまったけど、1人うたのできる奴はいるよ。」とか<インド人>のいとこでエレヴァンに住んでいる作家が、自作詩を朗唱するとか、幾分答えの中味に変化が起きてきた。とにかく今日は遅いので明日もう一度尋ねる約束をして、エレヴァンに戻ったのだった。

8月17日(土)
あのガスパリヤンのバンドにいた!

午前はアルセン君の母が代表をしているアルメニア民族学研究センターを訪ねて、ボーシャのことについて様々な情報をいただいた。貴重な研究成果を惜しげもなく初対面の日本人の私たちに公開してくれたことに正直のところ感謝した。そして彼らの学者としての度量の大きさを尊敬せずにはおれなかった。しかしながら、同時に、長年研究を重ねてきた成果を自国アルメニアでは発表しない(あるいはできない)背景・実情に同情を禁じ得なかった。ボーシャにまつわる、このあたりの事情はデリケートな問題らしく、彼ら研究者は差別を助長しないためと説明したが、アルメニア政府がボーシャの存在を公認していないことや、国内の少数民族問題に影響を与えることなど、政治的配慮が背景にあることを感じさせたのである。
センターを後にして、前日にオーダーした籠を受け取りにいくことにした。再びカナケル地区へ出かけたが、そこでは思いがけない、うれしい情報が得られたのである。籠をオーダーした男性サロ・ゲヴォルギャンさん(43歳)から約束の籠を2個受け取り、1600ドラムを支払って、帰ろうとしたが、一応無駄でも聞いてみようと「唄はお好きですか」と聞くと
「以前は、歌手だったんだ。ガスパリヤンと一緒にドゥドゥクも吹いていたんだよ。」と驚くべき答えが返ってきた。シヴァン・ガスパリヤンといえばアルメニアが誇る世界的に有名なドゥドゥク奏者だ。ドゥドゥクとはダブルリードの縦笛でアルメニアやグルジアなどで広く親しまれている楽器である。日本でもガスパリヤンのCDがリリースされ、ワールドミュージックの愛好者のなかでは知られている存在だ。目の前で籠を作っている男、サロ・ゲヴォルギャンさんがその楽団に在籍していたというのだから、驚くのと同時に不思議な縁を感じたのである。
「3年前に自動車事故で歯の大けがをしたので、今は籠つくりをやっているのさ。唄が聞きたければ、ちょうどあさって孫の誕生パーティーがあるので、来ないか。そこでは唄もうたうし、ドゥドゥクも吹くよ。」と最高にうれしい招待を受けたのだ。やはり無駄だと思っても聞いてみてよかった。それまで何人かのボーシャの人にあったが、うたなどの芸能の話題には乗ってこないことが多く、やはり研究者の言うようにうたはうたわないのかと若干弱気になりかけていたところだった。遠い日本から勝手にやってきた異邦人の私たちを、可愛い孫の誕生日に招待してくれる彼の気持ちがうれしかった。
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ロムの誇りと干草の匂い

前日、約束したジュラベル村にカナケルから直行する。途中、街道筋に立ち並ぶスイカ売りから、1個大きいものを購入したが、アルメニアではスイカは量り売りでキロ70(ドラム)とか80(ドラム)と立て看板が林立している。1000ドラム(200円余)払ったから、15キロ弱の重さというわけだ。そして雑貨店で、ウオッカも1本仕入れた。これも1000ドラムだった。
シュラベル村の名前は「水を運ぶ人」(Water Bringer)という意味があるそうだ。ソ連時代、水道がなく、水も引かれてない時代に各家庭に20リットルタンクが配給されていた。その後1950年代に水道が引かれたが、当時の名残でWater Bringerというのだそうだ。さらにシュラベル村は別名「ボシ ギュク」(Boshi Gyugh )といわれるが、ボーシャの村という意味で、この地区にボーシャの人が多くすむようになって、別名がついたという。
昨日、いろいろ仕切ってくれた<インド人>、マヘル・アラケルヤンさん(42歳)の家を訪問した。農家風の家のテラスでは数人の男たちが集まって、酒宴が始まっていた。テーブルにはトマトと漬物、ヨーグルト、パンが無造作にあり、ウオッカが強烈な香りを放っていた。アラケルヤンさんはすでに気持ち良さそうに酔っていた。まずテーブルに座って、彼が私たちを歓迎する挨拶をしてから乾杯をした。
部屋に招かれて入ったが、10畳ほどの大きな部屋だった。正面に大きな肖像画の額が掛けられてあるのが目を引いた。肖像画は明らかに素人風の筆使いになるものだったが、アラケルさんの祖父の顔が大きく描かれていた。工人帽子をかぶり、パイプをくわえて、ちょっと微笑んでいる。深い皺と柔和な目の表情がいい顔だ。反対側の壁には、素朴な表情をした祖母の写真が掲げてある。部屋の調度品といえば、角にある素朴な食器入れと、2つのベッド、テレビ、3人かけのソファで簡素なものだ。赤いじゅうたんが壁掛けになっているのは、アルメニアでよく見かける光景だ。
その祖父母も西アルメニアを経由してきたという。昨日、彼が話してくれた、両親とともにトルコのエルズルムからギュムリを通ってエレヴァンに来た時は祖父母も一緒だったのだ。結局、うたをうたってくれることになったのはアラケルヤンさんだった。
うたう前に彼は壁の祖父の肖像画を見つめながら、「自分がロムであることに誇りを持っている。」とつぶやくように言った。最初に表情豊かにうたわれたのは短いラブソングだった。うたはすべてアルメニア語であった。アルセン君によれば、アルメニア文字は39あり、最近外来文字がすこし加わった。似た文字が多く、われわれには判別が難しい。インド・ヨーロッパ語にはいっているが、孤立言語といわれ、系統がはっきりしない。語彙的にはペルシャ語、トルコ語がはいっているが、文法的には違う。日本語も孤立言語と言われている。最初の曲は
アラズ川を横切り向こう岸に渡った
柘榴(ざくろ)の実を投げた
柘榴の実でどうすればよいというのか
愛しい人の住むところへ連れていっておくれ
ずっと山や野原をさまよってきた
靴下を洗ってしまった
心の扉を開いてしまった
愛しい人よ、死ぬほどあなたの体を想う
あなたを想う余り死にそうだ
2曲目もラブソングだった。
偶然美しい少女に出会った
どの部族の出身かは知らないが・・・・
武器を使わずに殺すように
火をおこさずに肉を焼くように
私の魂を奪ってしまった
私はといえば苦しい生活に耐えるばかり(英語訳 アルセン・ハラティヤン 日本語訳 市橋雄二 以下の歌詞・詩も同様)
人間のさまざまな感情表現のなかでも恋や愛は文学・音楽などの芸術的表現の基本になるテーマの1つだが、マヘルさんのうたを聞いていると、彼らの豊かな情感とそれを切実に表現する力強さにうたれてしまう。柘榴のイメージはとても鮮烈で、色彩的であり古代的な匂いを感じさせ、比喩も豊かである。1曲目のアラズ川とは、トルコとアルメニアの現在の国境沿いを流れる川で、日本の地図ではアラクス川と記されている。このアラズ川は、旧約聖書「創世記」にエデンの園と目される伝説があるほどの由緒ある川である。
うたの後に詩の朗詠も行われた。これはマヘルさんのおじさんが長男誕生を祝って20年前に作ってくれた詩だった。おじさんヴァズゲン・アラケルヤン(60歳)はエレヴァンに住む作家だという。
「すべてのボーシャに捧げる言葉」
どうして伝統から遠ざかろうとするのか
どうして父を忘れてしまうのか
どうしてふるいや籠作りを忘れてしまうのか
どうして言葉を忘れてしまうのか
何一つ過去から残っているものがないではないか
先祖たちは行き、若者の時代がやってくる
連中は手足もないのに空を飛ぼうとしている
ロムであることは恥だと言いながら
ロムはいったいどこにいる
そして我々はどこにいるのか
我々をボーシャと呼んで欲しくない
我々はそんな国や民族に属しているのではない
我々はロムという言葉から逃れようとしている
見よ、新しい服を着て、新しいジーンズをはき
おまえたちよ、我々の先代たちは黒い熊の毛皮を着ているのではないか
ボーシャであるというお前たちは
どうして生い立ちや先祖のことを忘れようとするのか
どうしておまえたちはこの国(アルメニア)の一部になろうとするのか
テントで暮らしている時の方が良くなかったか
自分たちで作ったものを売り
自由の最たるものではなかったか
おまえたちは一体何になろうというのか
うたいながらも、ウオッカを飲んでいたので、途中で詩の朗詠は息切れし、途中、小休止をしながら続けられたが、詩の内容は含蓄に富んだものだった。ロムとして生きる姿勢が、まぶしいほど率直に語られている。昼間でもやや暗い部屋の窓際にいるアラケルヤンの顔に、窓から差し込む陽があたり、彫りの深い表情に荘厳な印象が加わったような気がした。お宅を辞するとき、抱擁を交わしたアラケルヤンの体から干草の匂いが鼻をついたが、懐かしい匂いだった。

8月18日(日)

エレヴァンのホテルを出て、アルメニア北西部にある古都ギュムリに向かう。空が晴れてきた。気候的には今が最高のようだ。途中日本でも知られている映画監督のパラジャーノフが住んでいた家やジェノサイド記念館などがある丘などを右手に見ながら北へ移動する。左後ろにアララト山が見えるが、上半分は雲で見えない。アララト山はアルメニア人の心のよりどころとされている名山で、ノアの箱舟が漂着したところとされる。標高5165メートルと相当高い山である。現在はトルコ領にある。前方にそびえる標高4000メートル前後と思われる山並みには頂付近に雪が残っている。視野に入る土地は岩だらけの地肌がのぞき、肥えているとは決して言えない。裸の山の連続で、神話が生まれるような雰囲気が漂っている。岩に申し訳なさそうにくっついている土―――と言いたいくらい岩があらゆるところを占拠している山々。現在走っているところが海抜1000メートル以上だから前方の山並みが4000千メートルを超える高さであっても不思議ではない。ずっと走ってきた道路は舗装がきちんとなされていて意外な感をもったが、クライスラーのオーナーがアルメニア人でギュムリまでの120キロの舗装費用を無償供与したのだという。これもアルメニアらしい話だ。
途中では緑に恵まれたところもあったが、ウォールナット・ツリーの街路樹が続くあたりは果樹園農家が集中しており、これまでの荒涼とした風景に慣れた目には新鮮でやすらぐ風景だ。ブドウ畑が目立ってくる。たまたま今日8月18日は教会でお祈りをして、ブドウが食べられる日の始まりだという。アルメニアの主な輸出品は水、ワイン、コニャック、ビール、もも、あんずなどである。去年はあんずが豊作だったが、今年は雨が多くて出来は悪いらしい。
ギュムリに近くなるにしたがって、風景が大きく変貌する。道端に倒壊したままの石の家の残骸が延えんと続くのだ。1988年に起こったアルメニア地震はこのあたりまで影響が及んでいる。震源地はスピタクというところらしい。このあたり一帯の犠牲者は7万人に及んだらしい。阪神の地震とアルメニアの地震の復興速度の違いに愕然とする。
ギュムリは鬱蒼とした緑、樹木が生い茂り古都の雰囲気が漂う山岳都市である。地震復興に入ったドイツ隊が建てたという宿泊ホテル(ベルリンゲストハウス)に入る。

自宅ではロム語で会話

ギュムリで最初に会ったボーシャはサムヴェル・ミナシヤンさん(42歳)という中年の男性だった。目指してきた人は2年前に死去しており、会ったのは同名の息子さんだった。白い生地に横縞のシャツのミナシヤンさんは短い髪の精悍そうな表情だが、話声は小さく、つぶやくような話し振りだった。彼の父親が亡くなっているというので、予想はしたが、やはり息子の代になってからは篩(ふるい)つくりはやめていた。ミナシヤンさんは私たちがわざわざ訪ねてきたのに気を使って、父が使っていたナイフがあるはずだと、探し出してきて、見せてくれた。ナイフはこれまでもボーシャの家で見たものと同じもので、素朴な折りたたみ式のもので、刃は10センチ程度で何回も研がれてやや幅が細くなっており、いかにも使い込まれた様子だった。多分、日本の小刀「肥後の守」のような存在なのではないか。
篩(ふるい)つくりの話は聞けなかったが、代わりに興味深い話を聞くことができた。
「俺はうたをうたわないが、近所にはかつて楽器などを作っていた人もいた。ダブルという太鼓やシェビー、ドゥドゥクなどの笛を作っていた。」と言った。
ロム語について尋ねると、
「家の中では今でもロム語で話しているよ。<父、母、息子、娘>などの単語はロム語を使う。<犬>は警察を指す隠語だ。<猫>や<水>は知らない。」と答えた。このロム語の言葉のやりとりには集まってきた3人の男の子供たちも参加して一緒に合唱するように口にしたので、今もこの家族の中ではロム語が使われていることは確認できた。単語だけでなく、文章でも話してもらいたかったので、<犬を見る>という文章をロム語で話してもらった。これは市橋さんがとっさに思いついた考えからだった。ミナシヤンさんは、<犬を見る>をディケム ソラフ”dikhem solaf”といった。ディケムは見る、ソラフは犬の意味であるという。
市橋さんが、ジプシーが出演するユーゴスラビア映画「黒猫・白猫」をみたときに、彼らが使う「見る」という意味の語とインド語が同じだったので、ここでももしやと思い、「犬を見る」の例文を質問したというのだった。つまり「見る」などという基礎語彙は変化を受けにくいから、言語の起源を探るにはいい例なのである。市橋さんによれば「見る」にあたる北インドの言葉はデーク(dekh)だから、見るという意味の動詞語幹が共通していることが分ったわけである。
<ナイフをつくる>というのはアルメニア語と同じだったとアルセン君は言った。とにかく、現在でも家の中、家族の間ではロム語を使用しているボーシャがいることが分かったことは嬉しい発見だった。
この訪問の最中に、突然、入り口から女の大きな声が飛び込んできた。何を言っているのか分からないが、相当な剣幕で、どうも様子から察すると怒っているらしい。アルセン君と言い争っている。2-3分やりあっている内に、女の声の調子も落ち着いてきた。後で聞いたところ怒っていた女性は近くに住んでおり、ボーシャと結婚しているアルメニア人であった。冷静なアルセン君から聞いた彼女の言い分は以下のようだった。
「私たちはアルメニア人だ。アルメニアのジプシーなどはいない。ボーシャという特別な人もいない。ロムの言葉があるというのは嘘だ。ロム独自のうたもない。篩(ふるい)つくりは代々伝えられてきただけのことだ。この辺にはボーシャなどいない。」
こういう事態がいずれ起こることは予想しており、今まで起きなかったのが、不思議なくらいだ。むしろこうした経験からも、より一層ボーシャのアルメニアにおける位置や実態が明瞭に見えてくるものなのだ。

助け舟で意外な展開

昼になったので一旦ベルリンゲストハウスに戻り、昼食にしたが、これは忘れがたい料理だった。ギュムリではコルマという料理で、大きいなす、トマトのなかに肉などを詰めこんだ煮物だ。詰めものは肉以外にもいろいろ入っており、香辛料が複雑な味わいを生み実においしい。アルメニアに来てから最高のご馳走だった。ロールキャベツは日本でもあるが、コルマにはかなわない。
食後、満足感にひたっていると、アルセン君が嬉しいニュースを伝えてくれた。それは、このおいしい料理をつくってくれた女性、カナリク・トロシャンさん(51歳)が、私たちギュムリ訪問の目的を知り、気を利かせてボーシャの女友達に声をかけてくれたということだった。そして幸いにも、その女友達が、うたのできるボーシャの女性を知っていると言っているので、彼女に案内させるというのだった。このホテルはいわゆるホテルというよりは、旅籠という感じの親しみやすい宿なので、受付カウンターが溜まり場になり、私たちとホテルの支配人や従業員のおばさんとが言葉を交わす機会が多かった。そこでの私たちの話が伝わり、カナリクさんが助け船を出してくれたと言うわけだった。どこに幸運が転がっているか分からないと思いながらも、彼女の親切が身に沁みた。
まもなく現われた女性を乗せた車はギュムリ市内を過ぎ、郊外のバス停留所で一旦とまった。女性は車を降りていったが、まもなく1人の中年女性を伴って戻ってきた。ついてきた目鼻立ちのはっきりした、小麦色の肌の女性は目指す女性の長女だった。彼女が一家の働き頭で、物売りの商いをしているという。長女が一緒にいれば母親も心強いだろうと私たちも安心する。郊外を少しはずれ、目的地が近くなったころ、広場に巨大な石像が立っていた。どこか見覚えがある顔だったので、誰の像かたずねると、シャルル・アズナブールだという。フランスの大歌手、俳優として有名な存在だが、彼もアルメニア人だったのだ。そう言われればあの顔は典型的なアルメニア人の顔だった。1988年の大地震に心を痛めた彼は復興資金として相当の私財を投じたという。かくて石像がたったわけだ。

ついにロム語の唄が飛び出した

“アズナブール広場”を過ぎると見晴らしのいい野原のようなところにでた。林といえるほど樹木はなく、夏草が生い茂っている原っぱに、平屋のバラックの群れがまばらに連なっている。そのバラックに交じって古いコンテナの群れが目立つが、家屋に転用されているのだ。バラックの屋根や外壁はトタン板が多く使用されているため、すでに錆びて赤茶けて、穴も相当空いているので、それらの家並みが続くこの地区の風景はかなり荒涼としている。
そのようなバラック群のひとつが私たちの目指した家だった。小柄な初老の女性が入り口の前で待っていた。ナヴァルド・ハチャトゥリヤンさん(66歳)だ。黒々とした髪を後ろでまとめ、浅黒い顔はひきしまり、深い皺が越してきた風雪を偲ばせる。黒地に花柄のワンピースの上から青い袖なしカーディガンを羽織っている。グリーンの石のイヤリング。まなざしは優しいが、強い意志も宿っている。
部屋に入ると正面に若い男の写真の額が飾ってあった。長女の夫の写真で若くして亡くなったのだという。手製の洋服ダンスが右奥に、手前に並んでやはり手製の食器棚。やはり簡素な室内である。
「うたをどのように覚えたのですか」と聞くと、
「義理の兄の妻から覚えました。」としゃがれ気味の声で答えてくれた。この家は男手がないから篩(ふるい)つくりはしていない。一緒に来てくれた長女の娘さんが働き手なのだ。「88年の地震後、このバラックを支給されて住んでいるのですよ。その前はアパートメントにいたのです。」などと、短い言葉での会話ではあったが、人との対し方に不自然さやぎこちなさがなく、自在な感じで話す物腰が彼女の品性を示しているように思われた。
歌に入る前にアルメニア語で歓迎の言葉があった。その調子は詩の朗詠のようだった。「こちらの方々はとても良い人たちだ。わざわざ私たちの家まで来てくれた。この人たちに敬意をはらい、歓迎し、気持ちよく見送らなければなりません。」そしてうたい始めたのだが、最初の曲はロムの言葉だった。通訳を務めるアルセン君が驚いた様子で、私たちを見た。後でナヴァルドさんがアルメニア語で意味を語ったところによると、
この地から逃げ出したいと思えどままならぬ
見知らぬ国に至りて
我が子に会わんと故郷に帰るも能わず
という内容で、過酷な漂泊人生をうたったものだった。もう一曲、ロム語でうたってくれたが、これの説明はなく分からなかったのが残念だったが、録音には残っている。 3曲目はアルメニア語で
汝に尋ねよう、ああ、山々よ、低くなってこっちへきておくれ
愛する人に会いにいくのよ、どうか道を切り開いておくれ
あの人を想い、胸がつまる
道は険しく石ころだらけ
子供のころから想いを寄せていたのに
律儀な人があの人を引き離してしまった
暗い一日にしてしまった
わたしの心を永遠に砕いてしまった
うたいながら表情が刻々と変化していく。特に目の表情が豊かで魅力的だ。マヘル・アラケルヤンさんのうたからも感じたが、恋や愛情をテーマにしたものには、情感が脈々と伝わり、彼らの豊かな感性と表現能力の高さを感じさせる。
最後は短い詩を朗唱した。
孫が家を出て行った わたしの足はあの子に会いにいけるほど長くはない どんなにあの子を想っているか 言葉で言い表すこともできない わたしはもう年老いてしまった もうじき死んでしまう 孫にも会えないだろう どうすればいいのだろうか
最後のほうはつぶやくような語りだった。両手の指を組み合わせたり、前に交差させながら、少ししゃがれた声で、巧みに小さなこぶしを駆使してうたううたを聞いていると、トニー・ガトリフ監督の映画「ベンゴ」の1シーンを思い起こしたりした。それはパケーラというフラメンコのヴェテラン女性歌手が洗礼のうたをうたっているシーンだった。パケーラのうたには、どこか古いうたの基層のようなものを感じたが、ナヴァルドさんのうたにも同じ匂いがあった。
アルメニアに来てついにロム語でうたわれたうたを聞くことができた。エレヴァンで研究者にあったとき、彼らもボーシャのアイデンティティの発露としてのうたなどを採集したいと思っているが、現在まで実現していないと言われ、専門家の彼らがそう言うからには、よほど困難なのかと思ったが、先のマヘル・アラケルヤンに続いて二人目のうたを聞くことができたことは幸運だったとしかいいようがない。
そして最後のうたではハミングだけで、手拍子を入れながら、やがて両手を上にかざし、豊かな手振りを見せてくれたのだ。これには私も少々驚いた。うたをうたうだけでも彼女のこころのなかにある葛藤があったろう。久しぶりのうたかもしれないし、知らない人の前でうたをうたうことにはためらいや戸惑いもあったはずである。さらに言えばボーシャであることを隠しはしないが、あえて公言することもないと思っていたかもしれない。だが、うたをうたっているうちに、そのような思いが自然に消えていき、体が反応して最後の身振り、手振りになったのではないか。それは短いものだったが手馴れた手振りを見て、ついにジプシーの心性に触れたと思った。それほど彼女の手の動きにはジプシーの肉体化されたリズム感が込められていた。

8月19日(月)

ギュムリからヴァナゾールと通ってエレヴァンへ向かう。周囲は緑が割合豊か。右手に渓流。途中ギュムリから50キロくらいの地にスピタクはある。1988年の大地震の震源地だったが、景色が一変したといわれる。地区は壊滅して廃墟の後に、まったく新しい街が作られた。国際的な援助資金が集中的に投下され、復興されたが、同じ形の建物が立ち並ぶ景色が不気味である。さらに数十キロ走り、ヴァナゾールに入る。ソビエト時代の石油コンビナート群やセメント工場の廃墟、朽ち果てた工業団地の残骸を見ていると巨大な現代美術のオブジェを眺めている錯覚に陥る。アルメニアがソ連から与えられた役割を忠実に演じた結末は悲しい。この辺はグルジアの影響をうけた方言もあり、地方色の濃い地域だっ。ソ連崩壊と大地震が同時期に起こった影響は深刻だったろう。アルメニア唯一の湖、セヴァン湖に近くなるころ、何回か養蜂の箱を運んでいる一団に出会う。花畑が多いところのようだ。途中ディリジャンという作曲家ハチャトリアンがしばらく住んでいた保養地を過ぎる。

8月20日(火)

ジェノサイドの丘へ。モニュメント。尖った塔。街の遠景、など撮影。記念館はじめに説明される昔の大アルメニアの版図の広大さよ。そして今のアルメニアの狭さよ!

8月21日(水)

モスクワへ。

マケドニアのジプシーバンドそして大道芸の少年(2006年)

8月6日(日)
イスタンブールで事前調査-トルコのジプシーはチンゲネ・・

前夜19時50分発の便で羽田をたち、関西空港に21時過ぎ着いたまではよかったが、乗継便イスタンブール行きが3時間延発だという。何もすることもなく、ただ時間の経過に身を委ねた。同行者はいつもの市橋雄二氏。イスタンブールには3時間遅れて午前8時過ぎに到着。イスタンブールにはマケドニアからの帰途に寄り、取材をするので、夕刻16時40分発のスコピエ行きまでの時間を有効に使うため一旦予約してあるホテルWOODEN HOUSEに行き、情報を仕込む手はずになっている。ホテルからの車に乗り市内へ向うが、かなり暑い。冬、真っ只中の今年の1月にトルコの西部を廻ったが、雪も降り、市内の様子もどことなくくすんで見えたが、さすがに夏のイスタンブールは活気溢れる国際都市である。
ホテルはトプカピ宮殿、アヤソフィア博物館、地下宮殿などが立ち並ぶ観光名所スルタンアフメット地区にあるのだが、マルマラ海に接する海岸から100メートルくらいの地点にあり、すぐ裏を鉄道が海沿いに走っている。ジプシーの多く住む集落もこの一画にある。
ホテルのフロントには人の良さそうな若い男が坐っていた。ゼキという名の物静かな雰囲気を持ったフロントマンに早速我々の意図を説明し、後日宿泊する際にどんなことをしたいかを説明した。意図を飲み込むのが早いゼキはなぜかホテルを出て近くを案内するという。ホテルを出て右に行くとすぐにT字路にぶつかるが、ぶつかったところにひげの人の良さそうなおっさんが椅子に坐ってのんびりしている。ゼキが何事かいうと、おっさんはホテルにやってきった。ゼキによれば、おっさんはチンゲネだという。チンゲネとはトルコでジプシーの意味である。しかもミュージシャンで喫茶食堂みたいなものも経営している。名はメメットという。かれは26人のメンバーのバンドリーダーだった。こんな偶然があるのでろうか。宿泊する宿はジプシー集落の中から意図的に選んだが、まさか数軒先にチンゲネのミュージシャンがいるとは思わなかった。
メメットさんは7歳から音楽で食ってきたが、今は年(69歳)もとったのでカフェ(トルコ語でカフヴェ)を経営しているが、基本的には今も音楽で生活している。仕事の場はホテル、レストラン、結婚式のエキストラが主。その他、チンゲネの集落のことをいろいろ教えてくれた。彼とはマケドニアからの帰途に録音などをさせてもらうことにする。彼たちの演奏も聞かないで決めたのは、彼の周りから伝わってくるものが間違いなくジプシーそのものだったからである。
灼熱に近いイスタンブールからマケドニアの首都スコピエに着いたのは17時過ぎだった。わずか1時間余のフライトである。空港からホテルに向う車窓から見たスコピエの風景はややわびしげで、荒廃の気配も漂うものだった。旧ユーゴスラビアのころの社会主義時代の残滓がそこそこに見える。これに似た感じはアルメニアのエレヴァンにもあったが、こちらのほうがより貧しい感じだ。ユーゴ解体に伴った内戦がいかに深刻だったかが伝わってくる。まもなく中心からすこし外れた住宅街のなかのこじんまりしたホテルに到着。MRAMOR ホテルだ。日本からの14-5時間のフライトに疲れて、その夜はぐっすり眠れた。

8月7日(月)
ロマのテレビ局ーBTRとシュテルTV

マケドニアの取材は市橋雄二君と横井雅子さん(国立音楽大学助教授)、森谷理紗さん(モスクワ留学中)、濱崎友絵さん(東京藝術大学大学院)たちが放送文化基金の助成を得てスコピエのジプシーを調査する機会に合流させていただいた。市橋君は横井グループのメンバーも兼ねての取材となった。横井さんには永年、市橋君が民族音楽のソフト制作を通じて様々な形でお世話になっており、その流れで今回の取材合流となった。横井さんグループはロマのシュト・オリザリの現状や放送局などの状況を中心に調査し、我々はインド・アルメニアの取材以来続けてきたジプシーロードともいうべき彼らの歴史的な行程をふまえながら、ジプシーの音楽・芸能の本質を見つめていく作業をする。今日はロマの経営する2つのTV局、BTRとシュテルTVを取材する。
ここでジプシーの表記について、付け加えておきたい。私の基本的な立場はHPの冒頭に述べてあるが、マケドニアに関する記述についてはジプシーとロマという表記を併用させる。これは現地での表記や言葉使いの中に、ロマという表現が目立ったことや表現上の納まり具合が関係している。

アヒル使い
動物芸をやれる人はいないか事前に問い合わせていたせいか、近くにアヒル使いがいるというので、訪ねることになった。入口に小さな3メートル四方の池にアヒルが数羽いるのがちょっと他と違うだけの典型的な前庭のあるロマの家を訪ねた。メフリャン・ハサム(40歳)さん宅。彼によれば、アヒルの飼育はたまごから飼育する。アヒル同士の闘いを見世物にする。時期的には毛が固くなる冬がシーズン。アヒル飼育は5-6人の親戚が同業。但しハサムさんは工場勤務で、アヒルは趣味だという。この辺は微妙な感じがある。ロマの人びとが工場勤務のような賃金労働についたのは近年のことだろうから、それ以前の職歴も知りたい。ただ、アヒル使い、つまり日本の闘鶏に近いものだとしたら、動物芸とは違うかもしれない。念のため、猿まわしを見たことあるか聞くと、やはりないとの答え。熊つかいは実際来たことがあるという。
ちなみに、マケドニアは猿の生息圏にはいっていない。よく知られているように日本列島では下北半島が猿生息の北限地だ。緯度的のもマケドニア(北緯42)は下北半島(北緯41-42)より北に位置する。猿回しについてはモロッコのマラケシュ広場の猿回しは知られている。これらの猿はどこからつれてきたのか。多分アフリカだろう。多種多様の猿がいる。だが、大道で猿の芸を披露しながら、金を稼ぐ形はインドが先祖だと思う。つまりはジプシーが西に移動しながら猿の生息地もしくはそこに近く手に入れて飼育出来る環境の地では猿回しがあったのではないか。

8月8日(火)
エニス青年

今回の通訳兼コーディネーターはエニスという1981年9月28日生まれの青年で彼もロマである。父は病院のボイラー係、母は清掃局勤務の公務員(事務員)姉一人(30歳で7年前に結婚して洋服のデザインを仕事。言語学を専攻)父はコヴァチ、母はトパーンスカ出身。共にイスラム教徒。コヴァチ、トパーンスカはともにシュト・オリザリに住むロマのサブ・グループ(支系)である。彼はスコピエにあるキリルス・メトディウス大学の法学部出身。卒業後2年経たないと司法試験は受けられない制度だが、すぐ受ける気持ちはない。とにかく25歳の青年なのだが、日本の同世代の若者に較べると圧倒的に大人で落ち着いている。エニスの個人的な傾向もあるだろうが、我が身に比較してもその物腰の落ち着き加減は感心する。宗教観について聞くと、両親はムスリムだが、自分は無宗教だと思っている。神の存在は信じている。毎年8月15日教会にロマが一同に会する大きな祭りがある。ロマなのにキリスト教の教会で行う。そういうことが自分は気に入らないという。

8月9日(水)
旧市街

午前中はスコピエの旧市街、アルバニア人の多く居住する地区を歩く。職人街のオールド・バザール地区を歩いたが、土産物店が立ち並ぶ一画の奥に鍛冶屋街があり金物、鋳物、などを打ちたたく音が溢れ、活気に満ちた一画だ。エニスによれば、彼の父の親戚もここで鍛冶屋をしているとのこと。オスマン・トルコ時代から軍人の馬具や刀剣などの需要はかなりのものだったろう。入ってみた一軒の鍛冶屋では、馬蹄を打っていたが、馬はここでは現役だ。トルコ語を話す人が多いが、ロマのコヴァチという鍛冶屋を生業にするグループだという。もちろん、アルバニア系の鍛冶屋もいる。日本では完全に無くなった風景であり、郷愁に近い感情を刺激されるところだ。

トパアナ地区の初老男性の話
ロマの音楽家だけでなく、割合古い時代のことを伝承などや、歌で伝えてくれる人に会えれば、そこからロマの記憶を読み取る手掛かりが汲み取れるのではないか。デミロフ・アリア(67歳)さんはシュト・オリザリとは違うトパアナというロマ居住区の住民であるが、都合があり、運転手のレフェットさんの家で話を聞かせてもらうことになった。トパアナ地区はシュト・オリザリより古いロマ地区の一つだ。父はトルコ、ブルガリアを経由してマケドニアへ、母はギリシャからきた。歌の記憶については忘れているが、歌詞は幾らか覚えているとおぼつかない感じである。
マケドニアのロマとトルコの関係:昔ここには多くのトルコ人がいた。ロマとトルコ人は良好な関係。ロマはトルコ語に慣れていたし、年寄りは皆トルコ語を話した。今は、若い人はロマ語、マケドニア語が中心でトルコ語はあまり知らない。イチティップ、ヴェレス、コチャニの地方はトルコ語を話す。ここにはたくさんのトルコ人がいたが、みな個々10年間でトルコに戻ってしまい、今は2名しかいないが、彼らとはよく話しをしにいく。
音楽:音楽があったのでトルコ人とうまくやってこられた。トルコ音楽もロマの慣習、結婚式にうまくとけこんでいる。トルコ音楽を好む人は多い。ロマは子供のころから音楽に囲まれている。鍋や金属の盆を棒で叩きながらリズムを刻んでいた。現在は音楽学部でクラシックを学んでいる。トルコ音楽やロマ音楽からの変遷。
家族:家ではトルコ語とロマ語を交えて会話。娘2人もトルコ語を話す。(学校でマケドニア語、母からトルコ語、ロマ語は自分で、そして英語は大学で。)娘の1人はマケドニアテレビでロマ語のアナウンサー。
TVなど:BTRとシュテルTVは両方とも好き。音楽が多いから。マケドニアTVはさらにいい。子供たちのための授業や老人や文化に関するプログラムがおおいから。マケドニアTVはマケドニア語、アルバニア語、ロマ語、セルビア語などの諸言語放送がある。法律でも各民族の文化がアイデンティティを持つと定められている。しかしマケドニア語が最上位にくる。

8月10日(木)
シュト・オリザリについて

シュト・オリザリの行政官にインタビュー。

街中でスルラを吹くブラスバンドに
雨交じりで街中の結婚式が見られるかどうか危惧したが、少しでも雨が止めば、すぐパレード行進が始まる。ちょうど街の交差点を過ぎるあたりで、ブラスの音楽が聞こえてきた。バンドはややひなびた感じで、なかなかいい雰囲気をもっている。踊っている10数人の親類縁者も素朴で、それほど派手ではない服装の人が多い。花嫁の純血を示すかのようにラキアの酒瓶を持って踊るおばさんもいる。ラキアはアルコール度の強い蒸留酒。
さらに街を移動していると細い通りの向うからスルラとタパンというなつかしく、めずらしい流しバンドがやってくるではないか。スルラは西アジアや中央アジア一帯で、結婚式や割礼式などの宴会で欠かせない楽器。オーボエの祖先ともいうべき、木製楽器。ダブルリードで管の先はアサガオのように開いている。タパンは太鼓。なかなか今では見られないが楽器のバンドなので、早速1~2曲演奏してくれないかと頼む。どこかの結婚式に呼ばれているのか、飛び込みで入るのか分らないが、とにかくやってくれというといくら出すのかという。ここで交渉しても時間をロスするし、彼らのやる気をそいでもいけないので、1000デナリではどうだ。というとにこっとして2曲やるといってくれた。1曲目はエミナという曲、2曲目はカラヴォ・コロというセルビアの曲。どこから来ているのかと聞くと、トパアナからだという。
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雨が強く降ってくると、街の軒下などで雨宿り。脇の方には同じように休んでいるバンドがいる。先ほど見たブラスバンドの連中だ。何か演奏してくれというと、気軽にやってくれた。編成はトランペット、バス、太鼓。1曲目はマイ・ダーリン、2曲目は映画「ジプシーの時」(エミル・クリストリツァ監督)に使われた1曲だった。
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祝宴の音楽・輪舞

夕方も5時ころになって、結婚式の祝宴の取材に出かける。今回の取材中の運転を担当してくれるスレイマンさん(59歳)の息子たちのバンド「南からのコヴァチ」が出演するのだ。この宴は、かなり裕福な家の宴らしく、出席者も多いようで、準備もかなり大変なようだった。ここではバンドの演奏や親類の踊りを10数曲,約2時間にわたり撮影・収録をしたが、ジプシー音楽のあらゆる要素が盛り込まれた音楽・踊りを堪能した。トルコの曲やセルビア風のもの、伝統的なコヴァチの輪舞曲など多彩なものだった。
まだ、誰も踊りはじめていない広場で、バンドが最初に練習風に始めたのは、伝統的なコヴァチの輪舞曲、本来はスルラとタパンという太鼓で演奏されるものだが、シンセで巧みに音色をつむぎ出す。
2曲目は古いトルコの歌をアレンジしたものだが、結婚式の2次会の始めに演奏されるものだという。クラリネットに先導されるたゆたうごとく、悠々と吹かれるメロディの美しさ。(イスタンブールでのテレビやCDショップでは”イスタンブール・オラリ”という題名で、イスタンブールを讃える曲として、不動の地位を保つ名曲だった。)この曲の途中から2~3人の女性が踊り始める。曲が進むにつれて徐々に踊り手が増えていき、輪舞の輪が大きくなっていく。少女から若い女達そして中年の女性が踊り始め、ついには老女たちも輪に交じる。若い女達の衣装のきらびやかさは尋常ではない。普通のドレスのものもいるが、裾のつぼまったムスリム特有のパンツ(ズボン)の女性が多い。彼女達は宴に出席するために、1着1000ユーロにもなる豪華な衣装をつくるのだ。ハレの場なのだ。地味とか、落ち着いたという価値観とは無縁なところにある、金色、銀色のジプシー民族衣装が、くっきりした顔立ちの彼女達に似合うのだ。目まいがするような、色彩の洪水。その輪のなかで、印象的である種の威厳を漂わせるのは老女たちの殆ど動きがないかのようでいて、心の中が、覗けるような微妙な動きを伴った踊りだ。地唄舞や能舞いを想起させるほど視線を一点に定め、背筋をきっちりした姿勢で、迫ってくる。成熟から枯淡への移行はどの芸術ジャンルでも一緒だ。
10曲目をすぎたあたりから、クラリネット奏者が輪舞のなかに入ってくる。すでに彼の首周りの襟には札びらが挿入されているが、女達の父親や夫が札びらをどんどん首周りに入れていく。チップの大盤振る舞いだが、結構な額になるのだろう。このころになると広場は踊り手であふれんばかりになり、延々と宴は続く。
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バンドの出演料など
10年前は土曜日の本番や通りのパレードなどでバンドごとに500ユーロが相場だった。今はエレキバンドの場合はパレードはできないので、街路を区切って祝宴会場にしている。現在の相場はべテランのシンセ・エレキのフルバンドで1000~1500ユーロ。ギャラとチップを合わせて6人編成で1日に1人当り250ユーロの収入。つまりバンドの総収入250×6=1500ユーロが平均だという。
ブラスバンドのパレードは2時間で50ユーロ。(グループ)因みにスルラとタパンの場合は2時間、30~40ユーロなのは、時代の好みを反映しているようで、悲しい。
海外、外国に招かれていったときのギャラについて:
外国のロマの結婚式に招かれる2ヶ月くらいのツァーでヨーロッパを回る。移動費、食費など込みで10000~15000ユーロの収入。中には25000ユーロ稼ぐものもいる。
TV出演など:
BTR,シュテルの出演はギャラなし。プロモーションビデオの扱い。この放映を見て、公演などの仕事の口が掛かる。アピールする場と理解する。BTRは外国でも衛生放送があるので、宣伝効果が大きいという。

8月11日(金)
朝の陽の低い間に、シュト・オリザリの遠景を収めようとタクシーで山の中腹まで登る。シュト・オリザリは特別に目立つような高い建物や塔などはなく、どちらかというとバラックに毛の生えたような平屋が密集する地区なので、遠景的にスコピエのなかで特に視覚的に特徴がない。しかしながら予想以上にシュト・オリザリは広い地区だということは分かった。
ホテル近くの小さな食堂でハンバーガーとトマト、きゅうりのサラダそして茶で腹ごしらえ。とにかくここのハンバーガーはでかい。もう一度シュト・オリザリの街を歩いてみたい思いが強く、再びタクシーで地区へ行く。昨日とは打って変わって、暑い夏の風景が戻っていた。夕刻を前にした一種の気だるい、ゆるんだような空気。車、物売りなどの音の洪水にまみれながらも、人びとの呼吸音が聞き取れるような意識が働く。この感覚は以前、インド北西部ジャイサルメールの街で体験したものと同種のものだ。日本でも1960年頃までは、地面が土で、夏の夕刻になると、各家のおばさんらが冷気を呼ぶために水まきをしたものだが、その時感じた、やや埃っぽいが、体にじかに伝わる湿気が心地よかった。店頭での種々の揚げ物や炒め物、菓子類の匂いが混じる。
5時になるころには、またもや結婚式のパレード、街頭での祝宴ダンスがそこらじゅうで始まる。市橋氏は録音機を回しっぱなしにしている。シュト・オリザリのサウンド・スケープである。ある祝宴ダンスでは、どう見てもオカマとしか思えない男が、真っ赤な口紅が目立つ化粧をして、踊りの輪に入っている。道化とも思えないし、不思議なみものだった。また、やはり街路を1区画仕切って祝宴を開いていた家は道路にテーブルをずらーっと並べて沢山の料理皿をのせている。
シンセのバンドもいい演奏なので聞きほれていると、ある男が、ナイス・ミュージック?と英語で話しかけてきた。ナイスと答えると、どこから来たかと聞くので、日本からというと、彼は自分はサンフランシスコからきたという。この近くに住んでいるし、家族もいる。8年ぶりで帰ったが、びっくりするほどの変わりようだ。せっかく帰省したので、数ヶ月滞在するつもりだという。20代半ばの、褐色の肌をした男はしゃれたパナマ帽子をかぶり、身なりもアメリカンだった。ひとの良さが目にでている。時間があれば、家に寄っていかないか、コーヒーでもご馳走するよ、と招待された。ロマの家庭に招かれるチャンスなど、そうそうあるものではない。夕刻の予定があったので、仕方なく断ったが残念なことだった。

もう1つのロマ地区、トパアナへ
8月12日(土)

朝9時過ぎ、エニスと3人でトパアナ地区を訪ねる。トパアナ地区に近い大きな交差点にはロマの少年、少女がたむろして信号待ちで停車している車の窓拭きをなかば強引にして金をもらう。この風景はここだけではなく、スコピエ市内の混雑する道路ではよく見られる光景だ。停車中のほんの10数秒の間に、しめらせてある布で手際よく済ませるのだが、どの車でもいいわけではないようで、いい車に狙いを定めている。料金は10デナリが相場。
この地区はシュト・オリザリ地区よりも古いロマの集落で、人口5000人程度の規模である。廃品回収が主たる仕事のロマが多いという。エニスと一緒に、地区内を歩いたが、ロマの人の案内なしで歩くのは少々逡巡するほどロマの匂いの濃密な集落だ。自動車の修理工場、中古バッテリーを山に積んだリヤカーを引く人、とにかく、生活廃棄物から、くず鉄みたいな電気製品、タイヤなどあらゆるものを扱っている。街自体の規模が小さいので、道も狭く、複雑に入り組んでいる。
エニスによれば、ここのロマには住民登録のないものが多いので、生活保護を受けられないという。土地自体も、自然発生的にロマが集まり,住み出したので、権利関係も分らない。もちろん、生活自体が貧しく水、電気などの整備は遅れている。
しかし,なかには周囲に馴染まないほどの大きく、豪華な家や高級車も目に付く。外国やシュト・オリザリの親族からの仕送りによるものだ。
地区の中を歩いていくと、エニスに声をかける人が多い。彼はNGOの仕事でトパアナの子供たちにパソコンを教えていた時期があるとのこと。特に目につくのが、どの家にも洗濯物が大量に干してあることだ。じゅうたんを洗っている家も多いし、干している家も異常に目に付く。ロマは自分の家の中は、チリひとつないほどぴかぴかに磨いてある。外は家の前はきれいに箒ではいてあり、ゴミはない。が、ちょっと離れたところはごみの山で、広場などもごみに溢れている。これはシュト・オリザリも全く同様だった。この意味ではゾランの手がけたペットボトル回収・再生事業はロマの今後を暗示する手掛かりの1つかもしれない。
運転手レフェットさんの家もどの部屋も見事に磨かれていた。トイレも拝借したが、白いタイルの風呂、便器はピカピカに磨き上げられていた。
こうしたロマの清浄・不浄に関する風習は長い彼らの歴史のなかでも終始一貫保持されてきた伝統的な風習だ。己れの属する世界の「内」と「外」を明確に区別すること、つまり「内」へのこだわりはロマ社会と外の社会を分ける意識、自宅内とそれ以外の外の世界、さらには己の肉体の口から入る食物にこだわる、体内としての「内」と体外のものとしての「外」などに普遍化していくように見える。「外」の世界への無関心という形で現れるかのようなロマの伝統的な清浄・不浄の観念・意識規範はなかなかロマ以外の人びとからは理解されにくい。この観念・意識の違い、風習への価値観の違いがヨーロッパ各地でのロマと他の住民そして行政組織との軋轢を生んでいる。

少年の大道芸人

午後の日差しの強烈な時間帯に訪れた中心街の広場には、暑さのためか人影もほとんど見られなかった。半ばあきらめかけていたが、突然、かすかに太鼓の音が聞こえてきた。はっとして音のほうを探すと、広場のはずれのほうで子供2人が太鼓と踊りをしている。これまで、流しや大道の芸能者をかなり意識して探してきたが、まったく市内の中心街では見つけられなかった。私はユーゴ解体の衝撃から回復していないマケドニアの社会には、大道芸で飯を食う人たちがターゲットにする層がいないのだろうと想像していた。
だが、近づいて目にしたのは大道芸そのものだった。10歳にも届かない少年が暑い広場の敷石に座って懸命に鼓を打ちながら、声を張り上げて歌い、傍らには、妹に違いない幼い少女が踊っているではないか。我われが近づき、彼らの前にしゃがむと少年の目が精気を帯びてくる。坐った膝に抱えた太鼓は杯をかたどったダルブッカという太鼓だ。上半身裸で、髪は薄いブラウン色、目の色は灰色、少女は少年に似た顔ながら、踊りはまだ覚束ない風で、ポーズはとりながら、動きは少なく、太鼓のリズムが早くなると、腰をぶるぶる振るのが可愛い。赤い布地の上に投げ銭がいくばくか置いてある。少年の太鼓は達者なもので、ある程度経験をつんでいることが分る。演じながら片手を出して、金を要求する様も小気味良い。たまに通りすぎる人が金を置いていく。2曲聞かせてもらい、とうとう大道芸を見ることができたお礼も込めてお金を渡した。スコピエ滞在最後の日に受けた大きなプレゼントだった。
今日は夕刻6時のバスでスコピエからイスタンブールに移動する日なので、バス中で食う食料を調達したりしなければならない。2時間ほどで用事を済ませ、再び気になる大道芸の少年少女のいた場所にいくと、まだやっていた。目で合図しながら、聞いていると何かを必死に訴えている、コーラといっているようだが、はっきりわからない。立ち上がり、私のお腹の辺に顔を押し付けて、だだをこねるようにしている。のどがかわいているのではと気がつき、水のペットボトルをあげると、すぐ飲みはじめ、残りを妹に手渡した。あの灼熱の広場での太鼓打ちとうたと踊りは過酷な労働である。今後の少年少女の行く末が楽しみでもあり、不安でもあった。
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トルコのジプシー(チンゲネ)バンド(2006年)

スコピエからイスタンブールまで15時間のバス移動

日程の都合でイスタンブールへの便は空路がなく、バスによる移動となった。スコピエからブルガリアにいったん入り国境沿いに運行している夜間バスである。定時18時にぴったり出発したバスは途中、ロマが多く住むクマノボに止り、乗客を乗せると満員となった。100人程度の乗客のうち、外国人は我われ2名と、どこかヨーロッパからと思える男性1名の計3人だけだった。
女性は殆ど頭から布をかぶったイスラム風、男性もイスラムキャップにひげのものが殆どだった。途中、ブルガリア国境での検問が長くかかり、テロの警戒がここまで及んでいるのかと思ったが、全員の荷物の検査はお茶などを規定以上に買い込んだものの検査が中心だった。殆ど、眠れないまま2時間遅れて、イスタンブールに着いたのは、午前10時だった。マケドニア、ブルガリアと経由してイスタンブールに入ると改めてこのバルカン半島におけるトルコの強大さ、影響力の大きさに気づく。現在でもイスタンブールの大都会ぶりをみれば、スコピエは村みたいに思えるほどだ。オスマン・トルコが世界を席捲したころの状況が想像できる。そして、その各地に残してきた足跡の文化的浸透度は深くて重い。

8月13日(日)
海鮮レストラン街のジプシー(チンゲネ)バンド
ホテルで仮眠。4時頃からイスタンブール市内のタクスィム広場など観光客相手の流しの芸人が出ると予想されるところを散策。しかし折から押し寄せていた熱波のような暑さと数日前にロンドンで起きたテロ計画未遂事件の影響で、警戒中の警官の姿の多さに恐れをなしたのか、流しの姿は見えない。
かねてより約束していた海鮮料理店での流しのグループの取材が夜からはじまった。ホテルのゼキが手配してくれた、クムカピ地区の”オクヤヌス”というレストランでの取材。この周辺は海鮮レストラン街で数十件の店がずらっと並ぶ。海岸はすぐそこだ。この辺の流しはレストランと契約しており、店の客を相手に、演奏して商売するのが基本だという。
会ったバンドはネシェリグループという。全員がチンゲネ(ロマ)。ハッピーグループの意味。
リーダーはタジ・トプタルタル(47歳)で、ウットッゥ(ウード)という琵琶に似た楽器を担当。イスタンブールのカラギュムル出身。ウール(35歳)カーヌンという台形に張った弦を指にはめた爪で弾く楽器を担当。ヤシャル・テフ(40歳)はタンバリン。アキン(35歳)はヴァイオリン。この3人はイスタンブールのバーラート地区出身。
ファスル(練習)という音合わせを終わったリーダーのタジから話を聞いた。この音楽の商売は世襲でついでいる。基本的には音楽で生計。彼はオスマン時代の伝統を守るよう意識しているという。レストラン以外では、結婚式パーティで稼ぐこともある。レストランとの関係は、チップ制とサラリー制があり、どちらかを選ぶ。彼らはチップ制。サラリー制はチップは受けられない。
1曲目は器楽曲(特にタイトルない)で始まり、2曲目はキュイル・ギュゼリ「美しい橋」という曲。彼らの演奏に共通するのは有名な民謡キュイル・ギュゼリから入り、途中から他のいろいろな曲の部分をつないでいくスタイルをとる。いかにも流しらしく。その場の客の好みを的確に捉えていき、飽きさせない心憎い工夫だ。3曲目はギュル・ドクツゥム・ヨルレルナというトルコの有名なポップスター、タルカンのヒット曲、「あなたの前途にバラをまく」から始まった。さらに我々のリクエスト曲「ユスキュダラ」。日本で昔、1950年代に流行った江利チエミのヒット曲「ウスクダラ」の原曲だ。当時、13~4歳だった私は映画で見た彼女に憧れたのを鮮明に覚えている。ユスキュダラはボスポラス海峡に面するイスタンブールのアジア側の港町である。
日曜日でもあるせいか、気がつくと周囲は人で溢れ始めていた。どの店も客が一杯入り、それぞれの流しが演奏をしている。酒の酔いも手伝い、バンドにあわせて踊り出す客も多い。活気溢れる風景だ。流しバンドの編成は基本的には同じだが、クラリネットが入り、シンセが入ったバンドが店の前でやっているのもある。流しの稼ぎ時だ。10時を過ぎても人の波は消えない。潮風を肌に受けながら、魚料理を味わいチンゲネミュージックに聞き入る至福の時だった。
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8月14日(月)
ゼキのこと
ホテルのフロントマン、ゼキには世話になった。彼はヨーロッパなどでよく見られる、一見、親切そうでいて、その実、ドライに対人関係に距離を保つ、ある種の大人の対応ぶりとは、対照的に、冷静そうで、事務的に見えながら、自分の感情に正直な、親身ある人柄だった。彼はわざわざホテルの仕事の休暇をとって、流しの取材の通訳や取材許可をとることなどしてくれて、助かった。彼のことも記しておこう。かれは25歳。イスタンブールから車で4時間ほどのドゥズジェというところの出身。イズミールで学業を修め、1年前からこのホテルのフロントマンをしている。かなりの難関だった英語教師の免許もある。今のホテルの仕事は3食付、光熱費もただでいいが、1日12時間勤務、週6日の勤務体制では、ほとんど自分の時間が取れないのが不満だ。彼女もいるが、東のほうの遠くで教師をしているが、あまり会えない。我々と同行した日は久しぶりに賑やかな夜の街にでて楽しかった。いずれはホテルの仕事を変えて、外国で仕事をしたいと思っている。

濃密なジプシーミュージック

8月6日に約束してあった、チンゲネのバンドの録音。

東北の祭り・西馬音内盆踊りと鹿角の花輪ばやし(2007年)

8月18日(土)

西馬音内を目指して朝6時に出発する。久しぶりの1人遠出ドライブになるので幾分心配である。しばらく前までは1人で秋田県の阿仁町へ渓流釣りに毎年2-3回出かけていたので、7-8時間の運転も苦にならなかったが、最近はつらい。西馬音内は秋田県の中でも、南部にあるのでちょっと楽である。西馬音内へは1時ころ着き、町指定の駐車場に駐車。
西馬音内地区は歩いて回れば、20分も掛からないと思わせるほど、こじんまりとした地域であるが、街並みや地区内を流れる西馬音内川の風情などはそれぞれ捨てがたい味わいがある。地方の地区の過疎化はここでもまぬかれないようだが、共同体としてのまとまりはまだあると思われる。その理由の一つは言うまでもなく、西馬音内盆踊りの存在だろう。いつのころからか知る人ぞ知る存在から、いまでは観光客が数万人訪れるまでになった。町のそこそこでも観光客を目指したみやげ物店、飲食店などが、多く見られ、行政サイドが地域起こしの柱にしているのだろう。よく言われるように、祭りなどが、観光行政などにより俗化して変形していくことを嘆く声がある。それで駄目になっていく祭りもあるが、観光化の波を受けても、本質を変えずにしぶとく生き抜いているところも多い。もともと祭りなども、芸能と同じく何時の時代にも様々な影響から変容を遂げていくものである。そうした時代の推移にさらされて今の祭りが残っている。
日が暮れてから始まる盆踊りだが、昼を過ぎるころから、観光客が次第に集まりだす。この日は3日間続く祭りの最終日である。夕刻から10時半まで撮影取材。この日は近場には宿が取れないので、30キロくらい離れた横手の宿に泊まる。

8月19日(日)

朝7時過ぎ、秋田でも最北にある鹿角に向かう。高速に乗る前に横手市内の横手川の川べりに車を停めて、周辺を歩く。ここは1969年に小沢昭一さんと「日本の放浪芸」の万歳の録音取材で宿泊したことがある思い出の地である。秋田万歳についていろいろ訪ね歩き、土地の人びとの協力で、すばらしい秋田(横手)万歳に出会ったのだった。それ以来の横手だったが、街並みは一変していた。当時、泊まったのは横手川に接した宿だったので、横手川のほとりを歩いて探したが、分からなかった。石坂洋次郎の「山と川のある町」の舞台である横手川は依然、柔らかな流れの美しい川だった。1時間ほど昔の横手のたたずまいを思い出しながら川べりを歩いた後、高速道路で優に2時間は掛かって、鹿角に着いたのは11時過ぎだった。道の駅が臨時の駐車場に指定されていたので、そこにとめて早い昼食。2時ころからぼちぼち始まる祭りを取材し、この日の宿は大館に。

8月20日(月)

帰り道、普段の西馬音内の様子を見てみたいと思いたち、再び西馬音内に向かう。街中は、あの盆踊りがあったのが、信じられないほどの静寂さがもどっていた。町の人々はまもなく訪れる長い冬をたんたんと迎えるのだろう。

西馬音内盆踊りと花輪ばやしのビデオクリップ(以下をクリックしてください)

nisimonai.wmv西馬音内盆踊り

hanawabayasi.wmv花輪ばやし

西馬音内盆踊りと鹿角の花輪ばやしの説明等はこちらをご覧ください。

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