舞踊家、田中泯のこと

■2007.7.02  田中泯の踊りを追った映画「ウミヒコヤマヒコマイヒコ」を見て=
舞踊家、田中泯がインドネシア諸島を巡ってのダンス・ロード・ムービー。ドキュメンタリー映画としてみれば、様々な異論がでるだろうが、田中泯の踊りに関してはとても理解ができ、共感できる内容だった。
ずいぶん前(80年代)になるが、大野一雄の「ラ・アルヘンチーナ頌」を見たときが、舞踏なるものとの初遭遇だった。80歳を越えた晩年の大野は深い皺の顔面を白塗り、真っ赤な口紅、フラメンコ風の衣装という異様な様だったが、踊り始めると魔法のごとく女そのものに変貌し、踊りからは香り高い歌謡性が漂っていたのを思い出す。(女型といえば、唐十郎の状況劇場にいた四谷シモンも妖艶だった。)映画「たそがれ清兵衛」のラストシーンで、田中泯は亡き子どもの遺骨をかじり、最期の決闘にいたるが、その殺陣は彼の踊りそのものであった。
いわゆる<舞踏>というものが、欧米のバレエをはじめとするダンスシーンに衝撃を与えはじめてから、大分経つが、その余波は続いている。田中泯はまさしく土方巽の流れを受け継ぐ舞踊家である。土方巽は日本の舞踏の始原とも言うべき舞踊家で、暗黒舞踏といわれた表現形式を確立し、その影響力はジャンルを超えて、、文学、美術、哲学、演劇、音楽の分野にまで及んだ。
「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という土方の言葉は衝撃的な至言だ。土方は東北地方の大地に密着し、生への肯定・昇華ではなく、死へ向かう身体のあり方、滅亡・衰退する身体に美を見出し、そこから踊りを生み出す画期的メソードを確立した。その土方からから幾多の踊り手が派生したのである。
そして田中泯である。バレエが跳躍、回転運動など身体が舞台から浮くことに躊躇しないのに対し、田中泯の身体はまさに正反対の動きが基本だ。バレエなどの基本メソードは静から動へ、あるいは動きをさらにダイナミックにする動きの転換・加速による昇華・カタルシスのダイナミズムに向かうが、田中泯の踊りは逆ベクトルを志向し、あくまで身体が沈潜することに執拗にこだわる。徹底的な下方指向である。それはあたかも大地に横たわる身体が地下から湧き出るエネルギーを待ち受け、そこから必然的に身体が反応し、動きだすのを気長に待つというイメージが強烈だ。
彼が山梨に住み、農業をしながら、踊ることを続けているというよりも、むしろ農業と踊りが一体化している生き方が伺える。映画の舞台がインドネシアの農民・農作業が中心であることは必然だろう。
インドネシアの島々の農道を歩く様は足の指、足首、膝、股関節、肩、首までが滑らかではなく、ギシギシと音が聞こえるかのように屈折感がある。もちろん歩いているのではなく、踊っているのだ。村人がすれ違い、耕耘機がエンジン音をたてて過ぎていく。村の中に入り、村人が見守る中で、踊り、耕し、田を植えそして子どもたちと泥を投げ合う。すべてが踊りともいえるような光景だ。しかしながらその光景には田園風景の自然や子ども時代への記憶が懐旧としてあるのではなく、滅び去ってしまった自然、回復できない記憶への渇仰があるように思える。
海をただながめたり、舟の舳先に突っ立ち、風を切るシーンや横たわるポーズ、あるいは背中を地につけて、両手両足を昆虫のように屈曲させるイメージには、田中泯が動けない姿に魅力を感じており、その中にも踊りの美が存在するという独特の視点がある。動けないイメージは死、胎児のイメージに連なり、師、土方巽の本質に連なる。
バリ島に渡ってからの踊りはそれまでの形とは幾分違い、観光客も交じり、ガムランを伴奏としながらのミニ公演のシーンだった。ガムランの速射砲のような連打音には彼なりの動きで応え、決めのポーズはバリダンスのポーズで決める。このシーンは、観客を前にしたときの踊りと、村のなかで、道端で、水辺で踊りたくなったら勝手に踊るという踊りのシーンとの決定的な違いがあり重要である。田中泯はこれから勝手に踊る方向に向かうような予感がする。
人間は食って、排泄して、眠ることからは逃れられず、その基本形を踏まえずに高邁な思想も、様々な芸術・芸能の行為は成立しないということを改めて思う。

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