圧倒的な存在感はどこから:「チェチェンへ・アレクサンドラの旅」(ソクーロフ監督)

■2009.1.24  圧倒的な存在感はどこから:「チェチェンへ・アレクサンドラの旅」(ソクーロフ監督)
●入社後最初に配属されたのがロシア音楽を扱うクラシック・レコードの編成の仕事だった。モダンジャズが好きだった私にはチンプンカンプンの世界だったが、屈指の音楽家のなかにロストロポーヴィチ、ヴィシネフスカヤがいたのがなつかしい。
●ソクーロフの「ロストロポーヴィチ人生の祭典」はカザルスと並び称される稀代のチェリスト、ロストロポーヴィチのドキュメンタリーである。ソルジェニーツィンへの熱烈な支持の故、政権から弾圧を受け、20年に及ぶアメリカ亡命生活をした後、体制変革後ロシアに帰り、音楽、政治への積極的発言を続けたことは有名だが、そうしたエピソードを織り込みながら、饒舌ともいえるほどに喋り捲るロストロポーヴィチのインタビューを中心に構成されたものだった。そのなかで、印象に残ったことがあった。
彼の妻でこれまた最高のソプラノ歌手のヴィシネフスカヤについての出自にふれるくだりで、彼女はスラブ系とロマ(ジプシー)系の混血であるとナレーションが述べていたのである。彼女はその後、オペラ歌手を目指していくが、エリートの子弟が集まる歌手志望者のなかでも異色の才能を発揮して上り詰めていったことは想像できる。
また、アメリカへの亡命を決めてから、夫ロストロポーヴィチがロシアの大地を離れるつらさ、悲しさに毎日のようにめそめそ泣いていたのに、彼女は昂然としていたという。このエピソードをどこかで読んで、私はふと、彼女の強さは民族・祖国を相対化するロマ的な能力と無関係ではないのではないかと思った。
一方ソクーロフもものごとを把握したり理解するときには対象をみごとに相対化する。昭和天皇ヒロヒトの終戦にまつわる数日間をドラマ化した「太陽」は昭和天皇を鮮やかに相対化し、日本人がやらなければならなかったけれど、タブーに縛られできなかったことを実現してしまったのである。
そしてソクーロフ最新作「チェチェンへ・アレクサンドラの旅」である。
●主人公アレクサンドラはロシアの占領地チェチェンの駐屯地に勤務する孫の大尉デニスに会いにやってくる。兵士たちと同じテントに泊まりながら数日を過ごす。イスラム信仰に生きるチェチェンの最前線で占領者ロシア兵士の祖母という居心地の悪い立場にいながら、体制の枠組みを相対化して自然な振る舞いを繰り返し、チェチェンの街中に繰り出していく。カメラはロシアに空爆されて瓦礫の山と化した街並みと生活物資のマーケットに生きる女たちを静かに捕らえる。占領者と非占領者という図式にはまらずに視線を低くし人間としてのつながりに未来を見つめようとするソコーロフの思いか。
●この映画はヴィシネフスカヤ抜きではありえないほど、彼女の存在が決定的な役割を果たしている。あらゆるこの世の矛盾・相克を飲み込み、なにかを湛えるような彼女のまなざしがあってはじめて可能になった映画であろう。オペラ歌手としての豊穣な表現力や生きてきた人生のもろもろにくわえて彼女のロマの血が根底にあるような気がしてならない。非定住の生活をしてきたロマは訪れる先々の宗教や民族的対立を相対化しながら、時には生きるためなら改宗もしながら、自由な生活を守ろうとしてきた。ヴィシネフスカヤの体を流れるロマの血はロシア・チェチェン紛争における人間の真実の瞬間を垣間見せてくれたのである。

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