《ジェレム・ジェレム便り⑬》~フランスのロマ送還問題とインドの無反応

発端はフランスのサルコジ大統領がこの(2010年)8月25日の閣議でロマの送還を継続する方針を表明し、今年に入ってすでに8,030人の「不法滞在者」をルーマニアとブルガリアに送還したことを明らかにしたことにある。欧州連合(EU)は即座に反応し、域内移動の自由を保障しているEU法に抵触する可能性を指摘するなど反発が広がっている。なお、ルーマニアとブルガリアは2007年1月にEUに加盟している。この動きにインド紙The Economic Timesが興味深い論評を掲載しているのでここに紹介してみたい。
「インディラ・ガンディーならフランスのロマ追放政策に抗議を表明していただろう。抗議すべきは疑う余地はなく、すでにフランス内外から激しい非難の声があがっている。ロマを追放することによってフランス政府は域内を自由に移動できるEU加盟国民の権利を侵害し、特定のコミュニティに烙印を押すことにより基本的人権を脅かしていることになる。何世紀にもわたる反ロマ運動の際に用いられてきた犯罪行為や非定住を根拠とする理由づけがまた今回も繰り返されている。そうした動きが頂点に達したのがナチスによる死の収容所でのロマ撲滅の試みだった。ナチスとの比較は軽々にするべきではなく、もちろんフランスが同じであるというわけでない。言えることは、文明国家であるならばユダヤ人や同性愛者を追放することなど考えもしないだろうということだ。しかし、フランス政府はロマにはそれができると考えているのだ。
現在のインド政府はロマに対する明確な方針を持っていないようだ。しかし、ガンディー女史はロマの支持者だった。「ロマの人々を親族だと感じている」、女史(当時インド首相)は1983年チャンディーガル(インド北部の都市)で行われた第2回国際ロマニ・フェスティバルでこう公言したのだ。それを消し去ろうとする人的作用や時間の経過に抗して、独自の文化を保ってきたロマの人々の生き方を賞賛した。「偏見を越えた、国際主義のなかのナショナリズムの好例」だと述べ、最後にロマニ語とヒンディー語の両方で演説を締めくくった。「アプレ・ロマ!」「ロマ・ズィンダーバード!」(ロマ万歳の意)さらに偏狭なナショナリズムによってこの演説のあとガンディー女史の命が奪われていなければ(1984年狂信的なシク教徒分離主義者により暗殺)、おそらく今頃インドは世界をリードして抗議を行っていたことだろう。
ガンディー女史が関与する理由はもちろんロマのインド起源にある。インド起源についてはオリエンタリストの空想だとする人々もいる。確かにロマのラベルが余りにも容易に多くの移民集団に張られてきたことも事実である。しかし、ロマニ語のバリエーションを話すコミュニティとインドとの関連は驚くほどに明白だ。インドから西アジアを経てヨーロッパへと何世紀にも渡って移動を続けたにもかかわらず、言語の核となる部分には明確に西インド諸語との関連が保たれている。
イザベル・フォンセーカによる、ロマに関する本の中で忘れてはならない『立ったまま埋めてくれ(原題Bury Me Standing)』に、あるロマ活動家が彼女に向かって「(せめて立ったままで俺を埋めてくれ。)生まれてこのかたずっとひざまずいてきたのだから」と叫ぶ部分があるが、彼が実際に言ったのはロマニ語で”Prohasar man opre pirende sa muru djiben semas opre chengende”とある。(『立ったまま埋めてくれ』青土社刊p.403参照。本文中、「これまでずっと」と訳されているが、「生まれてこのかたずっと」とした方が原文の意味に近い。)中ごろにある”sa muru djiben”(生まれてこのかた)という言い方は今日のグジャラートあるいはラージャスターンの言葉と対応する。
ロマが旅したところではその土地の言葉を覚える必要があった。したがって、自然と彼らの言語の中の多くは変化を余儀なくされた。言語学者らは言葉の痕跡から何世紀もかけて彼らがたどった足取りを知ることができると主張する。つまりアラビア語が少々、それよりは多いペルシア語、そしてたくさんのアルメニア語起源の言葉が存在する。しかし、djiben、あるいは人を意味するマヌーシュのように身体や身近な物に関する語の多くはインド語である。羊はbokro、肉はmas、サーモン(サケ)はbauromatchi(大きな魚)、キャベツはshok(shaak)であり、飲むはpeeve、水はpaniである。蜂はpishomというが、これはインド語とは思えない。しかし、蜂蜜はpishomgudloといい、蜜の甘さとgudlo/gurはここでも対応する。
こうした関連性の指摘は過去何度も繰り返されているが、おそらく最初に行ったのはIstvan Valiというハンガリー人で、1753年ライデン大学(オランダ)に留学中、三人のインド人と出会い、さまざまな単語をメモにとった。のちに実家に戻り、知り合いのロマがそれらを理解できることを発見した。フォンセーカは著書の中で、マケドニアに住むロマで1983年の国際会議にも参加したシャイプ・ユスフと出会ったときのことを書いている。(前掲書p.146-154参照)彼は、今でもガネーシャの宗教画とインディラ女史の写真を飾っている。ユスフがインドとの関連を知るようになったのは、第一次世界大戦にトルコ軍兵士として従軍したおじの話がきっかけだった。インドで捕虜となったとき、そこで看守たちが話す言葉がわかったというのだ。(次号につづく)」(市橋雄二/文中カッコ内は筆者注)