《ジェレム・ジェレム便り⑳》~スィンティ・ロマの人々が記憶するドイツ人画家オットー・パンコック

ドイツにもかつて都市の周辺部にバルカン諸国にみられる<マハラ>のようなジプシー居留地があった。これを記憶している人は今やほとんどいないが、ワイマール共和国(1919~33)時代の表現主義画家オットー・パンコックが版画と木炭画の技法で描いたデュッセルドルフ郊外のスィンティの野営地とそこに住む人々の絵が当時の様子を伝える貴重な記録となっている。
パンコックというファミリーネームはドイツでは珍しい。同じようにドイツのスィンティを題材にしていたドイツ表現主義画家にオットー・ミュラーがいるが、ミュラーほど知られているわけではなく、オークションで同じ値段がつくこともないが、パンコックの名はヨーロッパに住むスィンティの間ではよく知られている。
パンコックの兄弟の孫にあたるモーリッツ・パンコックは自身も画家で、十代の頃からこの大叔父の作品に関心を寄せてきた。最近ではロマとスィンティの現代絵画専門の新しいギャラリーをベルリンに開設すべく活動している。モーリッツは、ドイツで催されたパンコックの作品展でスィンティの老人が目に涙を浮かべて木炭で描かれた肖像画に見入っているのを目にしたことがある。それはアウシュヴィッツで死んだ親族の遺言ともいうべきものだった。ドイツ・スィンティの生活を描いたことで彼らの間では有名なオットー・パンコックの親類かと言ってドイツやその他の国のスィンティがモーリッツのもとを訪ねてくることも稀ではない。
パンコックは1893年ミュルハイム・アン・デア・ルール(ルール地方デュッセルドルフ近郊の小都市)で生まれた。最初にスィンティやロマの文化に触れるようになったのは、束縛の多い現代生活が嫌になったからだった。1930年、南フランスのサント・マリー・ド・ラ・メールを訪れたとき、ヨーロッパ中からやってきたロマの巡礼に偶然出くわした。彼らは<黒いサラ>の聖像を礼拝するために来ていた。「ゴーギャンと同じように文明に嫌気が差し、ゴーギャンが南太平洋の人々の中に見つけたものをパンコックはロマの人々の中に見たのだろう。」とモーリッツは言う。
ナチスが勢力を増し、ドイツがかたくなな保守主義のとりこになっていたころ、ロマとスィンティはパンコックの心を解き放つ存在だった。やがて彼はデュッセルドルフ郊外のスィンティの居留地<ハイネフェルト>に引き寄せられていった。この時期、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制下ルール地方が占領されたことによりハイネフェルトは事実上フランス領となり、ドイツの支配権は及ばずドイツの建築条例の対象にならなかった。このため、デュッセルドルフのスィンティは幌馬車を停留させて小屋を立てることができたのである。ハイネフェルトは無法状態で貧しいが自由にあふれた場所だった。モーリッツ・パンコックは言う。「居留地は小さな庭を備えた掘っ立て小屋の群れからできていました。にわとりともちろん馬もいました。デュッセルドルフの市街地とは大きな対照をなしていました。なにしろデュッセルドルフは整然とした豊かな都市でしたから。だからこそ彼はそこが気に入ったのです。そこには独自の文化を持ち、飾り気のない、ひとなつっこい人々がいたのです。」
パンコックは住人たちの世話をするようになり、ハイネフェルトとスィンティの版画と木炭画を描き始めた。その地に溶け込み、言葉を覚え、絵を描かせてもらった子供には自分の絵かき道具を差し出した。スィンティの人が書いた彼自身の肖像画は感謝して受け取った。最後にはパンコックはハイネフェルトに住むスィンティの人々の顔を”Passion of Christ”と題する大きな一枚絵にまとめ、これが彼の最高傑作となった。
「彼は今なら当然と思われることをしたまでです。」とモーリッツ・パンコックは言う。「彼は近代主義者ではありませんでしたが、彼がおこなったことは当時としては前衛的でした。境界を越えて貧しい地域に入り、そこの人々と触れ合ったのです。」
1933年ナチスが政権に就きルール地方を奪還すると、ハイネフェルトに住むスィンティは徴集され捕虜収容所に放り込まれた。そしてそのうちの多くがのちに強制収容所へと送られた。パンコックは身を隠し、親戚が所有するデュッセルドルフの新聞社で仕事を始め、偽名を使って記事を書いた。1937年、パンコックはナチスから<退廃芸術家>とのレッテルを貼られ、作品は公共の場から取り払われて、燃やすか破棄された。パンコックはデュッセルドルフから逃げるしかなかった。そして、田舎の隠れ家で第二次世界大戦を生き延びた。
モーリッツ・パンコックは現在ベルリンでヨーロッパのロマとスィンティの現代絵画ギャラリーの設立に携わっている。そして、近い将来ベルリンの展覧会で先祖の作品を飾るつもりだ。それはヨーロッパのスィンティの歴史にとって不可欠だとの思いからだ。「大叔父の絵はハインフェルトの人々の記録であり、ハインフェルトの人々を描いた唯一の現存する絵画なのです。展覧会をやると当時のスィンティの親類や生き残った人々が大叔父の絵のことを聞き付けてやってきてくれます。ワルシャワで展覧会を開いたときは私の名前のことを尋ねる人たちがいました。彼らはうれしそうに言うのです。あなたはパンコックという名のドイツ人画家の親類なのですか。そんな方がいらっしゃるとは思ってもみませんでしたと。」(市橋雄二/2011.5.8)