日本社会の岩盤に突き刺さる〜「敗戦後論」加藤典洋 著(ちくま学芸文庫)

  • 『戦後の日本人は、なぜ先の大戦の死者をうまく弔えないのか。なにゆえ今も、アジアへの謝罪をきちんと済ませられないのか。なぜ私たちは、占領軍に押しつけられた憲法を「よい憲法」だと感じるのか。このような敗戦の「ねじれ」の前に、いま、立ちどまろう。そうでなければけっしてその先には行けないーー。』(「敗戦後論」カヴァー裏表紙より)
    第二次世界大戦の自国300万やアジア2000万の戦死者の弔いかた、憲法の「選び直し」などを問題提起して、大論争を巻き起こした本書は、著者死去(2019年5月16日)の現在においても、その検証の重要さはますます喫緊の課題になってきている。目下、泥沼化している日韓関係の要諦も加藤の提唱した課題が未解決のままであることに起因しているのではないか。
     本著の誕生は1994年、5回にわたり東京新聞に連載され、戦後の問題を整理して執筆する機会を与えられたのが契機である。その後1995〜97年の3回にわたり、さきの論点を足場にする形で、「敗戦後論」と「戦後後論」の二つの論考が立ち上がった。
    「敗戦後論」は政治篇、「戦後後論」は文学篇、これらをつなぐ蝶番の論が「語り口の問題」と整理された。
    「敗戦後論」は憲法の問題、天皇の責任問題、戦争の死者について論じられ、世の中に強く論争を喚起したのだった。
    加藤は、戦後日本の核心は「ねじれ」(戦争に対して自分たちに義がないという矛盾やジレンマ)であり、右派も左派もそこにゴマカシがあることを見抜いたのであった。「ねじれ」のままに生きるには、押しつけられた憲法を自ら国民投票で選び直し、天皇の戦争責任については認めるべきとし、対外的には、侵略戦争をした戦死者とのつながりを引き受けないと、アジア諸国にも謝罪できないとして、「300万の自国の死者への哀悼をつうじてアジアの2000万の死者への謝罪にいたる道」を編み出すべきだと主張した。この道が編み出されなければ「ねじれ」から回復する方途はないとした。
    そこには長年にわたる対立が横たわっていた。まず他国の2000万の死者への謝罪をという、旧護憲派の流れをくむ主張と、いや自国の為に死んだ300万の英霊の哀悼をという、旧靖国法案推進派の流れをくむ主張との対立である。
    加藤は「ねじれ」からの回復を図る手がかりとしたのが、作家の大岡昇平であり、戦後においては太宰治の生き方であった。
    大岡昇平が「レイテ戦記」で、自分がその一員であってもよかった「死んだ兵士たち」への哀悼からはじめることで、それがそのままフィリピンの死者への謝罪につながる道であることを証だてている。大岡と他の日本人との違いは、日本人の多くがいつか敗者であることを忘れた後でも、ひとり大岡が敗者の位置を動こうとしなかったことである。敗れた後、「敗者」として新しい現実、この戦後を生きた人間、そうすることで、また新たな地平にたどり着くことがあり得ることを示した文学者はたぶん大岡昇平ただ一人だったと加藤はいう。
    太宰治については中国文学者の竹内好が書いている。
    「太宰治の何にひかれたかというと、一口にいって、一種の芸術的抵抗の姿勢であった。この評価は今から見ると過大かもしれないが、少なくとも当時の私の目には、彼だけが滔々たる戦争便乗の大勢に隻手よく反逆しているように映り、同時代者として彼の活躍に拍手したい気持ちになったのである。(「太宰治のこと」1957年)
    いまだに日本の政治・言論・思想をめぐる論争・主張・言説には加藤のいう「ねじれ」が厳然と横たわっていると言わざるを得ない。「敗戦後論」には大小合わせて300ほどの批判や言及があったという。上野千鶴子が「あれだけ評がたくさん出た本はなかったけれども、あれだけ評判の悪い本もなかった。」と回顧しているほどだ。(「現代思想」2001年11月臨時増刊号)
    そのことは、いかに「敗戦後論」が日本社会の硬い岩盤に深く突き刺さったかを証明し、巻き起こった反発の大きさもそのことの裏返しなのだろう。