『インド残酷物語 世界一たくましい民』池亀 彩

インドについては夥しい書が出ているが、そのどれを読んでもインドという巨大な存在の一部しか触れられないというもどかしさを感じてしまう。そのことがインドの魅力なのだろう。インドに行くと、そこに人間が生きている原型を見る思いに駆られるのだ。

「インド残酷物語 世界一たくましい民」はインドで長年フィールド調査に携わりながらインド社会の内部に入り込んで観察した研究者のレポートである。記述も平明で、読みやすい。

2009年から2017年にかけて行われた調査は、インド南部のカルナータカ州の州都ベンガルール(旧バンガロール)市に滞在していた時期に出会った人々の話が中心となっている。当時でも、日々増大するインド社会の内部格差と隔絶は、政治家によって宗教的対立へと置き換えられる状況下だったらしい。著者も、こうしたインドの残酷さ、格差の広がりに対して、「心底この国が嫌いだと思うことがなん度もあった。、、、なぜ私はこんな国を研究しているのだろう、こんな社会から学ぶことなどあるのだろうかと。だが、インドに着いた途端、この暗澹たる気持ちは一気に吹き飛んでしまう。」と、正直に思いを吐露している。こうした思いは、他の国々とは明らかに違うインドの大地がもたらす独特の空気感、匂い、佇まいなどが訪れる人々に鮮烈な印象を刻むからだろう。著者はいう。この本はあくまで「私的」であることにこだわりたいと思う。著者が直接に会って、話したこと、感じたことに絞って記述されており、しかも、登場人物の多くは、都市に住む上位カーストのエリートではなく、都市の労働者であり、農村部の土地持ちの権力者でなく土地なし農業労働者である。こうした著者の姿勢、方針が、これまでのインド論には無かったインドの社会の実相が浮かび上がらせる大きな要素となった。以下、本著が取り上げたテーマは

1)カーストの違う男女が結婚したことによって起こる家族を巡る悲惨な事件

2)著者の部屋の掃除や洗濯をする洗濯屋カースト一家との付き合いから、一家の住宅事情につき合うなかから、見えて来る文字のない世界に生きるという事とは?

3)10年以上通っている人口4000人の村の僧院。そのグル(師)、シリゲレ・グルの超人的な日常生活の実体。村で起きる争い、訴訟などを仲裁する仲裁法廷(グル法廷)について。

シリゲレ・グルの信者母体は12世紀に始まったヒンドゥー教の宗派で、シヴァ神を唯一の神としカーストやジェンダー差別のない世界をめざした。現在、カルナータカ州北部を中心のカーストになっている。

インドの公的な裁判所は、訴訟の多さに対応しきれておらず、判決まで何年も待たされる。掛かる費用も多い。しかしグル法廷ではちょっとしたお布施以外は無料で、弁護士も必要ない。掛かる期間も数週間と短い。地元で圧倒的な影響力を持つグルの決定には、多少不満はあっても、皆大人しく従う。宗教事情が絡む「重婚」訴訟、地域開発に関わる開発企業と地元との軋轢等々。

出身カーストから、そのカーストのために働くことを期待されながらも、親族関係、その延長にあるカーストから離れることによって「公平性」が保障されるグル。有能なグルは出身カーストを超えた社会全体の公平性を見据えた舵取りが求められる。

4)著者がダリト(不可触民)の解放運動について多く学んだM・C・ラージについて。インド社会の中では、完全な「無縁者」であったラージは、ダリトが何千年もの間受けてきた傷への深い共感と揺るぎない信念を持っていた。ラディカルで大胆な理想と、それでいて日常的な具体性への感性を兼ね備えていた。彼の生涯も感動的だ。

世界最大の民主主義国家、1947年の独立以降大きなクーデターも起きていない。中国に対抗しうる大国としての自意識も高い。一方で、ないといってもいい社会保障、コロナ禍で明らかになった脆弱な医療体制行政にはびこる汚職等々、インドという国はほぼ無政府状態なのではと著者は言う。根強く残るカースト差別や拡大する経済格差によってインド社会の残酷さは弱まらないという。しかしながら、そうした状況でも人々は強く生き、自らがより良く生きる術を身につけている。「仲間を作り、横につながり、痛みや傷を実践的な社会変革のための行為へとつなげること、知恵と勇気をもつこと、助けをもとめるが、弱さにはひたらないこと、人を助けられる時には躊躇せず、でも傲慢にならないこと、こうしたことを残酷な超格差社会に生きる普通のインド人たちは教えてくれる。」

インド社会に深く入り、底辺に生きる人々と接してきた著者の実感は、日常生活のなかにこそ、社会変革の実相は存在することを示してくれる。それにしても、目眩く日常を5千年以上積み重ねてきた歴史のなんと分厚いことか。(集英社新書)

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